swallow-dale logo

[home] | [SWALLOW-DALE]| [my favorite things] | [平田信芳文庫] | [profile]| [mail]



my favorite things 311-320

 

 my favorite things 311(2020年5月31日)から320(2020年9月20日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
 311. 1951年の日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版(2020年5月31日)
 312. 1973年の『詩稿』24(2020年6月2日)
 313. 1933年の秋朱之介装釘・梶井基次郎『檸檬』(2020年6月10日)
 314. 1934年のアンドレ・ジイド著 淀野隆三訳『モンテエニユ論』(2020年6月21日)
 315. 1993年の青山毅『島尾敏雄の本』(2020年7月19日)
 316. 1986年のやまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』(2020年8月4日)
 317. 1988~2003年の『青い花』(2020年8月5日)
 318. 1937年のモーゼス・スーパー・ファイン(2020年8月21日)
 319. 2020年の台風一過(2020年9月7日)
 320. 1896年の『ペイジェント(The Pageant)』(2020年9月20日)
 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

 

320. 1896年の『ペイジェント(The Pageant)』(2020年9月20日)

1896年の『ペイジェント』表紙

 

『ペイジェント(The Pageant)』は、『イエローブック(The Yellow Book)』『サヴォイ(The Savoy)』『ダイアル(The Dial)』などと並んで、イギリスの19世紀末の文芸・美術の世界を彩った雑誌です。
雑誌と言っても、年一回発行の年誌で、結果として1896年版と1897年版の2冊しか出ず、出版としては失敗だったのかもしれませんが、19世紀と20世紀のはざまでしか生まれなかった雑誌です。

19世紀後半は、写真を印刷用の版にする技術がいろいろ発明され、その方法が試行錯誤された時代で、絵画の写真複製図版を掲載した文芸誌が数々創刊されます。
『ペイジェント(The Pageant)』の編集は、 チャールズ・シャノン(Charles Hazelwood Shannon、1863~1937)がアート部門を、J・W・グリーソン・ホワイト(Joseph William Gleeson White、1851~1898)が文芸部門を担当しています。
この『ペイジェント(The Pageant)』表紙の「鳩とオリーブ」をデザインしたチャールズ・リケッツ(Charles Ricketts、1866~1931)は、 チャールズ・シャノンとのコンビで、リケッツ&シャノンと呼ばれ、アール・ヌーヴォーの中核的存在になります。
文芸担当のJ・W・グリーソン・ホワイトも、20世紀まで長生きしたら、もっと斬新な、面白い本を出せた人だったのではないかと思います。
とにかく、濃いキャラクターが集まった雑誌です。
版元は、ロンドンのヘンリー(Henry & Co.)。
印刷は、T. & A. コンスタブル(T. And A. Constable)。
美術作品の複製図版制作には、リソグラフ(石版)にトーマス・ウェイ(Thomas Way)、ハーフトーン図版にThe Swan Electric Engraving Companyと、当時の最高の写真製版技術者が採用されています。

もっとも、当時の印刷複製は、まさに試行錯誤の過渡期の技術ですので、特にモノクロの網点分解のハーフトーン印刷には、当時の読者が図版に感じたかもしれない感激は、もう感じられません。
仕方ないことではありますが、図版にコート紙を使っていることも魅力を削いでいます。
ハーフトーン印刷でなく、当時のフォトグラヴィエ印刷や多色木版、コロタイプであったら、別の魅力が生まれるのですが、残念ながら、『ペイジェント(The Pageant)1896』の図版には、その魅力はありません。

19世紀末の美術文芸誌については、WEB上でも、「YELLOW NINETIES 2.0」のサイトにデジタル・アーカイブがあったり、リケッツ&シャノンについては、Paul van Capelleveenの充実したブログ「Charles Ricketts & Charles Shannon」があったりで、この場で屋上屋を架すような蛮勇はありませんが、それらのサイトで言及されていないと思われることに1つ気づきました。

それは、『ペイジェント(The Pageant)』の本文活字に、「Old Type Face」が使われている、ということです。
1840年代に、ロンドンのチジック・プレス(Chiswick Press)でカズロンが復刻されたのに続き、19世紀半ばにエジンバラのミラー・アンド・リチャード(Miller and Richard)でデザイン・鋳刻された活字です。

この活字は、チジック・プレス(Chiswick Press)のチャールズ・T・ジャコビ(Charles T Jacobi、1853~1933)が著した印刷マニュアル『SOME NOTES ON BOOKS AND PRINTING』の第2版(1902)第3版(1903)第4版(1912)の本文活字としても使われていて、『ペイジェント』の活字と同じだなと気づきました。

 

『ペイジェント(Pageant)』の本文活字

▲『ペイジェント(Pageant)1896』の本文活字
オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley、1872~1898)と並んで、イギリス世紀末に「才児」として登場したマックス・ビアボーム(Max Beerbohm、1872~1856)のエッセイ「BE IT COSINESS」冒頭部分です。
本文活字は、ミラー・アンド・リチャード(Miller and Richard)製の「Old Type Face」。
大きさは、Small Pica(11ポイント)。
行間は、「thin leaded」。活版印刷の流儀で、行間に薄めの鉛の板を挟んでいます。

『ペイジェント』はコンスタブル、『SOME NOTES ON BOOKS AND PRINTING』はチジック・プレスで印刷されていますが、比べてみると、全く同じ活字が使われていることがわかります。

『Some Notes On Books And Printing』の本文活字

▲チャールズ・T・ジャコビ(Charles T Jacobi)『Some Notes On Books And Printing』(1912年第4版、Charles Whittingham and Co.)の本文活字

 

Jacobiが提示した、3つの印刷活字

▲ジャコビ(Jacobi)が『Some Notes On Books And Printing』で提示した、3つの印刷活字

 

1900年ごろの、この3つの活字を掘り下げれば、いろんなことが分かってくるような気がします。


試しに、「YELLOW NINETIES 2.0」のサイトにアーカイブされている当時の雑誌で、どのタイプの活字が使われているか、チェックしてみました。

 

The Old Face

The Old Face
ここでの「The Old Face」とは、カズロン(Caslon)のことです。17世紀のオランダの活字(おもにVan Dijckのもの)を手本に、イギリスのウィリアム・カズロン(William Caslon、1692~1766)が作った活字です。

1840年代に、ウィリアム・ピッカリング(William Pickering)とチジック・プレス(Chiswick Press)のチャールズ・ウィッテインガム(Charles Whittingham)によって復刻され、20世紀半ばぐらいまでイギリスの書籍活字の主流となります。

ホルブルック・ジャクソン(Holbrook Jackson、1874~1948)は、イギリスの19世紀末を論じた『世紀末イギリスの芸術と思想(The Eighteen Nineties)』(1912年初版、1922年第2版、GRANT RICHARDS)の「第19章 印刷の復興(THE REVIVAL OF PRINTING)」冒頭で、「印刷術の復興は、1844年にチャールズ・ウィッティンガムが、チジック印刷所でカズロンの有名な活字を復刻させたときに始まった(THE revival of the art of printing began when Messrs Charles Whittingham revived Caslon's famous founts at the Chiswick Press in 1844.)」と書いています。
19世紀の「モダン(modern)」な活字の海に再登場したカズロンは、特別すぐれた活字というわけではないと思うのですが、その中庸さで20世紀半ばまで、書籍の本文活字で、標準的存在になります。

『The Yellow Book』(1894~1897)1~13号
印刷は、BALLANTYNE PRESS。
1号・2号の版元は、Elkin Mathews & John Lane。
3号~13号の版元は、John Lane, The Bodley Head。
イギリス19世紀末を代表する雑誌『イエローブック』の本文活字は、カズロンでした。ちょっと意外な気もします。

『The Green Sheaf』(1903~1904)1~13号
編集・出版は、PAMELA COLMAN SMITH。
販売は、ELKIN MATHEWS。
《「Old Style Face」も併用》
【追記】『イエローブック』や『サヴォイ』は男子校のような執筆陣でしたが、こちらは女性のパメラ・コールマン・スミス(Pamela Colman Smith、1878~1951)が編集・発行した芸術誌です。パメラ・コールマン・スミスがデザインしたタロット・カードは知っている人が多いと思います。


Revived Old Style Face

Revived Old Style Face
「モダン(Modern)」と呼ばれた18・19世紀の活字以前の活字を再評価して、16・17世紀の活字をもとにした新しくデザインされた活字です。
『ペイジェント(The Pageant)』や『Some Notes On Books And Printing』で使われているのは、19世紀半ばにエジンバラのミラー・アンド・リチャード(Miller and Richard)でデザイン・新鋳された活字。
1900年ごろ、19世紀の顔のような活字「The Modern Face」にかわって、イギリスの書籍印刷では、カズロンと並んで主流の活字になります。

『ダイアル(The Dial)』(1893~1897)1~5号
印刷は、the Ballantyne Press London and Edinburgh。
販売は、Charles H Shannon at the Vale in Chelsea。
リケッツ&シャノンが自費出版のかたちで刊行していた雑誌。
リケッツは自分でデザインした「Vale」という活字を持っていましたが、ここでは見本的に使われるだけです。
バランティン・プレスが持っている「Old Style Face」が使われています。

『サヴォイ(The Savoy)』(1896)1~8号
印刷は、H. S . NICHOLS。
版元は、LEONARD SMITHERS。
オーブリー・ビアズリーのための雑誌です。
『サヴォイ(The Savoy)』誌の本文活字は、ミラー・アンド・リチャード(Miller and Richard)のものとは違うようですが、「Old Style」の活字を使っています。
【追記】ハーフトーンやエングレイヴィングなど複製図版制作は、ポール・ナウマン(Paul Naumann、1851~1897)。『Illustrated London News』で働いていた、ドイツのライプツィヒ出身の製版者。

『エヴァグリーン(THE EVERGREEN)』(1895~1897)1~4号
エジンバラの版元はPATRICK GEDDES AND COLLEAGUES、ロンドンの版元は、T. FISHER UNWIN。
印刷はエジンバラのT. AND A. CONSTABLE。
【追記】『エヴァグリーン(THE EVERGREEN)』に使用されている本文活字は、「Antique Roman」と思われます。「The Modern Face」の系統ではなく、「Old Style」系統の活字です。

【追記】
第179回 1906年の『シャナヒー』年刊版第1巻(2016年5月16日)」「第180回 1907年の『シャナヒー』年刊版第2巻(2016年5月17日)」で紹介した、アイルランドの年誌『THE SHANACHIE』(1906年・1907年、Maunsel & Co.)も、本文活字を確認してみましたら、「Old Style」系統の活字が使われていました。
やはり、1890年代から第一次世界大戦前の同じ時代の空気を吸っている雑誌でした。

 

The Modern Face

The Modern Face
1900年ごろ、文芸書には使われなくなりますが、新聞、雑誌、教科書、科学書にはよく使われていました。
チジック・プレスが所有する「The Modern Face」は、19世紀なかばごろにデザインされたもののようです。

モノタイプ(Monotype)社は、現在も「Modern」「Old Style」の書体セットを取り扱っていますが、それらは、1900年ごろに新刻されたものです。

『The Pagan Review』(1892)
版元は、サセックスのW. H. Brooks。
世紀末の雑誌ですが、本文活字は「モダン(modern)」系です。

 

【追記】
『THE VENTURE』
「YELLOW NINETIES 2.0」のサイトでは、1903年創刊、ローレンス・ハウスマン(Laurence Housmann、1865~1959)とW・サマセット・モーム(W. Somerset Maugham、1874~1965)編集の『THE VENTURE』のデジタル・アーカイブも進行中で、創刊号がまず公開されています。 こうした古い雑誌のデジタル・アーカイブ化は、ほんとうにありがたいです。高精細であれば言うことなしです。
印刷は、ジェイムズ・ガスリー(James Guthrie、1874~1952)のTHE PEAR TREE PRESS。
本文活字が何かはっきり分かりませんが、15世紀イタリアのJensenなどの活字を手本にした、リケッツのヴェイル体(Vale)などと同系統の「Old Style」の、当時の新しい活字で組まれています。s

『THE VENTURE』誌には、エリノア・モンセル(Elinor Monsell、Elinor Mary Darwin, 1879~1954)の木版「DAPHNE AND APOLLO」も掲載されています。エリノア・モンセル、結婚後はエリノア・ダーウィンについては、このサイトでもいくつか作品を紹介しています。
第168回 1925年のダーウィン夫妻『トゥトロ氏のおはなし』(2016年1月12日)
第170回 1927年のダーウィン夫妻『トゥトロ・トゥ』(2016年1月18日)
第172回 1935年のダーウィン夫妻『トゥトロ氏と仲間たち』(2016年1月24日)
第173回 1946年と1956年の『折々のナーサリーライム』(2016年2月18日)
第175回 1948年のバーナード・ダーウィン『のんきな物思い』(2016年3月17日)
第178回 1904年の『アイルランドの丘で狩りをする妖精女王マブ』(2016年5月10日)
第179回 1906年の『シャナヒー』年刊版第1巻(2016年5月16日)」

 

これら1900年ごろの雑誌の当時の値段は、基本1シリングです。

それに対して、『ペイジェント(The Pageant)』は、クリスマス・プレゼントになることを想定していたようで、通常版が6シリング、大判の限定版150部が1ポンド1シリングと、高めの価格設定です。

 

『Some Notes On Books And Printing』の扉見開き

▲『Some Notes On Books And Printing』(1912年、第4版)の扉見開き

『SOME NOTES ON BOOKS AND PRINTING』の第2版(1902)第3版(1903)第4版(1912)の本文活字では、「Revived Old Style Face」が使われていますが、1892年の初版では、「The Old Face」のカズロン(Caslon)が使われています。

この本については、「第54回 1912年のチャールズ・T・ジャコビの『本と印刷についての覚書』(2013年1月27日)」でも簡単に紹介していました。

 

The Modern Faceを本文活字に使ったラスキン『ヴェニスの石』

▲「The Modern Face」を本文活字に使ったジョン・ラスキン『ヴェニスの石(The Stones of Venice)』第2巻(1867年、第2版、Smith, Elder and Co.)「ゴシックの本質(The Nature Of Gothic)」の冒頭部分

ジョン・ラスキン(John Ruskin、1819~1900)の「ゴシックの本質」は、後続世代のウィリアム・モリス(William Morris、1834~1896)らの芸術運動(日本の民藝運動にもつながります)の推進力になったテキストですが、それを印刷していた「The Modern Face」の活字は、モリスらにとって我慢ならない、不快なものだったようです。

活字の世界で「モダン(modern)」というと、18・19世紀フランスのディド(Didot)や18・19世紀イタリアのボドニ(Bodoni)の活字を言います。
その「モダン(modern)」な活字で、ラスキンのテキストが印刷されていることが我慢できない感性が、19世紀の後半に生まれ、それが20世紀の美的感覚にもつながっているわけです。
あなたが真性のモリス信奉者なら、上の「ゴシックの本質(The Nature Of Gothic)」の文字組みを見ただけで、ゾッとするはずです。
この「The Modern Face」忌避は、モリスらが自分たちの手で活字を作ろうとする、負の原動力にもなっています。

この文字に対する時代感覚の理解が、何かの役に立つという話ではありませんが、活字が透明で中立なものでないことも意識しておきたいです。
常識のように思われる文字に対する感覚も、時代ごとに変わっているのです。

 

      

『ペイジェント(Pageant)1896』に戻ります。

『ペイジェント(Pageant)1896』表紙のデザイン

『ペイジェント(Pageant)1896』表紙のデザイン02

▲『ペイジェント(Pageant)1896』表紙のデザイン
6つ配された鳩とオリーブは、チャールズ・リケッツ(Charles Ricketts、1866~1931)によるもの。右下の図に「CR」のサインがあります。

 

『ペイジェント(Pageant)1896』見返し

▲『ペイジェント(Pageant)1896』の見返し
ルシエン・ピサロ(Lucien Pissarro、1863~1944)によるデザイン。
ページェントというと、「野外劇・仮面劇・壮麗な行列」のことですが、見返しのパターンは、妖精の行列でしょうか。

 

『ペイジェント(Pageant)1896』の扉

▲『ペイジェント(Pageant)1896』のタイトルページ
絵は、セルウィン・イメージ(Selwyn Image、1849~1930)。
アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts movement)の重要人物のひとり。

 

『ペイジェント(Pageant)1896』の文芸目次

『ペイジェント(Pageant)1896』の図版目次

▲『ペイジェント(Pageant)1896』の目次
芥川龍之介や中島敦などを好む読者であれば、堪能できる目次です。

【追記】1890年代的な文芸誌の特徴として、このように、目次が、「LITERARY CONTENTS」と「ART CONTENTS」に分かれていることもあげられます。
『THE YELLOW BOOK』の目次は「Literature」と「Art」、『THE SAVOY』や『THE SHANACHIE』は、『THE PAGEANT』と同じく、「LITERARY CONTENTS」と「ART CONTENTS」、 『THE VENTURE』は「LITERARY CONTENTS」と「WOOD-CUTS」といった具合に、「文芸」と「美術」の2本立てになっています。

 

いろんな引き出しを見つけられる魅力的なコンテンツなのですが、『THE PAGEANT』は、「もの」である古書としては、古びることで変容し化けるような華には欠けているような気がします。
例えば、本文用紙が日本の和紙であったらとか、図版がハーフトーンでなくフォトグラヴィエや木版だったらとか、「そうであれば」の夢想には誘われます。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

アーサー・ラッセル(Arthur Russell)の発掘音源『First Thought』01

アーサー・ラッセル(Arthur Russell)の発掘音源『First Thought』02

▲2006年にリリースされたアーサー・ラッセル(Arthur Russell)の発掘音源『First Thought Best Thought』(rough trade)

"Blue" Gene Tyranny and Peter Gordon『TRUST IN ROCK』(2019)に、ラブ・オブ・ライフ・オーケストラ(Love of Life Orchestra)以前の1976年11月6日のライブ音源が発掘されて驚いたのですが、振り返ってみれば、アーサー・ラッセル(Arthur Russell)の『First Thought Best Thought』に収録された「"INSTRUMENTALS" VOLUME 1」は、1975年4月27日 the Kitchenでのライブ音源で、 そこには、後にラブ・オブ・ライフ・オーケストラの中核となるピーター・ゴードン(Peter Gordon)とデイヴ・ヴァン・ティーゲム(Dave Van Tieghem)の2人がそろっていました。

この、ぐだぐだと反復する世界は、愛おしいです。

ジャケットは、フルカラーでなく、2色刷。
"Blue" Gene Tyranny and Peter Gordon『TRUST IN ROCK』も2色刷のジャケットでした。

 

▲ページトップへ

 

319. 2020年の台風一過(2020年9月7日)

多賀山椎の実

 

台風の去ったあと、多賀山を歩いてみると、夕べの風で落ちた葉や枝が散乱しています。
椎の実も、茶色く色づく前に落ちていました。

「最大級の警戒」を呼びかけられ、どんな恐ろしいことになるか、本もレコードも水浸しになるのではないかと恐れていた台風10号でしたが、今回は運良く、ふつうの台風として過ぎ去ってくれました。

わが家は、多賀山の麓にあるので、多賀山が台風の強い東風・東南風を防いでくれます。
もっとも、崖下危険地でもあるのですが。

ただ、今回は、家の前を走る日豊本線で今までにない現象がおこりました。
日豊本線の線路に沿って強い南風が吹きぬけたようで、線路沿いにとめてあったバイクをなぎ倒していきました。
まっすぐなJRの線路には障害物がないので、風の通り道にもなるのかと思いました。
ということは、鉄道は、かまいたちや龍の通り道にもなるのでしょうか。

 

多賀神社の境内は、まだ片付けの前で、台風で落ちた葉や枝が散らばっていました。

多賀神社境内

 

クヌギの実も、色づく前に落ちていました。

多賀山クヌギ

 

台風一過とはまったく関係ありませんが、今日9月7日は、アルフレッド・ジャリのパタフィジック暦では、147年13月(Phalle)28日。大晦日みたいなものです。
明日、9月8日は、148年1月(Absolu)1日。新年のはじまりです。

みなさん、よいお年を。

 

▲ページトップへ

 

318. 1937年のモーゼス・スーパー・ファイン(2020年8月21日)

1937年のモーゼス・スーパー・ファイン01

 

秋朱之介(西谷操、1903~1997)が制作に関わった、昭和11年(1936)、昭和12年(1937)ごろの本で、「モーゼス・スーパー・ファイン(MOSES SUPER FINE)」と透かし(ウォーターマーク、watermark)の入った本文用紙を使ったものがあります。

写真は、ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』(1937年2月10日発行、伸展社)。
「MOSES SUPER FINE」の透かしが分かりやすいように光を当てたものです。

このモーゼス(MOSES)は、旧約聖書に登場するモーゼのこと。ミケランジェロ作のモーゼ像をもとにした透かし(ウォーターマーク)も入っています。モーゼ印の書籍用紙ということでしょうか。

簀の目の入った紙です。残念ながら、どこの製紙所・製紙工場でつくられた紙なのか分かりません。
1930年代の日本製の紙は、世界最高品質のものと目されていましたから、輸出を意識したブランド名だったのかもしれません。

本文用紙に「モーゼス・スーパー・ファイン(MOSES SUPER FINE)」を使った本を集めると、何か昭和初期の粋のようなものものが見えてくるのではないかと予想しています。

 

ミケランジェロ作のモーゼ像をもとにした透かし(ウォーターマーク)

▲ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』の本文ページから、ミケランジェロ作のモーゼ像をもとにした透かし(ウォーターマーク)。

 

ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』の外函と表紙

▲ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』の外函と表紙
和紙そのものを生かし和紙の耳が見えるように貼り込んだ簡潔な装幀です。函と表紙のクロオデルの詩は、函に貼られた題簽には黒で、表紙には金箔押しで、クローデルの手書き文字の力を生かしています。

『庭』は、ポオル・クロオデル(Paul Claudel, 1868~1955)の中国体験をもとにした短い散文を集めた作品集です。
自分の育ったところとまったく異なる土地を、その風景や事物に目を奪われながら歩きまわることで紡ぎだされた文章は、カルヴィーノの『見えない都市』の世界に横滑りさせたくなります。

組版を急いだのか、誤植と思われるものが、ちらほら。それだけが残念な本です。

伸展社は、中村重義が刊行者となっている出版所です。
秋朱之介(西谷操、1903~1997)が、製本者としてもっとも信頼を置いていた人物です。
奥付などに秋朱之介の名前はないのですが、本の企画・装幀などは、秋朱之介の発案だったとされています。
秋朱之介が、「銀座」(京橋区銀座2-4)時代の昭森社との関わりが切れたころに、立ち上げられた出版所です。
昭森社時代の自分の企画をそのまま、伸展社に移していたようです。

 

ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』の表紙

▲ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』の表紙
背には「詩集 庭 山内義雄譯」と銀箔押し。

『庭』の本文は、中国を主題にしたものですが、表紙に使われているフランス語は、クロオデルが日本の屏風絵や俳句などに触発されて創作した『百扇帖』(Cent phrases pour éventails、1927年)の詩句が使われています。
『百扇帖』では、クロオデルの短詩(山内義雄によれば「おさめるところ短章百七十一」)に、それぞれ有島生馬(1882~1974)が書いた二字の漢字が添えられているのですが、『庭』の表紙に使われているのは、20番の短詩です。

 Seule la rose
 est assez fragile pour exprimer l’Eternité

『百扇帖』で添えられた漢字は「花脆」。『百扇帖』でのレイアウトとは違い、「Seule la rose」と「est assez fragile pour exprimer l’Eternité」の間を少し詰めています。
この詩句を、あえて五七五で意訳すると、「薔薇のみか 永遠(とわ)をあらわす  脆(もろ)き花」ではどうでしょう。

この詩を表紙に選んだのは、山内義雄(1894~1973)か、秋朱之介か、中村重義か、だれかそのことを書き残してくれていたらよかったのですが、『庭』の本文と直接関係の無いこの「花脆」の詩を選んだ意図は不明です。

美しくも、ノンセンスな選択だったと思います。

秋朱之介は、和紙を奢った『百扇帖』を夢想していたのかもしれません。

 

ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』奥付

▲ポオル・クロオデル、山内義雄訳『庭』奥付

秋朱之介『書物游記』(1988年、書肆ひやね)などで、伸展社を「中村君と始めた」ことについて語っていますが、当時、伸展社の本に、秋朱之介の名前を出さなかったのには、何か理由があったのでしょうか?

 

手もとにある、本文用紙に「モーゼス・スーパー・ファイン(MOSES SUPER FINE)」を使っている本をいくつか並べてみます。
いずれも秋朱之介が制作に関わっていたと思われる本で、「モーゼス・スーパー・ファイン(MOSES SUPER FINE)」は、秋朱之介にとって使い勝手のよい本文用紙だったのだと思われます。

 

ロバアト・バアトン 明石讓壽譯『憂欝症の解剖 第一巻 病状篇』(昭和11年4月30日発行、昭森社)の本文用紙の透かし01

ロバアト・バアトン 明石讓壽譯『憂欝症の解剖 第一巻 病状篇』(昭和11年4月30日発行、昭森社)の本文用紙の透かし02

▲ロバアト・バアトン 明石讓壽譯『憂欝症の解剖 第一巻 病状篇』(昭和11年4月30日発行、昭森社)の本文用紙の透かし(ウォーターマーク)
この本の定価は1円50銭と、本の造りからすると安く抑えられているので、「MOSES SUPER FINE」は、法外に高価な用紙ではないと推測されます。

 

東郷青児『手袋』(1936年6月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし01

東郷青児『手袋』(1936年6月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし02

東郷青児『手袋』(1936年6月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし03

▲東郷青児『手袋』(1936年6月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし
本文用紙には「モーゼス(Moses)」が使われていますが、口絵用紙には別の「MBS」の透かしの入った紙が使われています。

東郷青児『手袋』については、「第228回 1936年の東郷青児『手袋』(2018年3月27日)」でも言及しています。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし01

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし02

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)の本文用紙の透かし

柳亮『巴里すうぶにいる』については「第233回 1936年の柳亮『巴里すうぶにいる』(2018年5月9日)」でも言及しています。

 

東郷青児『カルバドスの唇』(1936年10月20日発行、昭森社)の本文用紙の透かし01

東郷青児『カルバドスの唇』(1936年10月20日発行、昭森社)の本文用紙の透かし02

▲東郷青児『カルバドスの唇』(1936年10月20日発行、昭森社)の本文用紙の透かし

口絵の用紙には「MOSES SUPER FINE」とは別の紙が使われています。透かしが断裁されているので読み取れません。

 

『手袋』『巴里すうぶにいる』『庭』『書物游記』の判型

▲『手袋』『巴里すうぶにいる』『庭』『書物游記』の判型

さらに注目すべきなのは、これら「MOSES SUPER FINE」を本文用紙に使った昭森社や伸展社の本の判型が、A5(148×210ミリ)判の変形、148×193ミリで共通していることです。これらの本は、ハードカバーで函入りですから、148×193ミリよりもう一回り大きくなりますが、本棚に並べるとそろいます。 (函の高さは、205~207ミリ。)

そして、1988年に出された秋朱之介『書物游記』の判型も、このサイズでした。
秋朱之介らしい判型と認識されていたのでしょうか。

 

昭和初期の、A5判変形、本文用紙「モーゼス・スーパーファイン」の本をたどっていくと、ある書籍文化が形づくられていたことを見出せるのではないかと思っています。

 

     ◆

秋朱之介は、1988年の『書物游記』によって、いわば再発見されたのですが、森谷均(1897~1969)編集『本の手帖』1966年4月号(1966年4月1日発行、昭森社)「特集 堀口大學」を読んでいると、1966年にも、再登場のチャンスがあったのではないかと思います。

 

『本の手帖』1966年4月号(1966年4月1日発行、昭森社)「特集 堀口大學」表紙

▲ 『本の手帖』1966年4月号(1966年4月1日発行、昭森社)「特集 堀口大學」表紙

 

『本の手帖』1966年4月号(1966年4月1日発行、昭森社)「特集 堀口大學」目次

▲『本の手帖』1966年4月号(1966年4月1日発行、昭森社)「特集 堀口大學」目次
秋朱之介のことを言及してもおかしくない面々が目次に並んでいるのですが、この号で、秋朱之介に言及しているのは、佐々木桔梗「堀口大學の稀覯本其他」(p118~p127)のみでした。

この「堀口大學の稀覯本其他」は、秋朱之介評価には大きな意味を持つものなので、秋朱之介に関連した部分を、ここで抜き出しておきます。

 

 接吻――校正刷一部本
 一九三八年版の世界的な人名録“who’s who”に「堀口大學」の項があり、詩集『接吻』が発行予測の許に著書として記載されているが、これは未完に終つてしまつた。
 一九二六年~三八年迄の八〇篇・一六頁の艶詩集であるが、第一書房に於て遂に公刊に踏切れなかつたもの。校正刷は伸展社の中村重義氏の手で製本され、大しぼちりめん地装のしつとりとした出来上りとなつている。
(略)

「伸展社の中村重義氏」に言及しています。伸展社のかげには秋朱之介の存在があると考えられます。

 エロス――現存数部
 第一書房二三〇部限定の内に属するもので、総革裸女三態レリーフ製。用紙越前産局紙二度刷という凝つたもの。奥付は昭和八年二月とあり、非売二〇部云々の記録もある。
(略)

「用紙越前産局紙二度刷」。秋朱之介も越前の局紙を採用しています。紙の入手経路のヒントになります。

 月夜の園――外人画家装幀本
(略)
 表紙画下隅のサイン「金」は誰れもが意外と思われるであろうが伊太利の空軍将校で詩人であり画家であったエリンコ・カステロ・ボカルド氏の訪日中の別名であつた。
 ボカルド氏の大型蔵書票「梟の図」は先生のエキス・リブリス中傑出したものであり、雑誌「書物」に原色刷で紹介されている。
(略)

雑誌『書物』は、秋朱之介が三笠書房で編集していた書物雑誌です。
『書物』誌では「エリンコ」とありますが、「エンリコ」かもしれません。要確認個所です。

 ヴェニュス生誕――画譜筆彩本
 裳鳥会秋朱之介氏が四五〇部限定特殊本として刊行したもので内署名入上製本仕立の特製本は五〇部であつた。前期『エロス』と収録作品は変らず、再出版権を長谷川氏より得たものという。
 この本で問題となり易いのは当時帝展に属した棟方志功画伯の木版画による別冊画譜であり、特装分には手彩色をしたが、そのほかにも手彩三部の内とか六部の内等と但し書があるものが出廻り、混乱、疑惑は避けられない。私蔵分を調べてみたが、表紙、裏表紙も含め全九葉に筆彩(一~三色)がなされ、ペンによる「棟方志功」の署名と挿絵筆彩の内の一枚に六角型の「棟」の朱印がみられる。
 いずれにしても全葉手彩の画譜は、単独でも蒐集家には流れたと推考されるが、鮮烈かつ奔放な棟方画伯の初期筆彩本として妖しい魅力を感じさせるものであり、堀口本の中にあつて異端児的な存在といえよう。
 道草が多くて恐縮であるが、裳鳥会の堀口本として予告のみに終つたものを次に記し、せめてその幻の書物を偲びたいと思う。
  グウルモン『アマゾオヌへの歌』(四三部)
  グウルモン『邪なる禱』(アンリ・シャプロン原色挿絵入)
  『ランボオ全集』(全四巻・一千部限定)
   (註)堀口大學、山内義雄、小林秀雄の諸氏に飜訳交渉中とあり、本文和紙刷・表紙装幀棟方志功全冊木版手彩色・全冊十円。

秋朱之介の裳鳥会刊本についての、最初の詳細な言及ではないでしょうか。

 ドニイズ――華麗限定版
 日本限定版倶楽部(秋氏)二八〇部限定・別葉カード付、装本面から当時としても画期的なものであり、本扉に用いた手漉紙は日本の限定版史上、雁皮紙と並んで最高質と目されるものであつた。
 それはさておき二八〇部全冊に薄桃色がかつた一枚漉局紙のサインカードの付いたことは昨今忘れられている向が多い。
 「ドニイズ」と活字での金箔押をされた左側に黒インキにこの著者署名があり、所謂サインカード付の堀口本として興味あるものといえる。
 単にはさみこまれているため紛失しやすく古本などの場合脱落していることが多い。入手の際や保存には留意すべきであろう。尚伏字は本文中七カ所、その順位に記すと「目には隠された二三の場所」「股にキッスをする為にロオプの裾を捲り」「不快な思い出を残す役割」「自分の方から持ちかけて牧童にその使命を完うさせたらしい」「二人の肉体の間に」「一糸をまとはぬ」「情慾」以上である。
 今日では全く笑止の沙汰であるが、これも“自由に対して目を光らせていた黒き時代の残像”として、むしろ慄然たるものを感じさせる。
 先に手漉紙のことに触れたが、堀口本に於ける雁皮紙本は、表紙に落葉色の出雲雁皮紙を使つた『シモオヌ』であり、裳鳥会三二〇部、デスパニヤの画で飾られたグウルモンの田園詩。
 参考であるが『ドニイズ』に二五部の愛蔵家本云々の記録があるが、特別装幀のものや別装本は一冊も作られなかつた。

秋朱之介の日本限定版倶楽部刊本についての、詳細な言及です。

 仇ごころ――ラボルールの挿絵本
(略)
 堀口本には総じて絵入り本の多いことが装本上の特色の一つといえるが、コクトオの『オルフェ』や『わが青春記』(特製背革装五一部あり)を初めとして眺めて楽しいものが多く、その代表的なものはデュフィの画になる『動物詩集』であろう。
 尚類似書名のロオランサン『動物小詩集』は大型仮綴の和紙刷本で、挿絵本ではないがロオランサンの口絵が入り、僅か八〇部の裳鳥会本として今日では珍らしい。これには未綴套入り本もある。
(略)

裳鳥会版のロオランサン『動物小詩集』への言及。

 彼女には肉体がある――無代贈呈本
 裳鳥会一五〇部本。装本意に満たず、機関誌「書物倶楽部」一年分前納者に贈呈と広告されたが、当時は三笠書房内に置いた日本限定版倶楽部とも袂を分かち、雑誌の方も二冊を出したなりで遂に再起し得なかった。
 裳鳥会とはフランスの限定版クラブに倣って月一円、三〇〇名の会員制で美書を刊行するという趣旨であつたが、正規会員は一〇〇名に満たず、その運営や出版活動は非常に困難であつたと想像出来る。
 秋氏が失敗作と断じたこの本は、今日グウルモンの散文詩集として、また可憐な背革装の小型本(9.5×12cm)としても人気も高く、古書価に於ても他の豪華本を凌駕するほどである。財政逼迫にあつた秋氏が、昨今の人気を知つたらその感慨や余りあるものがあらう。
 本文活字の不揃いと、刷りむらなどが失敗の原因であらうが、『シモオヌ』同様の艶紙の函に入り、少くとも外装面では何等の欠点も見出せない。
 尚このようなケースは昭和十二年に同じ秋氏の驪人荘版『馬来乙女を歌へる』にもあり、限定千部内布装の特装二〇〇部に対して、装本意に満たず全冊裁断したと伝えられる。然し「一部を残し裁断」とあるものや、全く但し書のないもの等まちまちで、可成り、部数が残されているように思う。

これも、秋朱之介の裳鳥会刊本についての、最初の詳細な言及です。

 嶮しき快癒――市松模様本
 日本のナンサッチプレスと自称した数少ない伸展社本の一つで、特製一〇〇部内五部は総革装。山羊革を二色の市松模様に編んだ背革装そして特色があり、稍束の厚い五部本も含め一風変つた限定版である。本文の黒・朱の完全二度刷も作品観賞には都合よく、また外函の出来もよかつた。
 他に伸展社本として『酔いどれ船』があり、特製二〇〇部は燃えるような紅染の羽二重地で表紙をくるみ革紐綴としたが、くどすぎてこれは飽きのくるものだつた。片面印刷であつたこともやはり減点となろう。
 この外『酔いどれ船』は日本限定版倶楽部からも一五〇部で出されたが、これは金銀糸紐付の未綴局紙本。別葉として原文(仏)十六頁の資料がつき、番外六部本には訳者の詩章肉筆入という特別なものがあつた。パリ刊のヴェルレェヌ詩集に、肉筆詩章入りがあると伝えられるが、恐らくこのような特別本を念頭においての制作であつたと思う。

秋朱之介の名前に言及していませんが、伸展社は、中村重義と秋朱之介の出版所です。

 マリイ・ロオランサン詩画集――代表的詩画集
 特製は一〇〇部。パリN.R.F.刊三〇〇部限定の銅版挿絵本『扇(エバンタイユ)』の意匠を生かして、表紙平は赤・青の扇模様を木版で配らつた緑色染め総革装の逸品。昭森社の絵入り本として今日六〇〇部のフランス装すら珍本扱いであり、堀口本に於て最も入手のむつかしいものの一つである。十葉の銅版画複製や原色刷の口絵等、詩画集としても充分楽しめるし、組版の妙も高く評価されよう。
 別刷に刊者の解説があるが、これも脱落している場合が多い。

秋朱之介の名前に言及していませんが、昭森社の『マリイ・ロオランサン詩画集』は、秋朱之介の企画制作だったと思われます。
そのことについては、「第229回 1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』(2018年4月4日)」でも書いています。

 

佐々木桔梗は1988年の秋朱之介『書物游記』制作にも関わっていますが、この1966年の「堀口大學の稀覯本其他」のときは、秋朱之介(西谷操)と直接コンタクトをとっていないようです。
それは、とても残念なことに思えます。
このとき、60歳代の秋朱之介と、40歳代の佐々木桔梗が直接のかかわりを持ち、聞き書きでも残していてくれたら、秋朱之介周辺の風景は見通しのよいものになっていたのではないか、と思わずにはいられません。

 

 拾い読み・抜き書き

山内義雄の随筆集『遠くにありて』

 

伸展社のクロオデル『庭』について何か言及があればいいなと思って読みはじめた、山内義雄の随筆集『遠くにありて』(1995年2月10日第1刷発行、講談社文芸文庫。単行本は1975年、毎日新聞社)ですが、結局その言及がなかったことは別として、とても楽しい随筆集でした。

京都の「おけらまいり」の描写に心ひかれました。この光景は、映像のかたちで見た記憶はありません。

そして、京都恋しさの随筆を書きながら、この冬こそ、大晦日、八坂神社のおけら詣りに行ってみたいと思っている。あれはいい。元日の朝、神棚に灯明をともし、雑煮を祝うかまどの火をつけるため、大晦日、八坂神社へ出かけて火なわを買い、神官からおけら火をわけてもらってくる行事。火なわの火が消えないように、振りまわしながら帰っている。電車のなかでも、みんな水車のように火なわを振りまわしている。あれはたしかに壮観だ。「車内火気厳禁」の禁制なんか何のその、何か行事とでもなると底ぬけになるところ、えらそうな理屈ばかり言ってそのじつ小心翼々たる東京人糞くらえといった楽しさだ。

ここに登場する電車は、イギリス製の扉がいつも開いているタイプの車両でしょうか。
時代背景を描き込む映画やアニメーションで、電車の中で火縄を振り回す姿を、映像として見てみたいものです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

"Blue" Gene Tyranny and Peter Gordon「TRUST IN ROCK」

"Blue" Gene Tyranny and Peter Gordonが、1976年11月6日、バークリーのユニヴァーシティ・アート・ミュージアムで行った「TRUST IN ROCK your new concept in music」というコンサートのライヴ音源。CD2枚組。
Unseen Worldsから2019年リリース。
こんな音源が発掘されるなんて、ほんとうに長生きはするものです。

DISK ONEは、"Blue" Gene Tyrannyの曲、DISK TWOは、PETER GORDONの曲。
奏者は共通。知った名前はピアノの"Blue" Gene Tyranny、サックスのPETER GORDONだけでしたが、一夜限りの出来事の楽しさを感じます。
プログレとパンクが併存していた1976年を、時には音楽大学の作曲科専攻の学生バンドが演じるヴェルヴェット・アンダーグランウンドもどきのように、時には踊りが不得意なエリントン好きのダンスバンドのように、この2時間が、1976年11月6日に、確かに起こったことだと追体験できるだけでも、幸福な気分です。

1976年のピーター・ゴードンは、スラップハッピー(Slapp Happy)のアンソニー・ムーア(Anthony Moore)と近い人なのだとも感じました。

ピーター・ゴードンの曲に歌詞をつけているのは、キャシー・アッカー(Kathy Acker、1947~1997)。
ラブ・オブ・ライフ・オーケストラ(Love Of Life Orchetra)以前の世界ですが、この音源を聴くと、ラブ・オブ・ライフ・オーケストラの世界のすでに用意されていたのだなと思いました。あとはデヴィッド・ヴァン・ティーゲム(David Van Tieghem)の參加を待つばかりです。

ブックレットには、2人への2018年のインタビューが掲載されていて、ライブを締めくくる最後の曲「Intervallic Expansion」は、ピーター・ゴードンの交響曲第1番の第4楽章だと言っています。
交響曲を書く人でもあったのかと再認識しました。

ピーター・ゴードンが2015年に出したアルバムが『Symphony 5』でした。
レコードやCDになっていない交響曲第1番から第4番までも存在するのでしょう。
演奏される機会があるのなら、聴いてみたいものです。

 

▲ページトップへ

 

317. 1988~2003年の『青い花』(2020年8月5日)

1988~2003年の『青い花』

前回に引き続いて、神奈川・千葉の詩人やまぐち・けいが、鹿児島の児玉達雄(1929~2018)に贈った詩誌・同人誌のなかで、わたしが鹿児島の古本屋さんで入手することができたものを並べてみます。

『青い花』は、ヘルダーリンの作品に由来するタイトルをもつ文芸同人誌で、第一次『青い花』は1934年に出ています。1号だけしか出なかった雑誌でしたが、第1号の同人・執筆者は、太宰治、山岸外史、檀一雄、中原中也、今官一、伊馬春部、木山捷平、津村信夫、中村地平……と、興味深い顔ぶれが揃っています。

戦後、第一次『青い花』の同人だった山岸外史を中心に、1957年、第二次『青い花』が創刊されます。
山岸外史は、鹿児島の旧制七高の出身ですので、鹿児島とも縁があります。

手もとには第四次『青い花』が14冊あります。

『青い花』第四次3号(1988年12月20日発行、青い花社)掲載の、赤石信久「阿部合成と詩人たち」の略譜によれば、『青い花』の歴史は次のようになっています。第二次『青い鳥』は、萩原葉子を世に出したことで知られていたそうです。

『青い花』略譜


やまぐち・けいから児玉達雄に贈られたもので、たぶん第四次『青い花』はある時期までそろっていたのではないかと思います。
やまぐち・けい関連の本に注意し始めたのは、実は、つい最近のことです。
落ち穂拾いのようなかたちで集めることになったので、巻数はそろっていません。

 

『青い花』第四次3号(1988年12月20日発行、青い花社)
148×210ミリA5判。98ページ。
編集・発行人は丸地守。
表紙デザインは大嶋彰。
第四次『青い花』の編集同人には、鹿児島出身の詩人、今辻和典(1929~2006)の名前もあります。


『青い花』第四次11号(1992年2月20日発行、青い花社)
86ページ。

 

『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)
120ページ。

『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)表紙

▲『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)表紙
やまぐち・けいから児玉達雄へのあいさつ、一筆箋1枚はさみこみ。

『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)目次

▲『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)目次
やまぐち・けいは「詩人入江昭三とヨコハマ」(p45~p55)と詩評(p116~p117)を掲載。

『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)奥付

▲『青い花』第四次19号(1994年10月31日発行、青い花社)奥付
手もとにあるものだけでは何号からか分かりませんが、やまぐち・けいは編集同人に名前を連ねています。


『青い花』第四次21号(1995年7月10日発行、青い花社)
108ページ。
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねて、「本田晴光考」(p41~p46)と詩評(p104~p105)を掲載。

 

『青い花』第四次22号(1995年11月20日発行、青い花社)
128ページ。
やまぐち・けいから児玉達雄へのあいさつ、27字×10行の青虹原稿用紙1枚はさみこみ。
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねて、「本田晴光考 II」(p110~p122)と詩評(p124~p125)を掲載。
「本田晴光考 II」では、鹿児島の詩人、藤田文江(1908~1933)と本田晴光とのかかわりについて言及。

 

『青い花』第四次23号(1996年3月20日発行、青い花社)
110ページ。
やまぐち・けいから児玉達雄へのあいさつ、便箋1枚はさみこみ。
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねていますが、本号での作品掲載はなし。
草間真一の「桜島」という詩を掲載。

 

『青い花』第四次24号(1996年7月20日発行、青い花社)
102ページ、
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねて、「本田晴光考 III」(p86~p94)と詩評(p98~p99)を掲載。
「本田晴光考 III」では、児玉達雄、藤田文江に言及。

 

『青い花』第四次26号(1997年3月15日発行、青い花社)
124ページ。
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねて、常田富之助追悼「含羞を秘めた清らかな哲学者」(p7)、「本田晴光考 IV」(p104~p109)と詩評(p116~p117)を掲載。
「本田晴光考 IV」では、藤田文江に言及。

 

『青い花』第四次29号(1998年3月20日発行、青い花社)
112ページ。
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねて、「佐川英三考 I」(p50~p59)を掲載。

 

『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)
116ページ。
やまぐち・けいは、編集同人に名前を連ねて、「佐川英三考 II」(p73~p83)を掲載。

『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)表紙

▲『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)表紙

『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)目次

▲『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)目次

『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)奥付

▲『青い花』第四次30号(1998年7月20日発行、青い花社)奥付

 

『青い花』第四次36号(2000年7月20日発行、青い花社)
122ページ。
やまぐち・けいは、同人には名を連ねていますが、編集同人からははずれています。
やまぐち・けいの作品掲載はなし。

 

『青い花』第四次38号(2001年3月20日発行、青い花社)
162ページ。
やまぐち・けいは、同人には名を連ねていますが、作品掲載はなし。

 

『青い花』第四次39号(2001年7月20日発行、青い花社)
138ページ。
やまぐち・けいは、同人には名を連ねていますが、作品掲載はなし。

 

『青い花』第四次45号(2003年7月20日発行、青い花社)
124ページ。
やまぐち・けいは、同人には名を連ねていますが、作品掲載はなし。

 

『青い花』に掲載された、やまぐち・けいの文章は、鹿児島観点からも興味深い内容です。本にまとめたらよいのに、と思います。

 

『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)
148×210ミリ。138ページ。

『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)表紙

▲『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)表紙
表紙絵は、牧野邦夫。

『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)目次

▲『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)目次
やまぐち・けいの小説「アシュラの簪」(p2p~67)は、『風の伝説』(1994年、青樹社)に、文章の一部を削って掲載。

『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)「アシュラの簪」冒頭

▲『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)「アシュラの簪」冒頭
カットは豊崎旺子。
冒頭に、やまぐち・けいの「かつてのつがかってに全部なっているのに気がつきました。」の鉛筆書き。

『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)奥付

▲『磁』2号(1982年3月1日発行、文芸誌「磁」)奥付
もう住んでいないとはいえ個人宅の住所なので、ぼかしました。

 

『分身』16(1986年12月、分身同人会)
148×210ミリ。128ページ。

『分身』16(1986年12月、分身同人会)表紙

▲『分身』16(1986年12月、分身同人会)表紙
やまぐち・けいは、小説「冬の贈りもの」(p64~p100)を掲載。

『分身』16(1986年12月、分身同人会)奥付

▲『分身』16(1986年12月、分身同人会)奥付
もう住んでいないとはいえ個人宅の住所なので、ぼかしました。

 

『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1(1987年5月28日発行、代表者・春井昌子)
148×210ミリ。18ページ。」
やまぐち・けいから児玉達雄への手紙、便箋2枚と、児玉達雄の返信下書き1枚をはさみこみ。

『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1表紙

▲『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1表紙

『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1巻頭の詩

▲『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1巻頭の詩
やまぐち・けいの詩「白い鳥」「道標のない旅」を掲載。

同人が寄り集まって製本。藍染めの紙は、同人1人あたり3冊ずつ、と児玉達雄宛の手紙で書いていました。

『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1奥付

▲『SONGERIE(ソンジュリ)』No.1奥付
個人宅の住所なので、ぼかしました。
本文用紙に、鹿児島の蒲生和紙が使われています。

 

『拈華』
藤沢市・鎌倉市時代のやまぐち・けいが中心となって、1977年~1989年に刊行した詩誌。

手もとにある『拈華』8冊

▲手もとにある『拈華』8冊
上段左から20号、22号、24号
中段左から25号、26号、27号
下段左から28号、29・30合併号

『拈華』20号(1984年3月10日、拈華の会)
限定200部。180×180ミリ。68ページ。
発行所 藤沢市 拈華の会
発行人 やまぐち・けい
表紙題字 佐藤雅彦
木彫 向井淑子
手刷り 秋岡京子・長谷川香代子
表紙の木版刷りは、毎号、同人で持ち回り。
やまぐち・けいは、詩「悼み」(P52~p53)と編集後記「永遠のミス拈華」(p66~p67)を掲載。


『拈華』22号(1985年3月10日、拈華の会)
限定200部。180×180ミリ。46ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 島田裕子
やまぐち・けいの住所が、藤沢市から鎌倉市に移る。
やまぐち・けいは、詩「贈る」(P32~p33)と編集後記「拈華近況」(p40~p41)を掲載。

 

『拈華』24号(1986年3月1日、拈華の会)
限定200部。180×180ミリ。46ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 島田裕子
やまぐち・けいは、詩「鳥・春」「鳥・夏」(P16~p18)と「後記」(p42~p44)を掲載。

 

『拈華』25号(1986年8月1日、拈華の会)
限定200部。180×180ミリ。44ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 島田裕子
やまぐち・けいは、詩「鳥・秋」「鳥・冬」(P6~p9)と「後記」(p40~p41)を掲載。

 

『拈華』26号(1984年3月10日、拈華の会)
限定200部。180×180ミリ。46ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 島田裕子
やまぐち・けいは、詩「指」「顔」(P34~p38)と「後記」(p44~p45)を掲載。

やまぐち・けいから児玉達雄への手紙3通はさみこみ。

『拈華』26号目次

▲『拈華』26号目次

『拈華』26号奥付

▲『拈華』26号奥付
個人宅の住所なので、ぼかしました。

 

『拈華』27号(1987年9月15日、拈華の会)
限定200部。180×180ミリ。38ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 島田裕子
やまぐち・けいは、詩「指 II」(P32~p34)と「後記」(p36~p37)を掲載。

 

『拈華』28号(1988年4月20日、拈華の会)
限定300部。183×183ミリ。120ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 小倉美枝子
表紙題字は、手刷りでなく印刷。
やまぐち・けいは、詩「月下美人」「白い鳥」「わたしの部屋」(P110~p116)と「後記」(p117~p120)を掲載。
児玉達雄による、やまぐち・けい『白い樹とサモワール』の批評「義経・白鳥・桜貝」(p57~p75)を掲載。


『拈華』29・30合併号(1989年6月1日、拈華の会)
限定300部。183×183ミリ。108ページ。
発行人 拈華の会
責任者 鎌倉市 やまぐち・けい
発行所 藤沢市 小倉美枝子
表紙題字は、手刷りでなく印刷。
終刊号。やまぎち・けいの千葉県移転を機に休刊。」
旧号からの再録と新作で構成。
やまぐち・けいは、詩「ただ過ぎてしまった」(p20~p21、創刊号からの再録)、創刊号のあとがき(p22~p23)、新作の詩「流れ」「月夜見」(p94~p98) 、十七号あとがき(p102)、「ごあいさつ」(p104~p108)を掲載。

 

『白夜』
やまぐち・けい(山口慶)が中心になって、鎌倉市から千葉県の大網白里町に移転した時期に出された同人誌。
4冊が手もとにあります。

『白夜』4冊

 

『白夜』創刊号(1988年4月1日発行、「白夜」の会)
148×210ミリ。76ページ。
編集は〈「白夜」の会〉で、奥付でその住所は、鎌倉のやまぐち・けいの住所になっています。
やまぐち・けいは、詩「熱い予感」(p24p~25)、小説「雪明かり」(p42~p73)、「後記」(p74)を掲載。

『白夜』創刊号目次

▲『白夜』創刊号目次

 

『白夜』第4号(1990年8月15日発行、月ヶ原草房・白夜の会)
72ページ。
編集・発行人は山口慶。発行所の月ヶ原草房・白夜の会の住所は、千葉県大網白里町の山口慶のもの。
やまぐち・けいは、詩「薄明かり」(p32~p33)、エッセイ《いまなぜ「戦場歌」か》(P34~p49)、随筆「森の魔女」(p57~p60)、「後記」(p71)を掲載。
児玉達雄は、詩評「シルクロードの砦の廃墟――今辻和典論稿――」(p21~p28)、詩「乾杯」(p29)を掲載。

 

『白夜』第5号(1990年12月15日発行、月ヶ原草房・白夜の会)
80ページ。
編集・発行人は山口慶。発行所の月ヶ原草房・白夜の会の住所は、千葉県大網白里町の山口慶のもの。
やまぐち・けいは、詩「森のクリスマス・イヴ」(p12~p13)、信欣三についてのエッセイ「白き旅びと」(P49~p59)、「後記」(p80)を掲載。
児玉達雄は、詩評「橋口しほ詩集 桜の見える位置より三編」(p4~p9、児玉達雄による朱の書き込みあり)、詩「侘助」(p10、児玉達雄による鉛筆の書き込みあり)を掲載。  

 

『白夜』第6号(1991年12月15日発行、月ヶ原草房・白夜の会)
52ページ。
編集・発行人は山口慶。発行所の月ヶ原草房・白夜の会の住所は、千葉県大網白里町の山口慶のもの。
やまぐち・けいは、詩評《本田晴光詩集『ひとつの「刻」を読むもの』"生命を慈しむひと"》(p16~p23) 、詩「午后の戸惑い」(p38~p39)、「詩集紹介」(p41~p43)、「あとがき」(p52)を掲載。
児玉達雄は、詩「墓地まで来て」(p26~p29)を掲載。

 

ふだん目にしないような同人誌の世界を、児玉達雄さん、やまぐち・けいさんのおかげで、垣間見ることができて、面白かったと思う一方、そろったかたちで残されていたらと思ってしまいます。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

COVID19のロックアウトで、長らく音楽活動から離れていたように思われたミュージシャンが、家にこもった時間で、Bandcampなどに新しく自分のページを作っているのを見かけます。

ルイ・フィリップ(Louis Philippe)もBandcampに自分のページを開いていました。そして、久しぶりのCDアルバムです。2007年の『An Unknown Spring』以来でしょうか。
だいぶ間が空きました。

今回は、元ヤング・マーブル・ジャイアンツ、元ジストの、スチュアート・モクサム(Stuart Moxham)と組んでのデュオ。
二人のデュオは、これも2007年の『The Huddle House』以来です。デュオとしては、2枚目のアルバムということになるのでしょうか。

Stuart Moxham & Louis Philippe『The Devil Laughs』01

Stuart Moxham & Louis Philippe『The Devil Laughs』02

▲Stuart Moxham & Louis Philippe『The Devil Laughs』(2020年、tiny GLOBAL productions)のCDジャケット

コーラスに凝って、ウォールオブサウンド世界に走ってもおかしくありませんが、室内に居合わせた2人の親密なデュオになっていて、とても気持ちの良いアルバムです。

Stuart Moxham & Louis Philippe『The Devil Laughs』ブックレット01

Stuart Moxham & Louis Philippe『The Devil Laughs』ブックレット02

Stuart Moxham & Louis Philippe『The Devil Laughs』ブックレット03

▲24ページの歌詞・解説ブックレット。

Bandcampで購入したので、CDのジャケットとブックレットに、スチュアート・モクサムのサインが入っていました。


▲ページトップへ

 

316. 1986年のやまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』(2020年8月4日)

1986年のやまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』

本を売り買いするのでなく、本を贈り合う同人誌の世界には疎いので、児玉達雄(1929~2018)の旧蔵書を古本屋さんで少しずつ買っていくうちに、児玉達雄は良き読み手、理想の読者として、全国各地の詩人から詩集や詩誌を贈られる存在だったのだなと知るようになりました。

鹿児島の古本屋さんで入手したもののなかで、特に目立ったのは、『朔』の圓子哲雄と、『拈華』や『白夜』のやまぐち・けいの二人。
二人は、自分が関わった本や詩誌をほぼすべて、児玉達雄に贈っていたのではないかと推察されます。

信頼できる相手に自分の書いたものを托す。これは文章を残す方法の一つなのかもしれません。
児玉達雄の旧蔵書は、ばらけてしまいましたが、その一部分は鹿児島の古本屋さんで集めることができました。
その内容に深く踏み込みはしませんが、少なくとも、こうしたものが残されていたと記録しておきたいと思います。

上の写真は、やまぐち・けいの最初の本『詩文集 白い樹とサモワール』。
表紙のパール紙やタイトル書体で好みは分かれるでしょうが、180×230ミリの大きめのサイズで172ページ、本文も詩は18Q、小説は16Qとゆったり組まれた、好ましいつくりの詩文集です。

やまぐち・けい(山口慶)には、「第265回 1992年の『児玉達雄詩十二篇』(2019年3月3日)」で言及した『海の見える部屋 詩と批評』(2006年3月31日初版発行、朔社、青森県八戸市)をはじめ、『詩文集 白い樹とサモワール』(1986年)、『やまぐち・けい詩集』(1991年)、『風の伝説』(1994年)と少なくとも4冊の著書があるようです。
鹿児島の古本屋さんには、『やまぐち・けい詩集』『海の見える部屋 詩と批評』の2冊しか残っておらず、『海の見える部屋 詩と批評』でこの人は読むに値する文章を書く人だと感じましたので、『詩文集 白い樹とサモワール』と『風の伝説』を、日本の古本屋サイトやアマゾン・マーケットプレイスで探して購入しました。

 

やまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』目次

▲やまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』目次

拈華叢書第II号
1986年10月発行
発行所 拈華の会
表紙画 フリア ルイス セケイラ
カット・装幀 豊崎旺子
序 ゆりはじめ
肖像「おけいさん」中村辰治
対談 野火晃・三宅節子

本のタイトルになった小説「白い樹とサモワール」は、死をめぐって日常の楼閣がくずれはじめ、幻想の深みに入っていきます。
読者を選ぶようなところがあって、作者の作り出す場面転換のリズムと不安をもたらす細部との相性がよい読者にとっては、忘れがたい幻想譚になると思います。
やまぐち・けいが自分の母親の世代で、母と息子の砂の城を崩していくような関係が書かれているということもあって、母親の書いた文学作品を読む息子のような居心地の悪さも感じました。
この作家の鎌倉幻想譚のような作品集があったら、すてきな異物になったと思います。

 

やまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』奥付

▲やまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』奥付
もう住んでいないとはいえ個人宅の住所なので、ぼかしました。

 

『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)表紙

▲『やまぐち・けい詩集』(1991年8月10日発行、近文社)表紙
B6判。88ページ。

 

『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)見返しの献辞

▲『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)見返しの献辞

 

『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)目次

▲『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)目次
旅・月・風景の三部構成。

 

『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)奥付

▲『やまぐち・けい詩集』(1991年、近文社)奥付
もう住んでいないとはいえ個人宅の住所なので、ぼかしました。

近文社(大阪)
日本詩人叢書126
1991年8月10日発行

所属 白夜 青い花 玄
鎌倉で書いたものが大半。 千葉県に移転後、刊行。

『玄』は、鹿児島の古本屋さんで私が見た時には見当たらなかったと思います。

 

やまぐち・けい『風の伝説』(1992年、青樹社)表紙

▲やまぐち・けい『風の伝説』(1994年10月30日発行、青樹社)表紙
四六判。316ページ。
表紙装画は小紋章子。 装幀は丸地守。

やまぐち・けい『風の伝説』(1992年、青樹社)見返しの献辞

▲やまぐち・けい『風の伝説』(1994年、青樹社)見返しの献辞
アマゾン・マーケットプレイスで購入した本は、千葉の作家、葉山修平(1930~2016)への献呈本でした。

 

やまぐち・けい『風の伝説』(1992年、青樹社)扉

▲やまぐち・けい『風の伝説』(1994年、青樹社)扉

 

やまぐち・けい『風の伝説』(1992年、青樹社)目次

▲やまぐち・けい『風の伝説』(1994年、青樹社)目次
呉林俊(オ・リムジュン、1926~1973)についての評伝「風の伝説」(p7p~194)と、自身の結婚・離婚・再婚・闘病・親の介護をもとにしたと思われる小説「アシュラの簪」(p197~p311)を収録。
「風の伝説」は、やまぐち・けいが同人だった『青い花』に、4回に分けて掲載。
「アシュラの簪」は、1982年同人誌『磁』に発表したものを、一部削って掲載。

 

やまぐち・けい『風の伝説』(1992年、青樹社)奥付

▲やまぐち・けい『風の伝説』(1994年、青樹社)奥付

「風の伝説」では、在日朝鮮人の批評家・画家・詩人、呉林俊の没後に、その存在を知ったやまぐち・けいが、関係者を訪ね、資料をあずかり、その生涯を複数の声に耳を傾けながら、たどっていきます。
やまぐち・けいは自らを「耽美派」と形容しているのですが、そうした人物が、神戸の極貧の家庭で日本語で育ち、日本帝国陸軍の兵士を志願し、戦後、朝鮮籍を選択し、朝鮮語を習得し、日本と朝鮮半島の入り組んだ関係を論じ続けた人物に入れ込むのは、その理由が今ひとつ判然としません。

『詩と批評 海の見える部屋』(2006年、朔社)収録の「島比呂志著『生存宣言』『片居からの解放』を読む」のなかで、やまぐち・けいは「呉林俊(オ・リムジュン)の論文に出会ったことで、私は約二十年間、すでに逝った人の跡を追いかける羽目になった。追いかけて、結局、彼を理解することなどはできないことを知った。」ともらしています。その20年間は、熱烈なファンが取りえた力の限りの行動のようにも見えます。
あるいは、この20年は、「結婚」のひとつの形だったようにも思われます。

もちろん、やまぐち・けいは夫のある存在なのですが、その20年間は、魂の領域で、同時に「死者との結婚」をし、その死者のことばを探り求め続けていたように思われます。正解でも不正解でもない20年の時間がそこに横たわっているテキストです。

これは、ある意味、とても「耽美派」的なふるまいにも見えます。言い過ぎでしょうか。

追いかけても追いかけても、たどり着けないことにたどりつく、そんなテキストです。


やまぐち・けい『海の見える部屋 詩と批評』(2006年3月31日初版発行、朔社、青森県八戸市)の表紙

▲やまぐち・けい『海の見える部屋 詩と批評』(2006年3月31日初版発行、朔社、青森県八戸市)の表紙
A5判。182ページ。
表紙写真は、やまぐち・けいが入居した老人施設から撮った写真のようです。

 

やまぐち・けいから児玉達雄に贈られた同人誌については次回に。

 

 拾い読み・抜き書き

やまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』収録の詩「秋」に、次のような一節がありました。

日本が敗けて マッカーサーが厚木に
来た日 江の島から稲村が崎まで
軍艦が並びました
かぞえました
ワタシ かぞえました
夜になって灯が点きました
海が街になっていました

海が街になった光景を、映像でみてみたいと思いました。

 

やまぐち・けい『詩文集 白い樹とサモワール』収録の小説「白い樹とサモワール」に登場する牧野邦夫(1925~1986)の絵が気になります。

 壁に牧野邦夫の絵を懸けたかったからだった。彼の個展を私は二度見ていた。一度は素描であり一度は油絵だった。小説家牧野信一の従弟である彼の絵は、線が類をみない程デリケートで美しい。彼の絵を懸けるのなら壁は純白で、カーペットはコバルト・ブルーでなくてはならないと勝手に決めていた。レジの後には素描の小品を、喫茶室には油絵をと思っていた。彼の裸体画は美しかったが、陰毛を一本一本丁寧に、まるで子供じみた熱心さで描きこんでいるのがどうにも目ざわりだった。しかもその一本一本は猛猛しいものであったから、息子の眼にさらす気にはなれなかった。比較的、おとなしいものを求める結果となりそうだった。

 

やまぐち・けい『風の伝説』収録の「アシュラの簪」に登場する川端康成(1899~)の美少女愛。

「アシュラの簪」は、やまぐち・けいが22歳で発病した縦隔膜腫瘍の手術を、東大病院で受けたときの体験をもとにしています。
同部屋だった「依田年恵」は、死に至る病と向き合う美少女として登場。年恵を見舞っていた「山際恂」は、のちに語り手の再婚相手になります。
ちょうど同じ時期、川端康成も入院中だったため、起きたことが書かれています。

 マリーナの一室で、川端康成氏が亡くなったのは、私が藤沢に居を移した年であったろうか。川端氏は年恵の美少女ぶりを、看護婦の噂で知られたらしい。氏のカメラで年恵を撮ることを看護婦にたのんだのである。年恵は脚を失くしてから、容貌の衰えを嘆いていたので、たれにも写真を撮らせなかった。しかし、川端氏の言葉だけはいれたのだ。
 川端氏は何枚か写真を焼増しされたらしく、恂の手もとにも写真は残った。
 白い枕に、年恵は三つ編みの頭を埋め、処女の生真面目な顔をしている。

小説の「依田年恵」のモデルになった人物の写真は残されているのでしょうか。

 

『詩と批評 海の見える部屋』に収録された詩「ただ さらさらと」は、義弟を追悼する詩です。
詩の内容から、やまぐち・けいの夫の弟は、アナキスト・政治活動家の山口健二(1925~1999)と分かりました。東京美術学校、第一高等学校、旅順高等学校、京都大学と、いろんな学校を遍歴していたこともあってか、太宰治、三島由紀夫、原口統三、清岡卓行、中村稔、谷川雁、榊原陽、松田政男、川仁宏、吉本隆明、埴谷雄高、黒田寛一、栗田勇、森秀人、太田竜、斎藤龍鳳、平岡正明ら、さまざまな名前と結びついている人物です。

  ただ さらさらと

シベリュウスの交響曲第二番を聴いていると
彼を想うのよと 言うと
Mさんは 海の照り返しを見るような
眩しげな眼をした
あの方が逝って もう五年になるのですね
わたし あの方と同じ歳になってしまいました
そうすると三歳年下だった嫂は 義弟より
二歳 年上になったわけだ
十九歳からあの方を見つめていた Mさんの言う
二十四歳の彼をわたしは知らない
わたしに 残されたのは 少しばかりの思い出と
駆け抜けて行った負の歴史 彼の遺稿集
「ぼくは谷川雁らと共に、こんな運動を東京で
やろうと計画している。名づけて『自立学校』
何ものにもなりたくない。
名づけようのない人間になるための、ありうべ
からざる学校・・・。」
その後の彼の生き方の詳細をわたしは知らない
ジャテックの仕掛け人、中国に渡り林彪事件
に連座して投獄される 帰国後 沖縄
奄美大島で自然保護運動
ポーランドに渡ったと聞いたが
知らぬ間にみまかっていた
別の星から来たひとではないかと思った と
Mさんは言う
わたしにとっては 亭主の弟 やさしい口調
優雅な身のこなし 兄に似ない スタイリスト
夫にも 父親にもならなかった ひとりの男
生前 二人で話したのは 二時間だけだった
なにを話したのか 忘れてしまったけれど
たのしいひとだった
話しながら 頭の隅で チカチカ点滅する
赤信号をわたしは意識していた
義弟とは 二度と会うことはなかった
世界を駆け巡った彼だったから
オホーツク イスタンブール モンゴル
ヒマラヤ チチカカ湖のほとり
彼を愛するひとたちの
手で 十数か所に散骨された
親族としてただ一人 遺骨を預けられた
わたしは 五年目の命日に近い日
「健二さん 思い切り叩いて上げるわね」
ワインの空瓶で 数日かけて こつこつと
骨を叩き砕き 細かい粉にした
夫も逝き 独りになったわたしは
犬吠埼灯台下の荒磯に ひとりの若者の
助けを得て 石段を降りた
荒磯の汐だまりに
若者の手で さらさらと 真直ぐに
白い粉は 落とされた
骨粉は 水面に環を描き
しばらく形を保っていたが
光を放ち
雪と見まがうばかりに
輝いて 融けていった

何ものにもなりたくなかった 義弟は
汐だまりから 沖へ
梅雨の晴れ間の ひろい海へと

 

▲ページトップへ

 

315. 1993年の青山毅『島尾敏雄の本』(2020年7月19日)

1993年の青山毅『島尾敏雄の本』表紙

アトラス・プレス(Atlas Press)のロンドン・パタフィジックク協会会報のことや、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)やエリック・クラフト(Eric Kraft)の本について整理しておこうと、あれこれ準備はしているのですが、この夏、延び延びになっていたものに少し動きがあるようなので、保留中です。

落ち穂拾いと言ってはなんですが、古本屋さんで、古い雑誌や小冊子を入手して、それらを拾い読みするのが楽しみという、つましい生活には変わりはありません。

だいたい刊行されて30年を過ぎると、雑誌も化け始め、発行当初とは違った面白みが出て来るのですが、入手したはいいものの、紹介しないまま、積み上がっています。
それを何かに利用しようといった目的意識などさらさらなくて、とはいえ、古雑誌や小冊子に、新たな連関を見つけられるといいな、とも思うのですが、何しろ知恵が足りません。

とりあえず、いくつか並べてみます。
見る目のある人にとっては、私には見えていないものが見えるのではないでしょうか。
教えてくだされば幸いです。

最初は、青山毅『島尾敏雄の本』(1993年)。
鹿児島の古本屋さんでありがちのことの一つに、渡辺外喜三郎関連の古書に出会うということがあって、これもその一冊です。

別のものが挟み込まれた本で、この本の著者とは直接関係ないのですが、渡辺外喜三郎宛の手紙(1988年)がはさみこまれていたので、渡辺外喜三郎旧蔵の本かと思われます。

 

青山毅『島尾敏雄の本』奥付

▲青山毅『島尾敏雄の本』奥付
渡辺外喜三郎編集の『カンナ』誌に連載されていた、私的な島尾敏雄書誌。
青山毅は、『島尾敏雄全集』全17巻(晶文社、1980~1983)の「初出一覧」作成者。
210×148ミリ。112ページ。
限定150部の1番ということでも、渡辺外喜三郎に献呈された本だと思われます。
『カンナ』については、「第285回 1994年の渡辺外喜三郎「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙―」(2019年10月13日)」でも書いています。

 

【2020年7月20日追記】

児玉達雄(1929~2018)旧蔵の『カンナ』が数冊あるので、見てみると、手もとにあった第119号は、青山毅「島尾敏雄の本」の連載第1回でした。
島尾敏雄(1917~1986)が亡くなって1年が過ぎたところで始まった連載でした。

『カンナ』第199号表紙

▲『カンナ』第199号表紙
昭和63年(1988)2月10日発行
発行者 渡辺外喜三郎
表紙の樋渡直竹の写真は、「ガジュマルの下で」――加計呂麻島。

 

『カンナ』第199号目次

▲『カンナ』第199号目次
青山毅の「島尾敏雄の本」の連載第1回は、『幼年記』について。
児玉達雄の短編「ある晴れた日に」、佐藤剛のエッセイ「文学についての覚え書き」も掲載。
「ある晴れた日に」は、児玉達雄の祖父・今給黎久清の話。西南戦争後、富山で3年服役して、鹿児島へ帰還したときのことを題材にした作品。

 


▲青山毅『島尾敏雄の本』に挟まれていた封筒

▲青山毅『島尾敏雄の本』に挟まれていた封筒
手紙は、便箋2枚。渡辺外喜三郎への感謝の手紙(1988年ごろのもの)。
青山毅の手紙ではありません。

 

青山毅『島尾敏雄の本』に挟まれていた下書き
▲青山毅『島尾敏雄の本』に挟まれていた下書き
「鹿兒島縣立出水中學校」の用箋8枚、その裏表に書かれた、一時間ぐらいの講話のための下書き。
薩摩藩が幕府に命じられた木曽三川の改修工事(宝暦治水)の責任者・平田靱負(ひらたゆきえ、1704~1755)が、工事は完遂したものの莫大な費用がかかかったことの責任をとって自裁したのは、宝暦5年5月25日(1755年7月4日)。その責任ある姿勢は、明治以降、再評価されるようになり、「薩摩義士」と呼ばれるようになります。
平田靱負の命日にあたる5月25日に、中学校で、薩摩義士についての講話をされたのでしょう。その下書きです。
旧制「鹿兒島縣立出水中學校」とあるのが目立ちます。
文中「今を去ること百七十六年前、宝暦三年十二月二十五日」という記述があるので、1929年ごろのものと推察されます。
旧制出水中、現在の出水高校に関係のある人なら、どの先生がされた講話か、分かるかもしれません。


野村伝四『薩摩義士』(1965年)表紙

▲野村伝四『薩摩義士』(1965年)表紙
189×129ミリ。60ページ。
野村伝四(のむらでんし、1880~1948)の甥にあたる、野村不二が、自分の息子の結婚式を記念して刊行した小冊子。
野村伝四が、大正6年(1917)8月、西濃地方を徒歩旅行をしたときの体験をもとに、木曽三川の改修工事(宝暦治水)のことをまとめた「薩摩義士」を収録。

野村伝四については、「第177回 1942年の野村傳四『大隅肝屬郡方言集』(2016年4月28日)」でも、少し書いています。

 

野村伝四『薩摩義士』(1965年)漱石の句と椋鳩十の序

▲野村伝四『薩摩義士』(1965年)夏目漱石の句と椋鳩十の序文

 

野村伝四『薩摩義士』(1965年)奥付

▲野村伝四『薩摩義士』(1965年)奥付

野村伝四『薩摩義士』には、昭和16年(1941)に奈良読書会のために書かれた「奈良読書会長野村伝四氏略歴」も収録。
これがよくまとめられている略歴で、野村伝四のあゆみが見えてくるので、ここでも引用しておきます。

 野村伝四氏は、鹿児島県肝属郡高山町前田、故野村伝之助の四男、明治十三年九月二十日出生。明治二十八年十六歳、鹿児島県立中学校に入学、同三十三年二十一歳、同校を卒業し、上京して第一高等学校に入学。明治三十六年二十四歳、東京帝国大学英文学科に入り特に当時の教官夏目漱石からは、純文学方面の指導と感化を受くるもの多く、同三十九年二十七歳にて卒業す。この前後数年熱心に飜訳、小説、随筆等をものし雑誌「ほとゝぎす」其他に発表す。
多くの中等学校教科書に収められている名篇「鷹が渡る」はその頃の作である。
 又、中学校時代より和歌に志し、上京してりは御歌所寄人鎌田正夫氏に師事し、今日に至るまで折にふれて歌作を続く。
 大学卒業後は、しばらく東京に居住して教鞭を執りたる後、大正四年佐賀県立鹿島中学校教諭となり、愛知県立熱田中学校、大阪府立天王寺中学校に歴任して英語科を担当。大正十年三月奈良県立桜井高等女学校長となり、昭和三年一月奈良県立五条中学校に転じ、昭和九年三月退職。さらに昭和十年六月には奈良県立奈良図書館長に補せられ、又同館内に設置の奈良読書会会長として今日に及ぶ。
 氏は元来英文学専攻の士であるが、昭和初年頃より中等学校に於ける英語教育の必要性に対しては大なる疑問を抱き、同時に皇国学の振興を念願し、かたがた民俗学、方言学方面に関心を傾くるに至った。即ち五条中学校長時代に、「不要品博覧会」(現代に不要品にして、一時代前の生活必要道具の展覧)なるものを開いて、地方一般に民俗学的興味と関心とを喚起させ又筆を執っては、「高山町方言考」(雑誌方言)を初めとして、「南大和の方言」「大和の漆掻き」「大和の恒内」「纏向同憶」「うつくしき御名」等の労作を発表す。又、柳田国男氏の推薦により、「肝属方言集」(全国方言集)も近く上梓されんとしている。
 氏は大学生時代、指導教授だった夏目漱石から特に愛重されたらしく、氏も亦漱石に対しては更に推服敬慕の念厚く、漱石から贈られた沢山の書状、ハガキ、墨跡、著書の初版等々は、今も一点も漏らさず秘蔵して居る。野村氏が先師漱石追憶の数篇には、この師弟の情味が床しくあらはれて居り、又、漱石に関する展観講演なども一たびならず試みたこともあって、野村氏といえば直に漱石を聯想させる。或は氏の趣味性情乃至態度風格に「漱石先生」の或物が漂うて居るのではないかと思はせる所がある。
 家にはせい子夫人、三女なり子さん、明日香君がある。長女かず子夫人は出でて阿蘇谷氏に嫁し一男二女あり、二女よね子夫人は宇宿氏に嫁している。
(昭和十六年十二月記)

日付は、真珠湾攻撃の12月8日の前だったのか、後だったのか。気になります。

 

『雑談・合評会の記録――耕治人・本多秋五・北御門二郎氏を囲んで――』(1984年、武蔵野書房)表紙

▲『雑談・合評会の記録――耕治人・本多秋五・北御門二郎氏を囲んで――』(1984年、武蔵野書房)表紙
210×148ミリ。40ページ。
1983年4月30日、国電・中野駅前の中野サンプラザで、耕治人(1906~1988)・本多秋五(1908~2001)・北御門二郎(1913~2004)を招いて開かれた、武蔵野書房主催「著者を囲んでの雑談・合評会」の記録。
参会者の名前も掲載されており、保昌正夫、紅野敏郎、稲垣達郎、勝又浩ら、読んだことのある著者の名前もあります。

『雑談・合評会の記録』奥付

▲『雑談・合評会の記録』奥付

古書にはさまれたヒッチハイカーに、面白いものがあったりします。

『雑談・合評会の記録』にはさまっていた知事の新年あいさつ

▲『雑談・合評会の記録』にはさまっていた鹿児島県知事の「新年のあいさつ」
ガリ版で、1960年のものと思われる鹿児島県知事寺園勝志(1901~1998)の「新年のあいさつ」
前所有者は、県庁の職員だったと思われます。

 

『雑談・合評会の記録』にはさまっていた「かごしまどくしょかい」55

『雑談・合評会の記録』にはさまっていた「かごしまどくしょかい」56

▲『雑談・合評会の記録』にはさまっていた「かごしまどくしょかい」
ガリ版刷りの「かごしまどくしょかい NO.55」(1959年11月26日、鹿児島読書会、6ページ)と「かごしまどくしょかい NO.56」(1959年12月17日、2ページ)が挟まっていました。
「かごしまどくしょかい NO.55」の「今月のテーマ」は、伊藤整「街と村」。名前が明記されている執筆者は、牧民郎(歌人の牧暁村。1882~1966)。
「かごしまどくしょかい NO.56」の「今月のテーマ」は、徳田秋声「仮装人物」。名前が明記されている執筆者は、藤居孝夫。

「かごしまどくしょかい」の存在は、はじめて知りました。このガリ版の会報を揃えている方はいらっしゃるのでしょうか。

 

季刊『四季』第七・八合併号 伊藤整追悼号(1970年、潮流社)表紙

▲季刊『四季』第七・八合併号 伊藤整追悼号(1970年、潮流社)表紙
『雑談・合評会の記録』の前所有者の旧蔵書と思われます。
近頃、見かけないような、品の良い雑誌だなと思います。

 

季刊『四季』第七・八合併号 伊藤整追悼号(1970年、潮流社)奥付

▲季刊『四季』第七・八合併号 伊藤整追悼号(1970年、潮流社)奥付

 

『希土』第五号(1975年、希土同人社)表紙

▲『希土』第五号(1975年、希土同人社)表紙

世の中には知らなかった、見たことのなかった雑誌がいっぱいあるのだな、と思います。


『希土』第五号(1975年、希土同人社)目次

▲『希土』第五号(1975年、希土同人社)目次

目次に「大山定一先生追悼」とあるのを見て、購入しました。
リルケの『マルテの手記』は、新潮文庫の大山定一(1904~1974)訳で読んだことを思い出しました。

 

『希土』第五号(1975年、希土同人社)奥付
▲『希土』第五号(1975年、希土同人社)奥付


 拾い読み・抜き書き

読んだ本で、気になった個所を抜き書きしておきます。

『現代日本隨筆選2』内田百閒『百間文林』・獅子文六『牡丹亭隨筆』(1953年、筑摩書房)表紙

▲『現代日本隨筆選2』(1953年、筑摩書房)表紙
内田百閒『百閒文林』
獅子文六『牡丹亭隨筆』
手もとにあるのは、裸本です。

内田百閒『百閒文林』と獅子文六『牡丹亭隨筆』をカップリングした筑摩書房『現代日本隨筆選2』(1953年)に収録された、獅子文六(1893~1869)の「山の手の子」から、その冒頭の」一節。

 麹町、赤坂、麻布、さては四谷、牛込――あの方面の焼跡は、いつまで経つても家が建たない。それで寂しいのであるが、それ以上のものがある。築山と春日燈籠が残り、トーモロコシの葉蔭から覗いてゐたりすると、ひどく感慨を催してしまふ。あゝいふ感じは、ほかの焼跡にないものだが、これは、東京の山の手なるものが、既に完全に古跡化したことを、物語るのではあるまいか。
 どうも、私には、山の手が復興するものとは思はれない。勿論、いつかは新しい家が建ち、新しい人が住み、相當の区域になるであらうが、曾ての山の手生活、山の手気質なるものは、永久に帰り来る時はないであらう。私には、さう思はれる。もともと、山の手は江戸の田舎で、一個の風俗だの気質だのといふものが生れたのも、近来七八十年のことに過ぎず、再び芽を吹くほど根の深い樹木ではない。たゞ、それが曾ての東京生活に於ける重要さを私は忘れ難いのである。

戦後すぐに書かれた「山の手の子」で、「東京の山の手なるものが、既に完全に古跡化したことを、物語るのではあるまいか」「どうも、私には、山の手が復興するものとは思はれない」と書かれていることに、驚きます。
自分の知っていた世界は失われて、もう戻ることもない、という気持ちのほうが強かったのでしょうか。

獅子文六が体感する、中産階級の「山の手の子」と下町の「町ッ子」の気質の違いは、参考になります。

私は、「山の手の子」や「町ッ子」とは無縁に暮らしてきた鹿児島の人間なので、「山の手の子」や「町ッ子」の心性を知りたいわけではありません。
ただ、獅子文六は自分の知る「山の手の子」がどういうものかを、自分より5歳ほど年上の、水上瀧太郎(1887~1940)、辰野隆(1888~1964)、里見弴(1888~1983)の3人の性格・行動から紹介していて、里見弴は鹿児島とも縁がある存在なので、里見弴的なものを育てた、鹿児島からの上京二世も少なからずいた「山の手」は廃れてしまったのか、戦前と戦後の「山の手」の間には断層があるのか、連続しているのか、知りたいところです。

これは、細野晴臣や鈴木慶一のような「東京育ち」の音楽とも関わるものなのでしょうか。

 

『現代日本隨筆選2』(1953年、筑摩書房)奥付

▲『現代日本隨筆選2』(1953年、筑摩書房)奥付
検印は内田。
こうした2人選集の場合、獅子文六の検印のものもあると思われます。

 

『現代日本隨筆選2』(1953年、筑摩書房)巻末の『現代日本隨筆選』続刊予定

▲『現代日本隨筆選2』(1953年、筑摩書房)巻末の『現代日本隨筆選』続刊予定
全15巻の予定でしたが、国会図書館などで検索すると、実際には8巻で終わっていて、ここで予定されていた「斎藤茂吉・島木赤彦」「吉川英治・久米正雄」は出なかったようです。

現代日本随筆選 第1(1953)
 純粋の声 川端康成 著
 風貌姿勢 井伏鱒二 著
現代日本随筆選 第2(1953)
 百間文林 内田百間 著
 牡丹亭随筆 獅子文六 著
現代日本随筆選 第3(1953)
 愚妻愚夫譚 徳川夢声 著
 天気帖 高田保 著
現代日本随筆選 第4(1953)
 香艶の書 森田たま 著
 青粥の記 林芙美子 著
現代日本随筆選 第5(1953)
 侏儒の言葉 芥川竜之介 著
 半自叙伝 菊池寛 著
現代日本随筆選 第6(1953)
 文芸三昧 宇野浩二 著
 愛と死と 広津和郎 著
現代日本随筆選 第7(1953)
 行雲流水 新村出 著
 片言隻語 金田一京助 著
現代日本随筆選 第8(1954)
 机上枕上歩上 佐藤春夫 著
 貝殻追放 水上滝太郎 著

2人選集というのは、組み合わせによっては面白いものになりそうですが、最近はなかなか見ない本の形かも知れません。
人によっては、「BL」的な見立てをしそうなフォーマットです。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

岸野雄一が、音楽でも文章でも、蜜のあふれでる人になっています。目が離せません。

 

林以樂「相約夢境」ジャケット

台湾の林以樂(Lin Yiloh)が歌う「相約夢境」(2020年、OUT ONE DISC)を。
大瀧詠一「夢で逢えたら」の中国語カヴァーです。
プロデュースは、岸野雄一とゲイリー芦屋。
エンジニアは佐藤清喜。
編曲はゲイリー芦屋。

 

林以樂「相約夢境」(2020年、OUT ONE DISC)第一面

▲林以樂「相約夢境」(2020年、OUT ONE DISC)第一面

 

第二面収録曲は「你不只是一個普通的朋友」

▲第二面収録曲は「你不只是一個普通的朋友」
ヒゲの未亡人(岸野雄一&ゲイリー芦屋)『ヒゲの未亡人の休日』(2002年)が、2016年にアナログ盤になったときに、追加された曲「お友達でいましょうよ」の中国語カヴァー。
カセットテープでリリースされた、これまた素晴らしい『ヒゲの未亡人の悦楽教室』(2019年)にも収録されています。


▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

314. 1934年のアンドレ・ジイド著 淀野隆三訳『モンテエニユ論』(2020年6月21日)

1934年のアンドレ・ジイド著 淀野隆三訳『モンテエニユ論』

 

秋朱之介(西谷操、1903~1997)装釘の、アンドレ・ジイド(André Gide、1869~1951)著・淀野隆三(1904~1967)訳『モンテエニユ論(Essai sur Montaigne)』(1934年6月20日上梓、三笠書房・日本限定版倶樂部)の特色は、本文用紙に奢った、ということでしょうか。
上の写真のように、耳付きの越前特漉程村紙に「Essai sur Montaigne」の透かし文字が入った、贅沢な本文用紙が使われています。

ページをめくっていくと、ローマ字のタイトルや章を区切るオーナメントがよく出来ていて、ページのアクセントになっていると感心します。
ただ、これらは、元になったフランスのジャック・シフラン(Jacques Schiffrin、1892~1950)のプレイヤード版(Editions de la Pléiade)、『Essai sur Montaigne』(1929年)で、ルネ・ベン・サッサン(René Ben Sussan、1895~1988)がデザインしたものをそのまま流用しているようです。
どこが秋朱之介の独創なのかは、1929年のプレイヤード版『Essai sur Montaigne』との比較が必要です。

この『モンテエニユ論』は、1933年秋、竹内道之助(1902~1981、創業当初は、竹内道之助が名前を出さず、妻の竹内富子が三笠書房の発行人になっていました。三笠書店の印刷所・堀内印刷の娘です。)が三笠書房を創業した当初から、三笠書房の雑誌、秋朱之介編輯『書物』の誌面で、定価5円の読書家版のほかに1部100円の豪奢本刊行も予告されていました。1冊1円の「円本」が当たり前の時代です。

ただ、刊行が先延ばしされる本でした。『モンテエニユ論』の刊行は、当初の12月刊行の予定から、翌年1934年6月にずれこみます。

その間、『書物』誌掲載の広告でも、『モンテエニユ論』をどういう本にするかは揺れていて、その揺れを『書物』創刊号から振り返り、どういう経過で最終的な形にたどり着いたのか、振り返ってみたいと思います。

 

秋朱之介編輯『書物』小春號(創刊号)第一年第一冊

昭和8年9月25日印刷
昭和8年10月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)


【p69】秋朱之介「古鳩巣便書」
尚本社は今秋から毎月一冊以上の單行本を刊行してゆく。目下着手してゐるものではアンドレ・ジイドのモンテエニユ論、特筆すべき著作に法政大學教授、内田百間氏の隨筆集「百鬼園隨筆」がある。

 

秋朱之介編輯『書物』小春號(創刊号)第一年第一冊01

【p76】 『モンテエニユ論』最初の近刊広告
アンドレ・ジイド
モンテエニユ論
淀野隆三譯
おぼゑかき
*豪奢本・二百部限定
・自一番至十番・愛藏家本・原著者アンドレ・ジイド氏・フランス大使・飜譯者・刊行者等ヘノ寄贈書ヲ除キ内二部を頒布ス・定價壹百圓
*****自十一番至二百番・讀者家本・百九十部ノ内百六十部ヲ頒布ス・定價五圓
*大型本・本文十二ポイント及清朝組・用紙出雲産手漉雁皮紙・島根民藝會岩坂支部作製・絹絲手綴本・出雲雁皮紙ニツイハテ本誌掲載ノ太田直行氏の出雲紙ニツイテ參照アリタシ
*装綴・芹澤銈介・秋朱之介
*因ニ本書ニハ。帝國大學教授辰野隆博士カラ貴重ナ序文ヲ寄セラレルコトニナツテイル
*刊行臘月中旬(十二月)
希望者ハ申込アリタシ

秋朱之介は、『書物』創刊号で、芹澤銈介・秋朱之介の装釘で、「百圓」の豪奢本を1933年12月に出すと、宣言します。
この段階では、豪奢本10冊中8冊は、アンドレ・ジイドはじめ8人へ寄贈する予定です。
讀書家本の「五圓」という価格設定も高めですが、「百圓」は、教師・公務員の1か月の給料より高い、そんな豪奢本です。
表紙装幀がどういうものなるかの記述はありません。

 

1929年の世界恐慌以降、豪奢なつくりの限定本の世界はしぼんでいて、『モンテエニユ論』の元版になった、フランスの限定版出版、ジャック・シフラン(Jacques Schiffrin、1892~1950)のプレイヤード出版(Édition de la Pléiade)も、1931年からポケット版のプレイヤード叢書(La Bibliothèque de la Pléiade)で方向転換し、1935年、イギリスでは、ペーパーバックのペンギン・ブックスが誕生しています。
日本でも、1923年の関東大震災以降、昭和初期の円本(1926年の改造社の現代日本文学全集) 、岩波文庫(1927年創刊) 、1928年の新潮文庫(1914年創刊時はハードカヴァー)のペーパーバック化など、廉価化・ポケット化が世の流れになっています。

秋朱之介は、世の中の動きが見えていなかったとも言えますし、反時代的な本づくりを打ち出したのだ、とも言えます。

秋朱之介に堅実な出版ビジネスの展望があったとは考えにくいのですが、この時期、自分の思うがままに本を作れる条件がそろってしまったという、稀有な事態がおこっていたようです。

 

『書物』葭月號(2号)第一年第二冊

昭和8年10月25日印刷
昭和8年11月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

 

葭月號(2号)第一年第二冊01

【p76】 刊行予告
モンテエニユ論
アンドレ・ジイド著
辰野隆博士序
淀野隆三譯
秋朱之介装
200部限定本内譯
東京日本限定版倶樂部昭和八年十二月臨時出版 三笠書房内
豪奢本拾部番號第壹番、AよりJまで頒價一部金壹百圓也用紙本文ジヤパン・ベラムペエパーすかし入り、表装山梨インデン皮、芹澤銈介加工、装釘秋朱之介、芹澤銈介
愛藏家本壹百玖拾部番號自第貳番至一九一番頒價一部金五圓也用紙本文ジヤパン、ベラムペエパーすかし入、装釘、秋朱之介
用紙全部耳付、本綴本、活字、十二ポイント又は清朝體、大型版四折本各册番號入

ナンバリングのシステムを「1~10(100円)/11~200(5円)」から「1・A~J(100円)/2~191(5円)」に変更。

愛藏家本が豪奢本、読者家本が愛藏家本になっています。
「豪奢本/愛藏家本」「愛藏家本/読者家本」の表現は各号広告で揺れています。

本文用紙が「すかし入」であることも、ここで表明。ジヤパン・ベラムペエパー(Japanese vellum)は、普通「局紙」や「鳥の子紙」のことです。

芹澤銈介(1895~1984)加工の「山梨インデン皮」の革装を予定していて、芹澤銈介は豪奢本のみの関わりのようです。山梨の、漆と鹿革を使った印伝皮を芹澤銈介がデザインする、という構想だったのでしょうか。

中央公論社刊『芹澤銈介全集』第廿五巻(装幀I、1982年』1月25日発行)、第廿六巻(装幀II、1982年3月25日発行)、第廿七巻(装幀III、1982年6月25日発行)に、芹澤銈介の装幀の仕事がまとめられていますが、そのなかに『モンテエニユ論』のものは見当たりません。

もっとも、全集で、すべてが網羅されているわけではないようで、秋朱之介に関連したものでは、芹澤銈介の三色総型染の江間章子詩集『花籠』も掲載されいません。
戦後、西谷操(秋朱之介)の操書房で、江間章子の詩集『花籠』を準備し、 芹澤銈介の三色総型染による表紙見本まで作られていたそうですが、未刊のまま終わりました。その表紙見本を佐々木桔梗(1922~2007)が入手して、所有していたことを 『江間章子全詩集』(1999年、宝文館出版)「解説」で書いています。

『モンテエニユ論』豪奢本がほんとうに100円で頒布されたかどうかはわかりませんが、少なくとも試作品は作られたのではないかと思います。存在するのであれば、見てみたいものです。


【p79】 秋朱之介「字幕」
それから十二月、雪が降る、人はせはしい、その月に田園交響樂、モンテエニユ論、中村秋一氏のレヴユウと舞踊、新村出博士の随筆集と書物の新年號をどうしても出さねばならぬ。

昭和8年(1933)~昭和9年(1934)の秋朱之介は、猛烈に忙しい日々をおくっています。

 

『書物』臘月號(3号)第一年第三冊

昭和8年11月25日印刷
昭和8年12月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

 

臘月號(3号)第一年第三冊01

【p55】 日本限定版倶樂部新刊及近刊書目
*モンテエニユ論《臨時出版》アンドレ・ジイド著辰野隆博士序淀野隆三譯芹澤銈介、秋朱之介装二百部限定本内豪奢本十部愛藏家本一百九十部大型四折本マークすかし入耳付局紙豪奢本一百圓、愛藏家本五圓、十二月刊

『ドニイズ』『醉ひどれ船』『モンテエニユ論』『イザベル』いずれも秋朱之介装。

 

『書物』はつはる瑞月號(4号)第二年第一冊

昭和8年12月25日印刷
昭和9年1月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

『モンテエニユ論』が刊行される予定の月のこの号に、淀野隆三・モンテエニユ論の記述はありません。

 

『書物』花月號(5号)第二年第二冊

昭和9年1月25日印刷
昭和9年2月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

書物』花月號(5号)第二年第二冊02

【p63】 広告
アンドレ・ジイド著・淀野隆三譯
モンテエニユ論 二〇〇部限定
愛藏家本5部、1冊100圓、讀書家本195部1冊5圓
秋朱之介装、二月下旬刊
日本限定版倶樂部第二回
臨時出版

アンドレ・ジイドが20歳頃の肖像を使った広告。愛藏家本が10部から5部へ。「十二月刊」から「二月下旬刊」に。

 

【p73】で、「文藝雜誌《世紀》」創刊についての言及。
この春から純文藝雜誌《世紀》が淀野隆三、飯島正、北川冬彦、三好達治、丸山薫、青柳瑞穂氏等に依つて三笠書房から創刊されます。恐らく日本文壇を代表する雜誌とはなりませう。

『世紀』は、『モンテエニユ論』の翻訳者・淀野隆三が創刊・編集した文芸誌です。

 

『書物』桐月號(6号)第二年第三冊

昭和9年2月25日印刷
昭和9年3月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

 

『書物』桐月號(6号)第二年第三冊01

【p66】
アンドレ・ジイド著・淀野隆三譯
モンテエニユ論 二〇〇部限定
愛藏家本5部、1冊100圓、讀書家本195部1冊5圓
秋朱之介装、三月刊厳守
日本限定版倶樂部第二回
臨時出版

レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont、1858~1915)の『仮面の書(Le Livre des masques)』(1898年)中の、フェリックス・ヴァロットン(Félix Vallotton、1865~1925)描くアンドレ・ジイドの肖像を広告に使用。

 

【2020年6月26日追記】

この広告を見ると、秋朱之介は『仮面の書』を知っていたのだと思われます。
ルミイ・ド・グウルモンは、秋朱之介お気に入りの作家であったと思われ、昭和9年(1934)、堀口大學訳で、裳鳥会から『シモオヌ』と『彼女には肉體がある』の2冊を刊行し、また、未刊に終わりましたが、『アマゾオヌへの歌』『邪なる禱』も準備しています。

それであればこそ、この『モンテエニユ論』より、グールモンの『仮面の書』のほうが、豪奢本にするにはふさわしかったのではないかと、思ったりします。ヴァロットンの描く詩人達の肖像画の黒い線を生かす形で、特注の手漉和紙に刷られた版がつくられていれば、伝説の本になったのではないかと思います。
もちろん、これは妄想で、そんな本は準備されていません。

 

『書物』桐月號(6号)第二年第三冊02

【p73】
「文藝雜誌 世紀 四月創刊」の広告

WEB上に公開されている、実践女子大学の紀要『實踐國文學』94号(2018年10月15日)掲載の棚田輝嘉・芦木亜彩湖・齋田祥子「淀野隆三草稿翻刻(上)」の淀野隆三自筆の履歴書(1964年)によれば、

一、昭和九年一月、法政大学予科講師、八月共産党員の嫌疑で、戸坂潤と共に馘首される。
一、昭和九年四月、文芸誌『世紀』を創刊、昭和十年六月に廃刊。
一、昭和十一年三月より郷里に帰り亡父の業を継ぐ(合名会社淀野三吉商会 )

とあり、淀野隆三にとっても、三笠書房で『世紀』を編集していた時期は、人生の変わり目だったようです。
淀野隆三は、戦後も、三笠書房と深く関わっています。

一、昭和二十二年八月よりKK高桐書院に入り、編集長、後代表取締役として良書の出版に努めて失敗、家産を 蕩尽する。
一、昭和二十五年一月、単身上京、KK三笠書房に顧問として入社、後、編集長、常務取締役、二七年三月倒産寸前の仝社を再建の方向に置くと共に、退社。
一、昭和二十五年九月、明治大学講師、二十七年四月、教授(文学部)、今日に到る。昭和三八年五月、仝大学 人文科学研究所長。

淀野隆三が、三笠書房の顧問、編集長、常務取締役だった時期、「第307回 1933年の三笠書房の《鹿と果樹》図(2020年4月30日)」で少し紹介した、弓が目印の三笠文庫も創刊されています。

『世紀』創刊号の表紙装画は棟方志功で、このころから秋朱之介は棟方志功に入れ込みます。そのことについては、「第256回 1934年の秋朱之介の裳鳥会刊『棟方志功画集』広告(2019年2月7日)」で書いていますのでご参照ください。

 

【p89】 秋朱之介「字幕」
今私が肌身、たましいまでも捧げたい仕事がある。モンテエニユ論、乳房、槿花戯書、イザベル、惡の華、マリイ・ロオランサン詩集、それに堀口大學氏著作刊行會別稱裳鳥會限定版倶樂部の第一回刊本シモオヌと同會臨時出版四十三部限定の贅澤刺繡裝の眞筆本「アマゾオヌへの歌」である。

待ちに待つたジイドのモンテエニユ論の原稿がやうやく編輯者の手に廻つた。法政大學の先生となられた淀野隆三氏の名譯、ここの愈々上梓の運びとなり着手いたしました。私はこの本を書痴王鈴木信太郎先生を驚かすために出來るかぎりのぜいたくを盡して作製します。

『モンテエニユ論』の遅延は、原稿入稿の遅れが理由だったのでしょうか。

秋朱之介の想定していた豪奢本の読者は、鈴木信太郎(1895~1970)だったようです。
秋朱之介は、鈴木信太郎の本を作りたかったのではないかとも思います。

 

『書物』余月號(7号)第二年第四冊

昭和9年3月25日印刷
昭和9年4月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

 

『書物』余月號(7号)第二年第四冊01

【p6】
『世紀』四月創刊號広告
ここで使われている草花のカットは、朝鮮の創作版画家、李秉玹(イ・ビョンヒョン、Biyung H Li、1911~1950、東京美術学校出身)の作品。

 

『書物』余月號(7号)第二年第四冊03

【p34~35】 広告
ESSAI SUR MONTAIGNE
モンテエニユ論
アンドレ・ジイド著
淀野隆三譯
辰野隆博士序
秋朱之介装
二〇〇部限定版愈々
近日上梓

内豪奢本五部一部壹百圓
頒布本一九五部一部五圓
送料三十三錢
日本限定版倶樂部第二回
臨時贅澤刊本
三笠書房内 日本限定版倶樂部

豪奢本の部数が10部から5部になっています。

 

【p93】 秋朱之介「字幕」
四月は(略)淀野隆三譯モンテエニユ論(略)が刊行されます。

刊行予定が「愈々近日上梓」「四月」になりました。

 

『書物』余月號(7号)第二年第四冊02

【p97】 三笠書房圖書目録
アンドレ・ジイド・淀野隆三譯
モンテエニユ論 臨時出版
二〇〇部限定 内五部愛藏家本一部壹百圓 一九五部讀書家本一部五圓
秋朱之介装


【2020年6月29日追記】

『書物』余月號(7号)第二年第四冊と同じくして、『書物』臨時號(昭和9年3月25日印刷・昭和9年4月1日発行、三笠書房)という小冊子も刊行されています。その内容は「アンドレ・ジイド特輯」。
まず見かけることのない冊子で、川内まごころ文学館に寄贈されたものを見ただけなのですが、アンドレ・ジイドにあまり関心がなかったので、内容について、ちゃんと記録をとっていませんでした。淀野隆三もかかわっていた冊子だったのか、要確認です。

 

『書物』蒲月號(8号)第二年第五冊

昭和9年4月25日印刷
昭和9年5月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

 

『書物』蒲月號(8号)第二年第五冊01

【p1】 広告
『世紀』五月號

 

『書物』蒲月號(8号)第二年第五冊02

【p31】 広告
ESSAI SUR MONTAIGNE
モンテエニユ論
アンドレ・ジイド著
淀野隆三譯
辰野隆博士序
秋朱之介装
二〇〇部限定版愈々
近日上梓

内豪奢本五部一部壹百圓
頒布本一九五部一部五圓
送料三十三錢
日本限定版倶樂部第二回
臨時贅澤刊本
三笠書房内 日本限定版倶樂部

 

『書物』蒲月號(8号)第二年第五冊04

【p88】三笠書房圖書目錄
アンドレ・ジイド・淀野隆三譯
モンテエニユ論 最新刊
二〇〇部限定 内五部愛藏家本一部壹百圓 一九五部讀書家本一部五圓
秋朱之介装

 

『書物』茘月號(9号)第二年第六冊

昭和9年5月25日印刷
昭和9年6月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

 

『書物』茘月號(9号)第二年第六冊 01

【p3】 広告
『世紀」六月号

この『書物』茘月號(9号)第二年第六冊には、ドストイエフスキイ研究特輯ということもあって、『モンテエニユ論』の広告はありません。

 

『書物』七月號(10号)第二巻第七號
昭和9年6月25日印刷
昭和9年7月1日發售
三笠書房(東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九)

【p124】 「日本限定版倶樂部消息」
夏、出版の暇な折專心限定版倶樂部の本に着手いたし度いと存じます。配本豫定としては、イザベルを七月十日迄に、惡の華を七月二十日迄に、モンテエニユは六月下旬迄に、マリイ・ロオランサン詩集を七月中旬迄に。

モンテエニユ論もロオランサンも五月中に校了になつてゐるのですが、紙や原色挿畫がをくれてゐる次第です。永いこと待つていただいただけのうめ合わせはきつと立派な美しい本にいたします。

特注した透かし文字入り手漉き紙の出来上がり待ちの段階のようです。

 

『書物』七月號(10号)第二巻第七號01

【p128】 フランス文學書 広告
モンテエニユ論 最新刊
アンドレ・ジイド 淀野隆三譯日本限定版倶樂部臨時出版二百部限定定價五圓送二一
これは二十世紀に生きて、新らしき時代の苦悩を最も眞摯に、身を以て體現せるジイドが、彼及び仏蘭西評壇の精神的祖先たるモンテエニユを論じた論文で、嘗ての切々たる人生探求者モンテエニユを新しく甦らせ、彷彿せしむるとともに、若き時代の代表的人性探求者としてのジイドその人の面貌を全面的に物語れる雄篇である。この評論の中に提示された所謂ジイド的問題は、モンテエニユを通じてその頂點に到達してゐる。從つてモンテエニユを、更にジイドその人を知らんとするものにとつて逸すべからざる大文章たることは言ふを俟たないであらう。淀野氏の譯文亦流麗にして雄勁、その獨自の思想とニユアンスとを傳へ得て餘するところがない。ここにこの決定譯を佛原書の限定版に倣ひ、越前特漉程村紙に透し文字入りとして、二百部の邦譯限定版となした。高邁なる批評的精神にあこがるる少數の選ばれたる讀者に贈る所以である。

プルウスト研究 近刊 シヤルル・ブロンデル 淀野隆三

 

二百部限定定價五圓」となり、百圓の豪奢本についての言及がなくなります。

佛原書の限定版に倣」った作りということになっていますが、 翻訳権や著作権については、不明です。

 

『書物』八月號(11号)第二巻第八號

昭和9年7月25日印刷
昭和9年8月1日發售
三笠書房(東京市神田區神保町三ノ六)

 

『書物』八月號(11号)第二巻第八號

【p41】 広告
アンドレ・ジイド著辰野隆博士序
淀野隆三譯二百部限定(實數一七〇部出來)
モンテエニユ論(日本限定版倶樂部臨時出版出來)
 これは二十世紀に生きて、新らしき時代の苦悩を最も眞摯に、身を以て體現せるジイドが、彼及び仏蘭西評壇の精神的祖先たるモンテエニユを論じた論文で、嘗ての切々たる人生探求者としてのジイドその人の面貌を全面的に物語れる雄篇である、この評論の中に提示された所謂ジイド的問題は、モンテエニユを通じてその頂點に到達してゐる。從つてモンテエニユを、更にジイドその人を知らんとするものにとつて逸すべからざる大文章たることは言ふを俟たないであらう、淀野氏の譯文亦流麗にして雄勁、その獨自の思想とニユアンスとを傳へ得て餘すところがない。ここにこの決定譯を佛原書の限定版に倣ひ、越前特漉程村紙に透し文字入りとして百七十部を邦譯限定となした。高邁なる批評的精神にあこがるゝ少數の選ばれたる讀者に贈る所以である。
定價一冊七圓(程村紙)五圓(鳥の子紙)送料二十一錢《既申込者には特に七圓の分を發送す》
申込所 三笠書房

七月号では「嘗ての切々たる人生探求者モンテエニユを新しく甦らせ、彷彿せしむるとともに、若き時代の代表的人性探求者としてのジイドその人の面貌を全面的に物語れる雄篇である」が、八月号で「嘗ての切々たる人生探求者としてのジイドその人の面貌を全面的に物語れる雄篇である」と文章が一部欠けてしまったため、文意がとりにくくなっています。

 

1933年10月の『書物』創刊号での告知以来、ようやく本が完成しました。
ただ、完成後に出された広告では170部限定で、本文用紙が「程村紙」のものが7円、「鳥の子紙」のものが5円となり、100円の「豪奢本」の文字は消えています。
170部が頒布本ということでしょうか。

 

【p130】 秋朱之介「篇什のちの文」
田園交響樂、モンテエニユ論、無からの創造、僕の彌次喜多、何れも大好評です。イザベルも今月は配本します。

尚近刊書として(略)アンリイ・ドラン著淀野隆三、高沖陽造譯「ニイチエとジイド」《九月刊三〇〇頁》が美裝刊行されます、特に本誌讀者の方の御註文を乞ひ度存じます。

 

『書物』九月號(12号)第二年第九冊

昭和9年8月25日印刷
昭和9年9月1日發售
三笠書房(東京市神田區神保町三ノ六)

 

『書物』九月號(12号)第二年第九冊01

【p53】モンテエニユ論広告
『書物』八月號p41のものと同じ。

 

『書物』九月號(12号)第二年第九冊02

【p130】フランス文學書 広告
『書物』七月號p128のものと同じ

 

     

手もとにあるアンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』(1934年6月20日上梓、三笠書房・日本限定版倶楽部)の書影も、参考までに並べておきます。
函は傷み、本文もだいぶシミがでている、状態のあまりよくないもので、すいません。
サイズは、菊倍判変型、紙装の表紙が200×292×17ミリ、本文は耳付きで三方裁ち落としておらず、天・地・小口とも表紙より1~2ミリほど小さくなっています。
文芸書のサイズというより美術書のサイズです。

 

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』函背 アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』外箱・表紙

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』の外函と紙装版表紙

この印象的な「ESSAI SUR MONTAIGNE」のタイポグラフィーは、プレイヤード出版(Editions de la Pléiade)『Essai sur Montaigne』(1929年)で、ルネ・ベン・サッサン(René Ben Sussan、1895~1988)がデザインしたものをそのまま流用しているようです。

『ESSAI SUR MONTAIGNE』の1929年プレイヤード版は、フランスのパリで作られた本ですが、装幀のルネ・ベン・サッサンは、エーゲ海に面したギリシャのサロニカ(Salonica、テッサロニキ・Thessaloniki)の出身。また、プレイヤード版を立ち上げたジャック・シフラン(Jacques Schiffrin、1892~1950)は、ロシア帝国(現アゼルバイジャンのバクー)出身です。国際的な才能がパリに集まっていたからこそ生まれた、20世紀ならではの出版物です。

ジャック・シフランは、1931年からポケット版のプレイヤード叢書(La Bibliothèque de la Pléiade)を立ち上げ、資金繰りに詰まったところを、アンドレ・ジイドの支援で、ガリマール書店で叢書を継続することになり、1940年までその編集を担当します。 しかし、 ユダヤ系であったため、1940年、反ユダヤ法でガリマール書店を解雇され、亡命をせざるをえなくなります。なんとかアメリカへ渡り、そこでドイツから亡命してきたKurt & Helen Wolff夫妻とともにニューヨークの出版社パンテオン・ブックス(Pantheon Books)を立ち上げます。20世紀の出版の正と負の歴史を生きた人物です。

 

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』表紙の折り目

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』表紙の折り目

 

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』口絵と扉

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』口絵と扉

 

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』序文と扉

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』序文と扉
辰野隆の序文の日付は昭和9年(1934)5月1日になっています。

 

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』章の冒頭

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』章頭のイニシャル文字02

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』章頭のイニシャル文字
章を区切るオーナメントも、ルネ・ベン・サッサン(René Ben Sussan、1895~1988)がデザインしたものをそのまま流用しているようです。
ただ、章の冒頭の朱色の「有」「通」のイニシャルに秋朱之介の存在を感じることができます。

こういう朱の使い方は、印刷の起原から行われてきた古典的なものですが、本という物体の持つ長所のひとつだと思います。

 

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』見開き

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』見開き
余白に朱で頭注のかたちで、モンテーニュからの引用ページを注記しています。

 

この日本版『モンテエニユ論』に、秋朱之介の色を見出すとしたら、本文用紙と章冒頭のイニシャルでしょうか。

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』透かし文字

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』章イニシャル01

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』章イニシャル02

これは誰の字なのでしょう。
秋朱之介は達筆な人でした。

 

アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』奥付

▲アンドレ・ジイド著・淀野隆三訳『モンテエニユ論』奥付

奥付によれば、

昭和九年六月十五日印刷
昭和九年六月二十日上梓

本文及表紙用紙は越前杉原商店手漉
愛藏家本五部の用紙は出雲安部榮四郎手漉、
装釘は秋朱之介、
本書は二百部を限定刊行す、
その内譯、
自第一番至第五番冊子は愛藏家本定價一百圓、
自第六番至第百六十番冊子は定價七圓
自第百六十一番至第二百番冊子は定價五圓

とあり、定価100円の愛藏家本も、5部作られたとあります。

しかし、上梓された1934年6月20日以降に刊行された『書物』誌での『モンテエニユ論』広告には、「豪奢本」「愛藏家本」「百圓」の文字はなく、ほんとうに作られたのか定かではありません。そこで、芹澤銈介の関与もあったのか、なかったのか。

そもそも、『モンテエニユ論』豪奢本が、この世界のどこかに、存在するのかどうか。

さらには、これを言ってはおしまい、なのかもしれませんが、そもそも、100円の豪奢本をつくるのに、アンドレ・ジイドの『モンテエニユ論』が、もっともふさわしいテキストだったのか、という疑問がくすぶっています。

 

秋朱之介が選ぶべき本は、ほかにあったのではないか、という思いが消えず、もやもやする本です。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

録画がたまったテレビ番組をあれこれ見ていたら、佐藤良明のアメリカ文化についての講義があって、20世紀半ばに、エルヴィス・プレスリーとビートルズの音楽が、世界的な現象として、熱狂をまきおこしたことについて語っていました。
そのことを100年、200年のスパンで俯瞰的に振り返ったとき、それぞれの生まれた場所の果たした歴史的役割を補足的に語っていて、興味深かったです。

産業革命で織物業の機械化が進み、綿花の需要が急増して、ミシシッピ・デルタをはじめアメリカ南部のプランテーション(先住民を追い出して作られた)に綿花が植えられ、アフリカ系の奴隷が安価な労働力として集められます。

エルヴィス・プレスリーが生まれたメンフィスは、アメリカ内陸部の綿花の最大の集積地であり、メンフィスやニューオリンズに集められた綿花は、19世紀には最大の富を生む産業ルートであった大西洋航路で、その綿花の最大の受け入れ港、イギリスのリヴァプールに運ばれていたという歴史があったという話でした。

メンフィスとリヴァプールを結ぶものがあったからこそ、メンフィスからエルヴィス・プレスリーが生まれ、リヴァプールからビートルズが生まれた、とも受け取れそうな話でした。

もちろん、メンフィスとリヴァプールのつながりから、エルヴィス・プレスリーとビートルズの「熱狂をまきおこす」力が何故生まれたか説明できないのですが、では、なぜニューヨークやロンドンからエルヴィス・プレスリーとビートルズが生まれなかったのかという設問も、また、可能な気がします。

 

リヴァプールというと、デフ・スクール(Deaf School)が、まず思い浮かぶくちです。ビートルズのように世界中に熱狂をまきおこすムーヴメントをつくったわけではないですが、1980年前後のリヴァプールから生まれた音楽も大好きでした。
第308回」で紹介したピート・フレイム(Pete Frame)の描くファミリー・ツリーでも、Deaf Schoolを起点にした「Liverpool 1980: Eric's Progeny」は、隅から隅まで楽しめます。

デフ・スクールを一番最初に聴いたのは、NHKラジオの「若いこだま」だったか、渋谷陽一のラジオ番組だったのは記憶にあります。
曲はもちろん「TAXI!」(1977年、Warner)です。こういうアートスクール系の芝居がかった曲は好きです。

 

DEAF SCHOOL「TAXI!」(1977年、Warner)01

DEAF SCHOOL「TAXI!」(1977年、Warner)02

▲DEAF SCHOOL「TAXI!」(1977年、Warner)

SIDE TWOの「LAST NIGHT」は、「From the forthcoming album from Deaf School(デフ・スクールの新作アルバムから)」とありましたが、「TAXI!」のB面曲としては弱くて、Deaf Schoolの2ndアルバム『Don't Stop The World』には、未収録でした。

2003年の2枚組CD編集盤、Deaf School『What A Way To End It All (The Anthology)』などには収録されています。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

313. 1933年の秋朱之介装釘・梶井基次郎『檸檬』(2020年6月10日)

1933年の秋朱之介装釘・梶井基次郎『檸檬』

 

出版の常として、秋朱之介(西谷操、1903~1997)にも、いくつもの企画だけに終わった未刊行本があります。

秋朱之介『書物游記』(1988年、書肆ひやね)の「書目一覧」でも、《『檸檬』梶井基次郎著 昭和八年刊行予告(未刊)・稻門堂書店発行・限定五〇〇部・装釘秋朱之介》とあったため、梶井基次郎(1901~1932)の『檸檬』も、そうした未刊行本の1冊かと残念に思っていました。

ところが、秋朱之介が装釘した『檸檬』は、まちがいなく刊行されていました。きちんと探しておくべきでした。
先人の仕事も、文字通り受け取るだけでなく、時には疑うべきでした。

ここでの「稲門堂書店」は「稲光堂書店」のまちがいです。同じ頃、秋朱之介が準備中だった内田百閒『冥途』再劂版(1934年1月1日発行、三笠書房)の初版の版元が稲門堂書店だったため混同したのではないかと思われます。
『書物游記』は、秋朱之介を調べる上でいちばん頼りになる本ですが、「未刊」とあっても、改めて確認する必要がありそうです。

昭和8年(1933)12月1日発兌、武蔵野書院と稲光堂書店が連名で上梓した梶井基次郎『檸檬』は間違いなく存在し、その装釘は秋朱之介と考えられるのです。

状態のあまりよくない裸本ですが、その1933年稲光堂書店版『檸檬』を入手することができました。
ほんとうは、函付きの本なので、装釘という観点からも、函付きのものを紹介するのが筋なのですが、秋朱之介の装釘した『檸檬』がまちがいなく存在したということを、ここで書いておきたいと思います。

もっとも、1933年稲光堂書店版『檸檬』には、秋朱之介の名前はどこにもありません。
なぜ、この版が、秋朱之介の装釘と言えるのでしょうか。

 

その根拠は、1933年稲光堂書店版『檸檬』と全く同じ昭和8年(1933)12月1日に刊行された雑誌『書物』臘月號・第一年第三冊(三笠書房)に掲載された広告です。
『書物』は昭和8年(1933)から昭和9年(1934)にかけて「秋朱之介編輯」と冠して刊行されていた書物全般についての雑誌です。

 

これがその『檸檬』の広告です。

1933年12月梶井基次郎小説集《檸檬》広告

 梶井基次郎小説集《檸檬》

若くして死んだ天才梶井基次郎が唯一の創作集である。今日の日本の文壇に彼程の偉大な作品をもつ作家が幾人ゐるか。横光利一や雜誌作品を背景とした新作家達に絶讃され、日本の文壇からその死を惜まれなた大きな作家、梶井君の作品がその死後の今日あらゆる讀書階級から熱望されてゐるのを見ても、その作品が如何にすばらしいかは今更ここに喋々する迄もない。
作品そのものが證明してゐる。斯ふした作品こそ美しい書物として永久に保存さるべき性質のものであつて。當書店はその装釘を書物編輯者秋朱之介氏に依嘱しこゝに自家藏版五百部を限定として眞に梶井君の作品を愛する讀書家に問はんとす。幸ひ江湖諸士の讃助が得らるるならば刊行者としてもまた地下の梶井君としても之以上のよろこびはないであらう。終りに本書の装釘をこゝろよく引受けて下さった、友人秋氏に對して厚く御禮申し上げる。《發行者 三瓶勝》

*梶井基次郎著《檸檬》限定五百部各册番號入、秋朱之介氏装新四六版局紙表装定價一圓五十錢 發行所東京市淀橋區戸塚町一ノ五一二、稻光堂書店、振替東京三六一一二番、電話牛込四九三六番

稲光堂書店の三瓶勝が「當書店はその装釘を書物編輯者秋朱之介氏に依嘱」「本書の装釘をこゝろよく引受けて下さった、友人秋氏に對して厚く御禮申し上げる」と『檸檬』の広告で書いています。本に名前を載せられなかったことへの埋め合わせでしょうか。

この広告の記述に疑いを差し挟む理由はどこにもないので、1933年の稲門堂書店版『檸檬』の装釘は秋朱之介がしたということで間違いないでしょう。

 

同じ『書物』臘月號の編集後記「字幕」には、秋朱之介本人による次の記述もあります。(この「字幕」の文章は、秋朱之介『書物游記』p67でも読むことができます。)

この節書物装釘の依頼が多くみなお斷りしてゐますが、稻光堂刊、梶井基次郎著檸檬は近所の本屋の主人が直接來社されての懇望に斷りかねて、引受けることにした、内容もすばらしく立派なもの故愛書家に一本の購讀をすゝめる。

この言葉を文字通り受け取っていれば、『檸檬』が「未刊」だとは考えなかったのに、と反省しています。


秋朱之介は「近所の本屋の主人」と書いていますが、当時の稲光堂書店と三笠書房の住所は次のとおりで、
  稲光堂書店 東京市淀橋區戸塚町一ノ五一二
  三笠書房  東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九(早大グランド上)
ご近所だったことも大きかったのでないかと思われます。

 

また、秋朱之介『書物游記』収録エッセイで、1980年代に書かれた「美しい本について」に、次のような記述があります。

佐藤春夫の本は、ダンピングに出ない本はない位売れなかった。『車塵集』なども、高田馬場の古本屋の店先に積んであったのを、ボクが全部買いしめたことがある。(p198)

単に収集自慢のように思われそうな記述ですが、佐藤春夫(1892~1964)の『車塵集』は、小穴隆一(1894~1966)の典雅な装釘で知られ、昭和4年(1929)に武蔵野書院から出た本です。
つまり、この記述にある「高田馬場の古本屋」は稲光堂書店で、そことの武蔵野書院との関係も推測できる記述になっています。

 

『書物』臘月號・第一年第三冊(1933年12月、三笠書房)表紙

▲『書物』臘月號・第一年第三冊(1933年12月1日發售、三笠書房)表紙
この表紙の猫の絵については「第238回 1934年の木下杢太郎『雪櫚集』(2018年7月12日)」でも書いています。ご参照ください。


梶井基次郎と秋朱之介が会ったことがあったか、という問題もあるのですが、これについては、今のところ分かりません。

ただ、昭和8年(1933)9月の三笠書房の創業から翌年の昭和9年にかけて、秋朱之介は、梶井基次郎『檸檬』出版のために奔走していた淀野隆三(1904~1967)と縁があったことも、秋朱之介の『檸檬』装釘につながったのではないかと考えています。

昭和8年(1933)9月の三笠書房創業時そして『書物』創刊時から、秋朱之介は、自ら立ち上げた日本限定版倶楽部の本として、アンドレ・ジイド著、淀野隆三訳『モンテエニユ論』の豪奢本を準備していて、昭和9年(1934)6月20日に発行するまで、紆余曲折あったという経緯があります。

 

秋朱之介装釘の『モンテエニユ論』について書きはじめると、話が横道にそれて長くなりそうなので、別の機会に書くとして、ここでは、梶井基次郎『檸檬』の刊行を簡単に振り返り、1931年版と1933年版の違いを比較しておきたいと思います。

1931年(昭和6年)5月15日、梶井基次郎『檸檬』、武蔵野書院から刊行。 生前唯一の刊行書。
紙装ハードカバー・函入り。梶井基次郎は結核のため兵庫で療養中。
梶井の友人の三好達治(1900~1964)や淀野隆三らが出版のため働き編集を手掛ける。

1932年(昭和7年)3月24日、梶井基次郎没。

1933年(昭和8年)12月1日、武蔵野書院・稲光堂書店から、梶井基次郎『檸檬』刊行。
本文は1931年版と全く同じままで、 表紙・扉・奥付だけを変えた版。装釘は秋朱之介。
フランス装・三方アンカット・函入り。
【2020年6月11日追記】この出版に連動するように、淀野隆三は、『文藝』12月号(1933年12月1日、改造社)に、梶井基次郎の未完の小説「瀨山の話」(淀野隆三編)、 『文學界』12月号(1933年12月、文化公論社)に「梶井基次郎に就いての覚書」を発表しています。

1940年(昭和15年)12月15日、十字屋書店から、梶井基次郎『檸檬』刊行。
1933年稲光堂書店版をもとにした版。

 

1931年版の奥付

1933年版の奥付

▲1931年版(上)と1933年版(下)の『檸檬』奥付
1931年版の写真図版は、昭和47年(1972)の近代文学館『精選 名著復刻全集』(ほるぷ)のものを使用しました。(以下同)

1931年版と1933年版で、武蔵野書院の発行・前田武、印刷の櫻井專吉は共通しています。
1931年版には、検印が貼られていません。
1933年版には、稲光堂書店の発行・三瓶勝の名前が加わります。著者検印には「梶井」と認め印が押されています。

『書物』臘月號・第一年第三冊(1933年12月、三笠書房)に掲載された『檸檬』広告は、三瓶勝の名前で書かれていました。
『書物』への広告では「限定五百部各册番號入」とありますが、ナンバリングはされていません。


WEB上で画像を検索すると、ヤフオクに出品されていたものや日本の古本屋サイトの画像などで、戦前に刊行された『檸檬』の画像を見ることができます。

そのなかに、不思議な1冊がありました。
showhanngg55さんのブログ『洋楽と脳の不思議ワールド』に《梶井基次郎創作集「檸檬」初版・・・The Lemon Tree》という回があって、そこに、昭和8年12月1日発行の『梶井基次郎創作集 檸檬』武蔵野書院・稲光堂書店版の写真が掲載されています。
同じ昭和8年12月1日発行でも、わたしの手もとにあるものとちょっと違います。
表紙に直にタイトルを印刷でなく、題簽が貼られています。子持ち罫のなかに、右→左の横書きで、
 郎次基井梶
  集作創
 ん も れ

とあり、扉の誤植が修正され、奥付では、検印紙を使って「稲光堂書店」の名前を消してあります。
同じ昭和8年12月1日発行でも、異版が存在するようです。

 

また、1940年に、十字屋書店から3番目の『檸檬』が刊行されているのですが、その奥付では、1933年版の「印刷 昭和八年十一月二十五日」「發行 昭和八年十二月一日」という日付と、「昭和十五年十二月十五日第二刷」「昭和十五年十二年二十日發行」という、昭和8年と昭和15年の日付が併記されています。1931年版ではなく、1933年版の「第二刷」ということなのでしょうか。
タイトルに使われている文字は、1931年版の梶井基次郎書のものでなく、1933年版の宋朝体の活字がそのまま使われています。
発行者は、武蔵野書院の前田武と十字屋書店の酒井嘉七、印刷は、 櫻井專吉でなく、塚田仁に代わっています。
検印の位置に「著編者検印証・東京むさし乃書院刊行書」というシールが貼られています

 

【2020年6月26日追記】

『三田文學』春季号・復刊第一号(1985年5月1日発行、三田文学会)を読んでいましたら、井伏鱒二と安岡章太郎の特別対談「昭和初期の作家たち」に次のような発言がありました。

安岡 そのころ(昭和三年頃)梶井基次郎はもう『檸檬』は出していたわけですね。
井伏 『檸檬』はその後に出したでしょう。女子大の前通りの角の古本屋(武蔵野書院)が出版したんです。豊坂のまがり角の家でした。あれはみんな案外注目したようですよ。
安岡 『檸檬』ぐらいの作品だと、かなり注目されるでしょう。
井伏 三好達治が、梶井をよほど買っていたようですね。二人、仲がよかったようで、梶井が亡くなったら、三好は急にショボンとした。

井伏鱒二にとって、武蔵野書院は、目白台の「古本屋」として記憶されていたようです。
いわゆる出版社の本ではなく、「古本屋」が出版した本の系譜をたどると、ちがった景色が見えるような気がします。

 

1931年版『檸檬』外箱と表紙、1933年版の『檸檬』表紙

▲1931年版『檸檬』外函と表紙、1933年版の『檸檬』表紙

1931年版は、局紙を表紙にしたハードカヴァー上製本。題と著者名は梶井基次郎の書。

1933年版は、局紙を表紙にしたフランス装。刊行当時は、ぱりぱりのまっさらな局紙の表紙で、単純な美しさがあったと思います。
右→左の横書きで印刷された著者名・タイトルを子持ち罫で囲み、思い切り左上に寄せています。表紙では、「檸檬」ではなく「れもん」。
1933年版は、天・地・小口の3方を裁ち落としていないため、1931年版よりサイズが大きくなっており、新刊で読むときにはペーパーナイフが必要な本だったと思われます。

1931年版 本文125×182ミリ 表紙130×188ミリ(四六判)
1933年版 135×200ミリ

 

1931年版『檸檬』表紙

1933年版『檸檬』表紙

▲1931年版(上)と1933年版(下)の『檸檬』表紙
写真の1933年版は痛みが激しくて見分けにくいですが、背には「れもん」とだけあります。

showhanngg55さんのブログに掲載された1933年版は、表紙も差し替えられていて、右→左の横書きで印刷された著者名・タイトルを子持ち罫で囲んだ題簽が貼られています。

 

1933年版のフランス装、表紙の折り込み

▲1933年版のフランス装。表紙の折り込み。

 

1931年版『檸檬』扉

1933年版『檸檬』扉

▲1931年版(上)と1933年版(下)の『檸檬』扉
1933年版の扉では「武蔵野書院」が「武蔵野書店」と誤植になっています。
showhanngg55さんのブログに掲載されたものでは、その個所が「武蔵野書院」と訂正されています。修正版がつくられたようです。

表紙や扉では、右→左の横書きですが、1933年版の外函の写真を見ると、函に貼られた題簽には、左→右の横書きで、表紙と同じ書体で、
 梶井基次郎
  創作集
 れ も ん

とあります。

函の背文字は、「梶井基次郎 檸檬」とあり、背の「檸檬」の活字は、扉と同じ、宋朝体。
この書体を選んだのは、秋朱之介と思われます。

この宋朝体の「檸檬」は、昭和15年(1940)の十字屋書店版『檸檬』第二刷でも、そのまま同じものが使われています。

 

1931年版「檸檬」見出し

1933年版「檸檬」見出し

▲1931年版(上)と1933年版(下)の「檸檬」見出し
1933年版は面付けを間違ったのでしょうか。右ページに「檸檬」のタイトルがあります。

 

1933年版の「檸檬もくろく」

▲1933年版の「檸檬もくろく」
1933年版では、目次の前のタイトルが「檸檬」から「檸檬もくろく」になっています。


以上が、1931年版(武蔵野書院)と1933年版(武蔵野書院・稲光堂書店)との主な違いです。

 

目次と本文は、同じものが使われて、ページ数も全く同じです。

1931年版『檸檬』目次

1933年版『檸檬』目次

▲1931年版(上)と1933年版(下)の『檸檬』目次
目次は、1931年版と1933年版ともに、同じ版を使っています。

1933年版は、三方を裁ち落としていないので、1931年版に比べ、特に天側の本文余白が広くなっています。

 

1931年版『檸檬』6・7ページ見開き

1933年版『檸檬』6・7ページ見開き

▲1931年版(上)と1933年版(下)『檸檬』6・7ページ見開き
6ページから271ページまで、1931年版と1933年版は、同じ版を使っていると考えられます。

 

1933年版『檸檬』270・271ページ見開き

1933年版『檸檬』270・271ページ見開き

▲1931年版(上)と1933年版(下)『檸檬』270・271ページ見開き

111ページの「雪後」文末の日付が、1931年版も1933年版も「大正十五六月」で、「年」を加える修正もされていません。

 

1933年版『檸檬』が秋朱之介装釘のものだと知ると、函付きのものも手にしてみたいという欲がでてきます。

 

秋朱之介装釘の『檸檬』が出た10日後、昭和8年(1933)12月10日には、 秋朱之介装釘の中原中也訳『ランボオ詩集』(三笠書房)も出ています。

この時期の秋朱之介は、文学の神様に愛されて、何か運も引き寄せていたのでしょうか。
昭和を代表する、二人の若くして亡くなった「青春」の作家・詩人の本を装釘した人は、 ほかにいたのでしょうか。

 

あれこれ書いてきましたが、今回言いたいことはだたひとつです。

昭和8年(1933)12月1日発行、武蔵野書院・稲光堂書店版の梶井基次郎『檸檬』の装釘者は、秋朱之介だった。
この事実に尽きます。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

ドニー・ハサウェー(Donny Hathaway、1945~1979)

ドニー・ハサウェー(Donny Hathaway、1945~1979)のライヴ音源を。

「ダニー」でなく「ドニー」と書くのは、私が、ピーター・バラカン『魂(ソウル)のゆくえ』(1989年7月25日発行、新潮文庫)を読んで、ドニー・ハサウェーを聴き始めたからです。

『魂(ソウル)のゆくえ』では、ドニー・ハサウェーの『ライブ(LIVE)』(1972年)、『エクステンション・オブ・ア・マン(Extension of A Man)』(1973年)の2枚のアルバムを選んで解説していて、「このドニーの二枚のアルバムは現在はヨーロッパ盤が入手しやすいだろう」とあるのですが、手もとにあるアナログ盤は、この本を読んで買ったものなので、まさしくそのドイツ・プレスのATLANTIC/ATCO盤でした。

そのころ、鹿児島のレコード屋さんでも、ドニー・ハサウェイのこの2枚のヨーロッパ盤は買うことができたのでした。

1989年の暮れには、ダニー・ハサウェイの全アルバムが日本でもCD再発されて入手しやすくなりました。
1989年はドニー・ハサウェー再評価の年だったようです。

「数あるライヴ・アルバムの中でも最高の一枚」と評されるドニー・ハサウェイの『ライブ』ですが、2004年に、未発表音源を含む新編集CD、Donny Hathaway『THESE SONGS FOR YOU, LIVE!』(ATLANTIC/RHINO)がリリースされ、2010年のCD4枚組ボックスDonny Hathaway『Someday, We’ll All Be Free』(WARNER MUSIC FRANCE)と、2013年のCD4枚組ボックスDonny Hathaway『Never My Love: The Anthology』(ATCO/RHINO)に収録されたライヴ音源で、改めて、そのライヴのすばらしさに聴き惚れてしまいます。

これらのLPやCDに収録されているのは、1971~1973年のライヴです。
「What’s Going On」「You’ve Got A Friend」「Jealous Guy」「To Be Young, Gifted And Black」「A Song For You」「I Love You More Than You’ll Ever Know」といったカヴァー曲や、「The Ghetto」「Someday We’ll All Be Free」といった自作曲のタイトルの並びを見ただけでも、そのライヴが生み出す良い雰囲気の波が心地よく寄せてくる一方、この50年、何が変わり、どんな良いことがあったのかという思いにも沈みます。

50年近くたっても、その歌が「生」であり続けていることに、畏怖を感じます。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

312. 1973年の『詩稿』24(2020年6月2日)

1973年の『詩稿』24 表紙

 

古本屋さんに、『詩稿』24号(1973年8月20日印刷発行、印刷 やじろべ工房)がぽつんと1冊あったので、ありがたく入手しました。
井上岩夫編集発行の『詩稿』は、持っていない号を見つけると、うれしい雑誌のひとつです。
『詩稿』については、このサイトでも、何度か取り上げています。

第258回 1966年の『詩稿』10号(2019年2月22日)
第259回 1961年の『詩稿』1号(2019年2月24日)
第302回 1973年の『詩稿 25』と1976年の『詩稿 32』(2020年3月7日)

こうした雑誌を揃えるには、『詩稿』の関係者にあたるのがいちばんで、本気の収集家・研究者なら、ツテをたどって、そうすると分かってはいるのですが、古本屋さんで、ぽつぽつと、ゆっくり見つけるのが、ちょっとした楽しみになっています。

こうした詩誌の基本は、売り買いされるものではなく、贈り贈られる本ということなので、贈り贈られた人たちのもとに残っているのですが、鹿児島に「古本屋・古書店」という文化が続いていってほしくて、そこで買いたい、という気持ちがあります。

 

『詩稿』24号は、「夏目漠特集号」でした。

『詩稿』24目次

『詩稿』24 目次

巻頭詩 夏目漠「魚を食べる」 目次
夏目漠特集
夏目漠 作品十五篇 ―一九七三―
 「壜」「樹」「時間」「町に出る」「それでも」「解体のすすめ」「死せるもの」「死のすすめ」 
 「君の革命」「三島さん」「正確に、正確に」「私は愛す」「強きもの」「むつごろう」「影」
夏目漠 腐土と陽炎 ―管理社会下の現代詩―
児玉達雄 夏目漠論
井上岩夫 瞑想と饒舌の間 ―夏目漠論―
 一、わらいからの距離
 二、瞑想と饒舌の間」
福石忍 「必笑仕掛人」への期待 ―夏目さんの横顔―
井上岩夫 詩「云勿議」
潮田武雄 詩「華麗な殉死」
児玉達雄 詩「鬼が歌った・M市まで四十キロ」
大山芳晴 詩「かげぼうし」
真木登代子 短歌「雑詠五十首」
島尾敏雄 「夢日記」 昭和四十三年三月六日~十月十七日
井上岩夫 詩「止まるな丸田」
中山朋之 詩「無精卵」
井上岩夫 「後記」

 

井上岩夫は、「後記」で、「夏目さんについては、書き手をもっと準備すべきであったようだ。この人はもっとよくみえる大人たちよって語り直され、語り継がれることになろうが、詩稿がその先鞭をつけたことになれば目的は達せられたとしたい。 」と書いています。

原稿が集まってみると、悪くはないのだけど、思っていたのと違う仕上がりに戸惑ってしまう、この感じは分からないではありません。

夏目漠(1910~1993)より20歳下の児玉達雄(1929~2018)、福石忍(1930~1989)の文章が、井上岩夫(1917~1993)が思っていたほど、「夏目漠特集」にがっちり合わなくて――合わないことは、それはそれで貴重です―― 執筆者に1900年代生まれと同世代の1910年代生まれの人も加えていたら、もっといい特集になったと思います。

同じく、「後記」で、「人々の忘れた頃」、印刷仕事の「夏枯れどき」8月にでる詩誌と、自嘲しています。

 

24号前後の号の発行年月日とページ数は、

『詩稿』22号「児玉達雄特集号」 1971年9月18日発行・100ページ

『詩稿』23号 1972年10月10日発行・72ページ

『詩稿』24号「夏目漠特集」 1973年8月20日発行・122ページ

『詩稿』25号 1973年12月27日発行・78ページ

それまで、年1回ペースだったものが、25号は、24号から4か月と短い間隔で出ていますが、『詩稿』24号と25号の間に起こった1973年暮れのオイルショックが誌面構成に反映しています。

25号の「後記」で、井上岩夫は、「紙が貴重品となってしまったため、やむなく詩も二段に組んだ。印刷屋の私にしてみれば、こんなとき貴重な紙を私ごとに使うことに無謀なムダを意識しないわけにいかないが、冊誌を作るというただそれだけの楽しみが、なかなかソロバンを受けつけてくれない。」と記しています。

古い雑誌は、こうした形でも時代を写しています。

 

古本屋さんでは、『詩稿』24号と、重ねて置いてあって、たぶん同じ処から出てきたと思われる、『天秤宮』創刊号~第3号も、一緒に買い求めました。

 

『天秤宮』創刊号~第3号

鹿児島の宮内洋子が主宰する文芸同人誌。
鹿児島県立図書館には、2019年10月の第49号まであり、30年目の今年、第50号が出るのでしょうか。

詩・評論・エッセイ『天秤宮』1990. 1. 創刊号(1990年1月18日発行)
 発行者 宮内洋子

詩・評論・エッセイ『天秤宮』第2号(1990年11月発行)
 編集責任者 木佐敬久 発行者 宮内洋子

詩・評論・小説・エッセイ『天秤宮』第3号(1992年2月10日発行)
 編集責任 木佐敬久 宮内洋子
 編集協力 久井稔子
 発行 天秤宮社

『天秤宮』創刊号~第3号では、当時NHK鹿児島にアナウンサーとして赴任していた木佐敬久の長篇評論「宮沢賢治とシベリア出兵」が誌面の半分を占めていて、創刊号に第1章(100枚)、第2号に第2章(400枚)、第3号に第3章(250枚)が掲載されています。

第4号に第4章が掲載されているようで、一緒にあれば、言うことなかったのですが、そんなにうまく話は進みません。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

Filling Time with Killing Time ジャケット

Filling Time with Killing Time CD

マサカー(massacre)のアルバム『Killing Time』(1981年)がグループ名の由来かと思われる、キリング・タイム(Killing Time、ひまつぶし楽団)の、ベストアルバム『Filling Time with Killing Time』(1989年、SONY)です。

drumsの青山純(1957~2013)は亡くなりましたが、このグループの現在形に近いものを小川美潮の音楽で聴くことができるのは、幸せなことだと思います。

ジャケットにマヤ・ウェーバー(Maja Weber)の絵が使われているのも素敵でした。
マヤ・ウェーバーも2011年に亡くなったそうです。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

311. 1951年の日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版(2020年5月31日)

1951年の日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版01 1951年の日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版02

このタイプの本としてはよく売れたのでしょうか、割とよく見かける3巻本です。
1948~1949年の日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版全3卷(創元社)。手もとにあるのは、1951年に出た再版です。
初出は『中央公論』連載。初版は、1929年(昭和4)新潮社刊の上下2巻。

秋朱之介(西谷操、1903~1997)に関連して、堀口大學(1892~1981)と日夏耿之介(1890~1971)の関係に関心があったので入手したものです。
堀口大學は、秋朱之介にとって「詩父」であり、堀口大學の詩集も何冊か装幀・発行しています。また、日夏耿之介訳のエドガー・アラン・ポー「大鴉」の刊行も準備したこともあり、2人は、秋朱之介にとって、尊敬する先達でした。(「秋朱之介」という名前も、明らかに「日夏耿之介」を意識しています。)

第一書房の長谷川巳之吉(1893~1973)が刊行した詩誌『パンテオン』(Panthéon・汎天苑、1928年4月~1929年1月)は、堀口大學と日夏耿之介の2人(当初は西條八十も)を中心にした詩誌で、秋朱之介も「西谷操」の名で、「括弧」(パンテオン第4号、1928年7月3日発行)、「鎌倉の秋」(パンテオン第9号、1928年12月3日発行)の2編の詩を発表しています。

堀口大學と日夏耿之介は、詩の同志として、この『パンテオン』を共同で編集していたのですが、何か決定的な決裂があって、1929年1月3日発行の第10号で、『パンテオン』は廃刊になってしまいます。

その後継誌として堀口大學を中心として刊行された『オルフェオン』創刊号(1929年4月3日発行、第一書房)には、広告も含めて日夏耿之介の名前はありません。


長谷川巳之吉(編輯兼發行人)は、「パンテオン廢刊に就いて」という短い文章を『オルフェオン』創刊号巻末に寄せています。

パンテオンは突如廢刊の止むなきに到りました。出來ることなら大きな終刊號を出して此の雜誌の終りを飾りたいと思ひましたけれども遂に私の希望は空しくなつてしまひました。パンテオンがどうして廢刊になつたかといふ事に就いては他日ゆつくりとした時に書かうと思つて居ります。
堀口氏から右の事情を話された時、二人の眼はお互に涙で曇つて居りました。私は相變ず忙しい爲めにそれをつぶさに書いてゐる時間がありません。

また、堀口大學も『オルフェオン』創刊號の編集後記「字幕」で次のように記しています。

 メタフィジックな理由によつてパンテオンは出して行けなくなつた。
 殘念なことだが仕方がなかつた。
 終刊號を出したいと云ふ第一書房の希望もあつたが、これまた同じ理由が許さなかつた。 
 以上は舊パンテオン同人の一人として、舊パンテオンの讀者に申し上げて置く。
      *
 今度、私が編輯して、オルフェオンを出して行くことになつた。これはパンテオンのつづきではない。別のものとして見ていただきたい。
(後略)

「メタフィジックな理由」とは、どんな理由だったのでしょう。「言えない」ということを言う表現なのでしょうか。
その理由によって、堀口大學と日夏耿之介の詩誌『パンテオン』は廃刊になりました。

 

日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版での、堀口大學についての記述を読むと、2人を知る秋朱之介(西谷操)は、2人の訣別をどう思っていたのだろうと思います。

 

【2020年6月10日追記】

昭和4年(1929)1月『パンテオン』での、堀口大學と日夏耿之介の訣別以後、どちらかの門下かと言えば、秋朱之介は堀口大學のもとにいったと考えられます。それでも、昭和8年(1933)から昭和9年にかけて、秋朱之介が創業したばかりの三笠書房で制作編集した『書物』誌では、もちろん堀口大學の存在が目立つのですが、『書物』葭月號・第一年第二冊(昭和8年11月1日發售、三笠書房)には、黄眠道人「訳本大鴉縁起」、『書物』八月號・第二巻第八號(昭和9年8月1日發售、三笠書房)には、日夏耿之介「黄眠病窓雜筆」も掲載されています。

秋朱之介は日夏耿之介とのつながりを保って、日夏耿之介訳『大鴉』をつくることを諦めていません。実現しなかったのが残念です。


『パンテオン』第10号・最終号(1929年1月3日發行、第一書房)表紙

■『パンテオン』第10号・最終号(1929年1月3日發行、第一書房)表紙
編輯責任者 長谷川巳之吉

『オルフェオン』創刊号(1929年4月3日發行、第一書房)表紙

■『オルフェオン』創刊号(1929年4月3日發行、第一書房)表紙
堀口大學編輯
編輯兼發行人 長谷川巳之吉
『オルフェノン』創刊号には、西谷操(秋朱之介)の詩「ミヤよ」掲載。

 

『改訂増補 明治大正詩史』(卷ノ上) 表紙

『改訂増補 明治大正詩史』(卷ノ上) 表紙
昭和23年12月25日初版発行
昭和26年3月25日再版発行
巻ごとにビロード生地の表紙クロスの色を変えています。

『改訂増補 明治大正詩史』(卷ノ中) 表紙

『改訂増補 明治大正詩史』(卷ノ中) 表紙
昭和24年5月15日初版発行
昭和26年3月25日再版発行

『改訂増補 明治大正詩史』(卷ノ下) 表紙

『改訂増補 明治大正詩史』(卷ノ下) 表紙
昭和24年11月30日初版発行
昭和26年3月25日再版発行

 

日夏耿之介『明治大正詩史』改訂増補版で、堀口大學についての言及を引用してみます。
言わば、明治大正の詩の正史として目論まれた書なのでしょうが、かつての同志への言葉には、強烈なものがあります。

(卷ノ中)p325
 當時(大正はじめ)は詩を作る者眞に稀少であつて、たとへば、西條八十は牙籌に匿れ、堀口大學は異邦に情痴を漁り、生田春月は歌はず、竹友藻風書堆裡に埃となり、出野青煙肺を病み、今井白楊、三富朽葉變に水死し、佐藤春夫は散文に奔り、富田碎花風の如くに去來するのみ、木下杢太郎考古に耽り、茅野蕭々育英に韜晦し、服部嘉香壇を退き、加藤介春西埵に下り、高村光太郎彫塑に轉り、福田夕咲飛州に去り、人見東明、水野葉舟亦詩林を遁れ、詩人の影寥々枯燥して秋の葉の如くであつた。

(卷ノ中)p342
そのスバル派は明治最終期の詩壇を代表するに到り、白秋、杢太郎、光太郎、秀雄、茂(栗山)、青煙、藻風、春夫、大學等こゝに育つた。

(卷ノ中)p371注
(永井荷風の)奢侈(おごり)一篇の如き、よしんば譯出上に不備があつたにせよ、後の堀口大學の譯業などはその足下にも及ばぬ文語の本質的驅使があつた。

(卷ノ中)p384~386
(与謝野寛の)「リラの花」、(永井荷風の)「珊瑚集」に次いで出た譯集は、堀口大學の「昨日の花」(大正七年)で、ヴェルレエン、サマン、グウルモン、ラオオル、フォール、ジヤム、クロオデル、ヂュアメル、モレアス等十八詩人六十餘篇の佛詩を収め、普通語學力の正確に於ては嶄然儕輩をぬきんでていたが、日本語の使用に根元に於て幾多の危かしさがあつた。古語文語が全然板についてゐないのである。日本の文語の意味以上のニュアンスを語る準備が全くないのである。 (略)

明晰な叙景とまじらつて、およそ當時の譯詩に行はれた、蠟を喰むやうな死語の行列からは、大部分は脱出してゐる。大學の譯業はこの一卷にはじまつて打ちつゞく數卷に文語、口語を交へて、あらゆる諸傾向を移植したが、彼の貢獻の反響は善悪ともに、次第にその後の青年詩人に見えはじめた。

(卷ノ中)p385注
堀口大學の文語は、譬へば日本語の巧みな洋人が源氏物語の通讀にやつと成 したといふやうな危なかしい安心があるにとどまるが、その口語作の譯詩はそれに比べると杳かに堂に入つてゐた。

 

(卷ノ下)p1
享樂文學の傾向は、詩文壇兩面に鮮かな象(かたち)をあらはし、(略)春夫、藻風、青煙、好母、晶川、大學等の文學少年もこゝに集つた。

(卷ノ下)p72
大正十年三月茅野蕭々、北原白秋、三木露風、山宮允、竹友藻風、西條八十、日夏耿之介、やゝ遅れて柳澤健、堀口大學等が詩話會を退いたのはこの所因に基いた。

(卷ノ下)p89
(白鳥)省吾一輩が、齒牙にも掛けずろくろく論評も加へない詩人(その中には柳澤健、竹友藻風、茅野蕭々、堀口大學、その外が居る)の中には光彩ある詩感の所有者が夥しくゐる。一例をあげて斷言を下して見るならば、省吾が今日迄の作品と堀口のそれを比較するなら、その「着實なる現實味」に於て、省吾が不熟不徹底な民主思想の説明をくり返してゐるに對し、大學がその主觀を大膽に赤裸に歌うて憚らない(略)點で寧ろ少々卓れてゐる。たゞ、大學詩の赤裸性の奥に内在する主観の深嚴性の寡弱と乏少とが、彼の表て藝たる漁色篇價を著しく駄作愚品化して居るは當然である。

(卷ノ下)p105
大雅を志すといふ(藻風)もの
快活明朗をしたふ(西條)もの
秋と落葉と痴戀とを歌うた(堀口)もの
悲哀にうるほふ(日夏)もの
片隅の幸福を嘆く(生田)もの
樂生受用にかゞやく(柳澤)もの
病感に耽湎する(萩原)もの
遅れて情痴と哀愁をうたい出た佐藤春夫
晩年に臨んで初めて一家の風をなした若き希臘主義の詩人北村初雄

(卷ノ下)p115注
堀口の「スバル」時代は佐藤にも竹友にも出野にも室生にすらも及ばぬ未熟があつたが、それが次第に成熟に及んだのは確かに一の進展であつた。が、それは小さき文學少年の小さき展開にすぎなかつた。彼の努力と精進とは三十五歳以後であるを要する。この峠に於て慘しくも挫折してしまつたのは、その詩人的態度覺悟の不眞面目と遊戯的なるとに因る。

(卷ノ下)p114~117
 堀口大學は、譯詩「昨日の花」の後に「月光とピエロ」(大正八年)第一作集を出し、つゞいて「失はれた寶玉」(大正九年)の譯詩と「水面に書きて」(大正十年)を上梓した。
 「この詩人の將來を決定するにも足る人生に對する陶醉があつた。悲哀の連吟があつた。感情の氾濫があつた。詩念の自由があつた。特に、「雪」の
  雪はふる! 雪はふる!
  見よかし、天の祭なり!
云々の格調の正しい一篇にあらはれた表現の自由は、「秋」の破題
  今宵蕭蕭と風吹きて
  秋に痛める草の葉は
  悲しきさまにゆらぐかな
などに見られる七五正調の中にあつて、尚且つ彼が詩眞を自在に盛つて、昔の新體詩の陳套に陥つてゐないと同一の例證であり、「月光とピエロとビエレツトの唐草模様」には次の集にあらはれる動的な快活な輓近體の新傾向をはるかに暗示してゐる。」(「詩壇の散歩」二〇頁)かつて斯く評した筆者は更に次集について左のごとく論じた。「これには流俗の淫視を辱うするサッカリンのやうなセンティメンタリズムはない。これは、「民衆」に媚を呈して、しがない身賣の昨日今日の如何にもなさけなさすぎる救世軍の太鼓のやうな勇敢はない。しかし、こゝにも流俗はその時代の標語として擔ぐ人間味を夥しく受ける事は自由である。また、「民衆」の不斷に愛好する新鮮を嗅ぐことも自由である。それ計りではない。こゝには、昔乍らの遊戲の假面を被つた「まごころ」を發見する餘地さへもある。きびしい刺笑が反語的に人生を脅かす。こゝは新藥の製造所だ。甘たるい小學生のセンティメンタリズムがある。こゝは世界的歌舞の巷だ。卷頭「椰子の木」は彼の一面の代表的の詩である。
  なほ高く
  なほ大地より遠く
  天の方へと差のべたれど
  天はそこにもあらで
  天は理想のやうに
  いよいよ遠ざかり
  ふるゝ術もなきに
  紫の夕ぐれとなる」
     (同上二三-二四頁)
 輓近の「新らしき小徑」は、一切の古きものから去つて全く新らしい九折の山徑に彳んでゐる。彼を筆者は「六號活字で書くべきものを二號活字で書く事を否まない」男とかつて評したが、佳品も些かあれば拙作も夥しく、一集毎に、殉情曲から象徴派から未來派から立體派から等、等、等と無限に變化してゆくのが、彼の詩程であつた。堀口のこの變化性は、かれのフレクシビリティーをあらはし、受感性を示すものであり、同時に又、齡を加ふるに連れて重積しなければならぬ經驗が、一向に彼の精神生活の深刻性と個性の鮮やかなるものとを將來する能はざる「
魂の未熟」を暴露し、詩家としてのスケイルの淺薄を裏書きし、更に、その人間性の輪廓の狹小を雄辯に物語るものに外ならぬ。彼の輓近に及んで、特色づけられたその色情詩は、何等人間生活の本能的桎梏にまつはる痛烈深刻の體驗に根ざさゞる、遊戯的淫慾の文字上小技巧の小産物にすぎざる點に於て、共同後架の不良的樂書きにも如かざる、風俗史上の興味を牽く程度の價値あるものにすぎない。堀口大學は、爰に於て夙くも徒らに詩齢老いたる全き永久の小未成品たるにすぎないのである。

(卷ノ下)p162
(略)生意志の発展途上の拘束を欲せざる藝術行動そのもの又はその餘波で、之れと一見孔(はなは)だよく類似して、決してディレッタントでなく、ディレッタントの無計算操作を果し得ざるさがのガッチリ者に二名の脂粉派堀口大學、西條八十があつた。

(卷ノ下)p175
堀口は佛蘭西擬ひライト・ポエトリの作製に終始したが、措辭に魅力の美なく、正詩と街の民謡との中間存在であつた。西條は此時已に艶歌師であつた。

(卷ノ下)p178
小説に去つた佐藤が飄然之れ(詩話會)に加はるかと見れば、その同窓堀口はこの派に就かず、

(卷ノ下)p182
(大正十四年)二人の好き味利き鈴木信太郎、山内義雄の精審な飜譯がこの氣運に妥當な肉附けと類例とを付へた。堀口大學も譯書を續出し、初め語に拙く語彙に乏しき乍ら稚拙の妙があつた。(ヨネ・ノグチの初期日本語詩の如く)のち群小の新を少年讀者の向新性に媚びて營業的濫譯するに及んで齡せられなくなつてしまつた。

 

     

積まれた本の山に分け入っていると、イギリスの作家オズバート・シットウェル(Osbert Sitwell、1892~1969)の自伝5部作や、スコットランドの作家コンプトン・マッケンジー(Compton Mackenzie、1883~1972)自伝10巻本も出てきます。

裸本で安かったからというのもあるのでしょうが、何を考えて買ってしまったのか、笑ってしまいます。

 

『LEFT HAND, RIGHT HAND!』1945-1950

全体のタイトルは、『LEFT HAND, RIGHT HAND!』で、各巻の見開きに、オズワート・シットウェル本人の、たぶん実物大の手形が使われています。
相撲取りかと、ぎょっとしますが、偽りのない自伝であることの証なのかもしれません。

 

LEFT HAND, RIGHT HAND!

LEFT HAND, RIGHT HAND!
An Autobiography by OSBERT SITWELL
Vol.1: THE CRUEL MONTH
1945年、MACMILLAN & CO.

THE SCARLET TREE

THE SCARLET TREE
BEING THE SECOND VOLUME OF
LEFT HAND, RIGHT HAND!
An Autobiography by OSBERT SITWELL
1946年、MACMILLAN & CO.

GREAT MORNING

GREAT MORNING
BEING THE THIRD VOLUME OF
LEFT HAND, RIGHT HAND!
An Autobiography by OSBERT SITWELL
1948年、MACMILLAN & CO.

LAUGHTER IN THE NEXT ROOM

LAUGHTER IN THE NEXT ROOM
BEING THE FOURTH VOLUME OF
LEFT HAND, RIGHT HAND!
An Autobiography by OSBERT SITWELL
1949年、MACMILLAN & CO.

NOBLE ESSENCES OR COURTEOUS REVELATIONS

NOBLE ESSENCES OR COURTEOUS REVELATIONS
BEING A BOOK OF CHARACTERS
AND THE FIFTH AND LAST VOLUME OF
LEFT HAND, RIGHT HAND!
An Autobiography by OSBERT SITWELL
1950年、MACMILLAN & CO.

索引は、各巻ごとにあり、人の名前での検索はしやすい本です。
画家スタンリー・スペンサー(Stanley Spencer、1891~1959)らと同世代の人なので、言及される画家の名前をチェックするのが、楽しみだったりします。

 

Compton Mackenzie『MY LIFE AND TIMES』(1963~1971、CHATTO & WINDUS)

Compton Mackenzie『MY LIFE AND TIMES』(1963~1971、CHATTO & WINDUS)

OCTAVE ONE 1883-1891(1963年)
OCTAVE TWO 1891-1900(1963年)
OCTAVE THREE 1900-1907(1964年)
OCTAVE FOUR 1907-1915(1965年)
OCTAVE FIVE 1915-1923(1966年)
OCTAVE SIX 1923-1930(1967年)
OCTAVE SEVEN 1931-1938(1968年)
OCTAVE EIGHT 1939-1946(1969年)
OCTAVE NINE 1946-1953(1970年)
OCTAVE TEN 1953-1963(1971年)

索引は、2巻ごと偶数巻にあり、これも人の名前を調べやすくなっています。
大部の自伝の肝は、索引です。

手もとにあるものは、1~8巻が裸本で、9、10巻にジャケット(ダストラッパー)がついています。
スウィンギング・ロンドンと同時代とは思えない、コンプトン・マッケンジーの活躍した時代に合わせたような2色ジャケットのデザインは、エニッド・マークス(Enid Marx、1902~1998)。
秋朱之介(西谷操、1903~1997)と同世代の人。
名前から推測されるように、あのカール・マルクス(Karl Marx、1818~1883)の縁者です。

10巻そろえるなら、ジャケット(ダストラッパー)付きのほうがいいと思います。

Compton Mackenzie『MY LIFE AND TIMES』OCTAVE TEN

Compton Mackenzie『MY LIFE AND TIMES』OCTAVE TEN 1953-1963(1971年)のジャケット

 

     

積まれた本の山に分け入ると、こんな本もあったかと、ページをめくると、思わず読みふけってしまい、作業が進みません。

『Lost Classics』

『Lost Classics』
edited by Michael Ondaatje, Michael Redhill, Esta Spalding, Linda Spalding
2000年、Anchor Books

副題が「Writers on Books Loved and Lost, Overlooked, Under-rated, Unavailable, Stolen, Extinct, or Otherwise Out of Commission」
73人の書き手が、それぞれの「Lost Classic」となった1冊について書いたアンソロジーです。1人あたり3~4ページの短いものばかりですが、書き手の本への思いが強く、見かけ以上に密度が濃い本です。

パラパラめくっていたら、「ウリポ」という文学グループ当初唯一のアメリカ人のメンバー、ハリー・マシューズ(Harry Mathews、1930~2017)の文章が、目にとまってしまいました。
ハリー・マシューズが「Lost Classic」として選んだ1冊は、D’Arcy Wentworth Thompson『On Growth and Form』。

生物学者ダーシー・トムソン(1860~1948)の『成長とかたち』(邦訳に抄訳の『生物のかたち』)という本のことを、ハリー・マシューズが知ったのは1944年。
戦時中、父親は海外におり、母親と二人暮らしで、「Wainscott, Long Island」のコテージを借りて夏休みを過ごしていた14歳のとき。

母親の知り合いのところに夕食に誘われて行くと、 そこに、バウハウスが閉鎖されドイツからアメリカへ亡命した建築家のミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe、1886~1969)も招かれていました。
大人たちが酔ってゴシップ・モードになると、14歳のハリー・マシューズがミース・ファン・デル・ローエの話し相手になります。

そこで、ミース・ファン・デル・ローエがハリー・マシューズ少年に熱く語ったのは、自分が作ってきた建築空間はすべて『On Growth and Form』に由来していたということ。 D’Arcy Thompson『On Growth and Form』という本と著者の名前が、ハリー・マシューズの胸に刻み込まれます。

そこで、次の告白。

During my late adolescence I was a book stealer. I loved books, not just to read but to own, and there was no way I could buy all I wanted. Because I stole for love, I stole self-righteously.

10代のハリー・マシューズは、本への愛ゆえに本を盗んでいた、という告白です。
それでも、『On Growth and Form』と出会うことはありませんでした。

1952年、妻と娘を連れてフランスへ移り住みます。そして、2年後、物価の安いマジョルカ島に移り住むことを決めます。
その前にロンドンで本を買っていくことにして、大手書店「Foyle’s」に行ってみると、 『On Growth and Form』の2巻本(Cambridge University Press, revised edition, 2 vols.)を初めて目にします。

お金のないハリー・マシューズは、すでに夫であり父親である自覚を持ちながらも、 どうしても、その本を所有したくて、翌日、人生最後の万引きをします。12冊以上のたくさんの本を買うことで、2冊の本をまぎらわせる方法を準備し、それは成功してしまいます。

それから、短い文章で時が過ぎます。父、母が亡くなり、離婚し、新しい家族をつくり、アメリカの大学で教えるようになり、 いろいろな土地を移り住んだことを簡潔に語ります。
その1000頁を超す大冊を手放すことはなかったけれど、ずっと読まないまま過ごします。
そして、1998年2月11日に読みはじめられ、同じ年の7月18日に読みおわります。
『On Growth and Form』からの全体と部分の関係について述べた文章を引用して、4ページながら、50年を超える長い時間と告白のつまったテキストは終わります。

 

本を盗んだ過去の告白。つまり、それまで40年、知られることがなかったということでしょう。
このことに口をつぐんだまま墓場まで持っていかなかったのは何故か。
いろんなことを考えさせられます。

人間関係で、「In 1952 I moved to France with my wife and daughter. 」「My marriage ended. 」とだけある妻は、画家・彫刻家のニキ・ド・サン・ファル(Niki de Saint Phalle、1930~ 2002)だったと考えると、家族にも秘密だったのでしょうか、知られていたのでしょうか、そのことで何か起きたのでしょうか。
「盗み」は、作家ハリー・マシューズに何をもたらしたのでしょうか。

 

そして、本を万引きするということで、逆説的に思い浮かんだのが、梶井基次郎の『檸檬』でした。

(略)そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起った。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした、「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

一方、ハリー・マシューズは本を見つけた翌日、見つかることのないよう段取りを練って盗みを実行します。

 I spent an inwardly frantic, outwardly reasonable hour executing my theft, moving the two volumes separately and in stages from the middle of the second floor towards the ground-floor exit, camouflaging the manoeuvre by bringing books I planned to buy to the cashier nearest my point of escape. At last On Growth and Form was settled, not too conspicuously, on a rack between my cashier and the nearby door. I paid for my other books ―― over a dozen, as I remember ―― and on my way out picked up my covert objects of desire and walked out into Charing Cross Road. I did not look back. I did not run. I blessed the pedestrian throng.

檸檬を置く行為と、本を持ち去る行為は、対称的なのですが、似てしまいます。
「丸善」と「Foyle’s」という特別な場所があり、作業の緊張と成功の喜びがあり、「すたすた」とではありませんが、店の外へ出て、振り返らず、走らず、歩み去ります。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

massacre『Killing Time』01

massacre『Killing Time』02

『キリング・タイム(Killing Time)』つまり「ひまつぶし」というタイトルの、マサカー(massacre)というグループのアルバムがあります。
ギター/フレッド・フリス(Fred Frith)、ベース/ビル・ラズウェル(Bill Laswell)、ドラムス/フレッド・マハー(Fred Maher)の3ピース・バンド。
1981年のスタジオ・ライブ録音。
写真は、2005年のReRレーベルからの再発CD。

久しぶりに聴くと、その素早さ、切れが素晴らしく、改めて聴き惚れました。
目が覚めます。寝ぼけたままだといけません。


▲ページトップへ