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my favorite things 231-240

 my favorite things 231(2018年4月5日)から240(2018年7月23日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

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 231. 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(2018年4月5日)
 232. 1956年の『POETLORE(ポエトロア)』第8輯(2018年4月30日)
 233. 1936年の柳亮『巴里すうぶにいる』(2018年5月9日)
 234. 1956年の山中卓郎『坂の上』(2018年5月11日)
 235. 1978年のゲーリー・スナイダー『亀の島』サカキナナオ訳 (2018年5月30日)
 236. 1981年の『清水卓詩抄』(2018年6月21日)
 237. 1992年の岡澤貞行『日々是趣味のひと』(2018年6月22日)
 238. 1934年の木下杢太郎『雪櫚集』(2018年7月12日)
 239. 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特製本(2018年7月13日)
 240. 1935年の『The Dolphin』誌第2号(2018年7月23日)
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240. 1935年の『The Dolphin』誌第2号(2018年7月23日)

 1935年の『The Dolphin』誌第2号

 

昭和8年(1933)、秋朱之介は「日本限定版倶楽部」という会員制の限定本頒布組織を立ち上げます。300人の会員を集め、その会費で、「美しい本」をつくっていこうという試みです。

そのモデルになったのは、第一次大戦後に、ウィリアム・モリスの理想を継いだ欧米のプライヴェイト・プレス運動でした。
その一つに、アメリカでGeorge Macy(1900~1956)が1929年に立ち上げたニューヨークのThe Limited Editions Clubという限定版クラブがあります。
写真は、そのThe Limited Editions Clubが、1933年から1941年にかけて刊行した書物誌『Dolphin』の第2号の背表紙です。イギリスの『Fleuron』(1923年~1930年)のような高級な書物誌をアメリカでも作りたかったのだと思います。

この号では、秋朱之介(秌朱之介)が立ち上げたプライヴェイト・プレス、以士帖印社の佐藤春夫『魔女』(1932年)の特装本が、書影つきで紹介されていました。
1935年に、Shunosuké Aki(秋朱之介)の名前がニューヨークで紹介されていたとは全く想定していなかったので、この記事には、ほんとうに驚きました。

 

『Dolphin』第2号の扉

▲『Dolphin』第2号の扉
『Dolphin』第2号では、「A Survey of Contemporary Bookmaking」というセクションで、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スカンジナビア、ソ連、日本の、当時の本づくりについて概説しています。
日本のパートは、和書や帙の作りから、日本の活字などについて、「Y. NAKATSUCHI」という人が書いています。
たぶん筆者は、北星堂の中土義敬(1889~1945)だと思います。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850~1904)のもとで英語を学んだ人です。

 

『Dolphin』第2号に掲載された『Majo(魔女)』の紹介記事

▲『Dolphin』第2号に掲載された『The Majo(魔女)』の紹介記事
秋朱之介(秌朱之介)も「Design by Shunosuké Aki」と紹介されています。

「Y. NAKATSUCHI」氏は、明治以降、西洋の造本技術が移入されてから誕生した「日本的」造本と思われる14冊の本を選んで、書影とともに簡単に説明しています。その中に、秋朱之介の『魔女』(以士帖印社)特装本も選ばれていました。


『Dolphin』第2号に掲載された『Majo(魔女)』の書影

▲『Dolphin』第2号に掲載された『Majo(魔女)』の書影
書影は、昭和6年(1931)の読書家版ではなく、昭和7年(1932)の47部限定特装本。背の蛇革が特徴です。

参考までに、「The Majo」以外の、書影ありの13冊を挙げておきます。

The Shinsaku-Juniban 『新作拾貳番』春陽堂 1890年
The Bungaku-Sekai 『文學世界』春陽堂 1891年~
The Uwakimaru 尾崎紅葉『浮木丸』春陽堂 1896年
The Ozan Beishi 大橋乙羽『歐山米水』博文館 1900年
The Kusa-Awase 夏目漱石『草合』春陽堂 1908年 橋口五葉装幀
Ukiyoe-to-Fukeiga 小島烏水『浮世絵と風景画』1914年 文榮閣
The Kyoto Zuihitsu 山中共古『共古随筆』1928年 坂本書店 齋藤昌三装幀
William Blake Shoshi 寿岳文章『ヰルヤム ブレイク書誌』ぐろりあそさえて 1929年
The Sekishi Kushu 瀧井孝作『折柴句集』やぽんな書房 1931年
Van’t Hoff-no-Shogai to Shinkei-byo 式場隆三郎『ファン・ホッホの生涯と精神病』聚楽社 1932年 芹沢銈介装幀
The Shimi-Hanjo-ki 内田魯庵『紙魚繁昌記』書物展望社 1932年 齋藤昌三装幀
The Shochi-no-Sampo 齋藤昌三『書癡の散歩』書物展望社 1932年
Shilhouette 矢野峰人『志るえっと』學藝社 1933年

「Y. NAKATSUCHI」氏が、アメリカの書物好きたちに紹介した本は、齋藤昌三の色の濃い、選択がされています。

あと、書影は掲載されていませんが、次の3冊にも言及しています。

Yakaku-Mangen 馬場孤蝶『野客漫言』書物展望社 1933年
The Dolls on Display: Japan in Miniature G.Caiger『日本雛人形』北星堂 1933年
The Yawa-no-Nezame 藤田徳太郎・増淵恒吉共編『夜半の寝覚 校註』中興館 1933年

 

『Dolphin』第2号に掲載されたドウィギンス書誌の図版から

▲『Dolphin』第2号に掲載されたドウィギンス書誌の図版から
『Dolphin』2号(1935)の背表紙と扉のデザインは W・A・ドウィギンス (W. A. Dwiggins、1880~1956)によるものです。
『Dolphin』2号には、Philip Hofer(1898~1984)による「The Work of W. A. Dwiggins」という、図版が美しい40ページほどの特集もありました。
ドウィギンス書誌を書いたPhilip Hoferは、ハーヴァード大学の図書館の人で、「Department of Prints and Graphics」の最初のキュレーター。数々の貴重な文書・図書を掘り出し、「Prince of the Eye」と呼ばれていたそうです。
目利きの宮様、みたいな感じなのでしょうか。

ドウィギンスは、「グラフィックデザイン」(graphic design)という言葉を使い始めた人で、いわば近代的な意味で「グラフィックデザイナー」の始まりの人です。

 

図書館で竹内幸絵『近代広告の誕生 ポスターがニューメディアだった頃』(2011年、青土社)を借りたのですが、日本で「レイアウト」ということばが使われるようになった経緯を記した章で、ドウィギンスの名前は何度も登場していました。

竹内雪絵『近代広告の誕生 ポスターがニューメディアだった頃』(2011年、青土社)

▲竹内幸絵『近代広告の誕生 ポスターがニューメディアだった頃』(2011年、青土社)
『広告界』誌の表紙カラー図版だけでも素晴らしい本なので、もう一度しっかり校閲して、Beggarstaffsが「ベガスッフ」だったり、「口絵」という言葉の使い方であったり、気に懸かる個所をつぶしていってほしいです。
というより、増補改訂版を期待したいです。1920年代・1930年代に起こった近代広告の誕生のドキュメントとして「古典」化してほしい本です。

 

『佐藤春夫読本』(2015年10月31日発行、勉誠出版)

▲『佐藤春夫読本』(2015年10月31日発行、勉誠出版)という本を読んでいたら、そこに収録されていた

 久保卓哉「佐藤春夫と魯迅の交流」

というテキストに、以士帖印社の『魔女』(1931年)の書影がありました。
そのページのコピー写真です。

 

『佐藤春夫読本』収録の久保卓哉「佐藤春夫と魯迅の交流」に掲載された魯迅所蔵の『魔女』書影

▲『佐藤春夫読本』収録の久保卓哉「佐藤春夫と魯迅の交流」に掲載された魯迅所蔵の『魔女』書影

20世紀中国を代表する文学者、魯迅(1881~1936)は、以士帖印社版の『魔女』を所有していました。
ニューヨークの『DOLPHIN』誌第2号の記事といい、1930年代に、『魔女』は国際的な本になっています。

久保卓哉「佐藤春夫と魯迅の交流」によれば、魯迅は、上海にあった日本書を扱う書店・内山書店に入荷した3冊のうち、1冊を購入しています。「魯迅日記」に1931年11月11日購入と記しているようです。

その『魔女』は、現在、北京の魯迅博物館に収蔵されており、その図版が久保卓哉「佐藤春夫と魯迅の交流」に掲載されていました。
読書家版の第92號冊で、「魯迅」の印が捺されています。

 

秋朱之介が、昭和9年(1934)、三笠書房を辞めたあと、すぐに刊行した書物雑誌『書物倶楽部』創刊号(1934年10月5日発行、裳鳥会、東京市淀橋區角筈一ノ一 エルテルアパート)の 編集後記「山茶庵日記」に、次のような記述があって、前から気になっていました。

上海九月三日附で支那の有名な小説家Lûsin『魯迅』先生から封書をいただく。純白の唐紙に小さな字で美しく認められた便りである。
魯迅先生の玉稿で書物倶樂部誌上を飾らしていただける日も近い。

魯迅は、この手紙を秋朱之介に送った時点で、秋朱之介が『魔女』を刊行した横浜の以士帖印社の秋朱之介だと知っていたのかもしれません。

結局、『書物倶楽部』は2号刊行しただけで終刊となり、魯迅の玉稿は得られなかったようです。
『書物倶楽部』終刊とともに、秋朱之介は拠点を新宿から銀座に移しています。

この魯迅の秋朱之介宛ての手紙が、どこかに残っていないかと、願うばかりです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

チャクラ(Chakra)の『さてこそ』の1990年再発CD

▲チャクラ(Chakra)の2枚目のアルバム『さてこそ』の1990年再発CD(WAX RECORDS)から「ミュンミュン」か「いとほに」か悩むところです。オリジナルLPは1981年(Victor)。

確かLPもどこかにあるはずだと思うのですが、すんなりと出てこず、1990年と2011年の再発CDの写真です。

音は決していいとはいえないものが、動画サイトでも聴くことができます。
チェックしてみたら、Chakraのファーストアルバム『Chakra』とサードアルバム『南洋でヨイショ』の再生回数は1万程度だったのですが、『さてこそ』は17万ほど行っていました。
コメント欄はほとんど英語だったので、小川美潮は、これから発見される存在なのかもしれません。

 

チャクラの『さてこそ』の2011年再発CD

▲チャクラの『さてこそ』の2011年再発CD(SOLID RECORDS)
アルバムジャケットの「図案」は奥村靫正。

 

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239. 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特製本(2018年7月13日)

1960年のマリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特装本と普通本

 

第231回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(2018年4月5日)」で紹介した、石邨幹子訳『夜たちの手帖』の特製本を見つけました。

写真は、箱とカヴァーを取った本体の表紙で、左の薄紅色が特製本、右の薄緑色が普通本です。

普通本のなかでも、箱の色が違うものがあるようなので、薄紅色/薄緑色の違いが特製本/普通本の違いだとは言い切れません。
本文は、奥付以外、特製本も普通本も変わりありません。

特製本の方が、本文用紙に和紙を使っているので、薄くて軽いです。

 

マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)の外箱

▲マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)の外箱
左が特製本、右が普通本。

 

マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)のカヴァー

▲マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)のカヴァー
左が特製本、右が普通本。

 

マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)の扉

▲マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)の扉
上が特製本、下が普通本。

 

マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)の本文見開き

▲マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)の本文見開き
上が特製本、下が普通本。
「少女の一週間」のページ。

特製本の本文用紙は和紙、普通本の本文用紙は洋紙を使っているので、特製本の方が普通本に比べて、薄くて軽くなっています。

 

マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)奥付

▲マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)奥付
上が特製本、下が普通本。

 

マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)特装本の石邨幹子の署名

▲マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(アポロン社、1960年)特製本の石邨幹子の署名

 

〈2024年1月29日追記〉

詩人の安西均(1919~1994)は、石邨幹子の親戚でした。
『詩学』誌で安西均が石邨幹子について書いていたものを、引用します。

『詩学』昭和32年(1957)12月号(詩学社)

 安西均 《犬薔薇――「ぼくの社交録」より――》

〈前略〉
 よく目のつんだ手織だとか、クリスタルの工芸品を磨くようにして詩を書いている一人に中村千尾夫人がいる。このひとは「私にとつて詩はアクセサリです」といい切る。さまざまな誤解を承知のうえで、こういう明言のできるひとは、まず少ないかも知れぬ。
 詩人としての千尾夫人はずいぶん古いそうだが、私が知つたのは数年まえだ。私の親戚つづきに石邨幹子がいて、私は彼女からフランス語の手ほどきを受けることにした。ところがむかし千尾夫人も彼女からフランス語を学んだことがあるという。すると千尾夫人は私にとつて同門の姉さん格だ。いわばアネ弟子に当る。私がフランス語をやりはじめたと聞きつけて、このアネ弟子が私を脅かした。――「しつかり勉強なさいね。そのうちフランス語でケンカしてみようではありませんか」。そういつて例の太い笑い声を立てた。私は恥かしくて息がつまりそうだつた。

〈後略〉

『詩学』昭和49年(1974)2月号(詩学社)

 安西均 「語学勉強」

〈前略〉
 やがて新聞記者になり、戦後また東京に転勤してきて暮すことになって、石邨幹子を知った。
 このひとは私と血はつながらないが遠い親せき筋に当たり、ずっと昔、フランス女流詩人のアンソロジー『つみくさ』を翻訳出版した。若い頃パリの文法学校(?)のごとき所で勉強したとかで、語学のほうは老いていない。
 (このひとのことは、今は中村千尾さんぐらいしか思い出してくれる人がいなくなったようだ)
 家庭のことを構わないひとだから、しょっちゅう私のところに遊びに来てくれる。私にしてみればこんなオバサンを遊ばしておくのはもったいない気もして、フランス語の個人教授をお願いすることになった。
 「いいわよ。均さん、つづくかな? はっはっは」
 と言いながらも快く引受けてくれ、私も初級のテキストから始めた。しかしオバサンが来てくれる前日に、こそこそと宿題を片づけて、あとは振向きもしないのだから、上達しようはずがない。
 いや、実をいうと、このオバサンは無類の話好きで、話込むとすっかり時間の観念を失するたちなのだ。私としては一計を案じて、話を封じるためにフランス語教授を願い出たようなふしもあり、そんなコンタンでは上達も覚束ないのが当然であろう。
 勉強のほうはともかく、ひどく善良なひとだから、私はほかのことでも世話をかけた。もうかれこれ十年くらい疎遠にしたままでいるが、いつも懐しく思っている。
 佐藤春夫とは昵懇で、私を引合わせたがっていたが、これは私のほうでそれとなく逃げまわってきた。堀口大学先生にも、私は石邨幹子をオバサンとよびひそかに親愛していることを言わずにいる。

『詩学』1988年8月号(詩学社)

 安西均  私の「おばさん」

 石村幹子。
 詩を書く女性はずいぶん多くなったが、すっかり世代も交替したから、彼女の名を知っている人もほとんどいないだろう。
 わたしの思いつく範囲では、江間章子さん・高田敏子さんあたりは覚えておいでだろうか。先年、新川和江さんから、連絡したい用があるから電話番号を、と問合せがあったぐらいだ。
 彼女は一昨年の暮、他界した。八十六歳だった。あとでつれあい(建築家)もみまかった。遺族は演劇関係の仕事にたずさわっている一人息子だけ。
 先日、嵯峨信之さんが電話で、「親戚のおばさんの本のこと、書いときなさいよ」と、わざわざすすめて下さった。
 その数日後、年に一度か二度の割で電話をくれる西條嫩子さんが「あなたのおばさんの本、すばらしいわね。もうあんな仕事できるひと、いなくなったわ」と言ってきた。
 実は石邨の訳編で『サアディの薔薇』が陽の目を見たばかりなのだ。副題を「マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯」という。
 嵯峨さんも嫩子さんも、彼女をわたしの親戚とおっしゃるが、正確には血の繋がりはなくて、遠い縁戚の端に当るにすぎない。
 それでも、わたしが詩を書いたりしているのを聞き知ってであろう、毎週遊びに来てくれるようになり、わたしも「おばさん」とよんで親しんできた。
 若い時分のパリ暮しの話になると、岡本太郎画伯のことを「タロちゃん」などと懐かしがった。
 ずいぶん貧乏だったが、そんなことは平気の平左。遊びに来る折は、吟味して高級な茶菓子を手土産にする気性だった。
 ただし大の話好きで、やや辟易するほどの長っ尻でもあった。
 そこで、わたしは一計を案じ、フランス語の手ほどきをしてくれませんか、と申出た。
 こちらは本気で勉強するというよりも、昔話の繰返しや世間話だけで時間を潰すのが勿体ない。
 その上、わずかでも月謝を払うことで、たばこ銭の足しにでもしてほしかった。
 「ええ、よござんすとも」と、二つ返事で週に一回の個人教授を始めてくれた。どれくらい続いたか忘れたが、本棚の隅にほとんど使わない仏和・和仏辞典が埃をかぶっているのは、その記念だ。
 わたしに生活の変化も生じ、ここ十数年来、すっかり疎遠になってしまった。日仏学院の図書室に毎日かよっている。用事の際はそちらへと電話番号を教えてくれたが、ついに掛けなかった。
 思い返すと、彼女の名を知ったのは、戦時中はじめて上京し、古本屋でポオル・ジェラルディの訳詩集『お前と私』を入手した時であった。その折は、この訳者が遠い縁戚すじの者とも知らず、まして戦後つきあうことになろうなどとは、夢想だにしなかった。
 このたびの『サアディの薔薇』は、日仏会館・東京日仏学院で、フランス語学習を通じて親交あった数名が、協同で編集なさったという。いわばボランテア出版とでも言うべきか。よき学友たちを得て、八十過ぎの晩年はきっと幸せだったに違いない。
 一世紀まえ、癌で他界したロマン派女流詩人。四十八篇の作品と短い評伝を交互に織りなした一冊だ。わたしの「おばさん」は、ずいぶん若かったんだなあ! そんな感慨で読み終った。
 改めて冥福を祈ろうと思う。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

デイヴ・シンクレア(Dave Sinclair)の『Out of Sync』

デイヴ・シンクレア(Dave Sinclair)の新譜『Out of Sync』(dsincs-music、2018年)から「Home Again」を。
17分50秒の曲。抒情の波が寄せては返します。

カンタベリー系を代表するキーボード奏者の1人として、「ナインフィートアンダーグラウンド(Nine Feet Underground)」や「オーキャロライン(O Caroline)」など、1970年代から記憶に残る曲を残してきたミュージシャン、デイヴ・シンクレアは、現在、日本の瀬戸内の島暮らし。

 

デイヴ・シンクレア(Dave Sinclair)ポストカード

5年ぶりの新譜が出たというので、PledgeMusicのサイトで注文したら、直接、瀬戸内の島から、手書きのポストカードとともに、CDが届きました。

デイヴ・シンクレアの住む島は、今度の豪雨で大きな被害はなかったものの、断水は続いていて、今は給水船だよりのようです。

 

【2019年6月14日追記】
このアルバムは、音楽制作のクラウドファンディングサービス PledgeMusic を通して購入しましたが、2019年に入って PledgeMusic は破産し、取引を停止しています。
PledgeMusic を利用したミュージシャンにも、集められたお金が届いていないという話も聞きます。例えば、John Zornの場合は、11枚組CD作品制作のために集められていた20万ドルが、支払われないままのようです。
約10年間、音楽アルバム制作の方向を示していたと思われたサービスでしたが、CDのようなパッケージものの制作は、ますます難しくなっていくのでしょうか。

PledgeMusic は、2018年には怪しくなっていたようです。
デイヴ・シンクレアのもとにも、集められたアルバム制作資金がちゃんと届いていれはいいのですが。

 

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238. 1934年の木下杢太郎『雪櫚集』(2018年7月12日)

1934年の木下杢太郎『雪櫚集』

 

高温多湿の日々が続きます。涼しげなタイトルの本といったらこれでしょうか。
「雪櫚」(せつろ)で、棕櫚(シュロ)に雪ということのようです。

木下杢太郎(1885~1945)の『雪櫚集』「小序」によれば、杢太郎が冬の朝に詠んだ「棕櫚の雪みちのくに來て六歳かな」という句に因んだもので、それならば、表紙の木版画は、「棕櫚に雪」の図にすればよいものを、身近な草花であるドクダミとチドメグサの絵になるところが、杢太郎らしいというか。

表紙の木版画は、版元の書物展望社の広告によれば、「装幀は著者の彩筆を木版二十數度手摺としあくまで渋く豪奢に仕上げた九年度木版摺裝中の逸品」ということで、確かに美しい仕上がりの本です。

この本には、秋朱之介(西谷操、1903~1997)といろんな接点があるのではないか、と推察しています。

 

木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)表紙

▲木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)表紙

昭和18年1月の岩波書店『文學』(第11巻1号)に掲載された、「本の装釘」という隨筆で、木下杢太郎は今まで装釘してきた本について回想しています。
『雪櫚集』については、次のように書いています。

仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の野草木を写生した。そこに越してくると、想ひがけぬ木の芽、花の蕾が時々に姿を現はし目を喜ばした。昭和九年の拙書『雪櫚集』は半ば其庭の写生文を集めたものであり、其本の表紙にも自ら庭の一部を写して之に当てた。どくだみとちどめぐさをあしらつたものであるが、思ふやうに刷り上がらなかつた。

手間のかかりすぎた、美事な表紙だと思いますが、本人にとっては不満の残るものだったようです。
二十数度摺りの木版の彫りと摺りした彫師と摺師の名前は、本には記載されていないのが残念。


鹿児島県立図書館蔵『雪櫚集』

▲鹿児島県立図書館蔵『雪櫚集』
鹿児島県立図書館には『雪櫚集』もあって、借りることもできます。とてもありがたいのですが、「木版二十數度手摺」の凝った表紙にバーコードが貼ってあるのを見ると、複雑な気持ちになります。

手もとにある本と、チドメグサの摺りがだいぶ違うように感じられます。手摺りだけに、本ごとに少しずつ違いがあるようです。

 

木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)扉

▲木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)扉
昭和9年7月に書かれた『雪櫚集』の小序を引用します。

此集に収めた諸稿は、其體何と稱すべきか、偶然にも皆他より促されてかりそめに書き綴つたものばかりで、初めから計畫して筆を執つたのは一も無い。大半は營利的でない雜誌に載せたもので、所謂商品價値は極めて乏しく、恐らく讀んで面白くないに相違ない。書物展望社の慫慂によつてかく一本に纏められたのは著者にとつてもつけの幸である。
名づけて雪櫚集と云ふは、過ぐる冬の朝の口吟「棕櫚の雪みちのくに來て六歳かな」に因んだのである。それなのに表紙にどくだみをあしらつたのは如何と云ふに、それは全く無頓着によるのである。發行書肆が是非著者自ら装釘の事に従へといふので、別に好き思ひ付もないままに卽目の小景を寫して之を當てたのに過ぎぬ。一にはまた此書中の記事にわが家の荒苑を敍したものが少くないのでそれに適へしめたのでもある。然しながら「王維畫物象多不問四時」と云ひ、かくの如きは昔から許されたところである。唯摩詰が雪中芭蕉の圖は千載その名が喧傳せられるのに、わが庭の小櫚は果して幾年の星霜に堪へるであらうか。それのみはまことに心許ない限りである。
 昭和九年の雨多き七月

いわゆる雑文集です。次のような新聞雑誌に掲載された文章が集められています。

『女性』『文藝春秋』『名古屋新聞』『冬柏』『近代風景』『アララギ』『舞臺評論』『悲劇喜劇』『不同調』『(第二次)スバル』『相聞』『皿』『サンデー毎日』『東京朝日新聞』『東炎』『つばさ』『游牧記』『古東多萬』『大阪朝日新聞』『俳句研究』『書物』『書物展望』『改造』『スヰート』『體性』

 

秋朱之介との直接の関わりでは、秋朱之介が、創業当初の三笠書房で編集していた『書物』誌の昭和9年8月号に掲載された「二十年前の今日此頃」が『雪櫚集』に収録されています。

その『書物』誌は、創刊号から第3号まで、木下杢太郎が描く猫を表紙にしていました。

 

秋朱之介編輯『書物』誌01

秋朱之介編輯『書物』誌02

秋朱之介編輯『書物』誌03

▲秋朱之介編輯『書物』誌(1933年10月~12月、三笠書房)の創刊号~第3号の表紙
木下杢太郎の絵を、岩田泰治が多色摺りの木版画にしたものです。

この猫と同じと思われる猫が『雪櫚集』に登場します。

 

木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)の猫

▲木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)の猫の挿絵
秋朱之介編輯の『書物』誌の表紙を飾った猫は、 『雪櫚集』の「晴窗帖」という作品に登場します。
「せいそうちょう」と読むのだと思います。「窗」は窓のことです。
「晴窗帖」は、「山茶花」「猫」「萬年青」「白菜」「枇杷」の5つの小品から構成され、それらの植物や猫が、杢太郎に話しかけるという、人を食った作品です。
「猫」を引用します。

     猫

 「ねえ、ちよつと動いても可いでせう。どんなに出來て。見せて下さいな、あたくしに好く似て居ますか。」と言ひながら、モデルになつた猫が色紙を覗き込んだ。
 猫「あなた中々お上手ですわね。あら、あたくしそんな口附をして居て。いくらなんでも、その腰、あんまり太過ぎますわ。」
 僕「でもこの黒いところと茶色のところとうまくぼかしたらう。君の先祖はどこから來たか知らないが、大分波斯か南洋がはひつてゐると僕は見て居るんだ。マドモワゼル・マリイ・イイストレエキ、マドモワゼル・キク・ヤマダ・・・君知つて居るかい。」
 猫「あたくし、そんな横文字分りませんわ。もう、あたくし歸つても可うござんせう。」
 僕「も少し君さうして居てくれたまへよ。まだ出來上らないんだよ。」
 猫「ですけど・・・」
 僕「君は近頃ちつともぢつとして居ないねえ。そして僕のところへちつとも寄りつかないねえ。」
 猫「ええ、それは本當よ。あたくし子供の時分隨分かはいがつて頂きましたわね。あの時分は、何と云ふことなしに世間が面白うございましたわ。あなたはいろんなおもちゃを發明してあたくしをちやらして下さいましたわね。」
 僕「君がいつかよそに遊びに行つて、へんな所へおつこつて、中居へ上つて來たことがあつたらう。それで皆大騒ぎをして僕も君をつかまへる爲めに花活の籠を一つ臺なしにしてしまつたつけ。あの時から君はぴたりと僕の處へ來なくなつたね。」
 猫「いやですよう。あんな子供の時のことおつしやつては。ええ、やつぱりさうでせう。あの時の恐怖心が今でも心のどこかに殘つて居るんでせう。あの時はあたくし、人間といふものは賴りにならないものだ。今まで愛してくれたのはみんな噓だ。あれは自分たちの利己心からだつた。あたくし少し新しい雜誌など讀み出した頃でしたから、そんな風に考へて悲觀したのですよ。殊にあなたといふ人はこわい人だとあたくし、そりや、その時は本當にさう考へましたわ。」
 僕「そりや仕方がない。人と人、人と物との關係はいつも同じやうな状態に止まつて居ることは出來ない。空の星に軌道が有るやうに生物界の個體にもそれぞれの軌道が有る。偶然に近い道を歩いて居たときのやさしみ、懐しみはやがて記憶となり、やがて忘却となる。何時も呼べばきつと僕の處に驅つて來るお前が、或日僕の方を振り向きもしないで驅つて行つてしまうから、どうしたらうと庭を見ると、繁つた木斛の陰に黒猫が目を光して居た。おや、お前ももうそんな年になつたかと思ひながら、その黒猫の毛並も美しく、柄も惡くないのに安心のやうな氣も涌いたものだ。然しそれは單純な友愛だつたな、それらしい様子がその後のお前に見えなかつた。然し來年の春はいよいよそのときが來るだらう。」
 猫「あなたは何か變なことをおつしやいますわね。兎にかくあたくし、今日は失禮いたしますわ。」

『雪櫚集』には、杢太郎による猫の挿絵も掲載しています。
この猫は、『書物』誌の創刊号~第3号の表紙を飾った猫と、同じ猫だと思われます。

表紙のすました猫が、女言葉でしゃべりかけてくるのかと思うと、可笑しいです。

【2018年10月23日追記】
斎藤昌三『少雨叟交遊録』(1948年12月・梅田書房、1981年『斎藤昌三著作集』第5巻・八潮書店)収録の「木下杢太郎博士」によれば、

装釘に用ゐた表紙絵や挿絵は、いづれも著者の自筆で返戻したが、猫を描いた色紙は記念に貰った。この猫も今は遺品となった。

とあり、この『雪櫚集』の猫の絵は、斎藤昌三存命中は、斎藤昌三の手もとにあったようです。

 

『雪櫚集』に収録された「晴窗帖」の初出は、昭和7年(1932)1月。
やぽんな書房の文藝誌『古東多万(ことたま)』です。

秋朱之介は、昭和5~6年(1930~1931)ごろ、横浜の五十沢二郎のところに居候して、五十沢二郎のやぽんな書房を手伝っていました。そして、五十沢二郎のもとに居候したまま、以士帖印社を立ち上げ、佐藤春夫(1892~1964)の詩集『魔女』の制作を準備します。

そのやぽんな書房が、佐藤春夫を編集長として、『古東多万(ことたま)』という文藝誌を刊行します。
昭和6年8月から昭和7年9月までの約1年間に、8号と別冊の計9冊。
中川一政が装幀を担当し、執筆陣も魅力的で、『古東多万(ことたま)』については、別の機会に改めて取り上げたいと考えているのですが、その昭和7年1月に刊行された号に、木下杢太郎の「晴窗帖」が掲載されています。

この号にはないですが、その前号・前々号には以士帖印社の『魔女』の広告が掲載されているので、秋朱之介は、『古東多万』を間違いなく読んでいたと思われます。

『古東多万』掲載の「晴窗帖」では、『雪櫚集』のように、猫の絵は掲載されていませんが、秋朱之介は、この「猫」をモデルにスケッチする杢太郎のテキストを読んで、新しく創刊する『書物』の表紙絵に木下杢太郎を、と考えたのではないかと推察しています。

なぜ猫の表紙だったのか、不思議に思うところもあったのですが、杢太郎の「猫」の文章を読むと、そうしたものが秋の憧れだったのではないかという気がして、腑に落ちるところがありました。

ところで、秋朱之介『書物游記』(1988年、書肆ひやね)別冊付録に、秋朱之介の次の発言があります。

秋 (『書物』誌の)猫の表紙のね、木下杢太郎さんの絵で、この表紙が好きでね。私この絵をね、もう大事にして持っていたんですけど、なくしちゃった。

あ~あ、です。
秋朱之介の手もとを離れたとは言え、この木下杢太郎の「猫」の絵が、この世のどこかに残っていることを願うばかりです。

 

木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)奥付

▲木下杢太郎『雪櫚集』(1934年、書物展望社)奥付
手元にある本には、検印が貼ってありません。右上の「署名限定本一百部之内第  號」の部分に検印が貼られているか、署名限定本であれば番号が打たれているか、いずれかのはずですが、これは余りの本だったのかもしれません。

『雪櫚集』の奥付にあるように、製本者は、中村重義。
中村重義は、秋朱之介の本づくりの相棒といっていい存在の人物で、『雪櫚集』と秋朱之介の縁の深さを感じさせます。

 

『書物倶楽部』第2号に掲載された新雑誌『どくだみ』の予告

▲秋朱之介編集の『書物倶楽部』第2号に掲載された新雑誌『どくだみ』の予告
この広告の文章を書いている「編輯者 山茶庵主人」は秋朱之介です。

この『どくだみ』の広告が掲載された『書物倶楽部』(裳鳥会)自体、2号だけで終わった雑誌で、この雑誌とともに、秋朱之介の「東京・淀橋・角筈一ノ一 エルテル・アパート」の新宿時代は終わり、秋朱之介は「京橋区銀座二ノ四」に拠点を移すことになり、この美術・文學・工藝誌『どくだみ』は刊行されることはありませんでした。

なぜ『どくだみ』という誌名にしたのか疑問でしたが、『雪櫚集』の表紙がドクダミだったことを考えると、木下杢太郎的な美意識がなせるわざだったのではないかという気がしてきます。
秋朱之介はすぐれた装幀批評家でもあったので、『雪櫚集』をどう評価したのか、聴いてみたかったものです。

時間的には、『書物倶楽部』第2号の発行日が昭和9年11月25日で、『雪櫚集』の発行日が昭和9年11月23日で、ほぼ一緒です。
ですから、新雑誌の誌名に『どくだみ』が選ばれたのは偶然の一致とも思われますが、『雪櫚集』の製本者・中村重義のもとには、秋朱之介も足繁く通っていたと思われるので、本の発行のだいぶ前にドクダミの木版画を見ていた可能性が高く、秋朱之介の好みにも合ったのだと思います。

山茶庵主人(秋朱之介)による、「どくだみ」の広告文も引用しておきます。

  美術と文學と工藝の新雜誌
  裳鳥會の新雜誌《どくだみ》に就て

 今度美術・文學・工藝に關する新雜誌《どくだみ》を隔月刊として新年創刊號を出すことになりました。この雜誌は裳鳥會の趣味的な雜誌でぜいたくの限りをつくし、ごくごく僅少しか作製いたしません、どうしてそんなに少ししか刊行しないかと云ふと、大部數刊行出來ない理由があるのです。何となれば、本誌の挿畫は特に版畫に於て作者の手彩色になり大部數のものを手彩色するといふことは不可能事だからです。それに本誌には時折色んな染物、織物、紙、古代織物皮等さうした工藝品の標本が貼附されますが之も大部數のものに貼附することは倒底不可能事です。ほんとうに自分達のやりたい事をやつて見たいといふのがこの雜誌の使命ですから。どんなすばらしい作品がもちこまれるか工藝、版畫に於て特に未知です。そこに編者にとつても會員にとつても大きなよろこびと期待があるのではなからうか。ここに私達は田中冬二氏の美しい古い日本の詩を見ることが出來るかと思ふと、その次の頁では南江二郎氏が、なまめかしいロオランサンをひらめかすでせふ。さうかと思ふと棟方志功畫伯があざやかな手彩色の版畫でみなさんをアツト叫ばせずにはをかない。こゝには古い日本の建築の寫眞があり、その次には美しい新刊書の装釘寫眞がある。新らしい織物の標本があるといつた具合に、それはたのしみの多い雜誌になることと思ひます。とにかくみなさんの裳鳥會から出る雜誌です。安心してお求め下さい。會の恥になるやうな仕事は、金輪際やらうたつて出來ません。ではまた《どくだみ》誌上で羽織・袴と更まつて、御めにかゝりませふ。    編輯者 山茶庵主人


秋朱之介は「椿花」(昭和8年)という詩を書いていたり、後に山本周五郎をメインにした『椿』(昭和21年)という雑誌も刊行するほど、「山茶(つばき)」の好きな人でしたが、この「山茶庵主人」という名前には、木下杢太郎の「晴窗帖」で女言葉で語りかけていた「山茶花」の影も重なっているような気もします。

『どくだみ』は、手に取ってみたかった雑誌です。
未刊とはいえ、内容見本だけでも、どこかに存在しないものでしょうか。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Andy Partridge「Apples & Oranges」ジャケット

Andy Partridge「Humanoid Boogie」ジャケット

Andy Partridgeが久しぶりの新録音。
10インチアナログ盤で、ピンクフロイドとボンゾドックのカヴァーです。 オリジナルは、

 Pink Floyd 「Apples & Oranges」 (Syd Barrett、1967年)
 Bonzo Dog Band 「Humanoid Boogie」(Neil Innes、1968年)

Andy Partridgeの音楽体験の原点は1967年・1968年、つまり14歳・15歳のころなのだろうな、という選曲。
中2にときに聴いた音楽は、忘れがたいものが多いです。

 

Andy Partridge「Apples & Oranges」ラベル

▲Andy Partridge「Apples & Oranges」ラベル

 

Andy Partridge「Humanoid Boogie」ラベル

 Andy Partridge「Humanoid Boogie」ラベル

 

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237. 1992年の岡澤貞行『日々是趣味のひと』(2018年6月22日)

1992年の岡澤貞行『日々是趣味のひと』箱表紙

 

先日、川内まごころ文学館での秋朱之介(1903~1997)の展示に協力いただいたお礼もかねて、東京神田の書肆ひやねに比屋根英夫さんを訪ねました。

このところ、秋朱之介と高橋輝雄(1913~2002)への関心が続いています。
この2人については、書肆ひやねが、1987年に高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』、1988年に秋朱之介『書物游記』を上梓しています。その経緯を聴いてみたいということもありました。

3月に『swallow-dale 06 小桜定徳旧蔵の高橋輝雄木版詩集』を比屋根さんにお送りしたら、「高橋和尚」(と比屋根さんは呼んでいました)と鹿児島とのつながりにびっくりされていました。

手もとにある9冊の高橋輝雄の木版詩集も手にとって見てもらおうと持参。
比屋根さんにとっても初見のものがあり、お見せすることができて、よかったです。

『遊ぶ蔵書票集』を企画した優游の会の人たちは、毎年、春と秋に車を出して、滋賀まで高橋和尚を訪ねる「曽束詣で」を恒例としていたそうです。
みな「いま良寛さん」高橋和尚の人柄に魅せられていて、また、ふるまわれる季節の山菜料理がおいしくて、ほんとうに楽しかったそうです。

書肆ひやねから秋朱之介と高橋輝雄の本が出たのは、横浜の岡澤貞行さん(1919~1990)が言い出しっぺになって、企画が動き始めたということでした。こういう、ことを動かす方がいらっしゃったからこそ、『書物游記』のような本が残されたわけです。感謝です。

そのあたりの経緯については、岡澤貞行さんの遺稿集・追悼文集『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)にも書かれているというので、この機会に限定版を買い求めました。

 

岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)表紙

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)表紙
限定版では、19世紀のトランプが表紙に貼り込まれています。

 

  岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)箱の背

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)箱の背

 

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)見返しに貼り込まれた冥土行きの切符

 

岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)奥付

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)奥付
表紙のトランプは貨幣(ダイヤ)のジャックでしたので、11番と番号をそろえているようです。
岡澤貞行は時分の蔵書を「みみずく文庫」と呼んでいました。
奥付のみみずく文庫の印は武井武雄の作。

 

岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)に収録された高橋輝雄の蔵書票01

岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)に収録された高橋輝雄の蔵書票02

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1992年、荻生書房)に収録された高橋輝雄の蔵書票
限定版には、ほかに、武井武雄、三井永一、佐藤米次郎、杉澤修、松原秀子、山高登、本田保志、原美明の蔵書票が貼り込まれています。

 

高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(1987年、書肆ひやね)箱とカバー

▲高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(1987年、書肆ひやね)箱とカバー
書肆ひやねで、高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』を見せてもらいました。

 

高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(1987年、書肆ひやね)表紙

▲高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(1987年、書肆ひやね)表紙
安土孝、今村秀太郎、伊藤満雄、内田市五郎、内田晶子、岡澤貞行、小関榮、開運堂、金浜誠一、金浜文子、木村直助、工藤ゆずる、工藤むつ子、齋藤専一郎、坂本一敏、関根烝治、竹芳洞、虫眠館、原野憲吉、比屋根英夫、平尾榮美、峯村幸造らのために高橋輝雄が刻んだ木版蔵書票が貼り込まれています。

 

高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(1987年、書肆ひやね)奥付

▲高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(1987年、書肆ひやね)奥付

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

『Kishino You-Ichi Starter Kit』(非売品)

2006年に配布されていた『Kishino You-Ichi Starter Kit』(非売品)
岸野雄一のさまざまな活動を1枚のCDに無理やり押し込んだサンプル盤です。
非売品ですが、名盤です。

「名盤」も基本的には売り物なのが世の習いですから、非売品なのに「名盤」なのは、ちょっと変です。
無償の愛の産物です。

「ギラミックスCDR1~4」を11分48分に圧縮した短縮版も収録されています。
短縮されても、新たなつなぎが生まれています。ギラミックスは魔境です。

 

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236. 1981年の『清水卓詩抄』(2018年6月21日)

1981年の『清水卓詩抄』表紙

 

ご縁があって、今、手もとに、鹿児島の小桜貞徳さん(こざくらさだのり、1923~1989)が所有していた、高橋輝雄さん(たかはしてるお、1913~2002)手作りの木版詩集が9冊あります。

小桜貞徳さんは、鹿児島で小学校教師をされていた方です。
日大専門部宣伝文芸科(現在の日大芸術学部)の出身で、1942年頃「風館」という詩のグループをつくって、高橋輝雄さんとはその頃からのつきあいだったようです。

高橋輝雄さんは、滋賀県大津市大石曽束の帰命寺の住職で、詩人で木版画家だった人です。高橋輝雄さんは、1967年から1990年にかけて、次のような自刻自版の木版詩集を9冊つくって、身近な人に配っていました。(以下、敬称を略します)

『木版詩集』昭和42年(1967)限定30冊 虫眠屋
『もくはん詩1』昭和44年(1969)限定30冊 たかはしてるお刊
『もくはん詩2』昭和46年(1971)限定30冊 虫眠館
『もくはん詩3』昭和47年(1972)限定30冊 虫眠館
『もくはんのうた4』昭和51年(1976)限定30冊 虫眠館
『もくはんのうた5』昭和54年(1979)限定30冊 虫眠館
『清水卓詩抄』昭和56年(1981)限定20冊 虫眠館
『漂子拾句』昭和58年(1983)限定30冊 虫眠館
『毛銭詩 始終』平成2年(1990)限定20冊 虫眠館

この『清水卓詩抄』の清水卓という人物は、「風館」の詩の仲間でしたが、1943年に南洋で戦死したこと以外、出身地や生年など、何も分かっていません。
高橋輝雄が刻んだ木版詩集だけが、その存在のあかしになっています。

 

手もとにある9冊は、この9冊すべてではなく、『もくはん詩1』『毛銭詩 始終』がなく、『もくはん詩2』『清水卓詩抄』が2冊ずつあります。

【追記】
小桜貞徳さんの娘さんよりお借りしていた『木版詩集』『もくはん詩2』『もくはん詩3』はお返ししましたので、現在、私の手もとにある高橋輝雄の木版詩集は6冊です。

 

小桜貞徳旧蔵の高橋輝雄木版詩集

 

今日は、高橋輝雄が刻んだ木版詩集のなかから、清水卓のことをたどってみたいと思います。

 

『木版詩集』昭和42年(1967)限定30冊 虫眠屋
高橋輝雄の詩と木版画で構成されています。手刻の木版図版13、手刻の文字版27の力業です。
『もくはん詩2』以降は「虫眠館」になりますが、このときは「虫眠屋」です。
あとがきに、「○このむだなほねおりをおもしろがってくれる詩人の清水卓さん淵上喬さん井上多喜三郎さんたちはもういない。」と清水卓への言及があります。

 

『もくはん詩1』昭和44年(1969)限定30冊 たかはしてるお刊
この『もくはん詩1』は、残念ながら未見です。
2012年に金沢市の龜鳴屋から出版された、高橋輝雄のモノグラフ『もくはんのうた 高橋輝雄作品集』(外村彰編)に図版が掲載されていて、その内容の一部を知ることができました。
『もくはん詩1』に収録されている作品は、次の通り。

   首のない都 清水卓 1940年遺作
  手紙 小桜定徳
  カタログ1~5 たかはしてるお

『もくはん詩1~3』『もくはんのうた4・5』は、基本的にこの3人の詩作品で構成されています。
亡友とともに、戦時中に出すことのできなかった詩誌「風館」をつくる、そんな趣です。

『もくはん詩1』に掲載された清水卓の詩「首のない都」です。

   首のない都   清水卓

 多産な告白
 フロウ氏の貿易料理

 気球は美しい精神の
 切符制であるか

 不安な空港に
 偽名した官吏は

 赤い花々を爆撃する


『もくはんのうた 高橋輝雄作品集』(2012年、龜無屋)の、外村彰「高橋輝雄の小さな世界」では、清水卓について次のように書いています。

 清水卓の生歿出身は未詳。森孝一氏の教示によると、中学卒業後上京して昭和十七年日大芸術学園に入学、小桜など同年輩の詩友と同人誌を発行。学生時代は東京に下宿していたようだが、日大芸術学部の校友会に問い合わせたところ、卒業生に清水の名はなかった。高橋はその詩才を評価し、懇意になって幾度も逢っていたとのこと。しかし学徒召集のため昭和十八年十月八日に出兵、乗っていた輸送船が南洋上で沈められ戦死した。高橋は「卓氏が輸送船で戦死してからもう何年になるか。遺族の方の消息も知らない。〈鬼打ち〉という40枚ほどの小説が残されている」(『もくはんのうた5』)と記している。彼が清水の詩才をとても評価して、その詩を惜しんだのは、「戦死した詩人(中略)Sは世界中の道具の感覚を探ぐるすぐれた技師であった」(「冬の詩人」)と書き、彼の詩をたびたび自刻詩集に載せ、後年『清水卓詩抄』を編んだことからも知られる。「鬼打ち」原稿の所在は不明だが、あるいは清水が出征する折、高橋に詩稿の類を託していたのかもしれない。

外村彰編『もくはんのうた 高橋輝雄作品集』(2012年、龜鳴屋)

▲外村彰編『もくはんのうた 高橋輝雄作品集』(2012年、龜鳴屋)

 

高橋輝雄の『木版詩集』(1967年)『もくはん詩1』(1969年)に刺激をうけたのでしょうか。鹿児島の小桜定徳も、1969年に『親子詩集』、1970年に『似而非こめでい』を自費出版しています。『親子詩集』では、発行所の名前を「風館」としています。

小桜定徳の『親子詩集』(1969年、風館)

▲小桜定徳の『親子詩集』(1969年、風館)
『親子詩集』の表紙は、赤や茶色の和紙に、小桜定徳が手描きしたもので、そういう版が鹿児島県立図書館などに所蔵されていますが、この小桜貞徳旧蔵の『親子詩集』は、高橋輝雄が木版の表紙を作成したものを、後から貼り合わせています。『親子詩集』を受け取った高橋輝雄が新しい表紙を送ったのではないかと思われます。

『親子詩集』の序文は、高橋てるお師への手紙のかたちをとっており、そのなかに、亡くなった妹から「そんな生き方をしていたら、卓さんが泣きますよ」と言われたことが書かれています。この「卓さん」も清水卓のことだと思われます。

小桜定徳のもう1冊の作品集『似而非こめでい』は、未見です。

 

『もくはん詩2』昭和46年(1971)限定30冊 虫眠館
『もくはん詩2』に収録されている詩は、次の通り。

   1936年の遺作 清水卓
  エピソオド 小桜定徳
  カタログ たかはしてるお

目次と清水卓の詩の見開きです。

『もくはん詩2』昭和46年(1971)限定30冊 虫眠館

『もくはん詩2』のあとがきには「●卓さんが戦死してもう29年目になる.」とあります。

 

『もくはん詩3』昭和47年(1972)限定30冊 虫眠館
『もくはん詩3』に収録されている作品は、次の通り。

  故清水卓 灰いろのうた
  小桜定徳 時雨
  たかはしてるお カタログ
  「茗荷村見聞記」のさしえ

「故清水卓 灰いろのうた」のページです。目次では「灰いろのうた」、本文では「灰のうた 1940年作」になっています。

『もくはん詩3』昭和47年(1972)限定30冊 虫眠館

『もくはん詩3』あとがきには「■卓さんのは東京下宿時代の作品.」とあります。

『もくはん詩3』に収録された「茗荷村見聞記」のさしえは、田村一二(1909~1995)の『茗荷村見聞記』(1971年、北大路書房)のための木版画を再録したものです。田村一二は滋賀の近江学園の創始者のひとりで、『茗荷村見聞記』は障害のある人もない人もだれもが普通の人としてある世界を描いて、1979年には映画にもなっています。

高橋輝雄の木版詩集は、和紙に刷られていますが、その和紙は、近江学園で働いていた桑折司が主宰していた、健常者と障がい者が一緒に働ける作業所、星雲舎で漉かれた和紙です。

 

『もくはんのうた4』昭和51年(1976)限定30冊 虫眠館
『もくはんのうた4』に収録されている作品は、次の通り。

  貧乏といふ図体★清水卓
  晴天★伊藤茂次
  漂子句抄★小桜定徳
  カタログ★たかはしてるお
  川上さんの手紙抄録

この川上さんは、版画家の川上澄生(1895~1972)。高橋輝雄は、川上澄生に私淑したといってもいいくらい、影響を受けています。

「貧乏といふ図体★清水卓」のページです。

『もくはんのうた4』昭和51年(1976)限定30冊 虫眠館

 

『もくはんのうた5』昭和54年(1979)限定30冊 虫眠館
『もくはんのうた5』に収録されている作品は、次の通り。

  1942年の作品★清水卓
  ボクノユメ★小桜定徳
  カタログ★たかはしてるお

「1942年の作品★清水卓」のページです。

『もくはんのうた5』昭和54年(1979)限定30冊 虫眠館


あとがきで、次は清水卓の詩集をつくりたいと書いています。

☆次には健康が許せば清水卓詩集をこの形で作ろうと思う。卓氏が輸送船で戦死してからもう何年になるか。遺族の方の消息も知らない。〈鬼打ち〉という40枚ほどの小説が残されている。清水卓詩集は桑折司氏の和紙で作りたい。このもくはんのうた5冊目も桑折氏の紙で作るつもりだったが、桑折氏の紙は白鳳時代の紙作りそのままのほんとの手作りの素朴な紙なのでなかなか出来ないそうだ。桑折氏は青雲舎という施設を苦心して経営して、十数人で紙漉きや木工その他をこつこつ作って、時々作品展示会をひらいている。
☆清水卓氏のグループは二人の他、一人を除いて他の人々のことはわからない、その一人というのは旧家の暗いしこりのため、終戦後むごい死にかたをした。時々不思議な詩を作っていたが、何も残っていない。

 

『清水卓詩抄』昭和56年(1981)限定20冊 虫眠館

『清水卓詩抄』の目次のページです。

『清水卓詩抄』昭和56年(1981)限定20冊 虫眠館

 

小桜定徳旧蔵の『清水卓詩抄』は、限定20冊のうちの第1冊と第2冊です。

小桜定徳旧蔵の『清水卓詩抄』第1冊

小桜定徳旧蔵の『清水卓詩抄』第2冊

『清水卓詩抄』のあとがきを引用します。
清水卓という詩人について知ることができるのは、ほぼこの記述にある情報だけです。

☆卓氏(タクシと呼んでいた)の略歴を書こうと思ったが、考えてみると、殆んど何も知らないことに気がついた。生年月日も知らないし、生地も四国か九州かくわしいことを知らない。彼が戦死するまでの青春の数年間あれほどしげしげと往来したにもかかわらず、履歴書などは話のタネになったことが無い。戦争なども、同人誌も作れないのだからひどいもんだというだけであった。彼にとっては感覚だけがすべてだった。おどろくほど鋭い感覚で、ゴミ箱やガラクタの中から宝物を発掘した。このすぐれた鉱山師が手品のようにとり出す宝物を仲間たちは珍重した。
☆彼は定職を有たなかった。文学青年で道楽息子ということになるが、本人はくそまじめに生活する。本人もそう思っていた。世間の人はうさんくさげに眺めたけれどすっきりした性格と、人なつっこい笑顔で、つき合ってみたら案外魅力ある好人物なのだなということになったものだ。
☆この詩抄は彼が中学を出て数年間経ってから上京、日大芸術学院に入っていた頃の1942年の作品で、やがて学徒召集で入隊、1943年10月8日、南方の海で輸送船と共に海底に消えてしまった。遺された作品は、僅かな詩篇と40枚ほどの《鬼打ち》という習作一つだけだ。
☆書票の虫豸園というのは卓氏の屋号である。
☆流星のように消えたこの才能のためにはあまりにもささやかすぎる小冊子だが、手許に残された詩稿をこつこつと板に刻んだ。
☆なお、この小冊子の紙は桑折司さんの青雲舎の手漉紙で、素朴であたたかい紙なので、ぜひこの紙で作ろうと思っていた。バレンで摺りはじめると、どうも摺り損じが多くなり紙が足りなくなって、30冊予定が結局20冊限定となってしまった。

高橋輝雄が亡友のため、心を込めて刻み、小桜定徳のもとに残されたこの詩集は、清水卓の遺族のもとには届いていないと思われます。

 

『漂子拾句』昭和58年(1983)限定30冊 虫眠館

『漂子拾句』昭和58年(1983)限定30冊 虫眠館

漂子は、小桜定徳の号。
小桜定徳の俳句10句と、高橋輝雄による「漂子書屋」の書票を組み合わせた作品。
高橋輝雄による『漂子拾句』あとがきに、次のようにありました。

★風館の仲間のひとりは戦死し、ひとりは肉親の争いで死に、ひとりはマンダラと音楽を結んで組立てていたが、60才になって家を出て音信不通。今は、手紙の往来は定さんだけになったが、その手紙も忘れたころにぽつんと届きます。

 

 ♦♦♦ 

高橋輝雄と小桜定徳は、『清水卓詩抄』を、清水卓の遺族に届けられなかったようです。
この本を手にしてから、南洋に眠る清水卓の鎮魂のためにも、『清水卓詩抄』の存在をご遺族の方にお知らせしたいと思っているのですが、手がかりは少ないままです。

手がかりのひとつは、清水卓の妹の存在です。

小桜定徳が『南日本新聞』夕刊(1970年5月25日)に掲載した随筆「旅愁」で、清水卓と思われる人物の母親と妹を、その疎開先の宮崎まで訪ねた時のことを書いていました。その文章を引用します。

  「旅愁」   小桜定徳
 日向はその日雨だった。しとしとと、それは少しでも地に浸みわたる時をかせごうとでもいうように降る。ぼくは重たい軍靴を引きずりながら、さすがに服だけはよれよれの背広に着がえて宮崎に着いた。
 昭和二十一年四月。ぼくはひとりの女性、というより少女を捜しに、廃墟になったさつまの街から出かけて来た。少女は十六歳。くたびれて、いくぶん虚無的だったぼくに、復員後はじめてたよりをくれ、ぼくを叱咤したのである。いつまでも廃墟の中でうらぶれていてはいけないのだと。あなたももうすこし、しゃんとして、わたしたちの平和の街へいらっしゃいと、少女はぼくにその見開いた瞳を向けた。
 日向は静かな街だった。電車のない街はさして戦災を受けたようすもなく、平和な眠りをつづけていた。夜、着いたのである。
 ぼくは手紙の中の地図をたよりに少女の家を、何時間か、かかって捜しあてた。家といっても疎開先で、うす汚れた部屋ひとつ、それを少女と母親とふたりで借りていた。ぼくを見るなり、少女と母親の目から大粒の涙がぽつりぽつりとほおを流れた。ぼくも目がかすんでしまって、ものも言えないのである。少女は、その時、すでに人に知られた詩人であったし、ぼくの親友の妹でもあった。その友人は、二年前戦争のさ中に、ろそんの海に沈んでこの世を去った。
 しばらくして、母親が食事のしたくに座をはずしたとき、少女ははにかみながら一枚の紙をさし出した。「菫焚きませ 菫焚きませ 幼な子次郎の寝顔の上に でんでん太鼓や笙笛 里のおみやの風車 土笛そえてあげましょか 菫焚きませ 菫焚きませ 幼な子次郎の寝顔の上に」。あかりが暗かったゆえか。それともぼくのうるんだ目のせいか、それだけ読むのが精一杯だった。
 その夜は近くの旅館に泊まった。「宿帳に今宵同宿の人もなし、昨夜来しは四国松山の人」この歌がしきりと思い出された。少女の名は清水ゆき。その後消息を知らぬ。

 

この随筆がきっかけで、清水卓の妹、「清水ゆき」という詩人の存在を知ることができました。

清水ゆきは、昭和15年(1940)から昭和23年(1948)にかけて、京都の『新生』『岸壁』『詩風土』(いずれも臼井喜之助が主宰)といった文芸誌に、昭和21年(1946)から昭和30年にかけて、宮崎の文芸誌『龍舌蘭』に、作品を発表していることが分かりました。

宮崎の龍舌蘭社が8人の詩人を集めたアンソロジー『海道』(1950年)に、清水ゆきは8編の詩(「漂泊の靴」というタイトルの小詩集)を掲載し、そのノート「わが眞實への告白」で「戦さの南の海に散つていつた、いまは亡き兄上よ、詩人、淸水卓の靈に、幾枚かのこの貧しい妹が詩集を捧げまつらむ」と書いていますので、間違いなく、清水卓の妹でした。

この『海道』に清水ゆきのプロフィールがあれば、大きな手がかりになったのですが、残念ながら出身地や生年などは分からないままです。
ほかに手がかりとしては挙げられるのは、京都時代の詩に、地名として「伊予灘」が登場することです。伊予灘にかかる大分県・山口県・愛媛県にゆかりがあるのではと推測されます。

「わが眞實への告白」では、「詩作十余年」とも書いています。小桜定徳の「旅愁」では、「少女は十六歳」「少女は、その時、すでに人に知られた詩人であったし、ぼくの親友の妹でもあった」とありましたが、「十六歳」は、たぶん清水ゆきが詩を書き始めた年齢で、1950年の時点で、「詩作十余年」ですから、小桜定徳が1946年に宮崎に清水母娘を訪ねたときには、二十歳代なかばだったのではないか、と思われます。

昭和21年7月5日発行の『龍舌蘭』第1次23号の「後記」(山中卓郎)に「今号より(略)詩風土に拠る詩人、小村哲雄、清水ゆき(略)の参加を得た」とありました。清水ゆきは、この時期に、宮崎に移ってきたと思われます。
この号に掲載された清水ゆきの随筆「宮崎の町と私」には、「日向の國は私の故郷でありながら、はじめてふるさとを知る私は當然宮崎の町に知りべ一つなく、果ては東西南北さへよういはない迷子のやうな私であつてみれば、流轉をつゞける旅役者のやうな心細さを感じてしまふのがつねであつた。けれども、かまふもんか、私の故郷なんだもの」と書かかれており、頼りになる知り合いのないまま、母親と二人、終戦後の宮崎に移住してきたようです。

現段階で、清水ゆきについて分かっていることは、昭和30年(1955)まで、宮崎の『龍舌蘭』誌に作品を発表していた、というところまです。
生年・出身地・経歴など分からないままです。

『龍舌蘭』誌は、現在も刊行されていて、現在の『龍舌蘭』事務局の岡林稔氏に問い合わせたところ、当時の『龍舌蘭』編集部の面々〈黒木清次、黒木淳吉、安達征一郎=高部鉄雄、森千枝〉は既に亡くなられていて、清水ゆきの消息については分からず、残念至極の思いとのことでした。

 

 ♦♦♦ 

その後、 岡林稔氏より、『龍舌蘭』黒木清次追悼号の、藤崎晴誓「交遊四十余年」に、次の記述があることを教えていただました。

(黒木)清次さんと私の交遊はおよそ四十年以上にも亘る、私は終戦後昭和二十一年に県の社会教育課に席を置いた。社会教育主事として文化担当ということであったので、この時期に、むかし流でいえば文人墨客、今様ならば文化人といわれる人たちの多くに知遇を得ることができた。今宮崎市橘通りのワシントンホテルの建っているあの辺りに焼残りのビルがあり(たしか宮崎相互銀行の前身である宮崎無尽会社の建物であったと思う)そこが文化人の溜り場であったが、最も初期の時期にそこで清次さんに会ったように思うし、また清水ゆきという女流詩人が「白雪」という居酒屋を営んでいて、ここも文化人の出入りの多いところであったから、確かな記憶はないものの、清次さんにもよく会っていたのではないかという思いがある。

清水ゆきの「わが眞實への告白」に、「近年、およそ似つかわしくない仕事を持ち、慌しい、がさつな生活環境で、精神は荒廃し、習慣は自然を束縛し易く、少くとも、悲しい惰性の肉づきに驚く二年の空白」という記述があって、京都の女学校出身と思われる文学少女にとっての「およそ似つかわしくない仕事」とは何だったのだろうと考えていたのですが、清水ゆきは、はじめての土地で、「白雪」という居酒屋を営んでいたようです。

大きな手がかりです。残念ながら、この文を書かれた藤崎晴誓氏は亡くなられており、問い合わせることはできません。

昭和30年(1955)以降の清水ゆきの消息は、分からないままです。

 

清水卓のお墓は、今どこにあるのだろうか、と思います。
あったとしても、そこに納められているのは、南の海の底に沈んでいる遺骨ではなく、何かの遺品だけなのでしょうが。
それでも、清水卓の詩を忘れずに、残そうとした友人たちがいたことを、その墓前で報告したいです。

清水卓のような「文学青年で道楽息子」が南洋に沈んでいるというのは、無残です。

 

【追記】

『龍舌蘭』二百周年記念特集号

▲『龍舌蘭』二百周年記念特集号
令和2年(2020)5月25日発行
発行人 岡林稔
編集 龍舌蘭文学会事務局

岡林稔氏より、『龍舌蘭』二百周年記念特集号をご恵贈いただきました。
記念評論、南邦和(「龍舌蘭」の詩人たち)に、清水ゆきについて少し言及があったとのことでした。
その部分を引用します。

p.5
 「龍舌蘭」の詩人たちについて触れようとする時、この「詩集海道」の一冊が同人たちの〈戦前〉〈戦中〉〈戦後〉を繋ぐ結節点の役割を果たしているといえよう。「龍舌蘭」一一八号(平成元・3・1発行)は〈黒木清次追悼号〉となっている。この号の巻頭に組まれている四頁のグラビアには、黒木清次その人のプロフィールに重ねて「龍舌蘭」の歴史が刻まれている。その中に「詩集海道」刊行時のメンバー(中村地平、森千枝を除く)七人の集合写真がある。前列左から椅子に座った谷村博武、清水ゆき、黒木清次、後列には田村健二、田中長二郎、山中卓郎、小村哲雄が並んでいる。
 ほとんどがまだ三十代、まさに少壮気鋭の詩人たちである。紅一点の清水ゆきは和装で“マドンナ”的存在感を示しており、最年少の田村健二は白面の“貴公子”然としてカメラに収まっている。

p.5~p.6
 「詩集海道」に顔を揃えている「龍舌蘭」創刊同人については、のちに“列伝風”にその人と作品について触れてゆくが、その後消息の途絶えている清水ゆき、小村哲雄の二人について若干の補足を加えておきたい。清水ゆきは戦中・戦後のまだ封建制の強い男性優位の社会にあって、“女流詩人”として注目される存在であったが、その経歴は詳らかではない。「詩集海道」の巻末に「わが眞実への告白」という大仰な題での“自分史”が綴られている。

 私が詩を書き出したのは、確か十六歳の春だったと思ふ。詩作十余年を経たけれども、詩生活といふには、余りに不遜で、悔ひの残る、貧弱な、私の詩学修業だ。果てしない、白い白い砂丘の 黒い足跡を振返ってみるとき、わたしはそゞろ寒けさえ覚える始末である。

 この文章からすると「詩集海道」への参加は二十代後半か、詩集には「漂泊の靴」他七編の短詩が収録されている。自解による京都時代に発表された「郷愁」(昭16)「幼年のうた」「無題」(昭17)、その後「龍舌蘭」に発表された「雨」(昭20)の他、「地上のうた」(昭21「文化広場」)「漂泊の靴」(昭22「詩風土」)と、文字どおり漂泊の半生が窺われる。

   幼年のうた

 伊豫灘はよく荒い風が吹いた

 青梅の實るころになっても
 母上は歸っては来なかった

 日暮れになると
 鳶色の袴にいっぱい盗人草をつけて
 私は歸って来た

 日に日に父は黙りっぽくなり
 葱畠の横で鬚を生やした父が不器用に米を洗ってゐた

 障子の穴から
 海にみえ
 私はちひさく母を呼んだ

 薄幸の幼年期である。伝聞だが宮崎での清水ゆきの生計は“水商売”によって支えられていたという。その後の漂泊の旅路を含めて清水の作品には“失楽”と“傷痕”の翳りがつきまとってくる。印象に残る語句がある。

 あんまり旅人(ひと)を見送るので驛夫は故里を失ったのだ「驛夫の眼」

 

『龍舌蘭』118号(1991年)に掲載された「詩集海道」刊行時のメンバーの集合写真のコピーもお送り頂きました。

「詩集海道」刊行時のメンバーの集合写真

清水卓と清水ゆきの兄妹のことを知る手がかりになればいいのですが。

七人の中の山中卓郎については、「第234回 1956年の山中卓郎『坂の上』(2018年5月11日)」でも少し書いています。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

岸野雄一のミックスCD-R『ギラギラナイト ギラミックス Vol.1』(1997年)に、小野田寛郎(おのだひろお、1922~2014)の声があったのを思い出しました。

なぜだろうと考えたのですが、横井庄一(よこいしょういち、1915~1997)や小野田寛郎は、小桜貞徳(1923~1989)、高橋輝雄(1913~2002)と世代的に重なっているからかもしれません。

岸野雄一のミックスCD-R『ギラギラナイト』(1997年)

岸野雄一のミックスCD-Rは、あっという間に人を異世界に連れ去ってくれます。
今の世界の音の響き方とは、構造的に違った世界です。
1970年代の音源のなかでもドロドロしたとしか言いようのないものが多いので、ヘドロという言葉も浮かびます。
海の底に沈んでいる骨とは対極の、なまぐさい人の世界。


『ギラギラ大作戦 ギラミックスCDR Vol.2 岸野雄一』

『ギラギラ怪奇大作戦 ギラミックスCDR Vol.2 岸野雄一』

 

『お勉強大作戦 ギラミックスCDR Vol.3 岸野雄一』

『お勉強大特訓 ギラミックスCDR Vol.3 岸野雄一』

 

『ギラギラ外伝 俺ミックス ギラミックスCDR Vol.4 岸野雄一』

『ギラギラ外伝 俺ミックス ギラミックスCDR Vol.4 岸野雄一』

 

『台北の夜 A Night In Taipei Mixed by Yuichi Kishino』

『台北の夜 A Night In Taipei Mixed by Yuichi Kishino』

人の世には、おかしなものがいっぱいあります。

 

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235. 1978年のゲーリー・スナイダー『亀の島』サカキナナオ訳 (2018年5月30日)

1978年のゲーリー・スナイダー『亀の島』サカキナナオ訳表紙

 

1978年に刊行された、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder、1930~ )の詩集『亀の島』です。1974年にアメリカでピューリッツァー賞を受賞していて、一般的な評価も高い詩集です。後半部の「説話(Plain Talk)」は、その後の世界的な環境保護運動の指針となったテキストです。

翻訳者は、鹿児島の薩摩川内出身の放浪詩人・ヒッピー詩人、サカキナナオ(1923~2008)です。
「ななおさかき」であったり「ナナオサカキ」であったり、名前の表記は時と場合によって変わっています。NANAO SAKAKIの詩は、英語・フランス語はじめ十数か国語に翻訳されています。ナナオサカキは、ゲーリー・スナイダーやアレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg、1926~1997)といったビート詩人たちに、先を歩む人として尊敬される存在だったようです。

裏表紙には、ゲーリー・スナイダーの当時の家族写真が使われています。

戦後のアメリカの詩人というと、「Pale Face」と呼ばれる書斎派のジョン・アシュベリー(John Ashbery、1927~2017)と「Red Skin」と呼ばれるゲーリー・スナイダーが思い浮かぶのですが、去年亡くなったアメリカの詩人ジョン・アシュベリーが、最後にまとめていたコラージュ集がついに出て、そのコラージュと詩の結びつきが、絵に描いたような20世紀的様式だなあと面白かったので、アシュベリーの詩集を突っ込んでいた棚をひっくり返していたら、ゲーリー・スナイダーの『亀の島』(1978年)が出てきました。

 

ゲーリー スナイダー サカキ ナナオ訳『亀の島』 (1978年、「亀の島」を発行する会)奥付

▲ゲーリー スナイダー サカキ ナナオ訳『亀の島』 (1978年、「亀の島」を発行する会)奥付

 

ゲーリー スナイダー『対訳 亀の島』ナナオ サカキ訳(1991年、山口書店)カバー

▲ゲーリー スナイダー『対訳 亀の島』ナナオ サカキ訳(1991年、山口書店)カバー
1991年の対訳版の裏表紙には、ゲーリー スナイダーとナナオ サカキが同じ部屋で仕事をしている写真が使われています。

 

ゲーリー スナイダー『対訳 亀の島』ナナオ サカキ訳(1991年、山口書店)奥付

▲ゲーリー スナイダー『対訳 亀の島』ナナオ サカキ訳(1991年、山口書店)のプロフィールと奥付

『亀の島』には、ナナオサカキが登場する詩があります。英語版、1978年版、1991年版を並べてみます。

英語版

O WATER

   O waters
  wash us, me,
under the wrinkled granite
  straight-up slab,

and sitting by camp in the pine shade
Nanao sleeping
mountains humming and crumbling
  snowfields melting
  soil
  building on tiny ledges
for wild onions and the flowers
    Blue
  Polemonium

   great
   earth
   sangha

 

1978年版

  おお川よ

  おお 川よ
皺ぶかく 屏風となってそそり立つ
  花崗岩のかげ
  おお 川よ
浄めておくれ 僕らを この僕を

テントのそば 松の木かげにくつろげば
  ナナオは 静かに眠ってる
優しく歌い また砕け落ちる山々
  溶けてゆく雪原
  野ビルや花々を根づかせ
わけても青い花ショウブを咲かせようと
  小さな岩棚に積もりゆく
  土くれ

  聖なる
  地球の
  つどいかな

 

1991年版

おお水よ

おお 水よ 流れよ
浄めておくれ 僕らを この僕を

屏風のようにそそり立つ
皺深い花崗岩の根かた
テントのそば
松の木かげにくつろげば
ナナオは 静かに眠っている

呟き歌い くだけ落ちる山々
溶けてゆく雪原
小さな岩棚に積もりゆく 土くれは
野ビルを根づかせ
青い花菖蒲 咲かせようと

  聖 な る
  地 球 の
  集 い か な

 

結句にある「つどい・集い=sangha(サンガ)」は、パーリ語やサンスクリット語で「集い、団体、集団」などを表すことばで、音訳では僧伽(そうぎゃ)。こうしたインドのことばを使うのがヒップな時代もあったのですが、オウム真理教以後は、使いにくいことばになってしまいました。

 

ななおさかき『ココペリの足あと』カバー

▲ななおさかき『ココペリの足あと』カバー
ななおさかき詩集 1955 - 2005 原成吉編
2010年第1刷、2015年第2刷、思潮社
生前は、思潮社のような出版社から詩集が出版されることはありませんでしたが、亡くなってから選集が出ています。

目次には、詩が書かれた場所も掲載されています。
放浪詩人の足跡です。

奥秩父、屋久島、知床半島、霧島山、京都、出水特攻基地跡、ビッグスター・キャニオン、ダンカン・スプリング、西表島星立、沖縄、信州生坂村清水平、カリフォルニア・エルクヴァレー、南ロッキー・サングレデクリスト山地、リオ・グランデ、南ロッキー・サンディアクレスト、タオス平原、オーストラリア中央砂漠、エアズロック、キャンベラ、武蔵国分寺、フォッサマグナ・ピグミーの森、北海道カムイコタン、北海道忠別川、大鹿村、筑摩山地、信州岩殿山、信州犀川べり、シエラネバダ山地、メイン湾、天塩川、長良川中流、郡上八幡、タスマニア・ルーンリバー、韓国釜山市国連軍墓地、赤石岳、南房総・洲崎燈台、むさしいつかいち、伊豆半島、北海道剣山、みちのく相馬、ハワイ・ケヘナビーチ、ホノルル市、国道1号線・鈴鹿峠

 

日本のヒッピームーブメントでは、1960年代後半、ななおさかき、山尾三省、長沢哲夫、山田塊也らの「部族」がつくったコミューンが知られています。そのとき、鹿児島の離島、十島村の諏訪之瀬島や、奄美大島が選ばれます。

余談ですが、「部族」の人たちやビート詩人たちも年齢と比べてみると、ナナオサカキが年長であることが目立ちます。

 ナナオサカキ(1923~2008)
 山尾三省(1938~2001)
 山田塊也(1937~2010)
 長沢哲夫(1942~ )
 ゲーリー・スナイダー(1930~ )
 アレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg、1926~1997)

そうしたヒッピーたちの「カウンターカルチャー」を、地元の「郷土誌」はどう「書く・書かない」のだろうと思い、『十島村誌』(1995年)に移住したヒッピー達の記述を探してみたら、1800ページあっても、次のような記述ぐらいしかありませんでした。

戦後は人口減が続き、再び無人島化を懸念されたが、この島(諏訪之瀬島)に活気をよびこんだのは、“バイアン”グループと “ヤマハ”である。1967年(昭和42)年に、俗に“ヒッピー”とよばれた若者たちが島に移住して来た、島の人たちは、彼らをバイアンとよんでいた、彼らは、高度成長や都市化現象の文化に否定的な哲学を持っていたせいか、当初は異端視されていた。バイアン達は、やがて島の労働力の重要な担い手にとなり、定住者もふえて先住の島民との区別はなくなった。

バイヤンは「バンヤンアシュラム」のことのようです。
ゲーリー・スナイダーは、ナナオサカキはじめコミューンのメンバーの立ち会いで、 1967年に諏訪之瀬島で結婚式を挙げています。1978年版『亀の島』表紙の家族写真は、そのときできた家族の写真です。

奄美大島の『宇検村誌』(2017年)では、諏訪之瀬島から移った無我利道場のことが、枝手久島石油基地計画や、住民や右翼による無我利道場追放運動のこともあって60ページにわたって詳細に書かれています。
「カウンターカルチャー」についての記述は薄く、ナナオサカキやゲーリー・スナイダーの名前は登場しませんが、移住・定住のクロニクルとしては読み応えがありました。

 

未見なのですが、諏訪之瀬島のヒッピーコミューンについてのドキュメンタリー『スワノセ 第四世界』(上野圭一監督、1976年) という16ミリの映画があります。ゲイリー・スナイダーやアレン・ギンズバーグらビート詩人たちも出演しています。
英語タイトルは「Su-wa-no-se, the Fourth World」。

その「第四世界(the Fourth World)」というタイトルが気になっています。

この諏訪之瀬島の「第四世界(the Fourth World)」とは別に、アメリカのトランペット奏者ジョン・ハッセル(Jon Hassell、1937~ )が1970年代後半にはじめた、架空の場所の民族音楽をつくるパフォーマンスを「Fourth World」と名付けていました。

諏訪之瀬島の「第四世界」とジョン・ハッセルの「第四世界」には、つながりがあったのでしょうか?

 

Jon Hassell/Brian Eno『Fourth World Vol.1 Possible Music』

▲Jon Hassell/Brian Eno『Fourth World Vol.1 Possible Music』(1980年、Editions EG)
ジョン・ハッセルの「第四世界」ものの第一弾。邦題は『第四世界の鼓動』でした。
写真は2014年に再発された、ドイツのGlitterbeatレーベルからのリマスター盤。

 

Jon Hassell『Fourth World Vol.2 dream theory in malaya』

▲Jon Hassell『Fourth World Vol.2 dream theory in malaya』(1981年、Editions EG)
「第四世界」シリーズ第2作。邦題は『マラヤの夢語り』。
写真は2017年に再発された、ドイツのGlitterbeatレーベルからのリマスター盤。

 

Brian Eno + David Byrne『My Life In The Bush Of Ghosts』

▲Brian Eno + David Byrne『My Life In The Bush Of Ghosts』(2006年、Nonesuch)リマスター再発盤
オリジナルは『My Life In The Bush Of Ghosts』(1981年、Sire)。

この画期的なアルバムの発想源は、架空の民族音楽的音響世界を「第四世界」の名でつくっていたジョン・ハッセルと、ホルガー・シューカイのテープコラージュ作品で、そこから、あれよあれよと形になって、当時すごい!と思いましたが、この路線は続きませんでした。

このアルバムとTalking Headsの『Remain In Light』(1980年)は、何か時代の鬼子のようなアルバムです。今聴いてもすごいなあと思うものの、どこか居心地の悪さを感じます。イーノにとってもトーキングヘッズにとっても、その路線が継続されなかったアルバムで、それは何故だったのだろう、と改めて思ったりします。

『My Life In The Bush Of Ghosts』の2006年リマスター盤では、1981年盤B面1曲目の「Qu'ran」をはずして、差し替えています。立場によっては、宗教的冒涜、植民地的「収奪・簒奪」という見方もできて、手放しで賞賛するのは、引っかかりがあるということかもしれません。でも、そうした政治的正しさだけが理由ではなさそうです。

ビートは今も強く快楽の音を刻んでいるのに、晴れ晴れとしない、変な音楽です。雑味が多すぎるのでしょうか。

 

Holger Czukay『CINEMA』

▲Holger Czukay『CINEMA』(2018年、Grönland Records)
ホルガー・シューカイ(1938~2017)のCan以外の活動をまとめたCD5枚+DVD1枚のボックスが出ていました。
さかのぼって1960年の音源から収録されているのですが、ホルガー・シューカイが生涯ホルガー・シューカイだったことが分かるボックスです。
大のヒッピー嫌い、Phewの作品「Signal」も収録されています。

イスラム圏の音源を使ったテープコラージュは、このボックスを聴くと1960年代からのものだったようです。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Jon Hassell『Fascinoma』

Jon Hassell『Fascinoma』(1999年、Water Lily Acoustics) から「Nature Boy」を。

このアルバムはデューク・エリントンのキャラヴァンなどスタンダード曲を、ジョン・ハッセルの音響で再解釈していて、ジョン・ハッセルの色に暮れなずんでいます。

「Nature Boy」は、1948年のナットキングコールの歌唱で大ヒットとなり、スタンダードナンバーとなった曲ですが、その作詞作曲者、エデン・アーベ(Eden Ahbez、1908~1995)は、アメリカにおけるヒッピーの元祖のような存在の1人です。1908年生まれで、年長者ナナオサカキより、さらに15歳上です。
1940年代から長髪・ひげ、菜食、非定住の暮らしをしていて、1940年代の写真を見ると、スーツ姿の同時代人のなかで、まさに異人です。

1960年代後半から1970年代前半にかけての「ヒッピー・ムーヴメント」を支えていたのは、1930年代から1940年代に生まれた世代ですが、1923年生まれのナナオサカキや1908年生まれのエデン・アーベは、そうした動きに先駆ける人だったようです。

 

Eden Ahbez‎『Eden's Island(The Music Of An Enchanted Isle)』

▲Eden Ahbez‎『Eden's Island(The Music Of An Enchanted Isle)』
エデン・アーベは1960年に、Del-Fi Recordsから、1枚アルバムをだしています。 これもまた、どこでもない場所の音楽です。当時流行していたマーティン・デニー(Martin Denny、1911~2005)のエキゾチック・サウンド に近いつくりのアルバムです。
本名はGeorge Alexander Aberleで、エデンは自分でつけた名前です。エデン(楽園)の住人であることの表明だったのでしょうか。
写真は、1995年アーベが交通事故で亡くなったあと、Del-Fi Recordsから再発されたCD。

 

ナナオサカキ『犬も歩けば』

▲ナナオサカキ『犬も歩けば』(1983年初版、2004年新装版第1刷、2010年新装版第2刷、野草社)
エデン・アーベもナナオサカキも、「ヒッピー」ということばから連想され、期待される風貌をしています。

 

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234. 1956年の山中卓郎『坂の上』(2018年5月11日)

1956年の山中卓郎『坂の上』表紙

 

表紙の絵をみて、「あれ?」と思い、見てみたら、柳亮(1903~1978)の『巴里すうぶにいる』(1936年、昭森社)と同様、海老原喜之助(1904~1970)が装幀した本でした。

いわゆるジャケ買いです。
残念ながら裸本で、カバーがどんなものだったかは分かりません。

表紙の寝そべる犬は、例えば貧困という文脈では、まず描かれることのない姿勢の図像です。ゆとりのある暮らしと結びついた姿勢の図像です。

山中卓郎という詩人の名前は初めて知りました。

宮崎の文芸誌『龍舌蘭』が昭和13年(1938)4月に創刊されたとき、谷村博武、高橋勇、黑木清次らとともに、創刊メンバーだった人です。

詩集『坂の上』は、山中卓郎の最初で最後の詩集です。1956年4月、詩集の制作準備も終わったところで、脳出血で倒れ、急逝。43歳でした。

そのため、詩集『坂の上』は、山中卓郎が亡くなった後、仲間たちによって編集・出版され、仲間たちが追悼の文章を寄せています。
発行者は「竜舌蘭社内 故山中卓郎詩集刊行ならびに詩碑建設委員会」となっています。
入手した本には、「五六年八月十四日」の日付が書き込まれた新聞(たぶん日向日日新聞)の切りぬきも貼り込まれていました。落合政行の《山中卓郎詩集『坂の上』に思う》という、「卓ちゃん」と呼んでいた仲間を悼む文章でした、

 「序」  中村地平
 「解説」 上原和
 「跋」  黑木清次
 「構成」 谷村博武

中村地平(1908~1963)の序文「山中卓郎君の死その他」に次のようにあります。

生前、卓郎君は処女詩集をまとめることに熱中していた。宮崎に縁故のふかい海老原喜之助さんに、表紙の絵をかいてもらう約束ができたことを、ひどくよろこんでもいた。死後、奥さんの忍さんにきくところによると、たおれたちようどその日、卓郎君は詩集の整理がようやくおわり、ほつとするのと同時に、ひどい疲れをだしていたという。

 

装幀 海老原喜之助

▲装幀 海老原喜之助
海老原喜之助の『坂の上』表紙絵は、「坂の上」の「ふと足をとめて 花屋の窓を覗くだろう」という詩句や、「捺し花」という詩と、イメージを共有しているのかもしれません。

 捺し花    山中卓郎

ふるさとの
暑い陽ざしのなかを
向日葵と黍のゆれてゐる路で別れたひと
人目を避け
パラソルのかげで心をこめて贈つてくれた

美しい夕焼が別府湾を染めて走る
ながい日豊線の車中の隅で
いくたびか 私は
その包を 開けてみたり しまつたりした

くり返し 波のやうに
泡だちながら 日は追憶(おもひ)はすぎて行った

 

山中卓郎 詩集『坂の上』扉

▲山中卓郎 詩集『坂の上』扉
戦争の前、山中卓郎は、宮崎から東京に出て、中村地平の紹介で、詩人の津村信夫(1909~1944、映画評論家津村秀夫の弟)に師事。軍隊経験を経て、戦後、宮崎に戻って日向日日新聞社に入り、『卓』の署名で映画批評を書いていたそうです。

山中卓郎の詩に使われる言葉をピックアップしてみます。

「水平飛行、照準、吸盤、着陸、ゴムの車輪、ラムプ、飛行機、落差、距離、ファインダー、電柱、フロア、舞台、踊り場(ホール)、ハイヒール、脂肪、体温、ハイヒール、映画館、休憩時間、夜明けの汽車、蒸気、自動車(くるま)、廣場、曲線、直線、軌道(レール)、交叉点、車庫、緑色の電車、写眞、視野、事務所、雜踏、燐光(ひかり)、フイルム、振子、船艙(ハッチ)、船橋(ブリッヂ)、月齢、風力、海図台、舵輪(ホイール)、外套、ノース七〇度ウエスト、二点鐘、焼土、瓦礫、歯刷子、兵隊、焦土、軍衣、大八車、容器、水道の蛇口、停留所、公用、戰友、葉書、昭和二〇年八月、車道、技師、堤防、機関車、スレート、焼跡、円匙、体温、パラソル、アパート、間借り、外食券、食堂、花屋、靴屋、南方高地、カンテラ、鑛山、胡桃色のコート、オパール、スクリュウ、鋼鉄の羽根、重油、僚船、駆逐艦」

映画・自動車・飛行機・汽車・船などにかかわる20世紀的な用語を詩語として使っています。そうした言葉を通して、地方都市生活者の抒情と憂鬱を詩にしようとしていたように思われます。おしゃれというか、洒脱な人だったのでしょうか。
海老原喜之助の表紙絵のような詩が理想だったのかもしれません。

山中卓郎の詩に使われた固有名詞を抜き出してみると、「能登丸、三田車庫、森永の二階、八重山群島、プリンス・イゴール、銀座裏の事務所、豊後水道、水ノ子島燈台、大江山、白鶴、富久娘、桜正宗、阪神國道、生田川、東神戸、三ノ宮駅前、筑豊炭田、阪神沿線、リルケの小説、別府湾、日豊線、根子・久住、肥後の馬見原 」と、宮崎にかかわるものより、東京や神戸にかかわる固有名詞が多く、宮崎という地域性に根ざしたというより、「都市生活者」の詩という印象です。
固有名詞だけ見ると、谷崎潤一郎などと同時代人だったのだなと思います。

 

山中卓郎 詩集『坂の上』奥付

▲山中卓郎 詩集『坂の上』奥付
『坂の上』には、1956年の「水平飛行」から、1938年の「相聞」にさかのぼる形で、35篇の詩が収録されています。

その冒頭を飾り、遺作となった「水平飛行」です。

 水平飛行    山中卓郎

ぼくは借りもの。
そこぬけひろい花道うぃ
ぶらさがつて通るだけ。

鏡が怖いんだ。
跳び越すたびに
太陽の破片がぼくを狙う。
ちらばつて
たえず照準をあわせている。

ぼくは酩酊する。
時間の吸盤からすべり落ちる。
肘の下で
氣やすく女を想うな。
つまらぬお喋りをするな。
さつきから
ぼくの軀はきしみどおし。

持主のいない空の上。
雲がひろがる。
借りものの目がかすむ。
贋せものの耳が鳴る。
やがて
ゆれる干潟も近づいてくる。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

PHEWの1992年のアルバム『our likeness』

イギリスの音楽誌『WIRE』誌2018年5月号の「Invisible Jukebox(目かくしジュークボックス)」のゲストはPHEWで、1960年代的なもの、フラワームーヴメントやらヒッピーやらアングラやら大嫌いだと断言してインタビュアーをたじろがせる、パンクな姿勢を貫いていました。

このインタビューの最後で、PHEWの1992年のアルバム『アワ・ライクネス(our likeness)』の話になり、無性に聴きたくなりました。

 Chrislo Haas: keyboards, piano, altosax
 Jaki Liebezeit: drums, percussion, piano
 Alex Hacke: guitar, piano
 Thomas Stern: bass guitar
 Phew: Vocal

というメンバーで、ドイツのコニー・プランク(Conny Plank、1940~1987)のスタジオで録音されたアルバム。
コニー・プランクのスタジオはもう存在しませんし、ヤキ・リーベツァイト(Jaki Liebezeit、1938~2017) もクリスロ・ハース(Chrislo Haas、1956~2004)も亡くなりました。

この音空間は、20世紀の遺産です。

PHEWの演奏を生で見たのは一度だけです。
2000年5月のSLAPP HAPPY 日本公演のサポートで、「Phew+山本精一」という名前で登場。
そこで聴いた「ひとのにせもの」 は、それまで聴いたなかで、もっとも凶暴でパンクな音楽でした。しびれました。

 

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233. 1936年の柳亮『巴里すうぶにいる』(2018年5月9日)

1936年の柳亮『巴里すうぶにいる』

 

秋朱之介(西谷操、1903~1997)は、昭和10年(1935)、「新宿」(淀橋区角筈1ノ1 エルテルアパート)から「銀座」(京橋区銀座2-4)に転居します。そこに森谷均(1897~1969)が訪ねてきて、森谷は近くに部屋を借りて、昭森社が立ち上げることになります。昭森社の住所が「京橋区銀座2-4」だった1年間に作られた本には、秋朱之介がかかわっていると思われ、やはり手にとってみたくなります。

残念ながら、鹿児島の図書館にはその時期の本は架蔵されておらず、「日本の古本屋」サイトなどで、手ごろなお値段の昭森社の本を少しずつ入手しています。手ごろなお値段だけあって、「函コワレ・テープ補修有・日焼・汚れ有・蔵印・整理シール有・のど痛み」といった状態のものですが、実物の持つ力はあります。

写真は、柳亮(やなぎりょう、1903~1978)の『巴里すうぶにいる』(1936年7月、昭森社) 。
装幀は海老原喜之助(1904~1970)です。

同じ鹿児島出身の秋朱之介(西谷操)と海老原喜之助については、「西谷は詩を書かないで、フランスから帰国したばかりの海老原喜之助などと親しくしていた」と、江間章子(1913~2005)が回想していますので、謎ばかりの初期昭森社の制作現場ですが、この『巴里すうぶにいる』の制作にも秋朱之介が関わっている可能性がありそうです。
秋朱之介は、1936年に刊行された昭森社のPR誌『木香通信』4月号で、「閨秀新人春の詩集」という小特集を組んでいて、江間章子ら6人の女性詩人の詩を掲載していますので、時期的にも、このころと思われます。

柳亮については、黄金分割の人だよなあというぐらいの印象しかなかったのですが、この、30歳代男の、20歳代に過ごしたパリ時代の回想は、今でも楽しく読める本で、ちょっと意外でした。

少し古い例えになりますが、NHK-FMで深夜にやっていたクロスオーバーイレブンという番組で、津嘉山正種がこの文章を朗読しても、そのまま成り立つような文章です。そういうものが好きか嫌いかという問題もありますが、結構しゃれています。

柳亮はあとがきのノートで《「物語」のバックになつてゐる年代は、一九一三年から一九三一年までの間である、現在では、多少事情の異つてゐる事柄もあるかも知れないと思つてゐる。「物語」の凡てが「實説」であるとは私は言はない、私はただ實説らしく書いたに過ぎない。》と断っていますが、虚実入りまじって、1920年代モンパルナッスの有名藝術家も多数登場し、話題も1920年代のパリの芸術家達から美食・賭博までと幅広く、とても軽やかで楽しい本でした。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)表紙

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)表紙
装幀は、海老原喜之助。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)見返し

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)の見返しの絵は、海老原喜之助。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)口絵の一つは、藤田嗣治

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)口絵の一つは、藤田嗣治(1886~1968)による柳亮のポルトレヱ。
「1936」とありますから、この本のために新たに描いた肖像と思われます。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)口絵の一つは、有島生馬

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)口絵の一つは、有島生馬(1882~1974)による「ルユクサンブール」風景。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)装幀 海老原喜之助

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)
装幀 海老原喜之助
イニシアルカット カメラ 蘆原友信
挿絵は、林武、三雲祥之助、中西利雄、峰岸義一、田中行一、高畠達四郎、清水多嘉示、向井潤吉、松田康一、岡田謙三、島崎鶏二、中村研一、山本豊一、佐藤敬の絵が使われています。
パリ在住経験のある画家の見本市です。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)のイニシアルカット

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)のイニシアルカット
各テキスト冒頭に、蘆原友信の写真がイニシアルカットとして使われています。蘆原友信は藤田嗣司の甥。

本文用紙には、東郷青児『手袋』『カルバドスの唇』、ロバアト・バアトン『憂欝症の解剖』などと同様、「MOSES SUPERFINE」の文字がすき込まれている用紙が使われています。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)奥付

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)奥付

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年、昭森社)の近刊広告

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年、昭森社)の近刊広告
昭森社のPR誌『木香通信』4月号・6月号に掲載された『巴里すうぶにいる』の広告。
「定價3圓」で予告されていましたが、実際は「定價二圓五十錢」でした。

 

柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)広告

▲柳亮『巴里すうぶにいる』(1936年7月18日発行、昭森社)広告
昭森社のPR誌『木香通信』8月号に掲載された『巴里すうぶにいる』の広告。この号では、4月号・6月号に多く見られたような秋朱之介の記名入りの広告がなくなるのですが、この酔いしれたような広告コピーは、秋朱之介が書いたもののように思われます。

4月号・6月号の近刊予告と、8月号の刊行後の広告を比較すると、挿絵の提供者に違いがあります。
『木香通信』4月号・6月号広告にあるが、本には掲載されていない画家は、兒嶋善三郎、佐分眞、長谷川春子。
刊行された『巴里すうぶにいる』に掲載されたが、『木香通信』4月号・6月号広告にはない画家は、林武、中西利雄、峰岸義一、田中行一、高畠達四郎、松田康一、佐藤敬。

「原稿が来ない」とか「別の人に依頼しよう」とか、制作の現場は、かなりバタバタしていたのかもしれません。

木香通信6月号の編集後記で秋朱之介は、「次號は巴里すうぶにいる特輯。日本にゐて巴里を散歩しやうといつたすばらしい豪華版。」と予告していましたが、三浦逸雄が編集の主導権を握った、木香通信8月号では、巴里すうぶにいるの特集が組まれることはありませんでした。

 

ここで、昭和11年(1936)の昭森社の本を何冊か並べてみます。状態の良い本を並べたいところですが、状態のよくないものばかりで、すいません。

まずは、昭森社が最初に出した本、小出楢重(1887~1931)の『大切な雰圍氣』。これは1936年3月10日発行の第4版です。『大切な雰圍氣』は、版ごとに装幀が違います。

 

小出楢重『大切な雰圍氣』(1936年3月10日4版発行、昭森社)の箱と表紙

▲小出楢重『大切な雰圍氣』(1936年3月10日4版発行、昭森社)の箱と表紙
昭森社の最初の本です。森谷均は、この小出楢重の遺稿を出版するために大阪から上京しました。
これは、第4版です。
装幀者の名前は記載されていませんが、秋朱之介が、大内白月『支那随筆魚目集』(1934年8月、三笠書房)や、山口青邨『花のある風景』(1934年10月、龍星閣)を装幀するときに使った臘(蠟牋か?)花模様唐紙を使われているので、『大切な雰圍氣』第4版の装幀は、秋朱之介の仕事と思われます。

 

大内白月『支那随筆 魚目集』

▲大内白月『支那随筆 魚目集』(1934年8月、三笠書房)の臘(蠟牋か?)花模様唐紙を使った表紙。秋朱之介装幀。

 

山口青邨『花のある風景』(1934年)の臘(蠟牋か?)花模様唐紙を使った表紙

▲ 山口青邨『花のある隨筆』(1934年)の臘(蠟牋か?)花模様唐紙を使った表紙。秋朱之介装幀。

 

小出楢重『大切な雰圍氣』(1936年3月10日4版発行、昭森社)奥付

▲小出楢重『大切な雰圍氣』(1936年3月10日4版発行、昭森社)奥付
手もとにある本には、検印紙に検印が押されていませんでした。初版から4版までの発行日付を書いておきます。

昭和11年1月6日 初版発行
昭和11年2月6日 再版発行
昭和11年2月28日 3版発行
昭和11年3月10日 4版発行

再版と3版の間の1936年2月26日に、二二六事件が起こったために、昭森社の業務は、だいぶ滞ったようです。
秋朱之介は、そのころのことを、『太陽』330号(1989年2月、平凡社)のインタビューで、次のように回想しています。

 その頃は、全部、私の思いどおりのことをやっていたんですよ、好き放題ね、勝手なものを作っておれたんです(笑)。そのかわり、金はかけましたよ。
 いつも銀座で飲んで歩いた、毎晩ね(笑)。ちょうど僕は銀座に住んでたから、いやでも呼ばれちゃうんだ。岡崎って、堀口さんの専属の店があって、堀口さんが来ると、女給さんが家まで呼びにくるんですよ。文士ってみんな遊ぶ人ばっかりだからね。
 城左門と石川淳と私の三人でよく通ったのがスリーシスターズ。二・二六事件の時、雪の降る中、朝早くね、城君が僕のところに知らせに飛び込んできた。あれも家に帰ってないのだ、どこかで遊んでいて軍隊を目撃したんだな(笑)。

 

「をかざき」の広告

▲『木香通信』4月号に「御酒所 をかざき」の広告がありました。「京橋区銀座二ノ四」時代の秋朱之介や最初の昭森社事務所と同じ住所です。大の永井荷風マニアの女将、岡崎えんがいとなむ小料理屋で、秋朱之介はじめ昭森社にかかわる人や堀口大學らもひいきにしていた店でした。
岡崎えんについては、吉屋信子の「岡崎えん女の一生」という作品があります。

『本の手帖 別冊森谷均追悼文集』(1970年、昭森社)に収録された「創業三〇周年インタビュー」(昭和39年12月14日号、日本読書新聞)に次のような森谷均の証言がありました。

当時は銀座二丁目に本拠をかまえていた。石川淳のいきつけで猛烈な荷風ファンのおかみのいる呑み屋の紹介で借りたのだが、借りてみて驚いた。なんとそこは、清水港の次郎長の乾分小政の家だった。

 

小出楢重『大切な雰圍氣』(1936年3月10日4版発行、昭森社)にはさまれていた昭森社のちらし

▲小出楢重『大切な雰圍氣』(1936年3月10日四版発行、昭森社)に、はさまれていた昭森社のちらし
『木香通信』三月号の創刊予告がありますが、二二六事件のために、創刊号の刊行は四月になりました。

三月新刊に佐藤春夫(1892~1964)の『華麗島遊記』がありますが、これは梅原龍三郎(1888~1986)の装幀で、『霧社』とタイトルを変えて、1936年7月15日に発行。
秋朱之介の自信作でしたが、売上げの想定を低く見積もって500部しか作らなかったため、印税を期待していた佐藤春夫とけんかになったそうです。

【追記】近刊ちらし左にある井上和雄『寶舩考』については、「第268回 1936年の井上和雄『寶舩考(宝船考)』(2019年3月19日)」を参照。

 

ロバアト・バアトン 明石讓壽訳『憂欝症の解剖』第一巻 病状編(1936年4月30日発行、昭森社)表紙

▲ロバアト・バアトン 明石讓壽訳『憂欝症の解剖』第一巻 病状篇(1936年4月30日発行、昭森社)表紙
箱なしの裸本で、表紙の革も破けて、外側の状態はかなり悪いですが、読むぶんには、今も丈夫な本です。
第二巻「治療篇」、第三巻「戀愛篇宗教篇」と続く全三巻の予定でしたが、この第一巻だけしか刊行されませんでした。

『木香通信』4月号の編集後記で秋朱之介が「私が社の刊行プラン中、最も力を入れてゐるものは、ロバート・バートンが「憂欝症の解剖」である。本書をどこよりも先に出版し得るといふことは出版社の名譽である。約七八年前私はこの特装原書を珍重してゐた。私は本書の装幀にもまた全力を注いでゐる。 」と書いていますので、秋朱之介の企画・装幀と思われます。

 

ロバアト・バアトン 明石讓壽訳『憂欝症の解剖』第一巻 病状編(1936年4月30日発行、昭森社)扉

▲ロバアト・バアトン 明石讓壽訳『憂欝症の解剖』第一巻 病状篇(1936年4月30日発行、昭森社)扉

 

▲ロバアト・バアトン 明石讓壽訳『憂欝症の解剖』第一巻 病状篇(1936年4月30日発行、昭森社)奥付

 

高畑棟材『山麓通信』(1936年6月19日発行、昭森社)箱と表紙

▲高畑棟材『山麓通信』(1936年6月19日発行、昭森社)箱と表紙
本文中に「秋朱之介装」との記載がある本です。

1936年6月付の「序に代へて」の謝辞のなかにも、秋朱之介の名前もあります。

折に觸れ、興に乘じて書き貯めておいた聞書や隨想や紀行の一部が、このやうに一つの書物に纏められるやうになつたのは、全く昭森社森谷均氏の好意に他ならない。また、本書の出版にいろいろ骨折つて下さつた秋朱之介・三浦逸雄の兩氏、常に助言を惜しまれなかつた明石讓壽・荒井道太郎の兩兄、動植物其他に關する照會に對していつも懇切な回答を寄せられた高力幸太郎兄、貴重な寫眞を快く貸與された御器谷勝二氏、東章氏、岩瀨主一氏、加藤元一氏等に茲で改めて感謝の意を表する。

このときには、昭森社の編集部が、秋朱之介・三浦逸雄の二人になっていたようです。

 

高畑棟材『山麓通信』(1936年6月19日発行、昭森社)奥付

▲高畑棟材『山麓通信』(1936年6月19日発行、昭森社)奥付

 

昭森社は、昭和11年(1936)8月、秋朱之介の住んでいた「京橋区銀座二ノ四」を離れ、「京橋区木挽町三ノ二」に事務所を移転します。どういう経緯で移転になったかわかりませんが、この移転で昭森社と秋朱之介の関係が薄くなったのは確かです。

 

「京橋区木挽町三ノ二」時代の昭森社の本も1冊紹介します。

『巴里すうぶにいる』の柳亮が翻訳した、マリヤ・カステルスカ『ポドラシイの傳説』(Marya Kasterska『Legendes et Contes de Podlachie』原著刊行は1928年)です。
発行日は、昭和11年10月5日。

手もとにある本は、「日本の古本屋」サイトで購入。「初版、裸本、蔵印・整理シール、のど少痛み、本文は並」という状態のもの。届いた本を見ると、「浅野文庫」とあります。 もしかして、旧広島藩主浅野家の文庫にあったもので、原爆の被災を免れたものでしょうか。

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)表紙

▲マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの傳説』(1936年10月5日発行、昭森社)表紙

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの傳説』表紙画三岸節子

表紙画は三岸節子(1905~1999)。

ポドラシイ(ポドラシェ)は、ポーランド北東部にあり、リトアニアと隣接する地域。その地域の物語詩と昔話を集めた本です。昏い宿命に支配されたような、「痛快」とは無縁の世界観の物語詩と昔話が続きます。
柳亮がなぜこの本を訳そうとしたのかは、定かではありません。
諦めた者のユーモアが感じられる本です。

 

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)扉

▲マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)扉

 

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)口絵01

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)口絵02

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)口絵03

▲ マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)口絵
「挿繪 波蘭古版畫」とありますが、口絵などに使われているのは、同時代のポーランドの版画家、 ヴワディスワフ・スコチラス(Władysław Skoczylas、1883~1934) の作品です。
スコチラスの名前を出せない理由があったのでしょうか。

 

マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)奥付

▲マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)奥付

「京橋区木挽町三ノ二」の時期は長く続かず、森谷均は、昭和11年(1936)12月、「小石川区大塚坂下町一〇二」の自宅に事務所を構えます。銀座からいったん撤退です。

 

1936年10月の昭森社刊行書目01

1936年10月の昭森社刊行書目02

1936年10月の昭森社刊行書目03

▲マリヤ・カステルスカ 柳亮訳『ポドラシイの伝説』(1936年10月5日発行、昭森社)巻末の昭森社刊行書目
昭和11年のすべての昭森社の書目が掲載されているわけではなく、ロバアト・バアトン 明石讓壽訳『憂欝症の解剖』などは掲載されていません。

しかし、莊原照子の『マルスの薔薇』や、近刊とある『左川ちか詩集』を、新刊で手にしたら、どんな感じだったのかと想像します。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』

1980年のアクサク・マブール(Aksak Maboul)の『un peu de l'âme des bandits』のA面1曲目、カトリーヌ・ジョニオー(Catherine Jauniaux)のけたたましい声が響きわたる「A MODERN LESSON」で目覚めたい朝もあります。
写真は、2017年のアナログ再発盤です。

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』は、1980年の顔のようなアルバムの1枚と思っていますが、ジャケットに勃起した男性器が描かれているために、人に薦めにくいという難点があります。
描いたのは、オランダのPat Andreaという画家で、今も変わらず、ずっと、エロチックな異形の夢を描き続けている画家です。

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、Crammed Discs)裏ジャケ

▲Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、2017年、Crammed Discs)裏ジャケット
Aksak Maboulの中心人物 Marc Hollander(マーク・オランデル)は、 このアルバムをリリースするために「Crammed Discs」というレーベルを1980年に立ち上げます。このレーベルは、毎年、10作品ぐらいをリリースし続けていて、今も続いています。
アルゼンチンのファナ・モリーナ(Juana Molina)とか、 周縁の優れものを見いだす、ベルギーのレーベルという印象。
1980年に出たアルバムが、 2017年に、同じインディーズ・レーベルから再発される、 というのも、意外と珍しいことなのかもしれません。

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、Crammed Discs)ラベル Side A

▲Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、2017年、Crammed Discs)再発盤ラベル Side A

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、Crammed Discs)ラベル Side B

▲Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、2017年、Crammed Discs)再発盤ラベル Side B

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、Crammed Discs)ブックレット

▲Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、2017年、Crammed Discs)ブックレット
2017年の再発盤には、25㎝×25㎝、24ページの充実した回顧ブックレットがついて、それだけでも買いです。

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、Crammed Discs)ボーナスCD

▲Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』(1980年、2017年、Crammed Discs)ボーナスCD
2017年の再発盤には、80分近い音源を収録したボーナスCDもついています。
Aksak Maboulのデビューは1977年で、 ボーナスCD『Before and after bandits』には、1977年~1980年のデモ・ライヴ音源と2015年の再編ライブを収録。1980年のAksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』のパンクでプログレでタンゴで民族音楽で、とにかくごった煮な闇鍋になっていく前の世界です。聴き応えありますが、カトリーヌ・ジョニオー(Catherine Jauniaux)は登場しません。
この再発盤は、40周年の記念ということのようです。
さらに、この2017年のアナログ再発盤には、本盤とボーナス盤のデジタル音源ダウンロード権もついています。価格も通常のアナログ盤のお値段で、ほんとうにかゆいところまで手が届く再発盤でした。

 

Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』の2008年の日本再発盤

▲Aksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』の2008年の日本での再発盤CD
邦題は「無頼の徒」でした。

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232. 1956年の『POETLORE(ポエトロア)』第8輯(2018年4月30日)

1956年の『POETLORE(ポエトロア)』第8輯

 

石邨幹子(いしむらみきこ、西尾幹子、1900~1986)の翻訳や作品で、雑誌などに掲載されたものを、ウェブなどで少し調べてみました。

小山書店から出ていた詩誌『POETLORE(ポエトロア)』でも、石邨幹子訳のフランス女性詩人の詩が掲載されていて、特に1956年8月発行の第8輯では、7人の詩人を取り上げていました。


大雑把なまとめです。

『心の花』竹柏会

第33巻8号、昭和4年(1929)8月
西尾幹子「八月集(一)」

第34巻5号、昭和5年(1930)5月
西尾幹子「五月集(その三)」

第43巻10号、昭和14年(1939)10月
石邨幹子「五軒町の叔母さま」

第43巻11号、昭和14年(1939)11月
石邨幹子「秋晴の日に」

第45巻6号、昭和16年(1941)6月
石邨幹子「ゆめの中の」

 

ポオル・ジェラルデイ著, 西尾幹子訳『お前と私』
三笠書房、昭和9年(1934)

ポオル・ジェラルデイ著, 西尾幹子訳『お前と私』

 

マリイ・ロオランサン著 石邨幹子訳『夜たちの手帳』
山本書店、昭和15年(1940)

 

『鶯』2巻6号
那木の葉会、昭和16年(1941)6月
石邨幹子「異敎の女神」(詩)

 

石邨幹子訳『つみくさ: 現代フランス閨秀詩選』
桜井書店、昭和18年(1943)5月20日

 

石邨幹子『不滅の蝶: ギリシャ神話より』
ノア書林、昭和23年(1948)9月30日

 

ジャン・ド・ブリュノフ著 いしむらみきこ訳『象ちゃんババアルのおはなし』
世界文学社、昭和24年(1949)7月5日
昭和24年度の毎日出版文化賞の候補になっていました。

【2021年1月23日追記】第334回 1949年の『象ちゃんババアルのおはなし』(2021年1月23日)」で紹介しています。

 

『Books』(51)
Booksの会、小山久二郎編 昭和29年(1954)7月
ノアイユ伯爵夫人、石邨幹子訳「金星」

 

『内在』
内在の会(茨城県水戸市)
編集兼発行人 森田勝壽

『内在1』
昭和30年(1955)5月1日
ノアイユ伯爵夫人、石邨幹子訳「燃える死」
石邨幹子「ノアイユ夫人について」

1955内在1

『内在2』
昭和30年(1955)8月
ノアイユ伯爵夫人、石邨幹子訳「湛は影と月とを有す」

『内在3』
昭和30年(1955)12月
石邨幹子「限りなき夢」
ノアイユ伯爵夫人、石邨幹子訳「胡椒の木のある小さな庭園よ」

1955内在3

この号に収録された石邨幹子の短いエッセイ「限りなき夢」で、石邨幹子の戦中戦後の様子をうかがい知ることができます。「蟻の塔」というのは、『内在』誌のエッセイ・コーナーのタイトルのようです。
 「限りなき夢」を引用します。

☆蟻の塔☆ 限りなき夢   石邨幹子

 ノアイユ伯爵夫人の最初の詩集、「限りなき心」を、昭森社から出版することになった。十年近くしまい込まれてゐたこの仕事も、今年中には世の中に出る、三岸節子さんが美しい着物を着せて下さる筈。
 ノアイユ伯爵夫人の作品にはじめて手を触れたのは昭和十五年の秋、フランス女流詩選「つみくさ」の材料を集めかけた時である。けんらんと烈しさとから、わたくしはこの詩人には近づき難かった。しかしこの世紀の女流詩人の中から抜かしてはならない人なので読みはじめたのが、一つの機縁といへよう。そしてアントロジイと詩集から十六篇を選び出した頃は、すっかりこの詩人にとりつかれてゐた。
 戦後の混乱の時代、わたくしはただむしょうにノアイユ伯爵夫人の作品を訳してゐた。一家四人がちりぢりになって、わたくしは一人、北関東のやせた松ばかり生えてゐる平ったい土地に、あてもなく、せきたてられる気持で一行一行を訳してゐた。何を考へるでもない、今日も終ったといふだけの一時期、わたくしの仕事の出来る時といふのはそんな時かも知れない。細君業一途に徹し切れない中途半端か? それとも気障な言ひ方をすれば詩にとりつかれた業か? 夢は仕事の計画を次から次へと立てさせる。そして食ひしんぼうのわたくしは食事の買物とやりくりに加減乗除だけは達者になり、雑用で駈け廻り、頑張りのきかない軀はどうしようもない。そしてノアイユ伯爵夫人の詩集を全部訳したいといふことが、現在のわたくしの願ひである。これも見果てぬ夢の一つかも知れないけれど。

安西均(1919~1994)が書いた編集後記には、次のようにあります。

〇……この秋は仲間の四つの詩集がたまたま出そろうはずだった。牧章造の「磔」森田勝寿の「帰去来」石邨幹子の訳詩集(ノワイユの)「限りなき心」と、僕の「花の店」である。そしたら、この雑誌で内輪の祝いに出版記念号を編むとしよう――それが僕の予定だった。森田君のは、先述の事情(お子さんの事故)で遅れ、石邨夫人のも、間に合わなかった。

『磔』『帰去来』『花の店』の3冊の詩集は刊行されていますので、昭森社が石邨幹子訳のノアイユ夫人『限りなき心』を出さなかったのは、ほんとうに残念です。
もしかしたら、ゲラ刷りまで行っていた可能性もあります。それが残っていたりはしないのでしょうか。

『内在4』
昭和31年(1956)新緑の号
ノアイユ伯爵夫人、石邨幹子訳「あなたの不在は至るところに……」

1956『内在4』

石邨幹子の不在を感じるために、「あなたの不在は至るところに……」の訳詩を引用してみます。( )はルビです。

  あなたの不在は至るところに……

          ノアイユ伯爵夫人
          石邨幹子訳

あなたの不在は至るところに暗い証拠となる

群衆のやうに拡く、また群衆のやうに
あなたの聖(きよ)い存在の錯雑した思ひ出を
呼吸しながら、私が進み、さまよふ道一ぱいになって……

永久に逃げ去った心、あなたのいらっしゃったどこにも
あなたは私の為に立っていらっしゃる、やさしい悲しい影よ

そしてあなたの役立たぬあわれみは
私のなげきを支える驚きそのものを見る。
――私はいつも慎重で、不安でゐて
そして決して迎へることなしにゐることが出来ようか、
   夕のしづかな時に、
徐(おもむろ)に私たちをねらふ幸福のないこの平和を
魂が、終(つい)に、希望(のぞみ)そのものから解放される時……

『内在5』
昭和31年(1956)10月
ノアイユ伯爵夫人、石邨幹子訳「夏の朝」

1956『内在5』

 

『POETLORE 詩誌ポエトロア(季刊)』
監修 西條八十
編集兼発行人 三井ふたばこ
編集所 ポエトロア社
発行所 小山書店

『ポエトロア 第6輯』
特輯 現代イタリアの詩 世界女流詩人抄
昭和30年(1955)6月30日発行

マルスリイヌ・デボルド・ヴァルモオル、石邨幹子訳「わたしの部屋」
マルスリイヌ・デボルド・ヴァルモオル、石邨幹子訳「まじめな女」

POETLORE 詩誌ポエトロア(季刊)第6輯

POETLORE 詩誌ポエトロア(季刊)第6輯本文見開き

▲『POETLORE(ポエトロア)』第6輯の本文見開き。
『POETLORE(ポエトロア)』では、草間彌生、鳥羽いくよ、鮎沢レマン、藤野一友、真鍋博、小玉光雄らが挿絵カットを描いています。

『ポエトロア 第8輯』
特輯 現代フランス詩集・詩劇をめぐって
昭和31年(1956)8月10日発行

アンナ・ド・ノアイユ「朝」「叡智」石邨幹子訳
ジェラアル・ドウヴィル「海の月」石邨幹子訳
リュシイ・ドラリュウ・マルドリュス「幼い日は牧場に沿い……」石邨幹子訳
マリイ・ロオランサン「花」石邨幹子訳
マリイ・ノエル「夏の歌」石邨幹子訳
アリエット・オドラ「セヴィイヤ」石邨幹子訳
エヴリイヌ・フロオレ「稲を荒す蘆」石邨幹子訳
石邨幹子「女流詩人に就て」

1956年に創刊された詩誌『ユリイカ』誌のちらし

▲『ポエトロア 第8輯』 には、1956年に創刊された詩誌『ユリイカ』誌のちらしもはさまれていました。

 

『幼稚園くらぶ』大日本雄弁会講談社
第12巻7号、1956年6月
ジャン・ド・ブリュノフ、石邨幹子訳「ちいさいぞう ばーばるのはなし」

第12巻8号、1956年7月
ジャン・ド・ブリュノフ、石邨幹子訳「ちいさいぞう ばーばるのはなし」

 

マリイ・ロオランサン、石邨幹子訳『夜たちの手帖』
アポロン社、1960年12月25日

 

角川書店『世界の詩集12 世界女流名詩集』
昭和43年(1968)1月10日

ヴァルモール、石邨幹子訳「まじめな女」
ヴァルモール、石邨幹子訳「わたしの部屋」

この2つの詩は、『POETLORE 詩誌ポエトロア』第6輯に掲載された訳詩を、ほぼそのまま使っています。
歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、漢字の使い方をいくつか改めています。

 

石邨幹子『残影』
1987年9月

 

『Choix de poésies de Satô Haruo : etoile (récit)』
1987年
石邨幹子による、佐藤春夫の作品のフランス語訳。

 

石邨幹子訳編『サアディの薔薇: マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』
「サアディの薔薇」の会、1988年4月20日

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Heiner Goebbels & Alfred Harthのブレヒト曲集『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』

読む本と聴く音楽が、全くシンクロしていませんが、
Heiner Goebbels & Alfred Harth mit Dagmar Krause & Ernst Stötzner のブレヒト曲集『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』(Tonstudio Zuckerfabrik、1981年)
からB面2曲目、ダグマー・クラウゼ(Dagmar Krause)が歌う「Der Pflaumenbaum」(スモモの木)を。

中庭のスモモの木。柵で囲われて大きくなれない。 日もあたらず実もつけない。 でも、葉を見れば、まぎれもないスモモの木。

1981年、手に入れるのが難しかったアルバム。
強いジャケットです。Robert Cavegnという人の絵。
LPのジャケットに、絵ではありますが、男性器が普通に描かれていて、1980年のAksak Maboulの『un peu de l'âme des bandits』もそうでしたし、流行みたいなものだったのかもしれません。

 

Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』裏ジャケット

▲Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』裏ジャケット

 

Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』Seite 1 ラベル

▲Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』Seite 1 ラベル

 

Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』Seite 2 ラベル

▲Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』Seite 2 ラベル

 

Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』の16ページのブレヒト詩ブックレット

▲Heiner Goebbels & Alfred Harth『Bertolt Brecht: Zeit Wird Knapp』の16ページのブレヒト詩ブックレット

無理やりこじつければ、ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht、1898~1956)と、1900年生まれの石邨幹子とほぼ同世代でした。

 

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231. 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(2018年4月5日)

1960年のマリー・ローランサン『夜たちの手帖』

 

第194回で「1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(2016年12月19日)」という、秋朱之介(西谷操、1903~1997)が装幀した本を紹介しましたが、その本の翻訳者、西尾幹子のその後について、神戸の戸田勝久さんから、姓が「西尾」から「石邨(いしむら)」に変わって、「石邨幹子」として翻訳を続けていたことを教えていただきました。

視界がパッと開きました。

写真はアポロン社から1960年に出版されたマリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』の箱とカバー付きの本。
翻訳者は、石邨幹子です。

西尾幹子訳『お前と私』(三笠書房)を装幀した秋朱之介はロオランサン崇拝者でしたが、その西尾幹子(石邨幹子)がロオランサンを翻訳していたことに心底、驚きました。

 

マリー・ローランサン『夜たちの手帖』(アポロン社)

▲マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(アポロン社)箱・本体表紙・カヴァー


マリー・ローランサン『夜たちの手帖』(アポロン社)扉

▲マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(アポロン社)扉

 

マリー・ローランサン『夜たちの手帖』(アポロン社)奥付

▲マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(アポロン社)奥付
すてきな訳詩集ですが、普通本100部・著者本15部しか刊行されていないため、入手するのが難しい部類の本なのが残念です。
【2018年4月8日追記】ほかに、訳者署名入りの特装本30部があるようです。

 

1936年の昭森社版『マリイ・ロオランサン詩畫集』と1960年のアポロン社『夜たちの手帖』

1936年の昭森社版『マリイ・ロオランサン詩畫集』と1960年のアポロン社『夜たちの手帖』背

▲1936年の昭森社版『マリイ・ロオランサン詩畫集』と1960年のアポロン社『夜たちの手帖』を並べてみました。
2冊の本は、「★」印で共通しています。

堀口大學訳「鎮静劑」と石邨幹子訳「鎮痛剤」を並べて引用してみます。

  鎮静劑   堀口大學訳(1936年)

退屈な女より
もつと哀れなのは
さびしい女です。

さびしい女より
もつと哀れなのは
不幸な女です。

不幸な女より
もつと哀れなのは
病氣の女です。

病氣の女より
もつと哀れなのは
棄てられた女です。

棄てられた女より
もつと哀れなのは
よるべない女です。

よるべない女より
もつと哀れなのは
追はれた女です

追はれた女より
もつと哀れなのは
死んだ女です。

死んだ女より
もつと哀れなのは
忘れられた女です。
       バルセロナ

 

  鎮痛剤  石邨幹子訳(1960年)

わびしいといふより悲しい
 悲しいといふより
   ふしあはせ
ふしあはせといふより
 苦しい
苦しいといふより
 見すてられて
見すてられたといふより
 ひとりぼつち
ひとりぼつちといふより
 追放されて
追放されたといふより
 死んでゐる
死んでゐるよりも
 忘れられた女(もの)。
        バルスロオヌ

堀口大學訳に高田渡や加川良が曲をつけたものがあります。「女」ということばの繰り返しが音楽を合わせるのに向いているのかもしれません。
石邨幹子訳では「女」に「もの」とルビをつけて1度しか使われません。これは朗読のようなかたちで、語られたほうが迫ってきそうです。

 

石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』(1988年、[サアディの薔薇]の会)表紙

▲石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』(1988年4月20日発行、[サアディの薔薇]の会)表紙
装幀は、政田岑生です。
フランスの女性詩人マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオル(Marceline Desbordes-Valmore、1786~1859)の詩の翻訳と評伝を組み合わせた書物です。時間の積み重ねと「彫琢」ということばを思わせる文章です。


石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』巻末にある、石邨幹子の略歴を引用します。

石邨幹子(いしむら・みきこ)
1900年8月16日生
東京女子高等師範学校付属高等女学校卒
日本女子大英文科中退
関西日仏学院に学ぶ
1927年 パリ アリアンス・フランセエズ近代フランス語科高等部卒
1986年12月16日逝去

訳詩集等
ポオル・ジェラルディ『お前と私』三笠書房 1934年
『つみくさ―現代フランス閨秀詩選―』桜井書房
〔店〕 1943年
ジャン・ド・ブリューノフ『象ちゃんババアルのおはなし』世界文学社 1949年
マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』アポロン社 1960年
『世界女流名詩集』(世界の詩集12、角川書店 1968年)にヴァルモールの訳詩2篇所収

遺著
『Choix de poésies de Satô Haruo, Etoile (récit)』1987年
『残影』1987年

1934年に西尾幹子の名前で出した『お前と私』以降も、魅力的な本を出されていたことを、今ごろになって知ることができました。
象のババアルやロオランサンを翻訳していたということだけでも、今までアンテナにひっかからなかったことが不思議です。
とりあえず手に入れられそうな石邨幹子の本を集めて、読み始めているところです。

石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』の「あとがき」で、編者の永島靖子が次のように書いています。

 夫人は、その後〔1943年『つみくさ』以後〕も、営々として、ヴァルモールをはじめ、ノワイユ夫人、マリー・ローランサン等の翻訳を続けてこられました。それは詩人達を紹介するためというよりも、むしろ夫人自身のためのものであったように今振返ってみて思われます。日仏学院の教室へ若者達に混って通われた時、あるいは日仏会館の図書室へ連日のように足を運ばれた時の、やわらかい微笑と和服のお姿が今も目に焼きついておりますが、抱えておられる風呂敷包みの中には、いつも、夫人の師、佐藤春夫の作品の仏訳原稿と共に、上記詩人達の訳詩稿が秘められておりました。
 半世紀を超える歳月、夫人がそのように愛しつつ筆を加えてこられた原稿の一つが、この『サアディの薔薇』です。本書は、わが国でこれまで断片的にしか紹介されてこなかったヴァルモールの詩と生涯の全容を明らかにする恐らく初めての書と言えるでしょう。

佐藤春夫の仏訳原稿とフランスの女性詩人の邦訳原稿を風呂敷包みに持ち歩く、やわらかく微笑む和服姿の女性。
こういう方だったのですね。

 

石邨幹子が1943年に出したフランス女性詩人の選集『つみくさ』も素晴らしい本でした。

石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)外箱 石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)外箱 石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)外箱

▲石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)外箱

 

石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)表紙

▲石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)表紙

 

石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)の装幀は三岸節子

▲石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)の装幀は三岸節子

 

石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)奥付

▲石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)奥付

石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)では、堀口大學が「序文」を書いていて、石邨幹子を次のように紹介しています。

 石邨幹子夫人は、さきに巴里留學を終へて歸朝するや、ポオル・ジェラルディ著の愛情詩集『お前と私』を全譯して世に問はれた。その頃僕はまだ夫人と面識もなかつたし、またこの譯詩集を手にする機會も持たずにしまつたが、この詩集の飜譯を志したこの婦人の企畫のよさにはほとほと感心したものだつた。理由は僕自身あの詩集を部分的に譯して見た經驗上、これが女性に極めて向く仕事だと知つてゐたからである。これを手がける氣持になつた女性は、少くとも詩が何であるか、また自分の才藻が何であるかよく知つてゐるにちがひないと思つたのである。
 (中略)
 このことあつて後、石邨夫人が、すでに十餘年の久しきに渡り、佐藤春夫の門に出入して、日本語と文學の勉強にいそしんでゐられる(これは春夫の言葉だが)奇特な婦人だと聞いて、僕はその時さきの『お前と私』を思ひ出し、その企畫のよさを賞めたと記憶する。春夫はそれを數年後の今日まで忘れずにゐたものか、今度石邨夫人が新著『現代フランス閨秀詩選』を上梓されるに當り、僕の序を求めるやうにと夫人にお薦めしたらしい。去る春の日、夫人は來て僕にその稿を示された。
 夫人はこの新集に、ノワイユ夫人以下、アリエット・オドラに至る八人の現代フランス閨秀詩人の代表作三十篇を集めておられる。ここで僕はもう一度石邨夫人の企畫のよさを讃めなければならない。女の心のてりかげりを知り、女の言葉のとけほぐれを解するのは、何と言つても女の細やかなサンシビリテなのである。石邨夫人はそれをよく知つてゐられる。
 然しまた、譯詩をするには何といつても先づ語學と文章が大切だ。この裏づけなしには、企畫のよさも何にもならない。
 石邨夫人のフランス語は、その巴里留學中、他のことには一切わき目もふらず專心勉學、僅二年の短時日の間に、かなり程度の高いアリアンス・フランセエズ語學校の近代フランス語科の卒業資格を得られたといふだけあつて、正確且つ達者なものである。日本語の方も、いづれ近いうちに、春夫が卒業證書を出すであらうと思はれるほど、これも仲々よくこなれてゐる。
 かくしてこれは、つつましい一日本婦人の手になつた、フランス女詩人たちの色あざやかに﨟たき詩の花籠なのである!

西尾幹子そして石邨幹子は、まちがいなく、堀口大學と佐藤春夫の系統に連なる人でした。「詩の花籠」をもつ人でした。

 

石邨幹子が『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』でとりあげた8人の詩人は次のような人たちです。

アリエット・オドラ(Alliette Audra、1897~1962) 詩2篇
マリイ・ロオランサン(Marie Laurencin、1883~1956) 詩1篇
マリイ・ノエル(Marie Noël、1883~1967) 詩1篇
リュシイ・ドラリュウ・マルドリュス(Lucie Dalarue-Mardrus、1874~1945) 詩5篇
エレエヌ・ピカアル(Hélène Picard、1873~1945) 詩1篇
セシル・ペラン(Cécile Périn、1877~1959) 詩3篇
ド・ノアイユ夫人(Comtesse de Noailles、1876~1933) 詩16篇
ジュラアル・ドウヴィル(Gérard d'Houville、1875~1963) 詩2篇

 

石邨幹子の名前を覚えて、とりあえず、

石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店)
マリイ・ロオランサン 石邨幹子訳『夜たちの手帖』(1960年、アポロン社)
石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』(1988年、[サアディの薔薇]の会)

の3冊を入手しました。遺稿集の『残影』は読んでみたいです。

ほかに石邨幹子が同人だった詩誌『内在』の4号も入手してみました。

石邨幹子が同人だった詩誌『内在』4号表紙
▲詩誌『内在』4号(1956年、内在の会)表紙
『内在』は、茨城県水戸市の森田勝寿が発行していた詩誌で、伊藤桂一と安西均が交代で編集しています。国会図書館で検索してみると、1955年から1956年にかけて、少なくとも5号までは発行されているようです。
石邨幹子は、その同人で、1号から5号に次のような訳詩と詩を掲載しています。

『内在』(1) 1955年5月
ノアイユ伯爵夫人 石邨幹子訳「燃える死」
『内在』(2) 1955年8月
ノアイユ伯爵夫人 石邨幹子訳「湛は影と月とを有す」
『内在』(3) 1955年12月
石邨幹子「限りなき夢」
ノアイユ伯爵夫人 石邨幹子訳「胡椒の木のある小さな庭園よ」
『内在』(4) 1956年 新緑の号
ノアイユ伯爵夫人 石邨幹子訳「あなたの不在は至るところに… 」
『内在』(5) 1956年10月
ノアイユ伯爵夫人 石邨幹子訳「夏の朝」

ノアイユ伯爵夫人というと、プルーストの『失われた時を求めて』に登場するゲルマント公爵夫人のモデルだった人ということぐらいしか知らなかったのですが、石邨幹子は、1943年の『つみくさ』のときから、ノアイユ伯爵夫人の翻訳に力をいれていたようです。

そして、『内在』4号には、次のような近刊広告もありました。

『内在』4号近刊広告

『つみくさ』と同じく三岸節子の装幀。
この本があるのなら、ぜひ読んでみたいと探してみたのですが、どうやら昭森社から『限りなき心』は刊行されなかったようです。
これは残念。
広告を出したからには、訳稿も出来上がっていたと思いますし、上梓されていれば、この訳詩集に深い深い愛情をそそぐ読者が必ず生まれたはずの本です。
この本を出さないなんて、昭森社は罪なことをしたものです。

 

【2019年11月26日追記】

『詩學』1950年9月号(1950年8月30日発行、岩谷書店)

『詩學』1950年9月号(1950年8月30日発行、岩谷書店)に、中村千尾(1913~1982)の「つみくさの著者のこと」というエッセイが掲載されていました。

中村千尾は、「美しいアンテリジアンスの貧困のドン底にある、現代詩の状態をおもうとき、彼女の存在はゴルゴダの野にさく一輪の百合の花のようにも貴重である」と、北園克衛(1902~1978)が評した詩人です。

石邨幹子を直接知る人が書いた貴重なテキストと思いましたので、ここに引用します。

 

つみくさの著者のこと 中村千尾

 

  つみくさの著者のこと   中村千尾

 私の好きな書物の一つに石邨幹子さんの「つみくさ」と云ふ譯詩集があります。
 八人のフランスの閨秀詩人、ロオランサン、オドラ、ノエル、マルドリユス、ノアイユ、ドウヴイル、ペラン、ピカアルの作品を収めた寶石のように美しい書物です。
 私は戰爭中この書物を疎開先きにまで持つて行つて、私の寢部屋になつていた農家造りの電燈のない部屋で、眠られない夜なぞローソクを灯して幾度となく讀み返へしました。
 そんな思ひ出もあつてか、終戰後東京の家に歸えつて間もなく出版した「女性詩」に私は何をさておいてもこの美しい詩だけは掲載したいものだと思ひました。そしてその中でも取りわけ好きであつたリユシイ・ドラリユウ・マルドリユスの「故郷のにほひ」を譯詩集の中から轉載させて頂く事にしました。私は女史にその許可を得るために手紙を書かなければならなかつたのですけれど、その頃疎開して居られた女史の住所がどうしても分らないままに私は止むなく無許可のまま掲載して仕舞つたのです。雜誌が出てからしばらくして、知人から女史の住所がもたらされました。私は早速事情をのべたお詫びの手紙と雜誌をお送りしました。
 十五六年も前のことですが、私は石邨幹子さんからフランス語のレツスンを受けた事がありました。女史がフランスから歸えられた當時の事で、私は一週に三回女史のアパルトマンの三階へ通學しました。女史はジエラアル・ドウヴイルが好きでよく 雨が降る…… 雨が降る! と云ふあの 晝は墓より悲しい、春は老ひた冬よりわびしい、と云ふ「魔術師の家」を口づさむような調子で讀んで下さつた。私はノワイユの詩が好きだつたので是非ノワイユを譯して下さいなぞと云つた事がありました。けれども女史は私はまだとてもノワイユには入つて行けないと云はれ中々ノワイユには手をつけようとなさらなかつた。私は女史の謙讓な態度に驚ろくばかりでしたが、それと同時に一更女史に信賴の念を抱くようになりました。けれどもそれから數年して出版された「つみくさ」の中には琥珀の玉のようなノワイユの詩が収められて居りました。女史が云ふやうにそれは又あまりにも眩しい美しさで輝いて居りました。
 私がこの詩集にこれほどまでに魅力を感ずる理由と云へば、それはやはりフランス的な香り高い抒情に他なりません。マラルメを生んだフランスから次々にこうした美しい詩人が現はれるのは當然の事かも知れませんが、詩に對する美の感覺が高く一寸日本では想像も出來ない豐かな抒情の世界を感じさせられます。
 私は日本の近代詩がともすると抒情に乏しい事をいつも痛感して居ります。抒情のない詩は疲れた人世であり炎のない生活にも等しいものではないでせうか、詩人はもつと詩に醉ひ、讀者はもつと詩に醉ふべきだと思ひます。

 

ところで、この「つみくさ」賛が掲載された、『詩學』1950年9月号の村野四郎選「詩學研究作品」には、谷川俊太郎「秘密とレントゲン」「五月の無智な街で」や、茨木のり子「いさましい歌」が選ばれていました。

村野四郎選の「詩學研究作品」

新世代の登場を感じさせます。

 

【2024年3月6日追記】

中村千尾は、 『詩文藝』第二号 女性詩人号(1957年8月15日発行、詩文芸社)にも『つみくさ』に収録されたノアイユの詩について書いていました。
引用します。

 

 詩への回想  中村千尾

 

    果樹園
          ド・ノアイユ夫人

  石竹と香草とで甘い庭の中に
  曉が茂つた百里香をしめらせた時、
  トマトにぶら下つた重い黄蜂が
  授けられた露と果汁とによろめく時、

  私は蒼穹と漂ふもやとの下に來るだろう、
  輕快な時と再び見出した晝とに醉つて、
  私の心は起ち上るだらう
  昇る太陽に飽くこと知らず歌ふ鷄のやうに。

  熱い空気は乳のやうであらう、すべての緑の上に、
  苗床の勇ましく愼重な努力の上に、
  縁に植ゑられた生き生きしたサラダ菜や黄楊の上に、
  ふくれて半ば開いた莢の上に。

  種子の熟す耕された大地は
  よろこばしく、やさしく、小さな波にうねるだらう、
  閉ぢ込められた葡萄と小麥の運命を
  地下の彼女の肉體の中に感じるたのしさに。

  太陽の熱く照りつける壁にはりついた葉の上に
  椿桃はこげ色になるだらう、
  花の陰が着物のやうな狹い小徑に
  光は一ぱいになるだらう

  開花と水氣のある物との味ひは
  しめつた南瓜とメロンとをのぼらすだらう、
  正午はひつそりした草を燃え立たせ、
  晝は靜かに、盡きることなく長いだらう。

  そして石盤ぶきの家は
  暗い戸口と窓とを開け放して
  まるめろと、緑のしげみの周圍に散らばつた
  蝦夷苺との香を吸ふだらう。

  夜の水がその夢と休息とを亂すことなく
  よどみ、うねり、流れる隱元豆の
  しなやかな平つたい葉むらの上に、
  無頓着でやさしい私の心は傾くだらう。

  やうやく私は恐れと苦悶から解放される、
  雨の降る庭園のやうにつかれ、
  曉に輝きけむる池のやうにおだやかに、
  私はもう苦しむことなくもの思ふこともないだらう、

  世の樣樣なこと、生命と國とのなやみを
  私はもう何一つ知ることなく、
  萌え出る芽の平和な調音(アルモニイ)が
  私の深い心の中に歌ふのを聴くだらう

  新しい純血と單純との中に誇りを持たず、
  夏の可憐なよろこび、
  弟の葡萄の枝と姉のすぐりの實とに
  私は等しくなるだらう、

  既に死を識つてゐると思ひ、
  肉體に植物を育み花咲かせる
  休息する神秘に生きながら混ざり得るほど、
  私は感じやすく、大地に結びつくだらう。

  信じることは本當によく、また正しい、
  變り易い私の眼はあの亞麻
  激しい重い私の心は
  太陽に徐徐にいろづくあの梨…… と。
                  石邨幹子訳

 印象的な詩を読んだ後の喜びはいつまでも心に残るもので。この果樹園の詩は石邨幹子の訳詩集フランス女流詩人集「つみくさ」の中の一篇だつたが、私はこの詩集を戦争中疎開先きの山梨へ持つて行つて、寝られぬ夜なぞ枕もとの蝋燭を燈して何度も読んだ深い思い出がある。
 明日は死ぬかも知れないと云う恐怖の日々の中で案外落ち着いた気持で過せたのもあるいはこの詩集のお蔭ではなかつたかと思つているほどである。甲府の街が空襲を受けた数日後だつた。私は知人の疎開先きの甲府郊外にある果樹園へ行つた。無惨に痛みつけられた街を通つて郊外に出ると、青い空の中に緑の枝をふかぶかと開げた果樹園が見えた、青い林檎や紅色の桜桃が枝もしたたるほどたわわに実り、悪夢のような日々に取り憑れて、本物の空や樹を忘れかけていた私の目にはまるで新鮮な泉を発見したようなおどろきだつた。それはいつか、私の心に描いていた空想の中の風影のようでもあつた。ノアイユの果樹園そのままの風影だ、私は思はず目を見張つて、この色彩のゆれ動く美しさにみとれていた。甘い官能の世界や、自然の営みを表現したノアイユの詩が、これほど現実感を持つているとは考えられなかつたのだ、果実の生命感や果汁の高気な匂いをただ架空のものとして楽しんでいた。私は詩の中の現実性がいかに深いところに根ざしているものかをはつきり知つた。年譜によると、ノアイユは、ルーマニヤのブランコバン公の娘として一八七六年にパリーで生れ、十才頃から詩を書きはぢめ、マシュー・ド・ノアイユ伯爵と結婚し結婚後一九〇一年はぢめて詩集を出版し、ポオル・バアレリイ等と一緒にラ・プレーアドの一人だつたが、一九三三年に生涯を終つたと記されている。
 彼女の詩の高貴と絢爛さは生れながらの血のせいだと云われている、ルーマニヤの血を父から、ギリシヤの血を母から受けついだ彼女はエキゾチツクな官能美を生れながらに受けついだのであろう。けれどもそれ以上に高い調子で抒情の世界を精密に表現し得た彼女の才能に私は深く頭を垂れた。
 麦藁帽子をかぶり、私は夏の太陽が葡萄や蛇の目草の茂みに照りつける小径に坐り、知人のRさんが取つてくれた青い林檎をかぢりながら、ひそかにノアイユの果樹園を思い浮べていた。
 その当時イギリスの女流作家、バァーヂニア・ウルフが戦争の被害を受け、厭世的になり投身自殺をしたと云う悲劇的なニユースが伝えられていた。私はまだ若かつたのでもあろう、いつも死の一歩手前を歩きながら、未来に生きなければならない世界があるような気がして死ぬ気にはなれなかつた。
 「もうこんなにきれいな果樹園を見たから死んでもいいわ」
と私は云つた、戦争で死にたくはないが、美しいものを見たら死んでもいゝと云う気持になつた。
 「林檎や葡萄を食べてから死にたい」
とRさんは現実的だつたが、私はその言葉もまた楽しかつた。私は林檎や桜桃をリユツクにつめるだけつめて疎開先きの日下部へ帰つた。
 戦争が終つて東京の家に帰えつた時、物置の中に入れておいた書物がみんな黴だらけになり手が附けられなくなつていた。疎開先きから私と一緒に帰えつた「つみくさ」は野薔薇の押花でところどころ黄色く汚れていたが、あわただしい東京の空気に少しも毒されることなく相変らずいつも私をなぐさめてくれた。
 疎開先きからぽつぽつ引き上げてくる知人の便りが多くなつた。その中にこの詩集の訳者である石邨さんからの便りがあつた。私は渋谷駅近くのコーヒー店で石邨さんに御逢いした。
 「戦争中ノアイユの詩はとても私をなぐさめてくれました。あらためて御礼を申上げます」
 私は思わず御礼をのべた。石邨さんは疎開中もノアイユの訳詩をつゞけ、ノアイユの詩はほとんど完訳されたと伺い、その精神力に驚ろいたが、多分石邨さんはこの詩人の詩に魅せられて、戦争中も訳詩を止める気になれなかつたのだろうと思つた。
 フランスの女流詩人達が象徴派の影響を受けながら香り高い抒情詩を見事に表現したことは何よりも私を感動させたが、又それ以上に夢を誘い、生の喜びを伝えてくれるノアイユの詩はいつも不思議なほど生々と、私の心の中で思い出される。
 やはり詩はいつも葡萄の実のように生きているものだ。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Laura Nyro 『The First Songs』

ローラ・ニーロ(Laura Nyro、1947~1997)の1967年デビュー作『More Than A New Discovery』(Verve Folkways)を、1973年にCBSが再発したとき、LPジャケットやタイトルも変えて『The First Songs』としてリリースしました。
そのときジャケットにルドゥーテの薔薇の絵が使われたのですが、ローラ・ニーロの希望で、初回盤には、薔薇の香りがつけられました。
薔薇の香りのついた初回盤を手にしたことはないのですが、そういうレコードもあるのだな、香りはどのくらい残るのだろうと思ったものです。
このレコードから、B面最後の曲「And When I Die」を。
死への絶望ではなく、わたしが死んでもわたしのことを受け継ぐ子どもがいるという、未来への希望の歌です。

写真は1993年に出た日本盤CDです。

秋朱之介がつくった「マリーロランサン」という香水は、薔薇をベースにした香水のような気がしてきました。

 

【2018年4月7日追記】
そもそも、なぜ、このところ、マリー・ローランサン(Marie Laurencin、1883~1956)のことばかりになったのだろうと考えて、秋朱之介の詩句が思い浮かびました。
3月6日から5月6日まで、鹿児島県薩摩川内市の川内まごころ文学館で、「川内の生んだもう一人の出版人」として秋朱之介関連の新収蔵資料の展示が行われていますが、そのちらしでも使われていた、秋朱之介の詩句

 残雪の桃花はローランサンの色がよい

が頭に残っていたからかもしれません。
これは、秋朱之介の晩年、1990年ごろの詩句で、娘さんのもとに僅かに残されていた詩稿にあった詩句です。その詩稿は、川内まごころ文学館に寄贈されています。

1990年ごろ秋朱之介の詩稿

▲秋朱之介の詩稿から。1990年頃の作品(川内まごころ文学館蔵)

秋朱之介とマリー・ローランサンとの長い長いかかわりを考えれば、この詩句の「ローランサン」という言葉には、私たちが思う以上の来し方があったのだと思います。

秋朱之介は、生前、自分の詩集を出すことはありませんでしたが、「詩人」だったのだと思います。

 

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