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my favorite things 51 - 60

 my favorite things 51(2013年1月23日)から60(2013年2月5日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

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 51. 1969年ごろの『モノタイプ社印刷活字見本帖』(2013年1月23日)
 52. 1895年のウィリアム・モリス『世界のかなたの森』(2013年1月25日)
 53. 1903年の岡倉覚三『東洋の理想』(2013年1月26日)
 54. 1912年のチャールズ・T・ジャコビの『本と印刷についての覚書』(2013年1月27日)
 55. 1945年の岸田日出刀『建築學者 伊東忠太』(2013年1月29日)
 56. 1953年ごろの『スティーヴンス=ネルソン社の紙見本帖』(2013年1月31日)
 57. 1941年の『土曜日の本』(2013年2月2日)
 58. 1936年の『パロディ・パーティー』(2013年2月3日)
 59. 1942年の『土曜日の本』(2013年2月4日)
 60. 1943年の『土曜日の本』(2013年2月5日)
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60. 1943年の『土曜日の本』(2013年2月5日)

1943SaturdayBook_wrapper

 

●『土曜日の本』その3

1943年10月刊行の『THE SATURDAY BOOK 3』です。もちろん戦時下の出版仕様エコノミー・スタンダードで作られています。
「YESTERDAY」のパートで,1840年代から1940年代までの100年間を,イギリスを中心に写真でたどっています。「TODAY」のパートでは,戦時下の世界各地の日常生活をリポートしています。連合国だったソ連の生活を同情的・好意的に書いています。
『土曜日の本』は,雑学の宝庫のような雑誌になっていくのですが,第3号でも,ディズニーのアニメ・キャラクターのプロフィール,動物の求婚行動,写真家エヴァンスの19世紀の写真,バルベー・ドールヴィイの翻訳などを取り上げていて,雑食性が発揮されてきました。ミステリー短編小説も,フランシス・アイルズ,A. A. ミルン,アントニー・バークレーの3本立てと,これは豪華です。

 

1943SaturdayBook03_cover

第3号『The Saturday Book 3』の内容

The Saturday Book 3
edited by Leonard Russell
with decorations by Laurence Scarfe
HUTCHINSON
12/6 net
This book, published in October, 1943, was made and printed at the Mayflower Press (of Plymouth), at St. Albans, by William Brendon & Son Ltd., and is produced in complete conformity with the authorised economy standards. The photpgravure plates are the work of the Grout Engraving Co., Ltd.
ダストラッパー図案:Laurence Scarfe

『The Saturday Book 3』の目次

002 THE CONTENTS(目次)
003 title page
004-005 Editor's Note: (L. R. )

006 YESTERDAY
006-064 The Saturday Book Album
(グラフィック)1850年代から1940年代までの百年間を写真中心に構成。敵国日本は,1937年中国での中国人処刑写真で登場。

065 TODAY
065-078 Kotelnikovo: Alexander Werth
(エッセイ)戦時下のソ連コテルニコヴォ村での母と息子の日常生活。
079-091 Are You Happy in Your Work: J. Maclaren-Ross (1912~64,Julian Maclaren-Rossは再評価が必要な作家です)
(エッセイ)戦時下イギリス軍の後衛オフィス生活。
092-101 Intruder Ops: Flt. Lt. K. M. Kuttlewascher
(日記抄)チェコ・フランス・イギリス空軍に在籍したエース・パイロットの日記。大陸への出動。1942年2月12日から5月4日まで。
102-112 The Tube-Dwellers: Mass-Observation
(リポート)空襲で焼き出されロンドンの地下鉄の駅に暮らす人々についてのMass-Observationの調査から。その20%は子ども。
113-120 Scrapbook from Devon: Douglass Glass
(グラフィック)デヴォン州の人々,風景。ダグラス・グラスによる写真8点

121 Honky-Tonk(ホンキートンク)
121-129 Profiles: Dilys Powell
(エッセイ)ディズニーのアニメ・キャラクター・トリオ。グーフィー,ドナルド・ダック,ミッキー・マウスのプロフィール。図版5点。
130-138 To the Unknown Critic: Stephen Potter(1900~69,BBCと関わりの深い作家)
(エッセイ)ラジオ・ジャーナリズムの持つ可能性,ラジオの聴取者について。ラジオの時代です。
139-148 The Curtained World: Sean O'Casey
(エッセイ)舞台の幕がおり,演劇の未来に展望の持てない現在の世界について。
149-164 Evans Photographer: Alex Strasser
(フォト・エッセイ)写真家Frederick Henry Evans(1853~1943)について。オーブリー・ビアズリーの肖像やリンカーン大聖堂の写真などフォトグラビア8枚。

165 Bestiary(動物寓話)
165-183 Animals Courting: Julian S. Huxley (1887~1975,進化論生物学者)
(エッセイ)動物の求婚行動について。

184 Stories
184-203 Le Plus Bel Amour de Don Juan: J. B. d'Aurevilly(1808~89,フランスの小説家) Translated by Gerard Hopkins
(小説)バルベー・ドールヴィイの『悪魔のような女たち(Les Diaboliques)』の1編。
204-215 Table Talk: Peter de Polnay(1906~1984,小説家)
(小説)兵隊になって久しぶりに会った人物の告白を聴く…。

216 Crime Album
216-232 It Takes Two to Make a Hero: Francis Iles(別名Anthony Berkeley,1893~1971)
(小説)ドードー倶楽部で見知らぬ人物から聴かされた話は…。
233-246 In Vino Veritas: A. A. Milne (1882~1956)
(小説)探偵小説作家の私とFrederick Mortimer警視。
247- ‘Mr Bearstowe Says...’: Anthony Berkeley
(小説)探偵ロジャー・シェリンガム(Roger Sheringham)が招待されたブルームズベリーのパーティで…。

○267 Sport
267-280 The Squire of England: Bernard Darwin
(エッセイ)バーナード・ダーウィンのスポーツ・エッセイ。「イングランドの大地主(The Squire of England)」といわれた狩り・乗馬・クリケットなどスポーツとゲームの伝説的名手ジョージ・オスバルドソン(George Osbaldeston,1786~1866)のプロフィール。

 

1943SaturdayBook03_page

写真家エヴァンスについてのページから。右はエヴァンスが撮ったビアズレーのポートレイト。

 

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59. 1942年の『土曜日の本』(2013年2月4日)

1942SaturdayBook_cover

 

●『土曜日の本』その2

 

1942年10月刊行の『THE 1943 SATURDAY BOOK』です。第2号です。手元にあるものはカヴァー(ダストラッパー)がない裸本です。判型は日本でいう菊判で152×227ミリ,これは創刊号から終刊号まで変わりません。前号に続きアグネス・ミラー・パーカーの木版挿絵がカントリーライフ願望を伝えています。この号もまだ『土曜日の本』のキャラクターづくりという点では,試行錯誤です。
この第2号から写真ページが登場します。巻頭の「Part 1 WAR PICTURES」で戦争写真を取り上げています。戦争のなかの日常生活という切り口です。カラー図版はまだありません。「Part 3 War Reports」でも,戦争についての記事を取り上げています。

第2号『THE 1943 SATURDAY BOOK』の内容

THE 1943 SATURDAY BOOK
EDITED BY Leonard Russell
HUTCHINSON

The first impression of this book, published in October, 1942, consists of ten thousand copies, made and printed at the Mayflower Press (of Plymouth), at St. Albans, by William Brendon & Son Ltd., and produced in complete conformity with the authorised economy standards.

エコノミー・スタンダード(economy standard)は,戦時下英国での紙質を落とした書籍の節約仕様です。初版1万部です。図版部分にコート系の紙を使っていますが,確かに物資不足を感しさせる品質です。

『THE 1943 SATURDAY BOOK』目次

002 THE CONTENTS(目次)
003 title page
004-005 (Introductory Note: L. R. )

006-039 Part 1 WAR PICTURES
(グラフィック)DOUGLAS GLASSの写真を中心に,BILL BRANDT,HUMPHREY SPENDER,CECIL BEATONらの戦争写真。当たり前のように風景のなかに遺体のある光景。裁ち落としのレイアウト。
011,016,020,029,040 WAR CHRONICLE
1939年9月1日から1942年8月26日までの戦争の経過年表(2段組)。

041 Part 2 War Experiences
041-056 THE BURNING OF THE TEMPLE: ALEXANDER WERTH (1901~1969,ジャーナリスト)
(日記抜粋)1941年5月12日~14日のロンドン空襲について。
056-069 SHOT DOWN OVER MALTA: Squadron Leader J. A. F. MACLACHLAN, D. S. O., D. F. C. & bar
(日記抜粋)1941年2月10日~3月5日。22歳の飛行中隊長ジェームズ・マクラフラン(1919~1943)のマルタでの撃墜負傷体験。マクラフランは,1943年に戦死。

070 Part 3 War Reports
070-088 The President: D. W. BROGAN (1900~1974,政治学者)
(エッセイ)アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズヴェルトについて。
088-092 HITLER BRIDES: GREGOR ZIEMER (1899~1982,アメリカの教育者)
(エッセイ)ドイツのナチ政権下での女学生生活。1928~39年にベルリンのアメリカン・スクール校長だったときの体験。
092-095 THE DEATH OF DECENCY: WILLIAM L. SHIRER (1904~1993,アメリカのジャーナリスト・歴史家)
(エッセイ)ドイツ第3帝国の「嘘」について。ヒトラーの演説における「DECENCY(礼儀正しさ,寛大さ,良識)」の無さ。

096 Part 4 The Graces
096-115 THE LADY OF COOLE: SEAN O'CASEY (1880~1964,アイルランドの劇作家)
(エッセイ)グレゴリー夫人(1852~1932,アイルランドの演劇人・民俗学者)について。
115-125 EDITH EVANS: JAMES AGATE (1877~1947,劇作家,批評家)
(エッセイ)イギリスの女優エディス・エヴァンス(1888~1976)について。
125-136 BEECHAM: THOMAS RUSSELL (~1984)
(エッセイ)イギリスのオーケストラ指揮者トマス・ビーチャム(1879~1961)について。(楽譜図版1枚)
136-146 PAUL NASH: ERIC NEWTON
(エッセイ)イギリスの画家ポール・ナッシュ(1889~1946)について。(モノクロ図版12枚)

147 Part 5 Fiction
147-189 THE BRIDE COMES TO EVENSFORD: H. E. BATES
(小説)小さな町に嫁いできた花嫁のお話。
189-199 EDITH McGILLCUDDY: JOHN STEINBECK (1902~1968)
(小説)カリフォルニア州サリナス在住の少女エディスが,有名作家R.L.S.さんに会うお話。アメリカの『Harpers Magazine』1941年8月号に掲載されたものの転載。
199-204 IN THE TRAIN: DILYS POWELL
(小説)ロンドンから西に向かう列車の中で,公務員が見たものは…。
204-216 SERGEANT CARMICHAEL: FLYING OFFICER X (H.E.BATES)
(小説)救命ボードでの兵士たちのお話。

217 Part 6 FOND RECORDS
217-227 THE LAST LORD HOLLAND: PETER QUENNELL(1905~93,伝記作家,歴史家)
(エッセイ)19世紀ロンドン,ホランド卿のホランド・ハウスに行き交った人々の話。
227-240 THE FLEET OF FOOT: BERNARD DARWIN(1876~1961)
(エッセイ)バーナード・ダーウィンによる,大学のマイル・レース競走についてのエッセイ。

241 part 7 Animals
241-252 ALL THE YEAR ROUND: Wood Engravings by AGNES MILLER PARKER, Commentary by H. E. BATES
(グラフィック・エッセイ)アグネス・ミラー・パーカーの12枚の木版挿画にH. E. ベイツのテキスト。
252 CALENDAR FOR 1943(1943年のカレンダー)
253-263 CREATURES IN ART: ELISABETH NARAMORE
(フォト・エッセイ)世界各地の動物の立体造形作品。日本の刀飾りのウズラも含まれています。モノクロ図版25枚。
264-270 MY ZOO: WILL CUPPY (1884~1949,アメリカのユーモア作家)  Illustrated by JACKS
(エッセイ)類人猿についてのユーモア・エッセイ。Jacksによるイラスト図版7点。『あなたの友人と類人猿の見分け方(How to tell your friends from the apes)』(Methen,1934)から再掲。
271-274 COMPETITION: Photographs by DOUGLAS GLASS
(グラフィック)DOUGLAS GLASSによる「戦後」の生活を連想させる日常的な7枚の写真。

 

1942SaturdayBook_page

▲「Part 1 WAR PICTURES」からDOUGLAS GLASSの写真ページ。左は,職人不足でプリマドンナのマーゴ・フォンティンが舞台用の衣装を縫っています。右の雑貨店の案内板は物不足を次のように伝えています。
 Special Today
  NO
 SWEETS
 ChocoLATe
 CRiSps
 Chewing GUM
 MATches
 CigaARETTES
 TobAcco
 PAPERS
 SNUff
  OR
 ICE CReAM
  SO
 WHAT!

マイルスではありませんが,「So What ?」な街の気分がでています。

 

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58. 1936年の『パロディ・パーティー』(2013年2月3日)

1936ParodyParty_cover

 

『土曜日の本』に取りかかる前に,レナード・ラッセル(Leonard Russell)が編んだアンソロジー『パロディ・パーティー』を紹介します。パロディ作品・パスティーシュ作品を集めた1930年代的な作品集です。ローズ・マコーレー(Rose Macaulay,1881~1958)のヘミングウェイ・パロディは,「I went down Friday evening. I drove Frank Lester down. 」と,いかにもな出だしです。探偵小説・推理小説好きに人には堪らない名前も並んでいます。フランシス・アイルズ(Francis Iles,別名Anthony Berkeley,1893~1971)がヒュー・ウォルポール(Hugh Walpole,1884~1941)のパロディを書き,E. C. ベントリー(Edmund Clerihew Bentley,1875~1956)がドロシー・セイヤーズ(Dorothy Sayers,1893~1957)の模倣作を書いたりしている,楽しげな本です。浅倉久志が翻訳していそうな本です。もしかしたら翻訳しているのかもしれません。E. C. ベントリーがドロシー・セイヤーズのパロディ書いた作品を翻訳する場合,E. C. ベントリーとドロシー・セイヤーズの翻訳者のどちらが訳したらいいのか,そうしたことが気になります。物まねは人気ですが,こうした文体模倣やパロディは,現在はWEB的・コミケ的な領域でものすごい増え方をしているにもかかわらず,逆に目に届きにくくなっているようです。

刊記は次のようになっています。

 PARODY PARTY
 Edited by Leonard Russell
 NICHOLAS BENTLEY DREW THE PICTURES
 Hutchinson
 First published in 1936

 PRINTED IN GREAT BRITAIN
 BY WILLIAM BRENDON AND SON
 AT THE MAYFLOWER PRESS PLYMOUTH
 SET IN MONOTYPE FOURNIER
 AND PRINTED ON CAMBRIAN PARCHMENT SUPPLIED BY
 GROSVENOR CHATTER & CO LTD

かの地の政治的・宗教的な特性・対立は,事情がよくわからないことも多く,ことばの端々に表れる好悪に驚くことがあります。例えば,ジョージ・オーウェル(George Orwell,1903~1950)の文章のなかで,時たまカトリック系の作家の過剰な文体にイライラしているのが分かる場面に出くわすことがあるのですが,それが宗教的なものなのか,世代的なものなのか,個人資質的なものなのか,分かりません。このアンソロジーには,D. B. ウィンダム・ルイス(D. B. Wyndham-Lewis,1891~1969)やJ. B. モートン(J. B. Morton,ペンネームBeachcomber,1893~1979)といったカトリック系の作家も含まれています。D. B. ウィンダム・ルイスやJ. B. モートンもそうですが,チェスタトン(G. K. Chesterton,1874~1936),ベロック(Hilaire Belloc,1870~1953)らイギリスのカトリック系の作家はフランス語が得意な人が多く,イギリスのなかの非イギリス的存在のような位置付け,なのでしょうか。
このアンソロジーの本文は,MONOTYPE FOURNIERという活字で印刷されています。フルニエ(Pierre Simon Fournier,1712~1768)は,18世紀フランスの活字制作者で,これは20世紀になってモノタイプ社が復刻したものです。フランス的な活字ですので,イギリスびいきの人だと,そういうところでもイラッとする活字かもしれません。

 

1936ParodyParty_cover02

目次は次のようになっています。伏せ字が可笑しいです。

REBBECA WEST
Sepulchre: A Tale of Mors, Seventh Viscount and Twelfth Baron Sepulchre
(Homage to Mr. Ch*rl*s M*rg*n)

ROSE MACAULAY
Week-End at the Hoppers
(Please, Mr. H*m*ngway)

FRANCIS ILES
Close Season in Polchester
(A warm handclap with Mr. H*gh W*lp*le)

E. C. BENTLEY
Greedy Night
(In the Footprints of Miss D*r*thy S*y*rs)

D. B. WYNDHAM LEWIS
More About England: Draft of Speech to be delivered to the Bewdley Rotary Club next St. George's Day
(Hats Off to Mr. B*ldw*n)

G. B. STERN
The House that Likes to be Let Furnished
(A K*ss for Sir J*m*s B*rr*e)

CYRIL CONNOLLY
Told in Gath
(With apologies to Mr A*d*us H*xl*y)

DOUGLAS WOODRUFF
The English Week-End
(With apologies to the Very Rev. W. R. I*ge)

J. B. MORTON
The Queen of Minikoi
(In Search of J*hn B*ch*n)

A. G. MACDONELL
Eden Week-End
(After You, Mr. J. B. Pr**stley)

EDWARD SHANKS
The Last of the Incas
(Without the slightest apology to Mr. A. G. M*cd*nell)

IVOR BROWN
A Stroll to the Pole
((After You, Mr. P*t*r Fl*mi*g)

JOHN BETJEMAN
Tomsk-Omsk-Omsk-Tomsk
(From Russian via Hamstead and Charlotte Street)

L. A. PAVEY
First Person Circular
(Round About With Mr. S*m*rs*t M**gh*m)

 

1936ParodyParty_Nicolas Bentley

▲挿絵は,E. C. ベントリーの息子ニコラス・ベントリー(Nicolas Clerihew Bentley,1907~1978)。ニコラス・ベントリーが挿絵を描いている本は,一定の愉快さを保証されているようなものです。

 

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57. 1941年の『土曜日の本』(2013年2月2日)

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●『土曜日の本』その1


『土曜日の本(Saturday Book)』は1941年から1975年にかけて,英国を中心に年1回発行されていたハードカバーの年誌(annual)です。ある時期から箱入りになり,見返しには献辞用の宛名スペースも付けられ,独身のちょっと変わり者のおじさんへのクリスマスのプレゼントには最適の,とにかく雑多な蚤の市のようなアンソロジーになっていきます。その内容から思い浮かぶのは,退屈しのぎ,暇つぶし,読み物,雑学,骨董趣味,中庸といったところでしょうか。最初は,戦時体制下,戦争という現実を忘れられるような気晴らしになる本ということで企画されたようです。読み物の重要な構成要素であるエロチック度は低く,そちらの方面に関しては中途半端です。後期になると売り上げを考えて,その路線も考えていたような節はあるのですが,カントリーハウスの屋根裏部屋にある珍奇ながらくた的なものへの嗜好が強く,食欲・性欲に関しての雑学を求める人には向きません。ただ眼は利く雑誌です。例えば,流行が終わって,1940~50年代には蚤の市で二束三文のゴミ扱いだったアール・デコ作品を再評価したのは『土曜日の本(Saturday Book)』です。『土曜日の本(Saturday Book)』の編集陣や寄稿者が最も生き生きしていたのは,1950年代だったという気がします。1960年代になると,勢いが薄れ,衰退を感じられるようになり,1975年に廃刊となります。

イギリスのロックバンド,キング・クリムゾンの1973年作に『Lark's Tongues In Aspic』というLPがあります。A面1曲目の緊張度の高いインスト曲「Lark's Tongues In Aspic Part I」のあと,A面2曲目は最初のヴォーカル曲で,「土曜日の本(Book of Saturday)」というしっとりした曲が続きます。作詞はRichard W. Palmer-Jamesで,その詞の内容は,あるカップルの煮詰まった関係の歌だとかいろいろ解釈はありますが,その中に,
  You make my life and times
  A book of bluesy Saturdays
「君がぼくの人生と時代をつくる,ブルージーな土曜日の本」といった箇所があります。30年続いてきて,歴史を閉じようとしている末期の『Saturday Book』と重ねてみたりしています。

 

1941SaturdayBook_cover

『土曜日の本(Saturday Book)』を企画したレナード・ラッセル(Leonard Russell,1906~1974)は文藝編集者で,『Parody Party』(Hutchinson,1936),『Press Gang!』(Hutchinson,1937),『English Wits』(Hutchinson,1940)といったユーモラスなアンソロジーを編んでいて,1945年から54年にかけて『サンデータイムズ(Sunday Times)』の文芸編集長になります。
雑学的に多岐にわたって話題が豊富な雑誌ですので,その30年を超える歴史の間,どんなトピックを取り上げてきたのか,その目次を読み解いていくだけでも,見えてくるものがあるのではないかと思います。

 

第1号『The Saturday Book 1941-42 A New Miscellany』の内容
Edited By Leonard Russell
Publisher: Hutchinson (London)
First published in 1941
Made and printed in Great Britain at Gainsborough Press, by Fisher, Knight & Co., Ltd.
12/6 net
ダストラッパー図案: Barlow

後に写真図版の多様さが看板になる『The Saturday Book』ですが,創刊号では,絵画作品の図版だけで写真は全くありません。出版社はHutchinsonで,これは最後まで変わりません。アグネス・ミラー・パーカー(AGNES MILLER PARKER,1895~1980)の田園の光をとらえる木版挿絵も戦時下のものというより1920~30年代的で,それが全体の主調音になっています。組版も2段組などなく余裕があり,簡潔な構成です。まだ『土曜日の本』の色は薄いです。ラッセルは後に,創刊号を企画としては「大失敗」だったと語っていますが,1920年~1930年代的という意味では魅力的な本です。

『The Saturday Book 1941-42 A New Miscellany』目次
003 the title page
005-006 Introductory Note: L. R.
『The Saturday Book』企画の最初の段階では「目的:年一回刊行の一冊の本,対象は読者層の全年齢層」。そのなかで,戦時下の読者を最新ニュースで頭がいっぱいの「neoterics」と懐古指向の「nostalgics」の二つに分けると,『The Saturday Book』は,悪いニュースの載る新聞から眼をそらし,プルーストに引きこもってしまうような「nostalgics」に比重がかかっています。この雑誌にないものは,時代の荒波だと宣言しています。
007-008 The Contents(目次)
009-014 The SATURDAY BOOK Almanack for 1942
Randolph Schwabeの4枚の農家・田園イラストと1942年のカレンダー。

015 Part One COUNTRY and SEASHORE
016-030 SEA DAYS, SEA FLOWERS: H. E. Bates (5 illus by A. M. PARKER)
(グラフィック・エッセイ)イングランド南東部の海岸散策。文H.E.ベイツ(1905~74,小説家),木版挿画アグネス・ミラー・パーカー(1895~1980,木版画家)のコンビ。二人の共作『Through the Woods』(1936)と『 Down the River』(1937)は,とても両大戦間イギリス的な挿絵本だと思います。
031-041 AS I PASSED BY: H. J. Massingham (2 illus by A. M. PARKER)
(日記)12月から6月の田園日誌抜粋。H. J.マッシンガム(1888~1952)。
042-051 BIRDS: Agnes Miller Parker (10 illus by A. M. PARKER)
(グラフィック・エッセイ)アグネス・ミラー・パーカーのよる英国の鳥の木版画8点と文。

053 Part Two CHARACTERS and CARICATURES
054-068 THE EDUCATION OF NEVILLE CHAMERLAIN: Philip Guedalla (1889~1944,弁護士・伝記作家)
(エッセイ)ヒトラーに対し宥和政策をとったネヴィル・チェンバレン(1869~1940,英国1937~40年の首相)について,その受けた教育から見た性格分析。
069-079 THE FIRST UNCLE SAM: V. S. Pritchett
(エッセイ)政治評論家William Cobbett(1763~1835)についてのエッセイ。V.S.プリチェット(1900~97)。
080-098 LORD FRED THE CRICKETER: Harold Hobson
(エッセイ)英国の雑誌らしく,著名なクリケット選手Lord Frederick Beauclerk(1773~1850)についてのエッセイ。Harold Hobson(1904~92,1947~76年Sunday Timesのドラマ評担当者)。
099-131 THE YOUTHFUL EXCESSES OF MR PUNCH: Olga Venn (3 plates)
(エッセイ)1840~50年代の英『PUNCH』誌初期のころについての考察。
132-140 STARS AREN'T BORN: Dilys Powell
(小説)映画『スター誕生』をもじった子役もの短編小説。ディリス・パウエル(1901~1995,ジャーナリスト・映画評論家,レナード・ラッセルと1943年に結婚)。
141-170 THE CONFESSION OF A MURDERER (Samuel Herbert Dougal)
1903年処刑された殺人犯サミュエル・ドゥーガルの手記。処刑直後,英『SUN』紙に掲載されたものの再掲。〔原稿はDesmond MacCarthy (1878~1952) 所有のものから〕

171 Part Three STORIES AND FABLES
172-211 THE LITTLE FARM: H. E. Bates (3 illus by A. M. PARKER)
(小説) H.E.ベイツ作。小さな農園で,ある夏に失われたもの。
212-257 WEEK-END NOSEGAY: Nathaniel Gubbins(1893~1976,ジャーナリスト)
(小説・コント)「週末の花束」擬人化動物ものなど小品集。「THE SPARROWS」「THE SWEEP」「CONVERSATIONS WITH SALLY THE CAT」「THE GINGER CAT'S LETTERS TO HIS SON」「MEN I KNOW」「CONVERSATIONS WITH THE AWFUL CHILDREN」「SHELTER CONVERSATIONS」
258-279 LACE FOR THE BRIDE: Gerard Hopkins(1892~1961,小説家・翻訳家)
(小説)新婦と母親の間で,新郎は…。
280-308 THE PIGEON FANCIER: Leonard Russell (2 illus by A. M. PARKER)
(小説)1936年の夏,煙草屋のスミスさんはレース用鳩に夢中だったが,家族は…。

309 Part Four SONGS OF SEVERAL SORTS
310-329 ABOUT LOVE SONGS: James Stephens (1882~1950,詩人・小説家)
(エッセイ)ダン,ブレイク,マロリー,リリー,カンピオン,チョーサー,マーヴェルの恋愛詩。
330-357 BACKGROUND OF THE BLUES: Iain Lang
(エッセイ)1941年,イギリスで聴くブルーズ。アメリカのブルーズについてのエッセイ。ビリー・ホリディやベッシー・スミスの歌詞を引用。ブルーズを過ぎゆく世を写す絵として日本の「浮世絵」に例えています。これは『The Saturday Book』的感覚とも言えそうです。

359 Part Five SURREALISM AND SO ON
360-371 NONSENSE: Eric Newton (5 plates)
(エッセイ)マグリット,ダリ,ボッシュ,ジェームズ・サーバー,エドワード・リアのノンセンス的作品について。エリック・ニュートン(1893~1965,美術評論家)。モノクロ図版5点。
372-389 P.G.WOODHOUSE: John Hayward
(エッセイ)P.G.ウッドハウスの小伝。ウッドハウスの親ナチ放送以前に書かれたテキスト。ジョン・ヘイワード(1905~1965,批評家)。
390-444 FIGHTING WORDS AN ANTHOLOGY OF INSULT: Leonard Russel
(エッセイ)売り言葉に買い言葉のけんか言葉を集めたアンソロジー。
445-446 Acknowledgments

THE ILLUSTRATIONS
The wood engravings throughout the book, including the title page design and the endpapers, are by AGNES MILLER PARKER.
The borders and the lettering are by Albert E. Barlow.
The four headpieces to the Almanack are by Randolph Schwabe.(1885~1948)

 

1941Saturday_Parker_endpaper

▲見返しのパターンのデザインもアグネス・ミラー・パーカーによるものです。

 

1941AgnesMillerParker

▲アグネス・ミラー・パーカーのよる英国の鳥についての文と木版挿画のページから。

 

1973LarksTonguesInAspic40

▲『Lark's Tongues In Aspic』の40周年記念盤(2012年)。1973年に1枚のLPレコードだったものが,40年後に,CD13枚,DVD1枚,Blu-ray1枚の計15枚組に膨れあがるわけです。デジタルの時代ならでは膨張です。とはいえ,1973年に1枚のLPレコードがもたらした体験を凌駕するものというわけでもありません。その体験へ脚注作業みたいな15枚組です。

 

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56. 1953年ごろの『スティーヴンス=ネルソン社の紙見本帖』(2013年1月31日)

1953Specimens_cover

 

印刷物というか「刷り物」が好きな人にとって堪らない1冊だと思います。
1950年代に,アメリカの印刷用高級紙(手漉き紙)の輸入会社THE STEVENS-NELSON PAPER CORPORATIONがつくった見本帖『SPECIMENS: A STEVENS-NELSON PAPER CATALOGUE』です。スティーヴンス=ネルソン社は,第二次世界大戦前はJapan Paper Companyという名称で,その名の通り,主に日本の高級紙をアメリカに輸入していた会社です。
見本帖自体には,発行年月日の刊記はないのですが,収録されている,フォード社50周年の冊子用に描かれたフォード家三代のノーマン・ロックウェルによる肖像のグラヴィア印刷に「1903 1953」とあったり,見本帖に添えられている紙の価格表の日付が「JULY 1953」となっていたりしますので,1953年ごろに世に出た本のようです。
1950年代の紙と印刷の,欧米での最高水準を伝える,とても楽しい見本帖です。全ページが,日本はじめ英仏伊の手漉き紙を中心とした印刷用の紙見本であり,同時に英米独仏蘭伊の印刷所の優れた印刷見本にもなっています。また,当時実際に使用されていたElizabeth Arden,Cartier,Pan American World Airways System,Christian Dior,La Place Vendome La Rue De La Paix,J. Walter Thompsonなど便箋の見本も収録されていて,これもまた時を超えた旅先からの手紙のようで魅力的です。

スティーヴンス=ネルソン社のカタログの中心は日本製の手漉き紙で,見本として次のようなものが含まれています。「SN数字」は STEVENS-NELSON社で取り扱う紙のカタログ番号です。
 Goyu SN54
 Hosho SN8
 Inomachi SN2
 Kinwashi SN9
 Kinwashi SN52/53
 Kitakata SN67
 Kochi SN106
 Mokuroku SN6
 Moriki White Lad SN51/52
 Natsume SN22
 Natsume SN41
 Natsume SN48
 Okawara SN10
 Omi SN52
 Sekishu SN98/99
 Sekishu SN99/100
 Shizuoka Vellum SN20
 Shogun SN23
 Shogun SN107
 Tokugawa SN24
 Toyogami SN17
 Toyogami SN18
 Toyogami SN19
 Tsuyuko SN68
 Tsuyuko SN69
 Unryu SN39/40

見本帖には使われていないですが,Hanakurabe,Moriki No.1009-1019,Moriki No.1022-1024,Natsumeの型番違い,Shizuoka Vellumの型番違いなどが、価格表には含まれています。

各ページのデザインやタイポグラフィーを担当した人物の名前をピックアップしてみると,Giovanni PintoriやOfficina BodoniのHans Mardersteigなど,特にイタリアに大きな名前が含まれていて,その実物見本としても楽しめます。

■見本のデザインとタイポグラフィー担当者
 Hollis Holland
 Freeman Craw
 Bruce Rogers
 Walter Howe
 Melvin Loos
 William Stone
 Joseph Blumenthal
 P. Pickard Jenkins
 William Stobbs
 Robert Adams
 Algot Ringstrom
 Philip Reed
 L. J. Ansbacher
 John P. Palatella
 Andlew Milne
 George F. Trenhol,
 Ashley Havingden
 Andrew Szoeke
 Ben Lane
 George Maas
 Hans Mardersteig
 Romano Dazzi
 Aldo Novarese
 Alessandro Butti
 Christopher Sandford
 Beatrice Warde
 Lynn & Fred Stanco
 Feliks Topolski
 Anna Maria Schildbach
 T. Robert Stumpf
 Thomas Davenport
 Jan van Krimpen
 Harold Cabot
 Giovanni Pintori
 Pietro Vicenzi
 Eugene Ettenberg

 

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▲タイトルページ。Freeman Crawのデザインとレタリングで,ニューヨークのTri-Arts Pressによる活版印刷。日本の手漉き紙「Inomachi SN2」に印刷。Freeman Crawは映画『ピンクパンサー』のタイトル文字をデザインした人です。

 

1953Specimens_Picasso

▲アメリカのMeriden Gravure Co.によるオフセット印刷。日本の手漉き紙「Shogun SN23」に印刷。

 

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▲フランスのCanson社製アート紙「RIVES」にDraeger Frèresによる4色グラヴィア印刷。

 

1953Specimens_Novarese

▲Aldo Novareseのデザイン,Alessandro Buttiの活字で,イタリアの手漉き紙「ROMA」に,トリノのG. Canale & C.が活版印刷。

 

見本帖の各ページを担当する英米独仏蘭伊6か国の印刷所の名前もピックアップしておきます。未知の名前が多くて,好奇心をそそられます。
●アメリカ
 Crafton Graphic Co., Inc.
 Tri-Arts Press
 Thistle Press
 Anthoensen Press
 Lakeside Press
 Sequoia Press
 Spiral Press
 Marchbanks Press
 Tayler & Tayler
 Photogravure and Color Company
 Publishersw Printing Company
 Conneticut Printers Inc.
 Meriden Gravure Co.
 Rand Avery-Gordon Taylor, Inc.
 Robert Burlen & Son
 Pied Piper Press
 Lane Press
 Roycliff Associates, Inc
 Pandick Press
 The Press Of A. Colish
 Carol Cards
 Huxley House
 L. F. White Company, Inc.
 Montgomery Press
 Knapp Engraving Company, Inc.
 Aldus Printers, Inc.
 Anderson & Ritchie
 L. S. N. Art Studio
 Gallery Press
 Plantin Press
 George Grady Press
 William E. Rudge's Sons
●イギリス
 Cambridge University Press
 Fanfare Press
 S. Straker & Sons Ltd.
 Dropmore Press
 London School Of Printing And Graphic Arts
 Curwen Press
 Shenval Press
 W. S. Cowell Ltd
 John Roberts Press
 The Monotype Corporation Ltd.
 Chiswick Press
 Baddeley Brothers Ltd.
●フランス
 La Photolith L. Delaporte
 Fonderies Deberny et Peignot
 Sauvard
 Ateliers de L'Union Typographiqu de France
 Mourlot Frères
 Imprimerie Nortier
 Draeger Frères
 Lucien Martin
 Ateliers Gustave Dubois
 Imprimerie Agry
 Perceval
 Procédés Daniel Jacomet
●イタリア
 Stamperia Valdònega
 Zincografica Fiorentina
 G. Canale & C.
 A. Marendino
 Arti Grafiche Pietro Vera
●ドイツ
 E. Schreiber Graphische Kunstanstalten
 A. Bagel, Graphischer Großbetrieb
 D. Stempel AG, Type-foundry
 Eggebrecht-Presse
 Papierfabrik Zerkall Renker & Söhne
●オランダ
 Joh. Enschedé en Zonen

 

手間のかかった1冊です。これだけ多様な印刷所と交渉するだけでも大事業です。この印刷見本を見ると、各地域の独自性をつくるのは、その地域で作られた独自の活字だということを強く感じます。個人的に関心のあるイギリスのCambridge University Press,Curwen Press,The Monotype Corporation Ltd.,Chiswick Pressも,ちゃんと見本におさまっているところも頼もしい1冊です。

見本帖に収録された紙は60年経過しているわけですが,インクの油分が前ページに少しうつっているページもあるものの,どの紙もとても状態がよいです。手漉き紙,最強です。この1950年代のアメリカが生み出した紙見本帖でも明らかなように,20世紀の書籍印刷にとって,日本の手漉き紙が最高級のグローバル・スタンダードだったということは,とても誇らしい気がします。両大戦間の出版物では,通常版のほかに,手漉き紙を使った特装版も同時に作られることがあって,その特装版に日本の手漉き紙が使われていると最もデラックスな版ということになっていました。

 

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55. 1945年の岸田日出刀『建築學者 伊東忠太』(2013年1月29日)

1945Kishida_Ito Chuta

 

建築学者・建築家の伊東忠太(1867~1954)の伝記です。築地本願寺や平安神宮など,明治・大正・昭和の顔のような建築物を設計した建築家であり,世界的な好奇心をもった建築学者です。奈良の法隆寺とギリシア建築の胴がふくらんだ柱などで類縁関係が語られることがありますが,その説を唱え始めたのが伊東忠太です。『建築學者 伊東忠太』を書いたのはその門下生,建築学者・建築家の岸田日出刀(1899~1966)です。建築家としては東大の安田講堂を設計した人です。
昭和20年(1945)6月に乾元社から発行され,日本出版配給統制株式會社から配給されています。定価5円50銭。初版は3000部です。戦争末期に発行された本ですが,戦時中の本にしては,とても上機嫌な本です。序文の日付は昭和19年3月ですので,そのころには原稿は仕上がっていたようです。

『建築學者 伊東忠太』の中で,明治25年(1892)の卒業證書が全文掲載されていて,興味深い名前が連なっています。

  卒業證書
   伊東忠太
 工科大學造家學科ヲ修メ定期ヲ歴テ試問ヲ完ウシ正ニ其業ヲ卒ヘタリ仍テ之を證ス
 造家學 工科大學教授正六位工學博士工學士 辰野金吾
 造家學 舊工科大學講師勲四等 Josiah Conder, F. R. I. B. A.
 造家學 工科大學教授從六位 小島憲之
 造家學 工科大學助教授正七位工學士 中村達太郎
 衛生工學 工科大學教師 W. K. Burton, Memb. Sanitary Inst. Anoe, Memb. Inst, S. E. London
 日本建築學 工科大學講師從七位 木子淸敬
 自在畫・装飾畫 故工科大學助教授 大野義康
 構造強弱論 舊工科大學教授正七位工學博士理學士 白石直治
 數學・應用力學 工科大學助教授從七位工學士 井口在屋
 測量學 工科大學助教授從七位工學士 小川梅三郎
 地質學 工科大學教師勲四等 John Milne, F. R. S.
 製造冶金學 工科大學教授正七位工學博士理學士 野呂景義
 各教授ノ證明ヲ認了シ授クルニ卒業證書ヲ以テシ本科ノ學業ニ堪能ナルヲ證ス
  明治二十五年七月十日 工科大學長正五位工學博士 古市公威
 工科大學長古市公威ノ證明正當ナルヲ以テ帝國大學ノ印ヲ鈐シ予ノ名ヲ著ス
 帝國大學總長従三位勲二等文學博士 加藤弘之

このころは建築学科でなく造家學科です。伊東忠太の工科大學造家學科の同級生は,河合幾次・田島穧造・眞水英夫・山下啓次郎の四人だけで,学生より先生の数が多かったわけです。そのためか,この卒業證書では,担当教官の肩書きや姓名はそれぞれ自著という丁寧さです。実は夏目漱石も建築を志していた時期があったので,文学へ方向転換しなければ夏目金之助も同級生だった可能性もあります。

この「卒業證書」には,引き出し線の多い人物がずらりと並んでいます。鹿児島がらみの引き出し線も何本か出ています。とりあえず鹿児島に関係のある人物だけでも抜き出しておきます。伊東忠太の同級生,山下啓次郎(1867~1931)は,鹿児島生まれ。明治9年(1876)9歳の時に母親に伴われて上京します。父親の山下房親(龍右衛門)は薩摩藩士で,戊辰戦争に従軍後,川路利良のもとで警察に勤めます。山下啓次郎も司法省に勤め,近代監獄などの設計にあたります。山下啓次郎の孫がジャズピアニストの山下洋輔です。

 

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▲山下洋輔『ドバラダ門』(新潮社,1990年)。半透明のカバーを取ると,表紙は旧鹿児島監獄の正門です。山下啓次郎の設計した石造りの旧鹿児島監獄の正門が取り壊されそうになったとき,山下一族の歴史と旧鹿児島監獄の正門の保存が決まるまでのてんまつが語られる,ノンフィクションと幕末ものと落語と音楽が入りまじった「小説」です。

 

2013DobaradaMon

▲2013年現在の旧鹿児島監獄の正門。塀の内側方向から撮ったもの。

 

1945Ito Chuta_Manga

▲岸田日出刀『建築學者 伊東忠太』のページから。
伊東忠太は,大量のスケッチ・漫画を残しています。その漫画では怪獣が街を破壊していたりして面白いものが多いです。炭鉱の画家・山本作兵衛と共通するものを感じます。
伊東忠太の「卒業證書」に「自在畫・装飾畫 故工科大學助教授 大野義康」とあって,造家學科で伊東忠太や山下啓次郎に絵を教えていた先生の名前があります。自在畫は,「freehand drawing」の訳で,製図器具を使って幾何学的にかく「用器画」とともに,建築家にとって基本技術なのですが,その先生の大野義康も鹿児島出身者です。大野義康という名前だと分かりにくいかもしれません。日本における洋画写実派の先駆者のひとり,曾山幸彦(生年は1857年から1860年,没年は1892年)の別名です。歌人として知られる薩摩藩士高崎正風の甥っ子にあたります。曾山は明治20年頃,大野家に養子に入り,諱(いみな)の義康で名乗るようになります。ですから,曾山幸彦・大野幸彦・大野義康は同一人物です。テクニカルでメカニカルな写実派で,美術學校でなく工学部で教えたというところも曾山幸彦らしいと思います。曾山(大野)は永田町で絵の私塾も開いていましたが,そこでは藤島武二,和田英作,岡田三郎助,中沢弘光,矢崎千代二,三宅克己,北沢楽天,高木背水らが学んでいます。明治25年(1892)1月10日,腸チフスで若くして亡くなったことが惜しまれます。この卒業證書のときには亡くなっていて名前に「故」がついています。

 

岸田日出刀『建築學者 伊東忠太』では,伊東忠太の学生時代を次のように書いています。

 博士在學當時のこの造家學科の主任教授は辰野金吾博士で,他に専門の教授として小島憲之と中村達太郎の二人があつた。これら三教授の擔當科目は大よそ左の通りであつた。
 辰野教授は何でも教へたが,特殊意匠と建築史の講述を主とし,小島教授は西洋建築を受けもち,中村教授は材料構造・仕様積算・施工・建築史の一部などその擔當範圍は廣かつた。
 教授の他に,教師として英人コンドル(Josiah Conder,1852-1920)がをり,更に教師手傳として木子淸敬(日本建築),松岡壽(圖畫)・曾山親民(自在畫)・バートン(英人,衛生工學)・ウェスト(機械)・野呂景義(鑛山工學)・原龍太(土木)・井口在屋(數學)・ミルン(英人・地質學)が,それぞれの科目を擔當してゐた。
 入學早々博士の抱いた感想はどんなものだつたろうか。大學とはこんなものか案外だといふやうな氣分が大きかつた。當時の先生たちの講義の内容なり,その講述ぶりは,今日[昭和20年当時]のそれらとは隔世の感があり,當時一時間の講義内容はをそらく今日の十分位に相當するものだつたらしい。例へばバートンなどは土方の親分然とした風采で,その教へ方も黑板へ上下水道などの衛生工學らしい内容のものを長々英文で書き連ね,學生はそれをみてただ根氣よく書き写すだけのことだつた。そして試驗には,その文章がそのままが出されるから,成績はみな上乘で,英文の綴りに誤りがあればそのひとつにつき五點引くといつたやうな調子で,誰でも九十點以上といふ樂なものだつた。學修の内容がかやうないはば呑氣悠長なもので,自分のすきなことを思ふままに勉強する時間はいくらでもあつたから,何か特別に自分で熱心に研究し様といふやうな場合には,甚だ都合がよかつたわけである。

「曾山親民(自在畫)」とありますが,曾山幸彦・大野幸彦・大野義康は「親民」とは名乗らなかったので,これは謎です。
ここに登場する「バートン」は,「43. 1892年のマードック,バートン,小川『アヤメさん』」で紹介した写真家でもあるバートン(William Kinnimond Burton)です。今から考えると,バートンは当時の写真技術の分野で実は世界トップクラスの存在で,「バートンなどは土方の親分然とした風采」と言ってしまう学生にはもったいなかったと思います。バートンのポテンシャルを引き出す学生さんがいればよかったのですが,ともかく,日本にも小川一眞というバートンの相手になってくれる存在がいただけでもよかったわけです。山下洋輔の『ドバラダ門』でも,伊東忠太や山下啓次郎の先生になるお雇い外国人のうち,ジョサイア・コンドルやジョン・ミルンの名は出てくるのですが,バートンの名前はなく,ちょっとかわいそうです。

 

1980John Milne

▲A. L. HERBERT-GUSTAR & P. A. NOTT『JOHN MILNE: FATHER OF MODERN SEISMOLOGY』(Paul Norbury Publications Limited,1980)
伊東忠太や山下啓次郎の先生のひとり,ジョン・ミルン(John Milne,1850~1913)は「地震学の父」とも言われる人物です。これは1980年に出たジョン・ミルンの評伝です。ジョン・ミルンは1876年から1895年まで日本で教えています。1895年,日本で結婚したトネを連れてイギリスのワイト島(Isle of Wight)に帰ります。その時,日本で収集したもので持ち帰ったものの中に,幻灯機用の写真スライドで,手彩で着色したものがあって,そのうち数点が『JOHN MILNE: FATHER OF MODERN SEISMOLOGY』に掲載されていたのですが,見覚えのある写真です。

 

Burton_Milne_Asakusa

▲『JOHN MILNE: FATHER OF MODERN SEISMOLOGY』に掲載されていた,ジョン・ミルン所有の幻灯機スライド用着色写真から浅草十二階。撮影者名などは記載されていません。

 

1892Ayame-san_Burton

▲1892年のマードック,バートン,小川『アヤメさん』に収録された浅草十二階。バートンが撮影し,小川一眞が製版したものです。この写真に着色したものをジョン・ミルンが持っていたわけです。

 

ジョン・ミルンがワイト島に持ち帰った写真スライドは,ワイト島にあるキャリスブルック城博物館(Carisbrooke Castle Museum)に収蔵されているようです。その公式サイトのなかの「historic images」に「Professor John Milne」のコーナーがあって,1876年~1895年に撮影されたとされる日本の着色写真スライドやワイト島でのトネ夫人の写真など197点を見ることができます。『アヤメさん』に収録された写真も何点か,着色版のスライドになっています。日本題材の着色写真の多くは,バートンが撮影し,小川一眞の工房で仕上げられたものだと推測されます。
「historic images」のサイトでスライド写真に添えられたデータは,「日付(Date)」だと「1876 to 1895」とミルンの日本滞在期間だけで,「場所(Location)」も「撮影者・制作者(Artist/maker)」も「未詳(unknown)」とだけしかないので,このスライドに写された日本の場所・人物を調べると面白そうです。パブリック・ドメインという扱いではなく,博物館では2750x2418px,300DPIのデジタル画像を販売しています。せっかくの着色スライド写真ですので,もっと高い解像度のものが可能かと思います。これを幻灯機で映写したら,とても美しかったろうなと思います。

工科大学で同僚だったバートンとミルンは,
 『The Great Earthquake in Japan 1891』(Stanford, 1892)
 『The Volcano of Japan』(Crosby and Lockwood,1893)
という2冊の本を日本で出しています。文章をミルンが,写真をバートンが,写真製版を小川一眞が担当した本のようです。現物を見たことはないので,手に取ってみたい本です。『The Great Earthquake in Japan 1891』は,1891年におこったマグニチュード8.4の濃尾大震災を取材したものです。「historic images」のサイトでも,その本に収録された写真に着色したと思われるものがありますが,津波被害者の遺体写真もありますので,そうしたものを見たくない方は,注意が必要です。

ワイト島にあるジョン・ミルンの日本スライド写真・コレクションの興味深いところは,1枚,鹿児島の城山から見た桜島の着色写真が含まれているところです。これは,バートンが撮影したものか,または小川一眞が撮影したものか,あるいは全く別人が撮影したものか,また『日本の火山(The Volcano of Japan)』と関わりのある写真なのか,気になるところです。

 

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54. 1912年のチャールズ・T・ジャコビの『本と印刷についての覚書』(2013年1月27日)

1912CTJacobi_Books and Printing

 

『本と印刷についての覚書(SOME NOTES ON BOOKS AND PRINTING)』の初版発行は1892年11月。その1912年第4版のタイトルページ見開きです。黒と赤2色のタイトルページは,やはり基本という気がします。イギリスの活版印刷の歴史では欠かすことのできない印刷所チジック・プレス(THE CHISWICK PRESS)の経営者のひとりチャールズ・T・ジャコビ(Charles T. Jocobi)が書いた本作りや出版についての入門書です。
「PRINTED BY THE AUTHOR AND PUBLISHED BY CHARLES WHITTINGHAM AND CO. AT THE CHISWICK PRESS」ということで,チャールズ・T・ジャコビ自身が印刷しています。ジャコビは1919年の『ルパート・ブルック詩集』の印刷者でもあります。ジャコビは,実用的・実践的な印刷・出版に関する入門書・技法書を何冊か書いていて,これもその1冊です。スタンリー・モリソンは,ジャコビのことを「キリスト教世界で最大の凡人で,実に無知」と書き残していたそうですが,モリソンにとっては煙たい先輩で職人肌の頑固な人だったのかもしれません。

このころの技法書が持つ実用性が好きです。現在の技法書は,写真に大きく依存していますが,このころの技法書は例えば,銅版のエッチングの技法書であれば,図版自体が写真でなく,エッチングで刷られたものを使いますし,この本でも,印刷用の紙見本が実物で添えられているなど,現物指向が強く,それが今からすると贅沢です。
『本と印刷についての覚書』に添えられているのは,機械漉きの紙が10種類,手漉き紙9種類。「JAPANESE VELLUM」という名で日本の「局紙」も含まれています。三椏(みつまた)を材料とした紙です。大蔵省印刷局抄紙部がつくった紙なので「局紙」です。日本の大事な輸出品でした。日本の紙は,印刷用の紙としてイギリスでも最高級の位置づけで,特装本には必ずといっていいほど「JAPANESE VELLUM」が使われていました。
1912年の本なので,どれも100年以上経過した紙ということになりますが,手漉き紙は周囲が焼けているぐらいの変化なのに対し,機械漉きの何枚かは,シミや黄ばみの出方が大きくなっています。機械漉きのコート系の紙も3枚あって,「CHROMO SURFACE」という紙は黄ばみも薄く変化が少なく良好な状態のままなのに対して,「ENAMELLED(SO-CALLED “ART”)」は黄ばみが強く,また,図版印刷に使われる「PLATE PAPER」はシミがひどく出ています。古い本の図版のシミにはがっかりすることもありますが,この「PLATE PAPER」を使っていたとしたら,シミも出るのも当然かという感じです。 100年たってボロがでたわけです。

 

1912Chiswick Press_Old Face_Modern Face

▲ジャコビは,チジック・プレスで使われた3つの印刷書体を使って,活字を説明しています。
「(a)The Old Face」は,カズロン(CASLON)です。
「(b)Revived Old Style Face」は,17世紀以前の活字を意識して,Miller and Richardで19世紀中頃に新鋳された印刷書体です。『本と印刷についての覚書』の本文書体としても使われていて,チャールズ・T・ジャコビ一押しの印刷書体だったのかもしれません。
「(c)The Modern Face」は,18世紀の印刷書体をモデルに,19世紀前半に鋳造されたものです。

 

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53. 1903年の岡倉覚三『東洋の理想』(2013年1月26日)

1903Okakura_The Ideals Of The East

 

岡倉覚三〔岡倉天心,1863年2月14日(文久2年12月26日)~1913年(大正2年)9月2日)〕が,1902年インド滞在中に書き下ろした最初の英語の本『THE IDEALS OF THE EAST(東洋の理想)』です。1903年2月,ロンドンのJohn Murray社から出版されました。バイロンやスコットの版元として有名な老舗出版社です。印刷はエジンバラのBALLANTYNE HANSON & CO.です。表紙には,藤袴(ふじばかま),撫子(なでしこ),女郎花(おみなえし)でしょうか,ジャパネスクな意匠がほどこされています。冒頭の「アジアは一つである。(Asia is one.)」のフレーズが有名な著作ですが,初版には,「お詫びと正誤表」が必要な大きな間違いがあります。
著者名が「KAKUZO OKAKURA」ではなく,「KAKASU OKAKURA」と間違っているのです。「カカス」というのは,日本人の名前としてはまず無いものなので,出版社・印刷者に分かる人がいれば,止められた間違いだと思います。しかし,オペレッタ『ミカド』に登場する日本人名がヤムヤムだったりするわけですから,イギリスの版元に期待するのは難しいのかも知れません。原稿は船便を介して届けられたのでしょう。手書きの原稿を読み誤ったということなのでしょうが,英文でのデビュー作で名前が間違っていたのは,不運でした。1905年11月の再版では「KAKUZO OKAKURA」と訂正されています。
名前の表記には,もうひとつ大きな問題があって,1904年にThe Century Co.(ニューヨーク)とJohn Murray社(ロンドン)から出版された『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』 では,「OKAKURA-KAKUZO」と間に「-」を入れて「姓・名」の順にしています。1906年,DUFFIELD & COMPANY社(ニューヨーク)から出版された 『THE BOOK OF TEA(茶の本)』でも, 著者名は「OKAKURA-KAKUZO」と「姓・名」の順にしています。間に「-」を入れているのは独特ですが,岡倉覚三は,欧米流に「名・姓」でなく,日本流に「姓・名」の順で著者名を表記されるように望んだようです。

 

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▲『THE IDEALS OF THE EAST(東洋の理想)』初版で,「KAKASU」と名前を間違えたのは,1か所だけでなく,すべてで間違えているので,本質的な誤解が出版社・印刷所との間にあったようです。その間違いが起こった経緯を知りたいものです。

 

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▲ラーマクリシュナ・ヴィヴェカーナンダのネヴェディタ(NIVEDITA OF RAMAKRISHNA-VIVEKANANDA)が書いた序文でも「KAKASU」です。ネヴェディタはインドのカルカッタ在住の人だったので,ここでも原稿は長時間かかる船便を介していたのでしょう。ネヴェディタは英国人女性で,本名はマーガレット・ノーブル(Margaret Noble,1867~1911)といいます。
『THE IDEALS OF THE EAST(東洋の理想)』初版の本文書体は,ウィリアム・モリスが忌み嫌ったモダン・タイプです。1903年ごろの美意識に敏感の人だと,「古くさい」と感じるかもしれない書体ではあります。

 

岡倉天心と鹿児島との直接の関わりはなかったようですが,天心の弟,岡倉由三郎〔慶応4年2月22日(1868年3月15日)~昭和11年(1936年)10月31日〕は,短い間ですが,鹿児島市の造士館中学で教鞭をとっています。今藤慶四郎・樋渡清廉編『島津珍彦男建像記念誌』(大正12年)収録の「造士館職員略歴」で「岡倉由三郎明治元年生福井藩廿四年渡韓廿七年一月東京中學教諭九月来任」とありますので,明治24年(1891)朝鮮に渡り漢城府南部寿洞に日語学堂を設立して日本語教育を始め,その後,明治27年(1894)9月に就任しています。明治29年(1896)には,東京高等師範学校(筑波大学の前身)の教員になりますので,短い期間です。
岡倉由三郎は,研究社の英和辞典の編集などで知られる英語学者ですが,日本の国語教育で共通語の役割を強く主張した存在でもあります。朝鮮や鹿児島での教師体験は,その信念をより強いものにしたのかもしれません。その方言の根絶を主張する「標準語」論は強力なものです。

「凡そ一つの國民を十分に團結させやうと云ふには,様様方法があるであらうが,其中でも同じ連絡の綱を互の口から耳に引き張つておく事,言ひ換へれば,同じ言葉で意思を交通させることを十分にする事が、互に相互の親和を謀る上乗の方便である。(略)それ故に國民の統一の上には言葉の統一と云ふことは非常な影響を以て居る。」
「それであるから是非一國内は隅隅隈隈,本土は素とより,北海道や臺灣までも,必ず統一の出來るやうに仕むけねばならぬと云ふことは,申すまでもないことで,今日は一國の内で,兄弟相爭ふべき秋ではない。」

これは,大阪市教育会の依頼で,岡倉由三郎が,明治34年(1901)7月~8月に初等教育関係者に行った講義をまとめた『應用言語學十回講話』(成美堂書店・集成堂書店,1902)からの引用です。岡倉由三郎は,日本語の表音文字による表記を理想と考えており「漢字の全廢は一日も早く願はしい」とまで言っています。鹿児島での体験が反映された部分もありますので,少し長くなりますが,さらに引用します。

 

方言は一國語内に於ての内割れであるが,かかる内割れは現在の日本語に,其例が幾らもある。(略)地方語の成り立ちは大體かやうであるが,尚一層其性質が知れるやうに,鹿児島ことばを例に出して説明を試みよう。例へば「キユ,ワ,イツペ,コツペ,サルキモシタヤ,シツタ,ダレモシタ」と云ふことばがある。が,これだけでは,殆んど何の事とも,聞取れまい。此意味は『今日は彼方此方歩きましたところが大層疲れました』と云ふことである。
試みに,この一くさりに就いて,東京の言葉と,鹿兒島ことばと比べて御覧。色色な事實が知れる。先づ「キヨー」と云ふことを「キユ」と云ふのは,慥に「けふ」と云ふ同語源からでたのではありながら,互に語葉の外形,即ち發音が變つてゐる。それから「あちらこちら」と云ふことを「イツペコツペ」と云ふ類は,同じ事柄を互に違つた發音によつて現はして居るのである。「歩く」と云ふのを「サルク」と云ふのは,素と略ぼ同じものであるが,頭にス音が一つ添つてゐるだけ違つて居る。東京のことばで「歩きましたら」と云ふのは「歩いたら」と云ふより丁寧に言ふ言葉である。我我は丁寧に云ふときに「ます」と云ふ語尾を使ふ事がおほい。その時彼地では「モス」と云ふ語尾を使ふ。「モシタヤ」の「ヤ」は,「ましたら」の「ら」に對する者である。「シツタ」と云ふのは「たいそう」とか「たいへん」とか云ふ副詞である。「ダレル」と云ふ語は,多分東京の言葉で「ダルイ」や「デレル」と云ふものと,同じ語源のものと思はれる。
そこで,これを引つくるめて云つて見ると,東京ことばと,鹿兒島ことばとの間の差は,次の八項から成りたつたのである
 (一)單語の外形變遷と語格の外形變遷
 (二)單語の内容變遷と語格の内容變遷
 (三)單語の消滅と語格の消滅
 (四)單語の發生と語格の發生
この四種のことばの變化は,東京語と鹿兒島語との差違のみならず,如何なる他の二つの地方語の間にでも存在する差異をも説明するものであるが,一つの國語の東西の差のみでなく,其古今の差も,亦この四種變化に起因するに外ならぬ。この中,第一項は「キヨー」と「キユ」と「けふ」との比較で知れ,又「たら」を,「たや」に比らべた事で分かつたと見て,次に第二項の内容變遷以下の各項の話をざつとして見よう。
先づ單語の内容とは,其意味のことで,この單語の内容の變化の事を、例に就いて述べて見れば,東京地方,その他方方に「ふとい」と云ふ形容詞がある。この語に對する鹿兒島の單語は,「ふて」で,「ふとい」と「ふて」とは,外形が違つてはゐるが,本來同一の語である事は疑ふ餘地がない。本は同じ語でありながら,その意味に於ては,互に違ふ処がある。吾吾東京の者は,何う云ふ意味に之を使ふかと云ふと,先づ「細い」に對して「太い」と云ふことを云ふ,柱だの,筆だのの様に直徑の短い,長いものに就いて「細い」とか,「ふとい」とか云ふ事になつてゐる。太いと云ふ語を,「ちいさい」に對する「おほきい」の意味では,「度胸が太い」,「肝が太い」とか云ふ場合の外,殆んど使ふ事がないと思ふ。それ故「おほきい」皿とは云ふが,「ふとい」皿とは云はぬ。「おほきい」男とは云ふが「ふとい」男とは云はぬ。若し「ふとい」男と云ふ事があれば,その時の「ふとい」は,形の「ちいさい」に對するのではなく,肝の「ちいさい」に對する語で,「惡事をば敢て行ふ惡心の滿ちてゐる」の心を示すものである。「ふとい」と云ふ語の使い方は,どこでも皆かうであるかと云ふと中中さうではない。例へば鹿兒島言葉の「ふて」は,外形も少し變つてゐる通り,内容も亦,東京のとは違つて居る。この家は大層「太い」家だといつたら,吾吾には可笑しく聞えるけれども,鹿兒島の人は,當り前に聞くので,この場合には「おほきい」と云ふ意味を示して居るのである。それから、彼の人は「ふとい」人だと云へば,鹿兒島の人は「太った」人とか,「體の大きい」人といふことに解して,惡事を斷行する,所謂我我の「ふとい」人と云ふ意には,決して取らないのである。それもその筈「ふて」には,この最後の意味が含まれて居ないからである。最う一つ例を採ると,我我東京人の「痛い」といふことばは,「苦痛を覺える」意味に使ふが,この痛いと云ふ語の語源に立戻つて考へると,「あつい」(暑)(熱)だの,「いと」(最)「いたく」(甚)などと同一の語幹から出てゐる事が知らる。「最」の字をいとと讀むのは「甚しく」と云ふことで,古い本には,「いたく嘆かせ玉ふ」と云ふやうな風に書いてあるのは「甚しく」の心である。其「いた」は,この「いと」の姉妹で,「あつ」(暑)(熱)の「あつ」も,「いと」と同源の語である。「いちじるしい」の「いち」,「いとしい」(愛)の「いと」なども,亦同一語の異つた形と思はれる。かやうに,「いた」,「いち」,「いと」,「あつ」の類は,本來は同一の語幹から出たものとしても,今日の實際の使ひ方には,それぞれ定まつた内容が含まれて居て,「いとしい」を,「あつしい」とも云へず,「いたむ」を,「いちぶ」とも云へぬ。銘銘の意味の範圍がそれぞれ違つて居る。そこで我我の「いたい」と「あつい」とに對して,鹿兒島の人は「いたい」,又は「いて」を使ふ。例へば洗湯へ行つたときに,この湯は「いて」と云ふ。自分が鹿兒島へ行って錢湯へ始めて這入つたところが,湯槽の向ふのところで,大層「いたい」と云つて居る人があるから,何か腫れものでも出來てゐて,それに湯が浸みて痛いのであらうと思つてゐた處が,さうではなく,よく聞けば湯が熱いと云つえゐたのであつた。この外,ある地方で,「くたぶれた」と云ふ事を,「こわい」と云ひ,「こわい」を「おそろしい」の意に使はないのは矢張この内容變遷の一例である。

 

どうやら岡倉由三郎の鹿児島体験は,方言根絶の意思を強固にしたようです。「國語内の地方的の差は,成るたけ早く消滅させねばならぬ」として,方言のことを根絶が必要な毒蛇「はぶ」に例えて,「一部分を剥製になし,アルコール漬にして,標本に殘しておき,その他は悉く根絶にするが得策である。地方語の始末方も亦この通りで,一部の學者の參考に供へるため,方言や地方特有の語格を取調べて,その標本をひと通り保存して置いて,その餘をば皆潰して了ふより,外によい方法はない。」と,方言の根絶を唱えています。奥州の人と鹿児島の人が日本人同士問題なく意思疎通ができるように「全國に一つの標準語を建てて,それを中心にして,口ことばの統一を謀る外ない」としています。乱暴ですが,本気だったのです。

明治5(1872)年に発布された「学制」では,小学校に「国語科」という教科はありませんでした。あったのは,綴字・習字・単語・会話・読本・修身・書牘・文法という科目です。明治33(1900)年8月の「小学校令」改正で,はじめて教科としての「国語科」が誕生するのですが,「国語科」創設には,岡倉由三郎もかかわっていました。20世紀は,日本の「国語」「標準語」「共通語」をつくりあげようとした世紀でもありました。私が子どもだった頃,国語の先生は「共通弁」を礼賛し,「方言」を蔑んでいました。岡倉由三郎らの持論の余波は,そのころも続いていたわけです。

しかし,岡倉由三郎なら,岡倉覚三の名前が「KAKASU」と間違えられたことを,どのように分析したのでしょうか。ちょっと聴いてみたい気がします。ジャッドン,キユ,ワ,イツペ,コツペ,カキモシタヤ,シツタ,ダレモシタ。

 

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52. 1895年のウィリアム・モリス『世界のかなたの森』(2013年1月25日)

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原題は『THE WOOD BEYOND THE WORLD』,初版は1894年のケルムスコット・プレス版(The Kelmscott Press)です。ウィリアム・モリス(William Morris,1834~1896)自身がデザインした活字チョーサー・タイプ(Chaucer type)で印刷されています。写真は,1895年にローレンス・アンド・ブリン社(LAWRENCE AND BULLEN)が出した普及版のタイトルページです。印刷はチジック・プレス(CHISWICK PRESS:-CHARLES WHITTINGHAM AND CO.)で,活字はカズロン(Caslon)が使われています。
晶文社の文学のおくりものシリーズに,小野二郎訳の『世界のかなたの森』が収録されていました。その,あとがきで小野二郎が「私はこのあまり量の多くない,中篇といってよい作品が,ぜんぶのロマンスのなかでも特に大好きです」と書いていたことが記憶に残ります。この作品は,20世紀に盛んになる,魔法をモチーフにしたファンタジー小説の原型となった小説でもあります。もうひとつ,この版でカズロンの活字が使われたことは,20世紀に大きな影響力を持ったのではないかと考えています。

 

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▲ウィリアム・モリス,小野二郎訳『世界のかなたの森』(晶文社,1979年)

 

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▲1895年普及版タイトルページにあるローレンス・アンド・ブリン社のプリンターズ・マークですが,拡大すると,左下に鶴のサインが見えます。ということで,このプリンターズ・マークをデザインしたのはウォルター・クレイン(Walter Crane,1845~1915)です。

 

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▲1895年版のウィリアム・モリス『世界のかなたの森』の見開きページの例。余白は広めですが,この文字組を見て,読みにくいものとは感じません。たぶん,それが20世紀的な感性なのだと思います。もっとも,この版といちばん親和性が高いのは20世紀前半の感性かもしれません。ウィリアム・モリスは,『理想の書物』(晶文社,1992年)収録されている1891年のインタビューで,
「タイポグラフィの点でイギリスはすべての国中で最悪でした。十五世紀ぐらいまでこの藝術で最も完璧だったのがイタリア人とドイツ人です。その後,彼らもまた衰退し始め,十七世紀では印刷の方面で誇れるものをもっていたのはフランスとオランダぐらいなものでした。この国(イギリス)で当今作り出される本を見てごらんなさい。私が今使っている活字より小さい活字で本を印刷してはいけません。わが国屈指の著述家の本でさえ,活字のおかげで台なしになっています。ラスキン氏の作品をごらんなさい。英語の本のなかでもおよそ最悪の印刷で,最も醜い代物ですから」
と述べています。
次に,その「最悪の印刷で,最も醜い代物」そのものではないかもしれませんが,1867年のジョン・ラスキン(John Ruskin,1819~1900)の『ヴェニスの石 第2巻(THE Stones of Venice VOLUME THE SECOND)』(第2版,SMITH, ELDER AND CO.)から第6章「ゴシックの本質(THE NATURE OF GOTHIC)」の冒頭部分の文字組を掲げてみます。印刷はSPOTTISWOODE AND CO.です。確かに活字はとても19世紀的ですが,図版がとても魅力的な本です。

 

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▲モリスはラスキンの書いたものには深く影響を受けましたが,ラスキンの本の19世紀的なタイポグラフィには我慢ならなかったようです。活字の分野で,モダン・タイプというと,フランスのディドー(Didot)やイタリアのボドニ(Bodoni)のような18世紀の繊細さを追求した活字のことをいい,17世紀以前の活字をオールド・タイプとよぶことがあります。文字の世界では「モダン」なのが18世紀のことだったりするのでややこしいです。19世紀のイギリスの出版物で主流だった活字は,そのディドーやボドニの系統をひくモダン・タイプの活字でした。ラスキンの本の印刷もその例外ではありません。モリスはそのモダン・タイプが大嫌いだったようです。
もちろん19世紀のイギリスがモダン・タイプばかりというわけではなく,チジック・プレスは少なくとも1840年代には,カズロンのような17世紀のオールド・タイプ活字を復活させています。それは,モリスが理想とするオールド・タイプ活字ではありませんでしたが,少なくとも「醜い代物」モダン・タイプよりははるかにましだったようです。

 

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▲モリスは,1889年,チジック・プレス(CHISWICK PRESS)で,古いバーゼル活字をもとに新しく活字を鋳造してもらい,『山の根(THE ROOTS OF THE MOUNTAINS)』を印刷します。これは,ケルムスコット・プレス設立に先立つものですが,モリスのぼってりとしたオールド・タイプ好みを表しています。このころから世間でも19世紀的モダン・タイプ版面に飽きていくようです。

 

1895Morris_TheWoodBeyondTheWorld_Caslon

▲1895年のウィリアム・モリス『世界のかなたの森』のカズロン活字の文字組(拡大)。
モリスは,カズロンなどより優れた活字を構想していたと思います。しかし,モリスがケルムスコット・プレスのために自分でデザインした3種類の活字ゴールデン・タイプ(Golden type),トロイ・タイプ(Troy type),チョーサー・タイプ(Chaucer type)は,いずれも印刷書体として,次世代に引き継がれませんでした。
一方で,1895年の『世界の果ての森』普及版に使用されたカズロンは,19世紀のスタンダードだったモダン・タイプの流れを断ち切って,20世紀前半の英米圏の書籍用印刷活字として,思いがけずスタンダードの位置についてしまうのです。印刷分野でウィリアム・モリスのトレンドセッターとしての影響力は大きかったのだと思います。あのモリスが普及版とはいえ採用した活字,ということもあったのでしょう。たぶん,この次善の選択というカズロンの位置取りがよかったのだと思います。だれも,それをベストの選択とは思っていません。それでも,皆が使いはじめて,20世紀になだれこむのです。おおざっぱな話ですが,カズロンという活字は世紀のテイストの変容に一役買ったわけです。もちろん20世紀の人間も「カズロンはダサい」と思っていたと思います。それでも抜きがたく20世紀的な存在なのです。少なくともカズロンは読書を邪魔しない活字書体で,それは美点です。

1930年から1947年まで続いたアーサー・ランサム(Arthur Ransome)のアマゾン号とツバメ号シリーズは,カズロン活字で印刷されています。1925年に創刊されたアメリカの週刊誌『THE NEW YORKER』の本文書体は創刊号からカズロン活字です。印刷がデジタル化した現在でも,『THE NEW YORKER』誌の本文書体には,Adobe Caslonが使われています。まだモリスが変えたテイストは生き続けています。

 

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51. 1969年ごろの『モノタイプ社印刷活字見本帖』(2013年1月23日)

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『モノタイプ社印刷活字見本帖(Specimen Book of ‘Monotype’ Printing Types)』の1巻と2巻です。物好きで活字見本帖をながめだすと,おしまいと言われそうな気もしますが,20世紀の書物に関心があるとしたら,英米圏で20世紀最大の活字メーカーだったモノタイプ社の活字見本は,それだけで20世紀を作りあげていたものの見本のような気もして,眺めているだけでも飽きない見本帖です。
ビニール装の実務用の見本帖で,各書体のシートが着脱可能なバインダー形式になっています。300種類以上の活字が,それぞれ6ポイントぐらいから72ポイントぐらいまで印刷されています。活字メーカーの見本帖ですので,活版印刷の状態も最良の状態で仕上がっていて,刷り上がりが美しいです。活字好きの人には目の保養になります。CaslonやBaskerville,Bell,Bembo,Bodoniなど歴史的な復刻活字や,20世紀に新たに鋳造された活字Garamond,モノタイプ社がスタンリー・モリソン(Stanley Morison,1889~1967)を中心にデザイン・鋳造したTimes(タイムズ・ニュー・ローマンとよばれる書体),エリック・ギル(Eric Gill,1882~1940)のGill SansやPerpetua,アメリカのGoudyなどについて,それぞれ簡潔で要点を押さえた解説もついていて,20世紀前半における英米圏の印刷用活字の大体を俯瞰することもできます。
見本帖自体に刊行年は記載されていないのですが,各シートに年月を表すと思われる数字が載っていて,古いものは「10-58」,新しいものは「10-69」となっていますので,1969年ごろの見本帖かと思います。このころになると,活版印刷の時代に陰りが見え,電算写植への移行が始まっていますので,この見本帖には活版印刷の「最後の歌」を歌っているような面もあります。

 

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▲印刷書体カズロン(CASLON)のシート。「128」という数字はモノタイプ社の型番です。刷り見本として印刷されているのは,「CASLON 128」では,8,9,10,11,12,13½,14,18,20,24,30,36,42,48,60,72ポイントの正体とイタリック体。解説では,モノタイプ社のカズロン活字は,ウィリアム・カズロン(1692~1766)の1734年の見本をもとに忠実に彫り上げ,1915年から鋳造されたとあります。カズロンは20世紀前半の英米圏で書籍印刷活字のデファンクト・スタンダードとなったといってもいい活字なのですが,鋳造元モノタイプ社の解説では「カズロンのデザインについては,驚くほど目新しいことはありません(There was nothing startlingly new about his designs)」と,思い切った解説をしています。さらに,「カズロンが英国タイポグラフィの黄金時代の創始者だという事実は,その独創性というより,イギリスにおける活字鋳造の退潮期に17世紀のオランダ活字(Van Dijckの活字など)をもとに活字を彫り上げ鋳造することができた能力によるものです。(The fact that he started a great era of British typography was due to less to his originality than to his competence and ability at engraving and casting types at a time when letter-founding in England was at a very low ebb.)」と客観的ではありますが,自社の製品でもあるわけですから,すこし手厳しい評価です。確かに20世紀前半に,どこか野暮ったいカズロンが書籍用活字として広く使われたというのは,何がスタンダードになるかを考えるとき,おさえておきたい事実なのですが,その話はまた今度。

 

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