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my favorite things

my favorite things 376(2022年5月14日)から380(2022年8月31日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 

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 376. 1980年~1986年のBroken Records(2022年5月14日)
 377. 1963年~1966年の家族写真ネガフィルム(2022年6月16日)
 378. 1988年~1989年の片岡吾庵堂『横目で見た郷土史』附言(2022年7月11日)
 379. 1926年の『變態・資料』に挟まれたメモ(2022年8月25日)
 380. 1928~1929年の『變態黄表紙』(2022年8月31日)
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380. 1928~1929年の『變態黄表紙』(2022年8月31日)

1928~1929年の『變態黄表紙』

 

8月31日に文章を書いていると、宿題に追い詰められて、投げやりな気分になっていた昔がよみがえってきて、いけません。

前回に続き「変態」を冠した本になりますが、 写真は、昭和3年(1928)から昭和4年(1929)にかけて、4冊だけ刊行された『變態黄表紙』です。

木版画を貼り込んだ表紙や組版も瀟洒で、紙にも凝っていて、いまどき見かけない造りの雑誌です。
惜しいのは、ステープル綴じであること。糸かがりだったら趣味本の見本のように扱えたのに、と思います。

もしかしたら、この雑誌の編集に、西谷操(秋朱之介、1903~1997)も関わっていたかもしれません。

西谷操は、上森健一郎編輯の『變態・資料』(1926年9月~1928年6月、文藝資料編輯部)への投稿者として、出版の世界に近づきます。
文藝資料編輯部から枝分かれした上森健一郎の文藝資料研究會編輯部・發藻堂刊行の『古今桃色草紙』では、編集者として名を連ねています。
『變態黄表紙』も同じ文藝資料研究會編輯部から刊行されているので、西谷操もその制作に噛んでいたのではないかと想像したりします。

 

『古今桃色草紙』昭和四年二月號(發藻堂、1929年2月1日発行)奥付

『古今桃色草紙』昭和四年二月號(發藻堂、1929年2月1日発行)奥付
發行編輯兼印刷人 青山倭文二
アンケート「私の好きな女、嫌ひな女」回答者に、西谷操も登場。


『古今桃色草紙』昭和四年四月號(南柯書院、1929年4月1日発行)奥付
発行所が發藻堂から南柯書院に変わっています。
左ページに「南柯書院」創立のお知らせ。
「編輯後記」に、「こんど私達が協力して編輯に當ることことになりましたから御聲援をねがひます」として、「編輯」5人の名前が記されています。

 岩野薫
 西谷操
 大木黎二
 青山倭文二
 宮本良


注目すべきは、 『古今桃色草紙』や『變態黄表紙』に掲載されていた、五十澤二郎『伎道一夕話』(1928年、發藻堂)の広告です。

 

五十澤二郎『伎道一夕話』(1928年、發藻堂)の広告01

▲『變態黄表紙』貳月号(1929年2月、南柯書院)に掲載された五十澤二郎『伎道一夕話』(1928年、發藻堂)の広告
広告では、「二郎」でなく「次郎」になっています。
版元も發藻堂でなく南柯書院になっています。

 

五十澤二郎『伎道一夕話』(1928年、發藻堂)の広告02

▲『古今桃色草紙』四月号(1929年4月、南柯書院)に掲載された五十澤二郎『伎道一夕話』(1928年、發藻堂)の広告

この本の制作によって、西谷操と五十澤二郎(1903~1948)との結びつきができたのではないかと推測しています。
2人は同い年です。


上森健一郎、青山倭文二、宮本良らのサークルを離れた西谷操は、昭和5年(1930)ごろから横浜の五十沢二郎のやぽんな書房に居候し、そのなかで以士帖印社を立ち上げ、佐藤春夫の『魔女』の制作をはじめます。

文藝資料編輯部、文藝資料研究會編輯部、發藻堂、南柯書院のことを詳しく調べていくと、最初期の西谷操の活動を知ることができるのではないかと考えています。

 

五十沢二郎のところに居候時代の西谷操(秋朱之介)については、「第200回 千駄木の秋朱之介寓居から小日向の堀口大學の家まで(2017年3月16日)」、佐藤春夫『魔女』については、「第206回 1931年の佐藤春夫『魔女』(2017年7月25日)」でも触れています。


     

数年前、鹿児島の古本屋さんにまとめて出て、残り物を入手したものの、放置していた、教養としてエログロを体現しているような雑誌群を、この機会に並べてみます。

これらの、1970年ごろに集められたと思われる雑誌群の特徴としては、全冊揃いの雑誌はほとんどないことと、これらの雑誌につきものの折り込みちらし(近刊の内容見本など)や付録が残っているものが少ないことで、コレクションとしては上質なものとはいえませんが、大尾侑子『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(2022年3月31日初版第1刷発行、慶應義塾大学出版会)で語られていた雑誌群とは重なる部分も多いことが興味深いです。
地下出版の教養主義は、鹿児島にも、ひっそりと届いていたわけです。

今回は、その内容に踏み込みませんが、平井通(1900~1971、平井蒼太、耽好洞主人、耽好洞人、耽好同人、薔薇蒼太郎、牡丹耽八、書鬼海二、壺中庵)と 石川巌(1878~1947、耽奇郎、耽奇老、詩仙洞主人)の2人には個人的に関心があるので、2人に関連するものは書き出しておきます。

平井通については「第193回 1974年の富岡多恵子『壺中庵異聞』(2016年12月15日)」でも簡単に書いています。

 

【變態・資料】

【變態・資料】

文藝資料編輯部 編輯発行兼印刷人 上森健一郎

創刊號(第一巻第一號) 大正15年(1926)9月15日発行 (非売) 1970年ごろの求書メモ挟み込み
第二號(第一巻第二號) 大正15年(1926)10月25日発行(非売)
第壹巻第參號(第一巻第三號) 臨時特輯號 大正15年(1926)11月25日発行 (非売) 「問題のピアズレ淫畫集」ちらし挟み込み
第七號(第二巻第三號) 昭和2年(1927)4月25日発行 (非売)
臨時特別號(第二巻第四號) 昭和2年(1927)6月25日発行 (非売品)
第拾號(第二巻第六號) 昭和2年(1927)7月25日発行 (非売品)
第拾壹號(第二巻第七號) 昭和2年(1927)8月25日発行 (非売品)
一週年紀年號(第二巻第八號) 昭和2年(1927)9月27日発行 (非売品)
「會員休憩室」に投稿されたS・AKI生「便所文學」は、秋朱之介(西谷操)の作と思われる。『變態・資料』への投稿から、上森健一郎らとつながりができたと思われる。
第貳巻第拾號 昭和2年(1927)11月25日発行 (非売品)
第貳巻第拾號 昭和2年(1927)12月25日発行 (非売品)
第參巻第壹號 昭和3年(1928)2月20日発行 (非売品)
文藝資料研究會編「變態趣味家名簿」
第參巻第四號 昭和3年(1928)4月29日発行 (非売品)
廢刊號(第參巻第五號) 昭和3年(1928)6月15日発行 (非売品)

 

【藝術市場】

【藝術市場】ほか

藝術市場社 發行人 玉村善之助 編輯代表 峰岸義一

8月避暑地ロマンス号號(第一巻第五號) 昭和2年8月1日発行 定価三十五錢
表紙絵は峰岸義一(1900~1985)。

【古今桃色草紙】

發行編輯兼印刷人 青山倭文二

昭和四年二月號(第二巻第二號) 發藻堂 昭和4年(1929)2月1日発行 定価五十錢
アンケート「私の好きな女、嫌ひな女」回答者に、西谷操も登場。
昭和四年四月號(第二巻第四號) 南柯書院 昭和4年(1929)4月1日発行 定価五十錢
「桃色草紙」に編集者・西谷操の紹介。
表紙絵は、村山知義(1901~1977)。

『藝術市場』については、「第186回 1927年の『藝術市場』―避暑地ロマンス号(2016年8月19日)」でも少し書いています。

 

【グロテスク】

【グロテスク】

文藝市場社 發行編輯兼印刷人 梅原貞康
九月特輯號(第二巻第九號) 古今見世物寄席興行大博覧會號 昭和4年(1929)9月1日発行 定価壹圓
石川巌「馬琴珍作 備前擂盆一代記」

『グロテスク』誌は、ほかにもあったようですが、人気があって、まとめて入手できませんでした。

 

【奇書 Librarum Curiosum】

【奇書 Librarum Curiosum】

文藝資料研究會 編輯發行兼印刷人 中田耕造(第一巻駄第六号から飯田威之助)

第一巻第一號 昭和3年(1928)5月25日発行 (非売品)
第一巻第二號 昭和3年(1928)7月3日発行 (非売品)
第一巻第三號 昭和3年(1928)7月30日発行 (非売品)
石川巌「船饅頭考」
第一巻第四號 昭和3年(1928)9月10日発行 (非売品)
石川巌「江戸文藝と男色」
第一巻第五號 昭和3年(1928)10月10日発行 (非売品)
石川巌「十返舎一九作 教訓相撲取草」
第一巻第六號 昭和3年(1928)11月16日発行 (非売品)
第一巻第七號 昭和3年(1928)12月8日発行 (非売品)
臨時増刊 昭和3年(1928)12月8日発行 (非売品)
新年増大號(第二巻第一號) 昭和4年1月31日発行 (非売品)
第二巻第二號 昭和4年2月28日発行 (非売品)
耽好洞主人「大阪賤娼考」
第二巻第三號 昭和4年4月15日発行 (非売品)
石川巌「色里歌謡文献資料」、耽好洞人「想嫁風姿」


【變態黄表紙】

文藝資料研究會編輯部(貳月号から南柯書院) 發行編輯兼印刷人 宮本一良(宮本良)

創刊號 昭和3年(1928)12月25日発行 (非売品)
創刊號 昭和3年(1928)12月25日発行 (非売品) 裏表紙が欠けたもの
耽好洞主人「女角力誌考(一)」
壹月號 昭和4年(1929)2月20日発行 (非売品)
耽好洞主人「女角力誌考(二)」
貳月号 昭和4年(1929)2月20日発行 (非売品)
參月号 昭和4年(1929)5月28日発行 (非売品) 「をんな色事師」内容見本ちらし挟み込み
耽好洞(主)人「紅説緋縮緬和讃」

 

【獵奇畫報】

【獵奇畫報】

發行所 日本風俗研究會 發賣所 國際文獻刊行會 發行兼編輯者 藤澤衛彦

新年號(第二巻第一號) 昭和5年(1930)1月1日発行 定価壹圓
石川巌〈文藝に現れたる「夜鷹」〉
三月號(第二巻第三號) 昭和5年(1930)3月1日発行 定価壹圓
四月號(第二巻第四號) 昭和5年(1930)4月1日発行 定価壹圓
五月増大號(第二巻第五號) 昭和5年(1930)5月1日発行 定価壹圓五拾錢 「獵奇新聞」五月號附録挟み込み
八月號(第二巻第六號) 昭和5年(1930)8月1日発行 定価壹圓 「獵奇新聞」八月號附録・木版画3枚挟み込み

 

【風俗資料】

【風俗資料】

風俗資料刊行會 編輯兼発行者 山下登(第四冊から竹内道之助)

第一冊 昭和5年(1930)4月10日発行 (非売品)
石川巌「創成期に於ける遊女評判記」
第二冊 昭和5年(1930)5月15日発行 (非売品)
耽好洞人「想嫁時世粧」
第三冊 世界見世物研究號 昭和5年(1930)6月15日発行 (非売品)裏表紙欠け
石川巌〈淺草奥山「婦人脚伎」に就て〉、耽好洞人「見世物女角力誌」
第四冊増大號 昭和5年(1930)7月28日発行 (非売品) 「好色美術漫筆」8頁冊子挟み込み
耽好洞人「續見世物女角力誌」
第五冊 昭和5年(1930)9月10日発行 (非売品)
口絵にマツクス・エルンスト怪奇畫選
第六冊 昭和5年(1930)11月12日発行 (非売品)

草創期の三笠書房で、西谷操(秋朱之介)を編集長として抜擢した、竹内道之助の名前があります。

創業期の三笠書房と秋朱之介については、「第307回 1933年の三笠書房の《鹿と果樹》図(2020年4月30日)」でも書いています。

 

【談奇黨】

【談奇黨】

洛成館 發行兼編輯印刷人 鈴木辰雄

第三號 好色文學受難録 昭和6年(1931)12月1日発行 (非売品) 「談奇黨第三回通信」ちらし挟み込み
耽好同人「珍書屋征伐」
上記・表紙違いの異版
新春特輯號 昭和7年(1932)2月29日発行 (非売品)

『談奇党』に登場する西谷操(秋朱之介)については、「第322回 1931年の『談奇黨(党)』第3号とその異版(2020年10月11日)」でも書いています。

 

【人間探究】

【人間探究】

第一出版社

編集人 奥田十三生 発行人 酒井孝
第九號 編集兼発行人 堀井清
13 編集兼発行人 石川四司
第三十一號 編集兼発行人 青山和彦
昭和二十八年五月號 編集兼発行人 伏見冲敬
昭和二十八年六・七月合併号 編集兼発行人 奥田十三生

1950年
No.2 昭和25年7月1日發行 定價七拾五圓
3 昭和25年8月1日發行 定價七拾五圓
5 昭和25年10月1日發行 定價七拾五圓 「あまとりあニュース」挟み込み

1951年
第九號 昭和26年2月15日發行 定價八拾圓 表紙欠け
第十號 昭和26年4月15日發行 定價八拾圓
第十一號増刊 昭和26年5月1日發行 定價百圓
第十二號 昭和26年5月15日發行 定價八拾五圓
第十三號 昭和26年6月15日發行 定價八拾五圓
第十四号 昭和26年7月15日發行 定価八拾五円
第十五号 昭和26年8月15日發行 定価八拾五円
第十六號増刊 昭和26年9月15日發行 定価九拾圓
斎藤昌三「梅原北明論」
第十七號 昭和26年10月15日發行 定価八拾五圓
第十八號 昭和26年11月15日發行 定価八拾五圓
第二十號 昭和26年12月15日發行 定価八拾五圓

1952年
第二十一號 昭和27年1月15日發行 定価八拾五圓
伊藤晴雨「今昔[竹+愚]談」、書鬼海二「娼女秘呪」
第二十二號 昭和27年2月15日發行 定価八拾五圓
第二十三號 昭和27年3月15日發行 定価九拾圓
第二十四號 昭和27年4月15日發行 定価九拾圓
宮武外骨・池田文痴庵「猥褻主義の八十年」
別冊・人間探究 秘版艶本の研究 昭和27年5月1日發行 定価百円
第二十五號 創刊二周年記念号 昭和27年5月15日發行 定価九拾五圓
第二十六號 昭和27年6月15日發行 定価九拾五圓
第二十七號 昭和27年7月15日發行 定価九拾五圓
第二十八號 昭和27年8月15日發行 定価九拾五圓
別冊・人間探究 秘版艶本の研究第二輯 昭和27年9月10日發行 定価百円
十月號 第三十號 昭和27年10月1日發行 定価九拾五圓
十一月號 第三十一號 昭和27年11月1日發行 定価九拾五圓
十二月號 第三十二號 昭和27年12月1日發行 定価九拾五円

1953年
昭和二十八年五月號 昭和28年5月1日發行 定価百円
昭和二十八年六・七月合併号 昭和28年6月1日發行 定価九五円
昭和二十八年八月號 第三十五號 昭和28年7月10日發行 定価百円

 

【あまとりあ】

【あまとりあ】01

【あまとりあ】02

あまとりあ社 編集兼發行人 久保藤吉(1955年から中田雅久)

1951年
創刊号(第一巻第一號) 昭和26年2月1日発行 定價85圓 ピアズレのカード2枚挟み込み
4月号(第一巻第二號) 昭和26年4月1日発行 定價85圓
7月号(第一巻第五号) 昭和26年7月1日発行 定價90圓
8月号(第一巻第六号) 昭和26年8月1日発行 定價90圓 しおり
銷夏特別号(第一巻第七号) 臨時増刊 世界性愛文学選集  昭和26年8月15日発行 定價100圓
ジェイムズ・ヂョイス作「ユリシーズ」千代有三
10月号(第一巻第九号) 昭和26年10月1日発行 定價90圓
11月号(第一巻第十号) 昭和26年11月1日発行 定價90圓 附録なし
青山倭文二「異端者の生涯 =梅原北明苦闘譚=」
12月号(第一巻第十一号) 昭和26年12月1日発行 定價90圓 附録なし
佐々木桔梗「戦後に見る艶書ルネッサンス」

1952年
1月号(第二巻第一号) 昭和27年1月1日発行 定價90圓
薔薇蒼太郎「花魁少女」
2月号(第二巻第二号) 昭和27年2月1日発行 定價90圓
山田風太郎「男性週期律」(古澤岩美・繪)薔薇蒼太郎「續花魁少女」
3月号(第二巻第四号) 昭和27年3月1日発行 定價90圓
4月号(第二巻第五号) 昭和27年4月1日発行 定價95圓
龍膽寺雄「虹をつくる男」、書鬼海二「女相撲お目見得」
5月号(第二巻第六号) 昭和27年5月1日発行 定価95円
龍膽寺雄「虹をつくる男」
6月号(第二巻第七号) 昭和27年6月1日発行 定価95円
山田風太郎「続男性週期律」
7月号(第二巻第八号) 昭和27年7月1日発行 定価95円
8月号(第二巻第九号) 昭和27年8月1日発行 定價95圓
斎藤昌三「近世性研究家列傳」
9月号(第二巻第十号) 昭和27年9月1日発行 定価95円
斎藤昌三「近世性研究家列傳」
10月号(第二巻第十一号) 昭和27年10月1日発行 定価97円
斎藤昌三「近世性研究家列傳」薔薇蒼太郎「蒼白ざめた色ごと」
11月号(第二巻第十二号) 昭和27年11月1日発行 定価97円
斎藤昌三「近世性研究家列傳」薔薇蒼太郎「續蒼白ざめた色ごと」
12月号(第二巻第十三号) 昭和27年12月1日発行 定価97円
斎藤昌三「近世性研究家列傳」

1953年
3月号(第三巻第三号) 昭和28年3月1日発行 定価97円
斎藤昌三「近世性研究家列傳」
4月号(第三巻第四号) 昭和28年4月1日発行 定価97円
斎藤昌三「近世性研究家列傳」
7月号(第三巻第七号) 昭和28年7月1日発行 定価97円
8月号(第三巻第八号) 昭和28年8月1日発行 定価97円
10月号(第三巻第十号) 昭和28年10月1日発行 定価97円
薔薇蒼太郎「秘樂幻術」
11月号(第三巻第十一号) 昭和28年11月1日発行 定価97円 2冊
12月号(第三巻第十二号) 昭和28年12月1日発行 定価97円

1954年
1月号(第四巻第一号) 昭和29年1月1日発行 定価100円
薔薇蒼太郎「肉身曼荼羅」
2月号(第四巻第二号) 昭和29年2月1日発行 定価100円
3月号(第四巻第三号) 昭和29年3月1日発行 定価100円
4月号(第四巻第四号) 昭和29年4月1日発行 定価100円
薔薇蒼太郎「滑らかな脂丘への妄執」
5月号(第四巻第五号) 昭和29年5月1日発行 定価100円
7月号(第四巻第七号) 昭和29年7月1日発行 定価100円
8月号(第四巻第八号) 昭和29年8月1日発行 定価100円
9月号(第四巻第九号) 昭和29年9月1日発行 定価150円 附録なし
10月号(第四巻第十号) 昭和29年10月1日発行 定価100円
11月号(第四巻第十一号) 昭和29年11月1日発行 定価100円
12月号(第四巻第十二号) 昭和29年12月1日発行 定価100円

1955年
新年号(第五巻第一号) 昭和30年1月1日発行 定価150円 附録なし
APRIL(第五巻第四号) 昭和30年4月1日発行 定価150円 附録なし
APRIL(第五巻第四号) 昭和30年4月1日発行 定価150円 附録あり
MAY(第五巻第五号) 昭和30年5月1日発行 定価150円 附録なし
6月号(第五巻第六号) 昭和30年6月1日発行 定価150円 附録なし
7月号(第五巻第七号) 昭和30年7月1日発行 定価150円 附録「日本発禁文藝考」なし
薔薇蒼太郎「靈泉閣夜話」
8月終刊増大号第五巻第八号) 昭和30年8月1日発行 定価250円 附録「飜訳文芸発禁考」なし
薔薇蒼太郎「嫋指」

 

【風俗草紙】ほか

【風俗草紙】

日本特集出版社 編集人 氏家富良 発行人 野村佳秀

2(第二巻第二号) 昭和29年2月1日発行 定価百円 欠けページあり

【裏窓】

あまとりあ社 編集人 飯田豊一 発行人 久保藤吉

十二月号(八巻十三号) 昭和38年12月1日発行 定価250円

【奇譚クラブ】

天星社 編集人 箕田京二 発行人 吉田稔

八月号(第十九巻第八号) 昭和40年(1965)8月1日発行 定価三〇〇円

【風俗奇譚】

発行所 文献資料刊行会 発売元 日正堂 編集発行人 高倉一

昭和40年4月号(通巻74号) 昭和40年4月1日発行 定価300円
昭和43年7月号(通巻123号・第9巻第9号) 昭和43年7月1日発行 定価350円

【サスペンス・マガジン】

久保書店 編集人 飯田豊一 発行人 久保藤吉

1965●8月号(第1巻第7号) 昭和40年8月1日発行 定価180円
1965●10月号(第1巻第9号) 昭和40年10月1日発行 定価180円
1966●1月号(第2巻第1号) 昭和41年1月1日発行 定価180円
1967●4月号(第3巻第4号) 昭和42年4月1日発行 定価200円
1967●11月号(第3巻第11号) 昭和42年11月1日発行 定価200円

【サスペンス・ミステリー(SM)マガジン】

コバルト社 編集兼発行人 松山譲一

10月号 昭和43年10月1日発行 特価200円
11月号(第1巻第3号) 昭和43年11月1日発行 定価200円

 

【マンハント】

【マンハント】

久保書店 編集人 中田雅久

8月創刊号(第一巻第一号) 昭和33年(1958)8月1日発行 定価100円

 

【stag】

【stag】

映画の友 編集人 浜野安宏 発行人 石井康夫

VOL.2 1967年3月5日発行 定価220円

 

【愛苑】

【愛苑】

外苑社 編集兼発行人 長島正巳

一九六九年 No.1 創刊号 昭和44年11月1日発行 定価五五〇円
目次構成 横尾忠則 山田風太郎「男性週期律」
一九七〇年 No.2 新年号 昭和45年1月15日発行 定価五五〇円
一九七〇年 No.3 二月号 昭和45年2月15日発行 定価五五〇円
一九七〇年 No.6 五・六月合併号 昭和45年5月15日発行 定価五五〇円

高橋鐵(1907~1971)をメインに据えた雑誌です。

 

【雑】

【雑】01

近世庶民文化

川柳大辭典附録 武藤禎尾編「古川柳研究書目録」 日文社 昭和30年(1965)8月1日発行
岡田甫著『川柳末摘鼻詳釈』(有光書房)内容見本
岡田甫著『柳の葉末全釈 新訂版』(有光書房)内容見本
春画カード4枚
『四畳半襖の下張』青写真コピー
「浮世百態川柳名作番付表」青写真コピー
近世庶民文化 増刊二十號 遊里文献特集 近世庶民文化研究所・岡田甫 昭和33年(1958)11月25日発行 (非売品)


いやはや、という雑誌群ですが、秋朱之介(西谷操)の昭和4年(1929)ごろの足跡を知ることができただけでも収穫です。

 

これら戦前戦後の雑誌群が示す系譜で『人間探究』『あまとりあ』が果たした役割を考えてみたとき、大尾侑子『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(2022年3月31日初版第1刷発行、慶應義塾大学出版会)の戦後パートに、『人間探究』と『あまとりあ』についての1章がないのは物足りない感じがしました。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

ルクセンブルグのFM局ARAの「Radio Art Zone」の大友良英22時間放送「Otomo Yoshihide - Chronological Archive, 1975 to 2022」の録音を試みて、グラウンド・ゼロ(Ground-Zero)の『Consume Red』(1997年)から、『Filament 1』(1998年)までの、 約2時間が欠けてしまったのですが、その時、何かがかかったのでしょうか? 今のところ、プレイリストが見つけることができません。

グラウンド・ゼロのシングル盤もかかったのでしょうか?

Ground-Zero『Plays Standards』は、現在も入手可能ということで、22時間放送では選曲されませんでしたが、このアルバムも好きです。
荒ぶる魂が「抒情」を叩き切るようなアルバムでした。

 

Ground-Zero『Plays Standards』(2000年、DIW)01

Ground-Zero『Plays Standards』(2000年、DIW)02

▲Ground-Zero『Plays Standards』(2000年、DIW)

手もとにある日本盤は、2000年の再発盤で、1997年のNani Records版は持っていません。

 

Ground-Zero『Plays Standards』(2002年、ReR)01

Ground-Zero『Plays Standards』(2002年、ReR)02

▲Ground-Zero『Plays Standards』(2002年、ReR)
英ReR Megacorp盤。

遅れてきた聴き手で、ReR再発盤で、1990年代Ground-Zeroの突出ぶりを認識しました。

 

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379. 1926年の『變態・資料』に挟まれたメモ(2022年8月25日)

『變態・資料』創刊號(1926年)表紙

 

『變態・資料』創刊號(大正15年9月15日発行、文藝資料編輯部)の表紙です。

今年の3月に刊行された、大尾侑子『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(2022年3月31日初版第1刷発行、慶應義塾大学出版会)は面白い本でした。

「高級文化」対「低級文化」という境界設定をゆるがす第三極、いわば「高級文化としてのエロ・グロ」と呼びうるメディア文化圏の源流を探るべく、「昭和初年の梅原北明辺りの性文化探究」の系譜を辿り、その周辺に広がる知的ネットワークと、そこに共有された教養観》を俯瞰しようとする試みで、その「教養」を体現していた『變態・資料』などの雑誌が、数年前、鹿児島の古本屋さんにまとめて出たことがありました。

そのことについては、「第186回 1927年の『藝術市場』―避暑地ロマンス号(2016年8月19日)」でも少し書きましたが、古本屋さんが、あるお客さんのおじいさんの家を取り壊すにあたり、本をいくらかでも引き取ってほしいという依頼で、見に行って、引き取ってきたものに含まれていた雑誌群です。

わたしが店頭で見た時は、すでに、だいぶ抜かれていたようでしたが、残っていた雑誌のかたまりを、まとめてもらい受けました。

そのとき入手した『變態・資料』創刊號(大正15年9月15日発行、文藝資料編輯部)に、求書メモが挟まれていました。

メモは、宮西通可・福本喜繁『新撰 高等物理學 上巻』補正第二版(1938年、裳華房)の扉を切り取ったものに書き込まれていました。


『變態・資料』創刊號にはさまれた求書メモ01

『變態・資料』創刊號にはさまれた求書メモ02

『變態・資料』創刊號にはさまれた求書メモ03

『變態・資料』創刊號にはさまれた求書メモ04

古本屋さんで入手した雑誌の束は1970年ごろもものまで含まれていたので、このメモも、1970年ごろ、東京・琳琅閣書店と京都・思文閣の古書目録から抜き書きされたものと思われます。

この中のどれくらいの本を実際に入手することができたのか、もう知る術もありませんが、大尾侑子が取り上げた 「高級文化としてのエロ・グロ」「昭和初年の梅原北明辺りの性文化探究」の系譜をたどろうとしていた人物が、鹿児島にもいたということの証になるかもしれません。

 

とても味わい深い求書メモなので、書き出してみます。
書き込まれた「」「」が意味するところははっきりしません。

 

東京・琳琅閣書店の古書目録からの抜き書き

東京・琳琅閣書店の振替番号

【鉛筆書き】
流行哥百年史 藤沢衛彦 一冊 二八〇
川柳愛慾史 岡田甫 一冊 二七〇
売笑三千年史 中山太郎 一冊 一〇〇〇

644 吾妻曲狂哥文庫(天明 ) 一冊 八〇〇
646 万載狂哥集(天明三年) 二冊 八〇
648 二狂談(阿波鳴門風狂子著) 一冊 六〇
661 安政見聞録(安政三年) 帙入三冊 六〇〇
662 安政見聞誌(安政三年) 三冊合冊 三〇〇
679 変態社会史 武藤直治著 大正15 一冊 一五〇

【ペン書き】
680 変態作家史 井東憲著 大正15 一冊 一五〇
683 変態刑罰史 沢田撫松著 大正15 一冊 一五〇
684 変態仇討史 梅原北明著 昭和2 一冊 一五〇
685 変態崇拝史 斎藤昌三著 大正16 一冊 一五〇
686 変態遊里史 青山倭文二著 昭和2 一冊 一五〇
687 変態伝説史 藤沢衛彦著 大正15 一冊 一五〇
688 変態魔術考 佐々木指月 昭和3 一冊 一五〇
689 性的犯罪雜考 松岡貞治著 昭和3 一冊 二五〇

1055 国書刊行会出版目録附日本古刻書史 一冊 二五〇
1056 日本古刊書目 吉沢義則 十二冊 五〇〇〇
1060 続々群書類従 第五巻破損 十二冊 五〇〇〇
1560 誹風柳樽通釈 武笠三 三冊 二〇〇〇
1632 随筆珍本塩尻 百巻本 二冊 六〇〇
1640 正続本朝文粋 国書刊行会 一冊 二三〇
1710 誹風柳樽全集 国書刊行会 一冊 七五〇
1737 古今要覧稿 国書刊行会 六冊 一五〇〇
1738 源注余滴 国書刊行会 一冊 二〇〇
1761 物類品隲 平賀国倫編輯 一冊 二〇〇
1971 類聚近世風俗志 喜田川守貞 一冊 九五〇
1972 日本仮面史 野間清六 一冊 二五〇
1987 習俗雑記 宮武省三 一冊 一五〇
1988 見世物研究 朝倉無声 一冊 五〇〇
1995 長崎丸山噺 本山桂川 一冊 一五〇
1996 淫祠と邪神 和田徹城 一冊 二五〇
1997 信仰と民俗 中山太郎 一冊 一〇〇
2047 日本蔵書印考 小野則秋 背少痛み 一冊 五〇〇
2048 集古十種 国書刊行会 小ムレあり 四冊 六〇〇
2186 慶長日件録

 

1970年代はじめの『思文閣古書資料目録』から抜き書き

京都・思文閣の振替番号

中 美濃半切
半 半紙
大 美濃
仮 截切本
洋 洋装本
和 和本

No.71

2 続々群書類従 国書刊行会 洋菊 全十六 七〇〇〇
20 書物往来 創刊号~二巻五号 仮菊 十二冊 三五〇
21 日本古刻書史 国書刊行会 明42 洋菊 五〇〇
24 世界珍書解題 佐々謙自 昭5 洋大 四〇〇
30 汲古随想 田中敬 限定版 洋中 四〇〇
31 江戸物語 和田維四郎 大3 大本 三五〇〇
169 近世日本世相史 斎藤隆三 大14 洋菊 五五〇
486 趣味研究大江戸 江戸研究会 大2 洋菊 二八〇
487 花柳事情東京妓情 酔多道士 明治板和中 全六冊 一三〇〇
806 三貨図彙 草間直方 昭17 洋菊 二〇〇〇
808 古札便覧 沢塵外 明44 菊判和装 三〇〇
1068 集古十種 国書刊行会 洋菊 全四冊 一二〇〇
1153 狂哥八幡拾遺 元禄 手枕肱斎手写 三十枚 四〇〇
1154 三十六番狂哥合 黒川春村序 天保板 和大 三五〇
1155 狂哥扶桑名勝図会 着色繪入 天保板 和半 全三冊 四五〇
1156 江越狂哥一人一首 山本輪田丸肖像入 和半 三〇〇
1158 川柳とへなぶり一号――滑稽文学 合本 洋菊 二冊 一〇〇〇
1235 松屋筆記 国書刊行会 洋菊 全三冊 六〇〇
1238 新群書類従 国書刊行会 洋菊 全十冊 三〇〇〇
1239 古今要覧稿 国書刊行会 全六冊 一〇〇〇
1240 燕石十種 新燕石十種 国書刊行会 全十冊 二〇〇〇
1275 風来山人六部集 平賀源内 後摺 和小 全四冊 三〇〇
1276 傾城情史 関亭京鶴 天保板 和中 三〇〇
1277 片仮名世酔記 樽見色底 安永序 和中 三〇〇
1278 暗夜訓蒙図彙 珍書保存会複製 大7 和装 二五〇
1279 艶道戯文集 妙色庵主人 昭5 和装 二〇〇
1280 春宵情史 山崎九華 昭7 改訂版 和装 二八〇
1550 色道禁秘抄 兎鹿斎先生 嘉永版 和半 一二〇〇
1551 凸凹 久保盛丸 大本全二冊(凸四拾號) 三〇〇〇

No.73

31 書祭 書物展望社 昭14 洋菊 全三冊 一三〇〇
46 紙魚文学 山口剛 昭7 洋中 三五〇
374 大江戸の思ひ出 龍井松之助 大6 洋中 二五〇
1045 江戸軟文学考異 尾崎久彌 昭3 洋菊 三八〇
1084 我楽多文庫一号~十二号 解説共 帙入 一二〇〇
1085 大和錦一号~十三号 合巻 洋中 全二冊 二五〇〇
1095 日本詩集 新潮社 (1)大7(2)大11 仮菊 各一〇〇
1117 みなおもしろ 第一巻第一号~六号揃 合本 五百
1119 寛政改革と柳樽の改版 岡田朝太郎 昭2 洋中 三百五十
1120 川柳辞典 草薙金四郎 昭6 洋中 三百
1123 変態黄表紙一号~四号 昭3 仮菊 全四冊 五〇〇
1125 変態資料一号~二巻十号 仮菊 十五冊 一二〇〇
1126 世界魔窟小説集 文芸市場 大15 仮中 八〇
1127 変態遊里史 青木倭文二 昭2 半紙和装 二五〇
1130 馬琴随筆 追加西村兼文 極美写 大本 二冊 一五〇〇
1133 随筆珍本塩尻 百巻本 昭4 洋菊 全二冊 七〇〇
1134 碩鼠漫筆 黒川眞道 明治38 洋菊 二〇〇
1141 随筆風俗帖 木村荘八 昭17 和装限定本 二〇〇
1150 民間風俗年中行事 国書刊行会 大14 洋菊 一二〇〇
1690 江戸伝説 佐藤隆三 大15 洋中 三五〇

 

奇書
カーマシヤストラ 六冊 梅原北明 文藝市場社 昭2
江戸往来 江戸文芸同好会 松川弘太郎編 昭2
芸術市場 七冊 峯岸義一 芸術市場 昭2
変態資料 廿一冊 上森健一郎 文芸資料編集部 大15
文芸市場 八冊 梅原北明 昭2
奇書珍籍 三冊 從吾所好社 石川巌 大正8

 

わたしが鹿児島の古本屋さんで入手した雑誌のたばのなかには、「變態黄表紙」「奇書」「變態資料」(21冊中14冊)「藝術市場」(1冊のみ)はありましたが、「カーマシヤストラ」「文藝市場」などは含まれていませんでした。

それらの雑誌が鹿児島で揃っていたことがあったのでしょうか。

 

 拾い読み・抜き書き

 

大尾侑子『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』カバー

▲大尾侑子『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(2022年3月31日初版第1刷発行、慶應義塾大学出版会)


今年の3月に出た本ですが、西谷操(秋朱之介、1903~1997)がどういうネットワークのなかにいたのかを知る上でも、とても参考になる本でした。
何よりの美点は、「昭和初年の梅原北明辺りの性文化探究」本や印刷物を自分で集めていて、現物を手にして楽しげなのところです。

400人を超える人名索引が作られていて、「昭和初年の梅原北明辺りの性文化探究」の系譜のレファランス本たらんとする心意気や善しです。

大学出版会刊行の本なのでその記述を信頼したいところですが、ちょっと残念なのは通読しただけでも、「一八九~一九七七」(p.11)、「橋康雄」(p.110)、「パフォーマンスに」(p.114)、「東大の」「寄橋」(p.168)、「Mshimo」(p.213)、「魔」(p.237)、「手がけたが」(p.256)、「平野威馬」(p.406)、「(有限社、一九二八年)」(p.413)、「松沢一」(p.19)など、誤記が結構目立つところ。
ぜひ増補改訂版を期待したいです。


次の版では、登場する人物の生没年記載についても、もっと踏み込んでほしいと、期待しています。
たびたび引用される、志摩房之助が何者で、生没年が記載されていればと思いますし、福山福太郎、宮本良、青山倭文二、大木黎二、鈴木辰雄といった欠かせない人物の生没年が記載されていれば有難いです。


1989年生ということは平成生まれということでしょうか、若い研究者が育っているのだなと感じます。

 

     

西谷操(秋朱之介、1903~1997)については、生没年無しで、少ししか言及されていませんでしたけれど、 若い世代にも存在を把握されてはいるのだなと思いました。

大尾侑子『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』で、西谷操に言及した部分を抜き出してみます。

p.274
ところが、奮闘も虚しく發藻堂書院の事業も低迷が続き、『古今桃色草紙』は一九二九年四月号(発禁)をもって廃刊となった。ついに上森(健一郎)は文藝資料研究会編輯部を宮本良、西谷操に譲渡し、彼等は一九二八年末、上野広小路帝博ビルに移転して「南柯書院」を設立した(南柯書院への名称変更通知は中山直、青山倭文二、大木黎二、西谷操、岩野薫、宮本良、六名の連名による)。(15)

p.275
図7-5 梅原北明の周辺で分派分裂した珍書屋の変遷図

p.275
こうした経緯から、發藻堂書院と南柯書院はいずれも一九二九年八月頃に消滅したとされる。その後、一九二九年九月に南柯書院から西谷操が分離し、「梨甫書局」(下谷区御徒町)を設立したほか、上森(健一郎)自身も一九二九年一〇月、牛込東五軒町で「東欧書院」を立ち上げ再起を図ったが、この版元からは、特段みるべき作品は発行されていない。

p306
表7-1 『談奇党』が明かした珍書の予告数と実際の頒布部数
「ダスフユンフエツク」「ウインの裸体倶楽部」「女いろごと師」「イヴオンヌ」に西谷操が関与。

p308
図7-24 (左)「談奇作家見立番附」、(右)「エログロ発禁書見立番附」(『談奇党』第3号)

第322回 1931年の『談奇黨(党)』第3号とその異版(2020年10月11日)」でも、この番附について書いています。

 

 夏の花

夏の花01

夏の花02

夏の花03

夏の花04

あきれるくらいの、右へならえ。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

この夏のラジオの企画といえば、 ルクセンブルグのFM局、Radio ARAが、6月18日から9月25日までの100日間、 100組のアーチストに、毎日22時間まるまる自由に番組をつくってもらうという番組『Radio Art Zone』。

8月7日午後9時から8月8日午後7時までの22時間は、 大友良英の回でした。

《This is Radio ARA, Radio Art Zone. Otomo Yoshihide - Chronological Archive, 1975 to 2022. こちらはラジオARA、ルクセンブルグのラジオ局からお送りしています。『ラジオ・アート・ゾーン』という、100日間にわたって毎日22時間、1人のアーチストが番組を作るプロジェクトのなかの一日として、わたくし大友良英が担当しているのが今日です。タイトルは「大友良英クロノロジカル・アーカイヴ 1975年から2022年」、わたしのさまざまな作品を、リリースされていないものも含めて、年代順に、1975年ですからわたしが高校1年生のころから今日に至るまでを流しています。》
といった決まり文句をときどき繰り返すぐらいで(ジングル無し)、日本人に分かりやすい大友良英の英語と日本語の1人語りだけで、1975年から2022年までの年代順に構成されていました。

日本でもWEBで聴けるので、 8月7日午後9時から8月8日午後7時までタイマー録音を試みました。
22時間まるまる録音するのでなく、2時間ずつタイマー録音しました。

ルクセンブルグからのストリーミングなので、少しぐらい途切れるのは仕方ないと諦めはつくのですが、 席をはなれていたとき、ストリーミングが完全に途切れてしまったらしく、 グラウンド・ゼロ(Ground-Zero)の『Consume Red』(1997年)から、『Filament 1』(1998年)までの、 約2時間が欠けてしまったのがとても口惜しかったです。

それでも約20時間分は録音できました。それを少しずつ聴きながら、CDを引っ張り出すのが目下の楽しみです。

22時間放送は、1990年代の活動に重きを置いた選曲でした。今までラジオでかかったことのないようなノイズ音源、サンプリング・アルバムでも惜しげもなく丸ごとかけられるのが、すがすがしいです。

「あまちゃん」(2013年)のオープニング・テーマがかかったのが20時間たったぐらいのところでしたから、22時間あっても、だいぶ駆け足の印象です。
22時間ラジオで、青山真治の次回作の音楽は、大友良英の予定だったと語っていて、それが実現しなかったのは、とても残念です。


【2023年2月9日追記】

2022年の夏、ルクセンブルグのFM局ARAが、6月18日から9月25日まで100日間、 100組のアーチストにそれぞれ22時間自由に番組を作ってもらった「RADIO ART ZONE」ですが、 放送音源のアーカイブが「RADIO ART ZONE」のサイトにアップされていました。
22時間×100=2200時間のアーカイブです。日本のラジオ局も、こんな企画やってくれないでしょうか。
こういうものがフリーで聴けるというのは、ほんとうにすごいなと思います。
大友良英22時間「Otomo Yoshihide - Chronological Archive, 1975 to 2022」は録音を試みて2時間ほど失敗していたので、聴けなかった部分も聴けるようになってありがたいです。
ダウンロードしてみると3GB、番組まるまる22時間、320kbps音質の巨大なmp3ファイルでした。

100組のうち知っているアーチストは、大友良英、Haco、クリス・カトラーぐらいだったのですが、 知らない人ばかりなのも、とても嬉しい企画でした。

 

     

ジム・オルーク(Jim O'Rourke)が1999年に発表した「ユリイカ(Eureka)」という曲を、大友良英は何度かカヴァーして、CDにも収録しているのですが、22時間放送では、カヒミ・カリィがヴォーカルの、Otomo Yoshihide's New Jazz Orchestra『ONJO』(2005年、Doubtmusic)収録のものが流されていました。

 

Otomo Yoshihide's New Jazz Orchestra『ONJO』(2005年、Doubtmusic)01

Otomo Yoshihide's New Jazz Orchestra『ONJO』(2005年、Doubtmusic)02

▲Otomo Yoshihide's New Jazz Orchestra『ONJO』(2005年、Doubtmusic)

 

戸川純とPhewがヴォーカルの「ユリイカ(Eureka)」を収録した、Otomo Yoshihide's New Jazz Ensemble『Dreams』(2002年、Tzadik) を引っ張り出しました。帯に戸川純とPhewの写真が使われているので、それが売りだったのかしらん。

 

Otomo Yoshihide's New Jazz Ensemble『Dreams』(2002年、Tzadik)01

Otomo Yoshihide's New Jazz Ensemble『Dreams』(2002年、Tzadik)02

▲Otomo Yoshihide's New Jazz Ensemble『Dreams』(2002年、Tzadik)

 

NHKで放送されていた、おげんさん(星野源)と豊豊さん(松重豊)が「大好きな音楽」について語る『おげんさんのサブスク堂』という番組の最後を飾ったのは、松重豊が出演していた青山真治監督作品『EUREKA』(2001年)に使われていた、ジム・オルーク(Jim O'Rourke)の「ユリイカ(Eureka)」でした。豊豊さんが「ユリイカ(Eureka)」のことを語ると、おげんさんも最近「ユリイカ(Eureka)」を繰り返し聴いたと呼応していて、驚きました。

今年の夏は、「ユリイカ(Eureka)」の夏なのでしょう。

 

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378. 1988年~1989年の片岡吾庵堂『横目で見た郷土史』附言(2022年7月11日)

片岡吾庵堂『横目で見た郷土史』切り抜き帖

 

父・平田信芳が残した資料の整理に、なかなか手が着かないままで、忸怩たるものがあります。

父は、新聞の切りぬきをこまめに取っていた人で、そのなかに、片岡吾庵堂さん(1916~1998)が朝日新聞鹿児島版に、1988年12月3日から1989年12月23日まで48回にわたって連載した「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」の切りぬき帖もありました。

残念ながら、すべての回の新聞切りぬきは残っておらず、欠けた回もあります。
面白いのは、片岡吾庵堂さんが新聞連載時、それぞれの回に手書きで「附言」を書き加えてA4の紙にコピーしたものを知り合いの方に配っていたようなのですが、その一部も切りぬき帖にはさまっていました。

おかげで、その手書きの附言を読むことができました。
「西郷(さいご)さーもバカな戦(いっ)さをしやったもんじゃなぁ」と、下町(しもまっ)の小商人や農家の人たちの立場で語ることの出来る「鹿児島のおじさん」的存在の声に、懐かしいという気持ちになりました。

片岡吾庵堂さんについては、「第149回 1995年ごろの片岡吾庵堂さん作「翔び鶴」(2015年1月10日)」でも、少し書いています。

 

「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」付記01

「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」付記02

▲「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」附言

朝日新聞連載年月日とタイトル

手書きの附言が追加されたコピーがあるもの

昭和63年(1988)12月3日土曜日 第1回 陰に農民の苦しみが “薩摩藩の名君ぞろい”はホント? 【最初から「附言」なしのコピー】
昭和63年(1988)12月10日土曜日 第2回 天文館の街角からみた新幹線 隼人タイプは直線的思考?
昭和63年(1988)12月17日土曜日 第3回 陛下を思う 55年前、城山に喜びの午砲
昭和63年(1988)12月20日土曜日 第4回 昭和は遠く? 十二月八日は何の日ですか?
昭和64年(1989)1月7日土曜日 第5回 明治元勲の月給(一) 一〇〇〇万円 兼務の役職にも支給
平成元年(1989)1月14日土曜日 第6回 明治元勲の月給(二) お手盛り? 超高給の政府高官
平成元年(1989)1月21日土曜日 第7回 明治元勲の月給(三) 「お雇い外人」より低くては…
平成元年(1989)1月28日土曜日 第8回 明治元勲の月給(四) なぜ「我が家の遺法」なのか  
平成元年(1989)2月4日土曜日 第9回 明治元勲の月給(五) 児孫のために“美田買うべし”
平成元年(1989)2月11日土曜日 第10回 玉砕精神とは? 生き抜くことが現代の手本
平成元年(1989)2月18日土曜日 第11回 明治元勲の暮らし(一) 食器類少なくて交代で食事【新聞切り抜き欠け】
平成元年(1989)2月25日土曜日 第12回 明治元勲の暮らし(二) 男の身勝手? 女性の地位低く【新聞切り抜き欠け】
平成元年(1989)3月11日土曜日 第13回 郷中教育への疑問(一) 今もまかり通る「絶対服従」
平成元年(1989)3月18日土曜日 第14回 郷中教育への疑問(二) 「まけるな」は旧士族の亡霊
平成元年(1989)3月25日土曜日 第15回 郷中教育への疑問(三) いじめの極 奄美の“砂糖地獄”
平成元年(1989)4月8日土曜日 第16回 郷中教育への疑問(四) 「ウソ」の効用 教えてもいい
平成元年(1989)4月15日土曜日 第17回 郷中教育への疑問(五) 笑いこそ健康な批判では…
平成元年(1989)4月22日土曜日 第18回 郷中教育への疑問(六) サムライ精神 もうコリゴリ
平成元年(1989)4月29日土曜日 第19回 昭和天皇の思い出 心温まるサンマ好きのお話
平成元年(1989)5月13日土曜日 第20回 「若き薩摩の群像」に思う(一) 「ヨソモン」として2人除く
平成元年(1989)5月20日土曜日 第21回 「若き薩摩の群像」に思う(二) 銅像のほとんどが武士出身
平成元年(1989)5月27日土曜日 第22回 ケチといわれた東郷元帥 家内が倹約家で頭上がらぬ
平成元年(1989)6月3日土曜日 第23回 「若き薩摩の群像」に思う(三) 栄光に背向けた帰国留学生
平成元年(1989)6月10日土曜日 第24回 「若き薩摩の群像」に思う(四) 「立身出世 はなもひっかけん」 【新聞切り抜き欠け】
平成元年(1989)6月17日土曜日 第25回 「敬天愛人」とは何なのか(一) 権力ない庶民にはナンセンス
平成元年(1989)6月24日土曜日 第26回 「敬天愛人」とは何なのか(二) 奄美の妻から娘も引き離す
平成元年(1989)7月1日土曜日 第27回 「敬天愛人」とは何なのか(三) 飾り? 自己を律する言葉?
平成元年(1989)7月8日土曜日 第28回「敬天愛人」とは何なのか(四) 地方の人々 わき溝で出迎え 【新聞切り抜き欠け】
平成元年(1989)7月22日土曜日 第29回 「西郷神格論」を考える(一) 西南戦争で無益な流血続く
平成元年(1989)8月5日土曜日 第30回 「西郷神格論」を考える(二) 脱却することが今日の課題
平成元年(1989)8月9日 連載「横目で見た郷土史」を読んで【読者からの手紙】
平成元年(1989)8月12日土曜日 第31回 「傘焼き行事」を考える 武士道の美談とし今も礼賛 【新聞切り抜き欠け】
平成元年(1989)8月19日土曜日 第32回 薩摩隼人はライスカレー ライス族もカレー族も協力を
平成元年(1989)8月26日土曜日 第33回 「島津氏」の名前の由来 都城付近にあった領地の名
平成元年(1989)9月2日土曜日 第34回 西郷家の系図への疑問 高校教師も異論を発表
 記事に登場する「H氏」は平田信芳のことなので、「附言」も送られていたと思うのですが、今のところ見当たりません。

平成元年(1989)9月9日土曜日 第35回 名君や偉人も国外では? 西郷らは韓国では3大悪玉
平成元年(1989)9月23日土曜日 第36回 「翔ぶが如く」はどこへ翔ぶ? “郷土気質”思わす語源だが
平成元年(1989)9月30日土曜日 第37回 木に竹を接いだ「薩摩切子」 江戸文化の華根づかず
平成元年(1989)10月7日土曜日 第38回 殿様芸と「ハダカの王様」 借金のツケ領民に重く
平成元年(1989)10月14日土曜日 第39回 「妙円寺参り」に思うこと 今なぜサムライ精神注入
平成元年(1989)10月21日土曜日 第40回 「妙円寺参り」と忠義心 今の世の中でどうとらえる
平成元年(1989)10月28日土曜日 第41回 「妙円寺参り」と農民の暮らし 領主安泰で領民の酷苦続く
平成元年(1989)11月11日土曜日 第42回 「薩摩義士」を考える 自決の理由は何だったのか
平成元年(1989)11月18日土曜日 第43回 「薩摩義士」を考える② 笑いと遊び禁じ大量自殺者?
平成元年(1989)11月25日土曜日 第44回 「薩摩義士」を考える③ 「宝暦治水工事」なぜ秘密に?
平成元年(1989)12月2日土曜日 第45回 西郷さんの心中事件 疑問残る月照上人との合意
平成元年(1989)12月9日土曜日 第46回 西郷どんのホンネの征韓論 一方的な論理「藤太聞き書」に
平成元年(1989)12月16日土曜日 第47回 西郷さんの知友の西郷論 度量は大きいといえず偏狭
平成元年(1989)12月23日土曜日 第48回 郷土の村興し一言 120年前の「御旗」はコッケイ
 連載最終回をむかえたことが、全国版の「天声人語」でもとりあげられて、「附言」にはそのコピーも貼られています。


手書きの附言が追加されたコピーがあるものでは、今のところ、28~34回の【附言】が見当たりません。
新聞の切り抜きでは、11・12・24・28・31回が欠けています。

父の書庫のどこかに,欠けているものが残っていればよいのですが……。
声が聞こえてくるようなテキストなので、全部読んでみたいです。

 

「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」付記のスタイル

▲「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」附言コピーのスタイル
昭和64年1月7日土曜日掲載の第5回。
昭和最後の日。

片岡吾庵堂さんは、新聞連載時、このスタイルのもののコピーを知り合いに送られていたようです。

 

『横目で見た郷土史』(1996年、高城書房)カバー

▲『横目で見た郷土史』(1996年、高城書房)カバー

新聞連載終了後7年して、単行本化されています。
連載48回分もすべて収録されていますが、削ったり加筆修正されています。
新聞連載版の文章のほうが、生き生きとしているように感じます。

 

『横目で見た郷土史』(1996年、高城書房)奥付

▲『横目で見た郷土史』(1996年、高城書房)奥付

 

 拾い読み・抜き書き

古本を立ち読みしていて、『櫻島の見える窓』という本を手にしたら、内田百閒のことが書いてあったので購入。

 

川崎清『櫻島の見える窓 或る鉄道局長の生活と意見』(1956年7月25日発行、近藤書店)表紙

▲川崎清『櫻島の見える窓 或る鉄道局長の生活と意見』(1956年7月25日発行、近藤書店)

1955年ごろ、鹿児島の鉄道局長だった川崎清の随筆集。
序文は亀井勝一郎。

「二組の客」というエッセイに、阿房列車の旅の内田百閒が登場。
二組の客というのは、百閒先生とアメリカのクローニン中佐夫妻。

百間先生の部分を引用してみます。

     

 僕は、最近、公舎に二組の客を迎えた。一組は、阿房列車の内田百閒先生と、先生のいわゆる山系君で、今一組はアメリカの九州輸送司令官クローニン中佐と、ミセス・クローニンである。

 百閒先生はなかなかの変人で、とくに格式ばったことが嫌いな人だと聞いていたから、「鹿児島で約二時間の休憩をお気が向きましたら私の公舎でなさいませんか。」
 と案内はしたものの、実のところ、お寄りになることをあまり期待はしていなかつた。だから、
 「何ももてなしをされないことを条件としておうかがいしたい。」
 という連絡に接したときは大変有難かった。
 というよりは、むしろ心配であつた。何しろ、全国の隅々を気ままな旅行をして、庭にせよ書画にせよ、目がこえているのだから、何をお見せしても感心されないだろうし、それに食べ物は、夕食の酒をうまくするという至上目的のために、朝食も、昼食も喰わないという徹底振りだから、よしんば山海の珍味を並べたところで無意味であろう。
 こういう人に対しては、何も構わずに、つつじの庭でも眺めながら、独りでぼんやりして貰うのが、一番のサービスだと思うのだが、家人にしてみれば、折角足を運んで下さるのだから、せめて、手製のジュース位はということになる。酒は昼はのまないと聞いているが、どう変るかもしれないからと、特に吟味して用意だけはしていたようだ。

(中略)

 百閒先生とクローニン中佐、この二人のお客を並べて書いては、どちらにも失礼になるような気もするが、一方は漱石門下のいわば古い日本の代表的な人物だし、他方は近代文化の生粋のアメリカ人だし、両極端のいい対照だから、いろいろの思惑をすてて書いてみる事とした次第である。

 

 百閒先生は宮崎に泊られて、今朝十時に西鹿児島駅につくという。しかし考えてみると、十時につくためには宮崎を早朝五時に出発しなければならない筈だし、夜更し朝寝の先生にはちょっと無理な行程である。おそらく一汽車位は遅れるだろうと、ゆつくりかまえていたら、時任君と倉地君が局長室に来て、もうお着きになる時間ですと言う。予定が変つて、九時五十分に鹿児島駅で下車されるというので、あわてて局を飛び出した。
 かねて、僕は東京のタクシーのように殺人的に走る車は大嫌いだから、局の自動車にも絶体に飛ばさないことにして貰っている。運転手の福崎君はその道の練達者だから、この僕の趣味にはどうも不服らしく、小型のタクシーや、時にはトラックにまで追い抜かれるときは、実に残念そうに腕をこねまいている。しかし今日だけは思い切って飛ばしてくれという註文に、大海に放たれた魚の如く走りに走った。しかし、ついに彼の技をもってしても物理学の原則に勝つべくもなく、我々が駅に馳せつけたときは、既に列車はホームについて、お客はあらかたおりてしまったあとだった。山系君がきょろきょろ探している。その山系君との挨拶もそこそこに、僕は、二等車のところに待っているという百閒先生のところへ急いだ。
 紹介されるまでもなく、一目で先生と判った。ホームに置いた大きな風呂敷包みと、カバンの番をして、目のギョロッとした大柄な老人が、杖をついて立っている。その目に僕は一瞬、不安そうなまなざしを感じてはっとした。ずっと昔、まだ自分の父が存命の頃、はるばる僕のところを尋ねてくれた父に淋しい思いをさせたことがあったような、ふとそんな気がしたのであった。
 「おそくなって失礼しました。さあ、どうぞ。」
 といって、その風呂敷包をもって僕は先に立った。先生は黙って何も言わないが、ギョロッとしたその目には、漸く安堵の色がうかがわれた。主席助役の松元君が走って来て、荷物を受取ってくれたので、これで、僕も子供の感慨から開放されて、堂々と局長の貫禄を取り戻すこととなった。
 自動車の中で、僕が山系君といろいろ話をしているうちに、
 「今日は生憎、春霞で桜島が見えません。こういう霞の日は珍らしくて、すくなくとも私が鹿児島に来てからの一月の間では初めてですよ。」
 といったら、突然先生が
 「いや、汽車の中からはよく見えましたよ。すばらしい山肌でした。」
 と口をはさんだ。これが話の緒口になつて、それからは無遠慮な僕の饒舌に、先生の重い口も存外ほどけて来た。
 「今朝は大変だったでしょう。」
 「いや、もう閉口しました。昨夜宿の女中さんに眼覚まし時計を借りてやすんだのですが、五時に起きなければならないと思うだけで、眠られないのです。結局三時から起きてしまいました。私は、八時に起きるのでも、八時に起きなければならぬと、決められると、それを考えただけでもう眠れないのです。だから汽車の寝台でも、普通の寝台では駄目で、必ずコンパートにねることにしています。」
 公舎につくと、庭の見える縁側に籐椅子を持出して、先生と山系君にくつろいで貰った。そして私たちは、先生をなるべく気楽にしてあげようと思って、座敷の方で、勝手に雑談をしていた。しかし、話題も自然阿房列車のことや先生に因んだ話になるものだから、間もなく先生も、
 「私もそちらに参りましょうか。」
 と、われわれの方に出てきた。どうせ局長公舎に来た以上は、この位の拘束は致し方あるまいと、既に覚悟のほぞを固めていたのであろう。
 僕の家内が、
 「私のところの子供は独り子で、つい甘えっ子にしてしまうのですが、先生の本を拝見しますと、先生は甘やかされて育たれて、隨分我儘でいらしたようですけれど、大きくなられて、あんな玲瓏な文章が生れる事を思いますと、一体子供の我儘は強いて直さねばならぬものか、どうか迷うのでございますよ。」といったら、
 「いや、私は祖母に育てられたせいか本当に我儘で、いまでも祖母をうらみたい時もありますよ。いつだったか北野の天満宮で売っている牛のおもちゃの、小さいのをくれた人がありましてね。私は、小さい時から、玩具なども、大きいのと、小さいのと二つ揃えなきゃあ気がすまなかったものですから、例によつて、大きいのも欲しい、欲しいと、よほど駄々をこねたんでしょう。方々を尋ね廻ったらしいのですが、とうとう、作男が、本物の真黒い牛を引張って来ましてね。」
 先生は固苦しいことや、とくに時間にしばられることが嫌いで、
 「今日の午後は何か予定がありますか。」
などと聞こうものなら
 「何も予定をつくらないことが、私の予定なのです。」
とやられてしまう。
 一般人からいえば随分我儘なように聞えるが、しかし誰にだってそういう気持はある。今の僕の生活のように、朝起きて夜寝るまで、殆んど一分も自分の時間がない生活を披露したら、先生はどんなに驚くだろう。この原稿を書いている今夜も、会合で十時に帰宅して、それから晩食をたべて、風呂に入って、漸く机に向ったのは真夜の十二時である。二時まで書くとして明朝はもう九時から、ガッチリつまった日程の通り行動するスケジュールが組まれている。ヘップバーンの「ローマの休日」という映画は、王女様が、ある日宮殿を抜け出して、スケジュールのない一日を楽しくローマで過す、という筋だが、ゆきずりの知合になった新聞記者から「今日の午後のスケジュールは?」と聞かれて、急に顔をくもらすシーンがある。誰だってそくばくのない自由な生活が欲しい。だが現代人は、生きるため、みんな縛られた生活にあくせくしている。機関士は明日の出勤時間を気にしながら寝なければならないし、学校の先生は、少々の風邪はおしても、受持の講義に出なければならない。百閒先生の我儘は、誰の心にもある自然の欲求に過ぎないのだが、ただわれわれの場合は、その欲求に従っていたので仕事にならないし、先生の場合にはその欲求通りに動くことが文筆の仕事をよりスムースにすすませるという違いなのである。
 それにしてもうらやましい仕事ではある。若し僕の文章が、先生のそれの十分の一にでも売れるならば、僕は今から直ぐにでも局長をやめて、
 「予定がないことが僕の予定です。」
 という生活に入りたいものだと思う。
 尤も、世の中には、全然違う人種もあることはある。年がら年中忙しく働いて飽くことを知らぬ実業家と、何にでも引張り出されないと気がすまない政治家、この二種類の人種だけは、どうもわれわれとは本質的に異るようである。
 それから、本の話に一しきり花が咲いて、食べ物の話になつた。
 「朝食は牛乳一本にジュース少々、ひるは殆んど食べないのですが、御飯粒のものを見るとどうも懐しいですな。」
 と、桜餅を楊子で切りながらいう。そういう人だから、せめてお茶だけはよいのをあげようと、家内は昨日から街を歩き廻って極上のまっ茶を用意していたのだが、かなしい哉土地不案内のためか、折角のお茶も試飲してみると、通人に差上げられるお茶ではない。結局、得意のおてまえはやめにして、普通のせん茶ということにした。
 雑談に興じている内にもう十一時を廻った。
 「あ、そうそう、東京を発つ時に主治医が、どこかで体重をはかって知らせなさいといっていたね。山系君、これから泊るところにどこかはかりのある風呂があるかしら。」
 と先生が尋ねた。山系君は、
 「さあ、――」
 と気のない返事をして、別に考えている風でもないので僕がそれをうけて、
 「それならば、駅の荷物をはかるはかりに乗っかれば、簡単にはかれますよ。」
 「ああ、そうですね。ご迷惑でなかったらそうさせて貰いましょう。」
ということになった。それをしおに、少し早いが出迎えのときの失敗もあるから出かけようということになって一同立上った。
 立ちぎわに先生は、
 「では、ちょっと、お庭を拝見させて戴きましょう。」
 と、はき難い庭下駄をつっかけて庭に下りた。遠い山々を背景として、庭全体が見わたせる中心に出て観賞するのが、庭を見る礼儀ででもあるのだろうか、僕のような不粋な人間には判らないが、そういうところにも、先生の主人に対する細かい心づかいがうかがわれて、有難く思った。我儘どころか、とてもわれわれには及びもつかない気をつかう人だと、それだけに先生の自由を欲する気持も察し得て感激したのであった。
 玄関で靴をはくとき、例の深ゴムの靴である。その靴を見て僕はまた子供の感傷に戻った。私の父も生存中ずっとこの型の靴を愛用していて、この靴をはいて杖をもった先生の立姿は、父の面影そのままのなつかしさである。

 鹿児島駅で荷物のはかりに乗ったら、先生の体重は七〇キロあった。
 「先生いけませんよ。十八貫をこしていますよ。」
 と僕がいったら、先生は笑って
 「大丈夫ですよ、風袋があるから。それに私だって少しは成長しますよ。」
 と、ひどくご機嫌だった。先生を見送って帰りの自動車に乗るやいなや、僕は樗木君から宣告された。
 「局長の午後のスケジュールは、社会人野球協会長の資格で各新聞社に挨拶廻り、午後四時からは団体旅行輸送打合会議です。」
 かくて僕のローマの休日は、はかなくも終った。

(略)

 百閒先生のゆかしい表現と、クローニン夫妻のはっきりした表現と、表現の仕方こそ違え、どちらも粗末ながらも心をこめた僕たちの接待の気持を深く汲取ってくれていることが感じられる。誠に心暖まる二組のお客であった。

     

 

川崎清『櫻島の見える窓 或る鉄道局長の生活と意見』(1956年7月25日発行、近藤書店)奥付

▲川崎清『櫻島の見える窓 或る鉄道局長の生活と意見』(1956年7月25日発行、近藤書店)奥付

川崎清氏が鹿児島の鉄道局長だったころ、祖父が川内駅に勤めていたので、この本のページの中に祖父の姿もまぎれこんでいるかもしれないなあと思いました。

本文中、鹿児島の出水(いずみ)という地名に、「でみず」と2カ所でルビを振っていたのには苦笑。

 

     

「二組の客」の内容は、内田百閒『第三阿房列車』収録の「列車寝台の猿 不知火阿房列車」と重なります。

昭和30年(1955)4月9日~16日、小倉・宮崎・青島・鹿児島・八代と九州を鉄道で一周した旅は、阿房列車としてはいちばん終りの旅になります。

「列車寝台の猿 不知火阿房列車」から、鹿児島を急ぎ足でかけ抜けた部分を引用します。手もとにあるのは、1980年の旺文社文庫版です。

 

 九時四十七分、鹿児島に着いた。宮崎を立つてから丁度四時間の行程である。しかしこれで今日の汽車を終つたのではない。
 初めのつもりでは、もう一駅先の西鹿児島まで行き、そこで二時間足らずぼんやりしてゐて十一時四十五分発の上リ急行第三六列車「きりしま」に乗る筈であつたが、さつきの三等車の車中へ途中の駅からことづけがあつて、西鹿児島まで行かずに鹿児島で降りてくれと云つて来た。管理局長の甘木さんが、自分の所の庭を見せたいと云ふのださうである。庭を見るのはひらひではないから、見に行つてもいいけれど、庭をだしにして、もてなされては迷惑する。一切お構い下され間敷、と云ふ事でお邪魔すると云ふ返事をした。おことわり申して見たところで管理局のある局長お膝元の西鹿児島駅に、二時間もぼんやりしてゐては恰好がつかない。
 だからそのつもりで鹿児島駅に降りた。随分長いホームで、この前来た時に降りたホームとは違ふ様である。尤もそれは乗つて来た汽車の方向が違ふから当り前の話であるが、その長いホームの一所に、鞄など地べたに置いてあたりを見廻す。私共に構ふ者はだれもゐない様で、その内に今同じ汽車から降りた人人は向うの改札へ行つてしまつてホームに人影がまばらになり、少しく心細い。
 変ですね、僕が見て来ますから、先生はここのこの場所にゐて下さい、と云つたかと思ふと山系君が走り出した。走つてどこへ行くのだらうと思ふ。
 ここで降りなくてもいいのだとすれば、今降りたばかりのこの汽車へ、もう一度鞄などを入れて一駅先まで乗り継ぎ、もともとそのつもりであつた西鹿児島駅でぼんやりしてゐればいいので、それで事の順序に狂ひはないが、さつきのことづけを受けてゐる手前、さうあつさりと、うしろの汽車の中へ戻つてしまふわけにも行かない。
 自動車が砂煙を立てて、ホームの横つ腹の、改札でも何でもない所へ這入つて来た。いつの間にか山系君がその前に起つてゐる。二三人が急ぎ足でこつちへ近づいて来た。その中の二人は鹿児島の垂逸君と何樫君で、何樫君は昨日の午頃まで宮崎にゐたし、垂逸君とも旧知である。もう一人の生面の紳士が局長の甘木さんで、公務の為に時間がぎりぎりになつたらしい。
 甘木さんの自動車で、鹿児島の町中を走り抜けて官舎に行つた。庭に面したお座敷に落ちつき、先づ一服する。何しろ寝が足りないので、足りないと云ふよりまあ寝てゐない様なもので、何を見るにも目が渋い。お庭はついそこに迫つてゐる自然の山の山裾を取り入れ、大きな池があつて、幽邃の趣をそなへてゐるが、躑躅が多過ぎる。私は躑躅の花も葉の色も少しいらいらする様で、あまり好きではないが、多すぎるから抜いてくれとも云へないので、黙つて拝見して、お茶を戴きお菓子を摘まんだ。
 取りとめもない話しをして時を過ごし、いくらか寝不足の疲れもなほつた様である。話しの間に、東京を立つ前主治医からどこか旅先にかんかんがあつたら、体重を計つて来いと云はれてゐるのを思ひ出し、何の続きだつたか忘れたがその事を云ふと、甘木さんがそれはわけはない、駅のかんかんで計りませうと云つた。
 私なぞは矢張り、時時目方を計らなければいけないらしい。ふとり過ぎると云ふ事を用心しなければならぬ様で、その警戒の為に目方を知る必要がある。主治医の所にはかんかんがあるけれど、滅多に行かないから計つて貰ふ機会がない。銭湯へ行けば大概の所にあるに違ひないが、行かないから私の役には立たない。それで旅先の宿屋の風呂場にでもあつたら計つて来いと云はれたのである。駅のかんかんに掛かつて見ると云ふ事は考へつかなかつた。尤もだれかにさう云つて貰はなければ、私一人の思ひつきでそんな所へ這入つて、かんかんに乗つたりしたら、怒られるばかりだらう。
 門外に待つてゐる先程の自動車で、駅へ引き返した。さうして小荷物扱所のかんかんに乗り、その数字を教はつた。忙しい所へ飛んだ荷物が割り込んですまなかつたが、その時の数字は風袋つきである。何日か後に東京の家に帰つてから、着てゐた洋服と肌着類一式を脱いで一纏めにし、ポケットに這入つてゐた時計、手帖、がま口その他こまこました物を、同じくポケットに入れてあつたハンケチに包み、眼鏡を外して一緒にして、別に靴を紐でぶら下げ、家の台所にある棒秤に掛けて目方を出した。その合計を鹿児島駅の数字から引き去つた残りが、その時の私の体重であつたと云ふ事になり、この計算には間に凡そ千五百粁の距離が挟まつてゐる。

     

 

この文章を読むまで、「かんかん」という言葉を知りませんでした。

鹿児島駅周辺は、現在改修がすすんでいますが、「随分長いホーム」は昔と変わりません。


内田百閒『第三阿房列車』(1980年、旺文社文庫)

▲内田百閒『第三阿房列車』(1980年、旺文社文庫)

田村義也がカバー装幀をしていた、旺文社文庫の内田百閒は、平山三郎の「雑記」を含め文庫本の華という感じがしました。出るのが楽しみな文庫でした。

旺文社文庫版『第三阿房列車』の、ヒマラヤ山系君こと平山三郎の解説《「第三阿房列車」雑記》には、次のようにあります。

はるばる鹿児島まで行って甘木鉄道局長(川崎清さん)の社宅で一服させて貰ったのは有難かったが、ついでに鹿児島駅の小荷物扱所に寄って、カンカン(看貫・秤り)に載って体重を量ったのにはおどろいた。見ていて甘木局長もあきれたに違いない。むろん洋服を脱いだわけではない。風態すべて東京の自家へ帰って量り、その分を差っ引いたのが正身の体重というわけで、まことに阿房列車どころではない賢明な処置である。

「風態」とありますが、「風袋」でないとユーモアになりません。

 

川崎清の「二組の客」 は、平山三郎編『回想 内田百閒』(1975年、津軽書房)に収録されていてもおかしくないなと思いました。

余談になりますが、平山三郎編『回想 内田百閒』には、版画荘の『全輯百閒随筆』(1936・1937年)月報に掲載されていた、秋朱之介「百鬼園先生とその作品」も再録されていて、秋朱之介のことが忘却されていた1970年代にあっては、貴重な姿勢の本でもありました。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Farmers Market『Musikk Fra Hybridene』(1997年、	Kirkelig Kulturverksted)01

Farmers Market『Musikk Fra Hybridene』(1997年、	Kirkelig Kulturverksted)02

▲Farmers Market『Musikk Fra Hybridene』(1997年、 Kirkelig Kulturverksted)
ノルウェーのスティアン・カーステンセン(Stian Carstensen)が率いる多国籍グループの2枚目のアルバム。
ジャケットでは、北欧とブルガリアが隣接し、なぞの「ハイブリッデーン諸島」がバルト海に存在する地図になっています。そんな世界の音楽です。

音楽しりとりの「Lé Mysteres Des Guitares Grand Prix」や「Tails Of The Unexpected」が、極めつけの余興になっていて、うつうつした気分の時に聴きたくなります。
活動を再開してほしいものです。

「Tails of the Unexpected」というタイトルの元ネタは、1980年代に放送されていた『ロアルド・ダール劇場/予期せぬ出来事(Tales of the Unexpected)』(1981~1988)です。

 

Iain Ballamy With Stian Carstensen『The Little Radio』(2004年、	Sound Recordings)

Iain Ballamy With Stian Carstensen『The Little Radio』(2004年、	Sound Recordings)02

▲Iain Ballamy With Stian Carstensen『The Little Radio』(2004年、 Sound Recordings)
アースワークス(EARTHWORKS)のメンバーだったテナーサックス奏者のイアン・バラミーとスティアン・カーステンセンの2人アルバム。
昔ラジオから流れていたような曲を、サックスとアコーディオンで奏でる、かわいらしいアルバムです。

「My Waltz For Newk」という曲で、「Tails」の元ネタになった「Tales of the Unexpected」のメロディーを忍び込ませています。

 

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377. 1963年~1966年の家族写真ネガフィルム(2022年6月16日)

1963年~1966年の家族写真ネガフィルム

 

父が撮った写真のネガが残っています。
ネガフィルムは、1963年以降のものです。それ以前の写真は紙焼きされたものばかりです。1962年以前のネガが出てきたら面白いのですが、今のところ見当たりません。
父が川内高校に勤めていたころのものは、石原写真館で現像されていました。

多くは、遺跡、石碑や田の神像の写真、川内の字絵図(当時はコピー機がないので、1枚1枚写真に撮ったのでしょう)などの歴史資料や川内高校の行事ですが、川内時代の家族写真のネガも残っています。

古い写真を見ていると、いろいろ思い出します。
一方で、間違いなく写真に写っているのに、まったく憶えていないことに愕然とすることもあります。

他人の家族写真は退屈なものですが、写りこんでいるものに時代が出ていると、別の楽しみ方も生まれます。

 

1964年正月ごろの写真01

1964年正月ごろの写真02

▲1964年正月ごろの写真
川内に住んでいたときの借家の前で、凧あげをしている私と弟。
凧の絵柄が鉄腕アトムです。
下の写真の凧は裏返っていますが、アトムの図柄が透けて見えます。
正規のものかバッタもんか分かりませんが、兄弟がねだったものだったのでしょうか。
この凧の記憶はまったくありません。間違いなく兄弟で鉄腕アトムの凧をあげていたようです。
テレビ漫画の『鉄腕アトム』の放送開始は1963年で、うちにテレビが入ったのが1964年ごろのようなので、初回から見ていたわけではないようですが、『鉄腕アトム』は大好きでした。
アトムの子でした。


テレビっ子の兄弟01

テレビっ子の兄弟02

▲テレビっ子の兄弟
テレビが生まれたときから家にあった世代ではありません。たぶん東京オリンピック(1964年10月10日~10月24日)の前ぐらいに家にもテレビが置かれるようになりました。
NECの白黒テレビでした。アンテナをきちんと設置していなかったので、映りは、あまりよくありませんでした。

1960年代の鹿児島の民放テレビ局は、TBS系の南日本放送(MBC)1局でした。日本テレビ系・フジテレビ系・NET(現・テレビ朝日)系の番組もいくつかは見ることができました。

フジテレビ系の手塚治虫作品も、鹿児島でも放送されていました。

鉄腕アトム(1963年1月~1966年12月)フジテレビ系
W3(ワンダースリー)(1965年6月~1966年6月)フジテレビ系
ジャングル大帝(1965年10月~1966年9月)フジテレビ系
マグマ大使(1966年7月~1967年9月)フジテレビ系
新ジャングル大帝 進めレオ!(1966年10月1967年3月)フジテレビ系
悟空の大冒険(1967年1月~9月)フジテレビ系

『ジャングル大帝』や『マグマ大使』『悟空の大冒険』などは、カラー放送でした。うちでは白黒の画面で見ていました。
手塚治虫ものでも『リボンの騎士』(1967年4月~1968年、フジテレビ系)、『バンパイヤ』(1968年10月~1969年3月、フジテレビ系)は見た記憶がありません。
民放が複数ある大都市圏の子どもと民放が1局の地方の子どもの1960年代のテレビ体験は、結構なずれがあったと思います。


現在、YouTubeの手塚プロダクション公式チャンネルで旧作が期間限定で公開されていますが、

『どろろ』(1969年4月~9月)フジテレビ系

これは見たかったのに見られなかったことを思い出しました。

ちょうど1969年に、フジテレビ系の鹿児島の民放KTSが開局して、それはUHFチャンネルで、UHFコンバーターがないと見られなかったのです。
我が家にUHFチャンネルのあるカラーテレビが入ったのが、確か1972年だったから、いきなり日本テレビ系・フジテレビ系・NET(現・テレビ朝日)系でも見ることができるはずの番組を見る機会を奪われたようなものでした。

 

     ◆

ひとつ思い出すと、1960年代に見ていたテレビ番組が次から次に思い出されます。
ほんとうにテレビっ子だったのだと思います。
テレビが繰り出す「物語」を毎日浴びていたのは間違いありません。

チロリン村とくるみの木(1956年4月~1964年4月)NHK
ひょっこりひょうたん島(1964年4月~1969年4月)NHK
ものしり博士(1961年4月~1969年4月)NHK

チロリン村はかすかですが、記憶にあります。ひょっこりひょうたん島は欠かさず見ていました。
宇野誠一郎の音楽の影響は計り知れません。

 

本放送だったのか、再放送だったのかははっきりしませんが、鹿児島でもテレビ漫画を見ていました。

鉄人28号(1963年10月~1965年5月)フジテレビ系
8マン(1963年11月~1964年12月)TBS系
狼少年ケン(1963年11月~1965年8月)NET系
スーパージェッター(1965年1月~1966年1月)TBS系
宇宙少年ソラン(1965年5月~1967年3月)TBS系
魔法使いサリー(1966年12月~1968年12月)NET系
冒険ガボテン島(1967年4月~1967年12月)TBS系

ただ『サイボーグ009』(1968年4月~9月、NET系)、『ひみつのアッコちゃん』(1969年1月~1970年10月、NET系)、『おそ松くん』(1966年2月~1967年3月、毎日放送、NET系)など、まったく記憶にありません。
放送されていたら見ていたと思いますから、鹿児島では放送がなかったのでしょう。
もっとも、当時の新聞のテレビ欄をチェックしないと、はっきりしたことは言えませんが。

 

オバケのQ太郎(1965年8月29日~1967年6月)TBS系
パーマン(1967年4月2日~1968年4月)TBS系
怪物くん(1968年4月21日~1969年3月)TBS系

藤子不二雄原作のテレビ漫画もしっかり見ていましたが、1970年代にはじまった『ドラえもん』とは縁がありませんでした。
実写版の『忍者ハットリくん』(1966年~1968年、NET系)は、しっかり見ていた記憶があります。

ゲゲゲの鬼太郎(1968年1月~1969年3月)フジテレビ系
サスケ(1968年9月~1969年3月)TBS系

次から次に、これも見ていた、あれも見ていた、と思い出してしまいます。

 

吹き替えの海外ものも好きでした。

ヒッチコック劇場の再放送
ディズニーランド(1958年8月~1972年4月)日本テレビ系
 三菱提供の時間で隔週で放送されたプロレスには、魅かれませんでした。
ポパイ(1959年~1965年)TBS系
トムとジェリー(1964年5月~1966年2月)TBS系
サンダーバード(1966年4月~1967年4月)NHK
宇宙家族ロビンソン(1966年~1968年)TBS系(交互に放送された『逃亡者』は見ませんでした)
ザ・モンキーズ(1967年10月~1969年1月)TBS系

テレビ漫画の記憶が強いですが、ふつうのドラマもいくつか記憶に残っています。
NHKの朝ドラや大河ドラマには食いついていませんでした。

ウルトラQ(1966年1月~7月)TBS系
ウルトラマン(1966年7月~1967年4月)TBS系
ウルトラセブン(1967年10月~1968年9月)TBS系
怪奇大作戦(1968年9月~1969年3月)TBS系

『ウルトラQ』から『怪奇大作戦』まで熱心な視聴者でしたが、『キャプテンウルトラ』(1967年4月~9月、TBS系)は、なぜか記憶にありません。
怪獣もの、怪奇ものを渇望していました。
そのころは、スポーツものには関心がなくて、貸してもらった漫画に『巨人の星』があって、どんな怪獣ものかとワクワクして、ページを開いたら、全く読み方の分からない漫画で失望したことを憶えています。


隠密剣士(1962年10月~1965年3月)TBS系
仮面の忍者 赤影(1967年4月~1968年3月)フジテレビ系
赤影・青影とカラー放送を意識した衣裳ですが、白黒テレビで見ていました。
白影役の牧冬吉は頼りになる存在でした。その後の時代劇で牧冬吉が悪役として登場するたびに心が痛みました。
てなもんや三度笠(1962年5月~1968年3月)朝日放送・TBS系
素浪人 月影兵庫(1965年~1968年)NET系
遅い時間だったはずですが、
チャコちゃん(1966年2月~1967年3月)TBS系
泣いてたまるか(1966年4月~1968年3月)TBS系
太陽のあいつ(1967年4月~7月)TBS系
ジャニーズが登場する場面が、なぜか記憶にあります。
頭師佳孝が子役として出ているテレビドラマ
木下恵介アワーの「おやじ太鼓」(1968年1月~10月)おやじ太鼓2(1969年4月~10月)TBS系
コメットさん(1967年7月~1968年12月)TBS系
『ザ・ガードマン』(1965年4月~1971年12月)TBS系
ふだんは見ないのですが、夏の怪談回はなぜか見せてもらえました。
青空にとび出せ!(1969年3月~9月)TBS系

 

ほんとに「テレビっ子」です。
見ていた記憶はあるのですが、どんな内容だったか、それはほとんど抜け落ちています。


新聞の見出しに「巨人 六度目の」

▲新聞の見出しに「巨人 六度目の」とあるので、1963年の西鉄×巨人の日本シリーズでしょうか。
1963年11月5日の写真と推測されます。

このころ、着ていたものは、母の手づくりでした。
型紙の折り込まれた手芸本が何冊もあった記憶があります。

 

野球帽をかぶっていますが、野球にはまだ関心がありませんでした。
祖父は、満鉄や国鉄で野球をやっていたそうです。私が7歳のときに亡くなったので、祖父のことはほとんど記憶にありません。

今はヤクルト・スワローズのファンですが、最初は「アトムの子」だったので、ヤクルト・アトムズから入りました。
私が小学校高学年の頃、ヤクルト・アトムズは、鹿児島の湯之元で春のキャンプをしていました。
ヤクルト・アトムズ時代の若松勉、荒川尭、東条文博のサインも、まだどこかにあるはずです。


「1966年5月5日 新田神社外苑」の遠足

▲「1966年5月5日 新田神社外苑」の遠足

「シェー」のポーズをする兄弟。ピンぼけなのが残念。スライド用のカラーポジ。
当時「おそ松くん」のアニメも漫画も見た記憶がないのですが、それでも、川内の子どもも写真では「シェー」のポーズで写ろうとしています。

 

森永のパレードチョコレート

▲森永のパレードチョコレート

手に持っているのは森永のパレードチョコレート(1962年発売) 。
鹿児島出身の子役・上原ゆかりの明治のマーブルチョコレート(1961年発売) のコマーシャルは記憶にありますが、この森永のパレードチョコレートの記憶は全くありませんでした。

首に巻いているマフラーは父のもので、懐かしいです。

 

1964年ごろの本棚

1965年ごろの本棚

▲1965年ごろの本棚
畳はぼろぼろの家でしたが、歴史教師の家なので、本は結構ありました。
当時の本棚がわかる写真がもっとあって、どんな子どもの本があったか分かれば、 面白かったのですが。

筑摩の世界文学大系が見えます。まだ全巻完結していません。

高校のとき、世界文学大系収録作品中、いちばん長いものも読み通してみようと、82巻・83巻のアレクサンドル ゲルツェン『過去と思索』を読みはじめました。途中で気づいたのですが、それが完訳でなく抄訳でした。文学大系に抄訳を収録するのかと驚きました。
1998年に筑摩書房から3巻本の完訳版が出ています。


1965年の川内市宮内町のバス停

▲1965年の川内市宮内町の「宮内麓」バス停

これは好きな写真です。
お出かけなのに、カメラをかまえた父の方を向いていない、ふてくされた兄弟の様子がなんともいえません。

次のバス停の「焼酎屋」は「焼酎五代」の山元酒造のこと。まだ川内川沿いにあったころです。

以前は、気づいていなかったのですが、バス停の後ろに「地頭館之址」の石碑が見えます。
地頭館跡がある宮内町公民館の裏手に借家がありました。

 

薩摩川内市宮内町の地頭館跡碑

▲薩摩川内市宮内町の「地頭館之址」碑

今はバス停もなく、この道をバスは通っていないようです・

 

 拾い読み・抜き書き

本屋さんの棚をのぞいていると、島田龍編『左川ちか全集』(書肆侃侃堂)という1巻本が福岡の版元から出ていました。
こういう本が、東京ではなく、福岡からでる時代になったのだと思いました。

 

島田龍編『左川ちか全集』01

島田龍編『左川ちか全集』02

▲島田龍編『左川ちか全集』(2022年4月23日第1刷発行、書肆侃侃房)カバーと表紙

 

左川ちかというと、江間章子がその葬儀を回想した文章を思い出します。

 

江間章子『埋もれ詩の焔ら』

▲江間章子『埋もれ詩の焔ら』(1985年、講談社)

江間章子『埋もれ詩の焔ら』(1985年、講談社) 「I 華麗なる回想・左川ちか」から。

     雪の門
                    左川ちか

  その家のまはりには人の古びた思惟がつみあげられてゐる。
  ――もはや墓石のやうにあをざめて。
  夏は涼しく、冬は温い。
  私は一時、花が咲いたと思つた。
  それは年とった雪の一群であつた。

 木枯らしが吹きはじめた日ぐれ、私は胸騒ぎのようなものを感じて、小田急に乗って、祖師谷大蔵で下車した。
 風の音は、川崎家の中に入っても聞えていたが、そこでは、ちかはいっそう痩せて、すでに視線もさだまらない、呼吸しているだけの悲しい病状だった。
 勤務先の第一書房を休んでいるといって、昇
(ちかの兄、川崎昇」)はこのときも家にいて、私は居間へ案内された。
 彼は、私を心待ちに、待っていたようにも思われた。
「愛
(ちかの本名)は、もう、よくわからないようです……。意識がはっきりしたときに、会いたいひとがないかと訊いたのですが、ないと、はっきりいいました……」
 昇は心の中で泣いていたのではなかっただろうか。
 悲しかった。
「あまり長くないと思います……。お宅からは遠いし、このような工合ですから、もう、これ以上来ていただかなくても……」
 苦痛をやわらげるためにだろうか、彼女は上半身を起き上がるようにして寝かされていて、蠟細工となったように、無言のままだった。私は、彼女の枕もとにつき添っている母上に、深く頭をさげて、病室の襖をしめた。
 外は夜になっていた。
 年の暮近い木枯しは、来たときよりも寒く、頬に、肩に、心に沁みた。
 私は暗い道を、どのように歩いたか、ただ夢中で、駅らしい明りを凝視して、歩いたことを憶えている。
 一九三六年一月七日、左川ちかは死んだ。十日の葬儀に、駆けつけるようにして、川崎家に集った詩人たちは衣巻省三、岩佐東一郎、城左門、春山行夫、阪本越郎と私で、親交のあった北園克衛の姿が見えなかったのは、悲しくて出席したくなかったからにちがいない。
 彼女を愛し、親しかった詩人たちに送られる、ひっそりとした葬いの儀式は、詩人らしく、悲しみを超えて、崇高な『美』さえ感じさせた。
 私はこのときの想い出を、一九八一年六月、朝日新聞の俳壇のページに連載したエッセイで、次のように書いた。

 二十歳半ばで、癌で死んだ左川ちかの遺体を納めた柩は、黒いマントをひるがえして駆けつけてきた伊藤整の到着を待っていたように、霊柩車に移された。そして祖師谷大蔵の、当時雑木林つづきだった中で、霊柩車は道に迷った。……

 柩が玄関を出るとき、阪本越郎がいそいで柩に近づいた。彼は左川ちかの年齢を、読みとったのであった。『左川ちか全詩集』の年譜によれば、享年二十四歳十一ヵ月とある。
 逝った左川ちかばかりでなく、みんな若かったのだ。「自分の人生からプラス、マイナスをひいてゼロとなっても、妹だけはプラスとなって残ると考えていた」と嘆いた川崎昇も、シュールレアリズムをふくめて、モダニズムの詩、詩論の輝けるリーダー、首領だった春山行夫も、その他活躍していたすばらしい先輩たちも、大先輩、年長者と思っていたが、いま思うと、だれもが三十歳ぐらいか、その少し上といった若さだったのだと、あらためて思う。
 エッセイに書いたように、火葬場へ向う、左川ちかを乗せた霊柩車は、裸木の、冬の雑木林の中で、道に迷った。迷ったというよりも、道を間違えて、落葉が散りしいた上を、私たち、詩人たちがつめ込むように乗り込んだ二台のタクシーから、バックし、進むべき道を走りなおすといった工合だった。
「霊柩車も、道を間違えることがあるンだなア」
 と、阪本越郎が、感心したようにつぶやいた。だれも、無言だった。
 黒い服装の人は、ひとりもいなかった。私も、地味なふつうの服を着ていたと思う。男の人たちは平服のままだった。私が、それを鮮明に憶えているのは、帰途、新宿駅でおりると、衣巻省三が「このままでは、やり切れなくて、家へ帰れない」と言って、駅のわきのダンスホール階段を登って行ったからである。
「衣巻さんは、お洒落なのよ。ダンディなひとよ」と、私は、その姿から左川ちかの言葉を思い出していた。

 

江間章子『〈夏の思い出〉その想いのゆくえ』

▲江間章子『〈夏の思い出〉その想いのゆくえ』(1987年、宝文館出版)

朝日新聞の俳壇のページに連載したエッセイは、江間章子『〈夏の思い出〉その想いのゆくえ』(1987年、宝文館出版) に収録されています。

  五月雨や径ほそぼそと町に入る

 なんと心を安らかにしれくれる句であろうか。久しく会うこともなかったが、北園克衛も亡くなった。
 『伝記・伊藤整』(詩人の肖像)を書かれるとき、曾根博義氏の訪問を受けた。左川ちかと伊藤整の恋愛について、私が何も気づいていなかったのか、不思議そうであった。私はむしろ、左川ちかと北園克衛のあいだに、美しい友情以上のものを感じていたのだから。
 二十歳半ばで、癌で死んだ左川ちかの遺体は、黒いマントをひるがえして駈けつけてきた伊藤整の到着を待っていたように、霊柩車に移された。そして祖師谷大蔵の、当時雑木林つづきだったその中で、霊柩車は道に迷った。……
 やがて、町の店頭には、林檎のひとつ、蜜柑ひとつ見られなくなる、この前の戦争の時代へと入っていった。

 

左川ちかを乗せた霊柩車が、冬の雑木林の中で道に迷う様子は、象徴的です。
この様子が1936年の映画のように頭の中に映し出されます。

左川ちかの死から1か月ちょっとの1936年2月26日、二二六事件です。

 

江間章子については、次の回でも書いています。

第188回 1936年の『木香通信』6月号(2016年9月26日)
第227回 1990年の江間章子『タンポポの呪咀』(2018年3月16日)
第292回 1994年の江間章子『ハナコ』(2019年11月30日)

 

【2022年11月4日追記】

『ねむらない樹9』

島田龍編『左川ちか全集』の版元・書肆侃侃房が出している短歌ムック『ねむらない樹9』(2022年8月29日第1刷発行)の特集が「詩歌のモダニズム」、小特集が「左川ちか」で、 『左川ちか全集』の伴侶本になっています。

座談会「左川ちかとモダニズム詩」で、蜂飼耳が「例えば江間章子についていうと、戦後数年に発表された詩で広島を書いている。戦前の左川ちかと同時期にややメルヘンチックなモダニズムの詩を江間章子は書いているんだけども、戦後は社会的な方向へ転換していきました。ちょっと今は読めないかなという詩も書いてはいるんですけど、ともかく大きな転換をしたということはありますね。左川ちかに関してそのあたりはわからないけども、どうなっていたでしょうね。」と語り、島田龍も「生きていたら江間章子のように社会性を強めたかもしれないし、あるいはもうペンを折ってたかもしれない。」と語っています。

1936年に亡くなった左川ちか(1911~1936)と、長生きして2005年に亡くなった江間章子(1913~2005)の差を感じます。

 

     

紫陽花01

紫陽花02

▲ガクアジサイ

鹿児島も梅雨入りしました。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

「悼む歌」を聴きたい。
ダグマー・クラウゼ(Dagmar Krause)の歌う、ブレヒト/ワイルの「溺れた少女のバラッド(Ballade vom ertrunkenen Madchen / Ballad of the Drowned Girl)」を聴きたいと思ったのですが、見当たりません。
『ベルリン・レクイエム(The Berlin Requiem)』(1929年)の1曲です。
録音は残されているのでしょうか。

ローザ・ルクセンブルグ(1871~1919、Rosa Luxemburg)を追悼してつくられた歌です。

 

Dagmar Krause『Supply & Demand: Songs by Brecht/ Weill & Eisler』01

Dagmar Krause『Supply & Demand: Songs by Brecht/ Weill & Eisler』02

Dagmar Krause『Supply & Demand: Songs by Brecht/ Weill & Eisler』03

▲Dagmar Krause『Supply & Demand: Songs by Brecht/ Weill & Eisler』(1986年、Hannibal Records)

 

Dagmar Krause『Supply & Demand: Songs by Brecht/ Weill & Eisler』04

▲Dagmar Krause『Supply & Demand: Songs by Brecht/ Weill & Eisler』
日本盤CD、ダグマー・クラウゼ『ワイル、アイスラー&ブレヒト』(1991年、MIDI)

このアルバムに「溺れた少女のバラッド(Ballade vom ertrunkenen Madchen / Ballad of the Drowned Girl)」も収録されていると思い込んでいたのですが、勘違いでした。
『ベルリン・レクイエム(The Berlin Requiem)』(1929年)から、ジョン・ウィレット(John Willett)の英訳で「墓碑銘1919(Epitaph 1919)」(ブレヒト/ワイル)は収録されています。

LPは16曲収録ですが、CDは26曲収録でした。
LPは英訳詩を優先し、CDはドイツ語詩を優先した構成になっていました。

 

もしかしたら、ロビン・アーチャーの英訳詩盤と記憶がまじりあったのかもしれません。

1980年代、ちょっとしたブレヒト・ソングのリヴァイヴァルがあって、ロビン・アーチャーの英訳詩盤は、聴きやすいレコードでよく聴いていました。
このレコードには、『ベルリン・レクイエム(The Berlin Requiem)』から「墓碑銘1919(Epitaph 1919)」と「溺れ死んだ少女について(The Drowned Girl)」の2曲が収録されていました。
英訳詩は、ジョン・ウィレット(John Willett)。

 

Robyn Archer sings Brecht

Robyn Archer sings Brechtラベル01

Robyn Archer sings Brechtラベル02

▲『Robyn Archer sings Brecht』(1981年、「東芝EMI、Angel)
The London Sinfonietta
Conducted by Dominic Muldowney

 

David Bowie『Sound + Vision』

▲David Bowie『Sound + Vision』(2003年、2014年、Parlophone)

1982年BBC制作のテレビ番組『BAAL(バール)』で、デヴィッド・ボウイが歌った「The Drowned Girl」も心に残っています。
そのサントラ盤も持っていたはずなのですが、出てきません。

ベスト盤の 『Sound + Vision』には、『バール』から、「Baal's Hymn」と「The Drowned Girl」の2曲のブレヒト・ソングが収録されています。

ボウイの「The Drowned Girl」も、ジョン・ウィレット(John Willett)の英訳詩によるもの。

 

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376. 1980年~1986年のBroken Records(2022年5月14日)

What Becomes Of The Broken Hearted

 

前回、デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキン(Dave Stewart & Barbara Gaskin)について少し触れましたが、その翌日、Dave Stewart & Barbara GaskinのささやかなYouTubeチャンネルに「SONG TALK - Episode 1」 という80年代を回想する動画がアップされていて、同時多発的回顧かと驚きました。

「Episode 1」ということで、最初の録音「This is Human Speech」、思いがけずも大ヒットになってしまった「It's My Party」、そのB面曲でDave Stewart作詞作曲の「Waiting In The Wings」 、その後のB面曲「The Emperor's New Guitar」、「Henry And James」などに80年代の楽曲について回想しています。15分ほどの音声主体の動画です。

1980年ごろ、ババーラ・ガスキンが参加していた女性4人のグループ Red Roll On についても言及していて、その時代は「Punky Era」でそのスタイルで歌っていたと語っています。Red Roll On のアルバムがリリースされていたら、また違う人生の道すじになっていたのかもしれません。

このYouTube動画の「Episode」が何回まで続くか分かりませんが、楽しみができました。


1980年の「What Becomes Of The Broken Hearted」にはじまった、A面はカヴァー曲、B面はデイヴ・スチュワートのオリジナル曲というかたちの、Broken Recordsのシングル盤リリースには、わくわくしたものです。

私は、70年代に10代を過ごしたので、音楽を聴くとき、30センチ33回転のLPレコードが最適なメディアと思っていた節があって、シングル盤を尊ぶメンタリティが身につかず、レコード屋さんのシングル盤のコーナーにはあまり興味が向かなかったのですが、80年代はじめのデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンのブロークン・レコードやスクリッティ・ポリッティ(Scritti Politti)のシングル盤は、12インチシングルという形式の流行ともあいまって、次に何をやるのか、とても楽しみでした。

 

1980年から1986年にかけてリリースされたデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンのシングル盤のレコードラベルを並べてみます。

 

BROKEN 1

1980年
Stiff Records – BROKEN 1

Dave Stewart
A What Becomes Of The Broken Hearted
Written By Dean, Riser, Weatherspoon

Broken Records 最初のシングル盤は、 デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンではなく、デイヴ・スチュワートの個人名義。
A面の「What Becomes Of The Broken Hearted(恋に破れて)」は、1967年ジミー・ラフィン(Jimmy Ruffin)のヒット曲。
「Broken Records」という名前もこの曲名から取られています。
ステッィフ・レコード(Stiff Records)傘下ということで、エルヴィス・コステロやニック・ロウとレーベルメイトということにもなります。

歌うのは、ゾンビーズのコリン・ブランストーン(Colin Blunstone)。
デイヴ・スチュワートがキーボード奏者だったBruford『ONE OF THE KIND』(1979年)に、ゾンビーズのキーボード奏者ロッド・アージェント(ROD Argent)が営んでいた楽器店への謝辞もあったので、その辺のつながりもあったのでしょうか。

バッキング・ヴォーカルのアマンダ・パーソンズ(Amanda Parsons)とジャッコ(Jakko)。ジャッコが、その後、キング・クリムゾンのヴォーカリストになるとは思いもしませんでした。


There Is No Reward

B There Is No Reward
Written By Stewart
バッキング・ヴォーカルで Barbara Gaskin が参加しています。


BROKEN 2

1981年
Stiff Records – BROKEN 2

Dave Stewart With Barbara Gaskin

このときは、「&」でなく「WITH」。

 

It's My Party

A It's My Party
Written By Riener, Gluck Jnr, Gold

1963年レスリー・ゴーアLesley Goreのヒット曲「It's My Party(涙のバースデイ・パーティ)」のカヴァー。

キーボード主体ということで「シンセ・ポップ」と分類されることもありました。
バッキング・ヴォーカルにアマンダ・パーソンズ(Amanda Parsons)

まさかのまさかの大ヒットで、英国で4週連続チャート1位。200万枚を超える大ヒットになりました。
何がヒットするのか、分からないものです。
そのおかげで、その後の音楽制作に余裕ができたようです。


Waiting In The Wings

B Waiting In The Wings
Written By Dave Stewart

 

BROKEN 3

1982年
Stiff Records – BROKEN 3

Dave Stewart And Barbara Gaskin

 

Johnny Rocco

A Johnny Rocco
Written By Les Vandyke

1960年マーティ・ワイルド(Marty Wilde)の「ジョニー・ロッコ」のカヴァー。

バッキング・ヴォーカルにアマンダ・パーソンズ(Amanda Parsons)とジャッコ(Jakko)。

 

The Hamburger Song

B The Hamburger Song (We've Survived This Before)
Written By Dave Stewart


BROKEN 4

1983年3月
Broken Records – BROKEN 4

Dave Stewart & Barbara Gaskin

Siamese Cat Song

A Siamese Cat Song
Written By Peggy Lee, Sony Burke

1962年ペギー・リー(Peggy Lee)「The Siamese Cat Song(シャムネコのうた)」のカヴァー。

バッキング・ヴォーカルに、アマンダ・パーソンズ(Amanda Parsons)。

 

The Emperor's New Guitar

B The Emperor's New Guitar
Written-By – Dave Stewart

 

BROKEN 5

1983年8月
Broken Records – BROKEN 5

Dave Stewart And Barbara Gaskin

Busy Doing Nothing

A Busy Doing Nothing
Written-By – Van Heusen/Burke

1949年ビング・クロスビー(Bing Crosby)の「Busy Doing Nothing」 のカヴァー。

 

The World Spins So Slow

B The World Spins So Slow
Written-By – D. Stewart

バッキングヴォーカルとギターに、Jakko。
ピクチャーディスクも存在します。

 

BROKEN 6

1983年
Broken Records – BROKEN 6

Dave Stewart & Barbara Gaskin

Leipzig

A Leipzig
Written By Thomas Dolby

1981年トマス・ドルビー「ライプツィッヒ」のカヴァー。

デザイン(レタリングと地図)はピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)


Rich For A Day

B Rich For A Day
Written-By – D. Stewart

Bass・Electric Guitar に Rick Biddulph、Drums・Percussion に Pip Pyle、Guitar に Jakko が参加。

このシングルから、7インチ盤だけでなく、12インチ盤も作られるようになりました。

 

BROKEN 7

1984年

手もとにあるのが12インチ盤なので、レコード番号は「BROK IT 7」になっています。
7インチ盤のレコード番号は「BROKEN 7」

Dave Stewart & Barbara Gaskin
Broken Records – BROKEN 7

A I'm In A Different World
Written By Holland-Dozier-Holland
B Henry And James
Written By Dave Stewart

Guitar で Jakkoが参加。


12インチ盤 (Broken Records – BROK IT 7)
Broken Records – BROK IT 7

I'm In A Different World

A I'm In A Different World (Extended Version)

1968年フォートップス(The Four Tops)のカヴァー。

それまで、リリースごとにラベル面のデザインをその盤だけのものにしてきましたが、
この盤から再利用がはじまります。

シングル盤をデザインするという意欲が少し落ちてきたのかもしれません。

ブロークン・レコードのロゴのように使われる、輝く八分音符の図は、ピーター・ブレグヴァドの手になるもののようです。
「Leipzig」のレコードジャケットから登場しています。


Henry And James

B1 A World Of Difference
B2 Henry And James
Bass に Ed Poole、Guitar に Jakko が参加。


BROKEN 8

1986年
Stiff Records – BROKEN 178, Stiff Records – BROKEN 8

7インチ盤のレコード番号が「BROKEN 8」

Dave Stewart & Barbara Gaskin

A The Locomotion
Written By Goffin/King
B Make Me Promises
Written By Dave Stewart

バッキング・ヴォーカルにジャッコ(Jakko)。ジャッコは、8枚中7枚のシングルに参加。

ピクチャーディスクも存在します。


12インチ盤(Broken Records – BROK IT 8)

手もとにあるのが12インチ盤なので、レコード番号は「BROK IT 8」になっています。

The Locomotion

A1 The Locomotion (Extended Version)
Written By Goffin/King
A2 The Locomotion (Derailed Version)
Written By Goffin/King

1962年リトル・エヴァ(Little Eva)「ロコ・モーション」のカヴァー。


Make Me Promises

B Make Me Promises
Written By D. Stewart

 

     

その後にリリースされたアルバムでも、いろんな曲をカヴァーしています。
デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンがどんなカヴァーをするのか、おいしい果実の季節がめぐってくるのを楽しみにするように待っていました。
だいぶ時間がかかるようになりましたが。

 

1990年 Dave Stewart & Barbara Gaskin『The Big Idea』

1986年ビリー・ブラッグ「Levi Stubbs' Tears」(Billy Bragg, Holland-Dozier-Holland)
1965年ボブ・ディラン「Subterranean Homesick Blues」(Bob Dylan)
1984年ブルー・ナイル(Blue Nile)「Heatwave」(P. Buchanan, R. Bell)
1964年デイヴ・ベリー(Dave Berry)「The Crying Game」(G. Stephens) 1991年『SPIN』
1964年ルーファス・トーマス(Rufus Thomas)「Walking The Dog」(Rufus Thomas)
1966年バーズ(Byrds)の「8 Miles High」(Crosby, Clark, McGuinn)
1976年ジョニ・ミッチェル「Amelia」(Joni Mitchell)
1962年ヴィンス・ガラルディ「Cast Your Fate To The Wind」(V. Guaraldi)
1957年リチャード・ベリー(Richard Berry)「Louie Louie」(R. Berry)


2001年『The TLG Collection』

1983年ポール・サイモン「René And Georgette Magritte With Their Dog After The War」(P. Simon)
1960年Johnny Kidd & the Pirates「Shaking All Over」(J. Kidd)
1970年Chairmen of the Board「Give Me Just A Little More Time」(E. Wain, R. Dunbar)
「McGroggan」(Traditional)
1979年XTC「Roads Girdle The Globe」(A. Partridge)
1966年the Creation「Painter Man」(E. Phillips, K. Pickett)


2009年 Dave Stewart & Barbara Gaskin『Green And Blue』

1967年ビートルズ「Good Morning Good Morning」(Lennon-McCartney)
「The Sweetwater Sea」は、Peter Blegvadの作詞。


2018年 Dave Stewart & Barbara Gaskin『Star Clocks』

1966年The Lovin Spoonful「Summer In The City」(John Sebastian, Mark Sebastian, Steve Boone)

 

2009年と2018年にリリースされたアルバムでは、それぞれ1曲だけのカヴァー曲収録でメインはオリジナル曲になりましたが、いつの日か、ブロークン・レコードのカヴァー・シングル盤、レコード番号「BROKEN 9」がでるのを待っています。

 

 

 拾い読み・抜き書き

小田切進編『大波小波・匿名批評にみる昭和文学史』第一巻(昭和54年3月5日第1刷発行、東京新聞出版局)を読んでいましたら、 1938年(昭和13年)4月23日に「若子」という匿名氏が書いた「侘し過ぎる――詩は遂に失はれた」という記事がありました。引用します。

 □……この頃永井荷風の古い訳詩集『珊瑚集』が美しい本になったので一読し、詩を愛する心の温まる喜びにうたれた。かう言へば、それが今日の詩であるかないか、と若い詩人たちはすぐ言ふにきまつてゐるが、愚生は今日の詩の熱心な読者の一人である。そしてこの数年間、若い人たちの詩から何ものをも得なかったkと、今日自分の書いてゐる詩に自信の持てる詩人は皆無に近いことを敢て指摘しなければならない。
 □……『四季』の一派でいま最も元気に書いてゐるのは立原道造や阪本越郎などであるが、立原の詩風は叙情に終始してゐるうちに、ただ単なるレトリックに堕し、阪本も空しくその才を妖精の匂のなかに羽搏いてゐる。
 □……三好達治、丸山薫等はすでに歌ふべきものを歌ひつくし、裸かの顔で名士風にジヤーナリズムにとほるといふだけのことである。
 □……『文芸汎論』を中心にして堀口大学系統の詩人、岩佐東一郎、城左門、菱山修三、それに北園克衛などが仕事をしてゐる。その各人に相当の才ありとは言へ、彼等に一貫する詩の脈、あるひは理論的発展は芯のとまつた感があつて、伝統と舶載のエスプリとの間を往復してゐるにすぎない。
 □……更に近藤東、春山行夫の『新領土』といふ雑誌は勉強を理論的にやつてゐるが、若いものにはそれがうまく通じないのだらう。詩壇ジヤーナリズムと喧嘩ばかりしてゐる。その他旧アナキスト系統の菊岡久利や草野心平は、一種の文化批評になつてしまひ、詩苑には徒らに雑草がはびこるばかり。
 □……今日詩を書いてゐるものの右顧左眄して自ら信ずることなきは甚だ悲しいばかりでなく、いつしか詩を読まうと願ふ読者を四散させてしまふにちがいひない。古き詩の復刻に僅に憂をやる詩読者をして術なからしめるものである。

1938年「詩は遂に失はれた」という嘆きですが、ここに一人の女性も言及されていないことも気になります。

ところで、冒頭に言及されている『珊瑚集』は、第一書房が昭和13年3月25日に発行した新版です。
装釘者は秋朱之介(西谷操、1903~1997)です。

この頃永井荷風の古い訳詩集『珊瑚集』が美しい本になった」ということばに秋朱之介だけは喜んだかもしれません。

 

1992年6月のインタビュー録音で、秋朱之介は永井荷風について少し言及しています。
聞き取りにくい個所が多いのですが、おおよそ次のように語っています。

(斎藤昌三と)製本屋同じだから。中村印刷所、中村製本っていってね、そこで僕の本が、ぜんぶそこでつくったから。そうなんです。斎藤さんのはみんなゲテ装の本ばかりだからね、同じ製本屋で近所なんですよ、八丁堀だから。斎藤さんところもそうだし。
ですから、そこから出ているのは、『濹東綺譚』(烏有堂)を最初にだした広瀬千香というのもね、あれは斎藤さんところで仕事してきた人だから。で、永井荷風さんの本をだしてね。
荷風先生、あれ嫌いなんですよ、あの本が。嫌いでね、先生とこ行くと、台所に、台所の座敷にね、ほうりだしてあって、たくさん置いてあるんですよ。1冊もらっときゃあね。今、百万円からするでしょ。これ、たくさん積んであるんですよ。あの、嫌だから。
わたし、永井荷風先生の本だしてるでしょ、『珊瑚集』だしてるんですよ。(偏奇館に)行ったこともあるしね。先生の本、ぼくもだしてますから、詩集をね。そんな関係で行ってもいて。別にそれをほしいとも思わなかったし。

 

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