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my favorite things 351-360

 my favorite things 351(2021年6月25日)から360(2021年10月24日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 

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 351. 1985年のデヴィッド・チェンバース編『ジョアン・ハッサル』(2021年6月25日)
 352. 1963年の『さんぎし』10月号(2021年7月30日)
 353. 1933年の池田さぶろ『財界漫畫遍路』(2021年7月31日)
 354. 2009年~2019年の The Laurence Sterne Trust 企画展箱(2021年8月15日)
 355. 2003年の佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本』(2021年8月16日)
 356. 1982年の Ant On E『THE MOUTH』(2021年8月29日)
 357. 1949年の『パタフィジック万年暦』(2021年9月7日)
 358. 1959年の『ロバート・ギビングスの木版画』(2021年9月29日)
 359. 1980年の「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」(2021年10月14日)
 360. 1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本 その1(2021年10月24日)
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360. 1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本 その1(2021年10月24日)

1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本

 

第358回 1959年の『ロバート・ギビングスの木版画』(2021年9月29日)」で紹介したロバート・ギビングスの本ですが、本棚をひっくり返してみたら、1940年以降のデント社(J.M.DENT & SONS)版が11冊でてきました。
「川の本(River Book)」も、裸本もあって完全ではないですが、7冊揃っていて、南洋本も少しありました。
ネット以前、カタログで本を買っていたころに入手したものです。

戦前のゴールデン・コッカレル・プレス(Golden Cockerel Press)本は数百部単位の少部数で、なかなか手がだせませんが、1940年以降のデント社版は、万の単位で流通した本なので、手軽な値段で入手できる木版挿絵本でした。

ページをめくってみると、その黒々とした木版挿絵の力強さと、どこか完璧になりそこねたような愛嬌を感じました。それを面白いと思うか、時代遅れと感じるかで評価は分かれます。

それから、手もとにある11冊中7冊の本文活字が、エリック・ギル(Eric Gill、1882~1940)がデザインした「パーペチュア(Perpetua)」であることに、1930年代的なものを感じました。一方、1942~1949年の物資不足のなかの統制下に作られた他の4冊の本文活字は、12ポイントの「ギャラモン(Garamond)」が使われています。

パーペチュア(Perpetua)は、「第274回 1930年のエリック・ギル旧蔵『THE FLEURON』第7号(2019年6月18日)」で紹介した、『THE FLEURON』第7号(1930年、Cambridge University Press)でお披露目された活字です。

ちなみに、ギビングスの没後、デント社から刊行された『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、THE WOOD ENGRAVINGS OF ROBERT GIBBINGS)と『ロバート・ギビングス書誌』(1962年、ROBERT GIBBINGS A Bibliography)も、本文活字は「パーペチュア(Perpetua)」です。
ロバート・ギビングスお気に入りの活字だったようです。

 

モノタイプ社の「パーペチュア(Perpetua)」活字見本

▲モノタイプ社の「パーペチュア(Perpetua)」活字見本(1970年ごろの『SPECIMEN BOOK OF 'MONOTYPE' PRINTING TYPES』から)

 

     

手もとにあるデント社版の書影を並べてみます。

まずは7冊の「川の本(River Books)」から。

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』(『いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ』1940年、J.M.DENT & SONS)
『COMING DOWN THE WYE』(『ワイ川をくだって』1942年、J.M.DENT & SONS)
『LOVELY IS THE LEE』(『いとしきはリー川』1944年、J.M.DENT & SONS)
『SWEET CORK OF THEE』(『汝がいとしきコーク』1951年、J.M.DENT & SONS)
『COMING DOWN THE SEINE』(『セーヌ川をくだって』1953年、J.M.DENT & SONS)
『TRUMPETS FROM MONTPARNASSE』(『モンパルナスのトランペット』1955年、J.M.DENT & SONS)
『TILL I END MY SONG』(『わが歌が終わるまで』1957年、J.M.DENT & SONS)

構成としては、テムズ川の『SWEET THAMES RUN SOFTLY』『TILL I END MY SONG』、アイルランド・コークの『LOVELY IS THE LEE』『SWEET CORK OF THEE』、フランスの『COMING DOWN THE SEINE』『TRUMPETS FROM MONTPARNASSE』が、前後編というか対になっていて、『COMING DOWN THE WYE』は1巻で完結しています。

 

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』(『いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ』1940年、J.M.DENT & SONS)

縦220×横148×幅18ミリ。
x、230ページ。
本文活字は、14ポイントのパーペチュア(Perpetua)。版面・幅100ミリ×31行(161ミリ)。
ギビングスの木版挿絵50点。

手作りのボードでテームズ川探索。

 

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』01

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』02

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』03『SWEET THAMES RUN SOFTLY』04

イギリス版は、
1940年11月初版第1刷 2500部
1940年12月第2~4刷 5250部
1941年2月第5刷 2150部
1941年11月第6刷 1500部
1942年第7刷 2000部
1943年第8刷 3000部
1945年第9刷 10000部
1946年第10刷 10000部

手もとにあるのは、1946年の第10刷。

アメリカ初版は、E.P.Dutton。

THIS BOOK IS PRODUCED IN COMPLETE CONFORMITY WITH THE AUTHORIZED ECONOMY STANDARDS」と、戦時統制経済下の制限された条件に合致する形で作られたとあります。
戦時下のイギリスでは。本の需要は高くなったものの、紙不足が慢性化したため、 1942年から1949年にかけて、「WAR ECONOMY STANDARDS」という書籍制作の基準が決められ、より小さな活字の使用、余白の縮小、紙質や綴じの低予算化が推奨され、少し質の落ちた本が一般書の標準となります。

その時期に刷られた1946年の第10刷は、紙質が落とされています。
ただ初版が1940年だったため、14ポイントのパーペチュア(Perpetua)で31行と、詰め込みすぎない余裕のある文字組みになっています。

この、砲火から遠く、川のさざ波の音が聞こえてくる本は、戦中戦後にかけて広く読まれたようです。
そのノスタルジックな世界像を、パーペチュア(Perpetua)という活字は演出したのではないかと想像したりします。

実際に手にしたわけではないですが、1940年11月の初版は、本文用紙も、後のものより良いものが使われているのではないかと推測しています。

 

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』05

「WILLOW」号。

 

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』06

このカワセミ図は決まっています。

 

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』07

屹立する川べの草は、「川の本」の特徴のひとつで、このすっくと立つ姿勢は、「川の本」の魅力です。

 

『COMING DOWN THE WYE』(『ワイ川をくだって』1942年、J.M.DENT & SONS)

手もとにあるのは裸本です。
縦219×横148×幅15ミリと、他の「川の本」より少し大きい本です。
ix、189ページ。
本文活字は12ポイントのギャラモン(Garamond)。版面・幅113ミリ×39行(178ミリ)。
ギビングスの木版挿絵59点。

イングランドとウェールズの境にあるワイ川(Wye)を下ります。

 

『COMING DOWN THE WYE』01

『COMING DOWN THE WYE』02

『COMING DOWN THE WYE』03

この本は1942年の初版本で、「BOOK PRODUCTION WAR ECONOMY STANDARDS」の表示があって、1942~1949年の戦時統制下の本づくりになっています。
1942~1949年に初版が刊行された「川の本」は、『COMING DOWN THE WYE』(『ワイ川をくだって』1942年)と『LOVELY IS THE LEE』(『いとしきはリー川』1944年)の2冊です。
この2冊だけが、本文書体が他の「川の本」で使われている13ポイントや14ポイントのパーペチュア(Perpetua)ではなく、12ポイントのギャラモン(Garamond)で、ページあたりの行数も39行・38行と、他の「川の本」にくらべて、密になっています。

 

『COMING DOWN THE WYE』04

『COMING DOWN THE WYE』05

こういう実用的なバックがほしくなります。

 

『COMING DOWN THE WYE』06

植物採集帖。

 

『COMING DOWN THE WYE』07

化石などへの古生物学的関心。

 

『COMING DOWN THE WYE』08

牧羊を認識するための耳の切り込みパターン。

 

『LOVELY IS THE LEE』(1944年、J.M.DENT & SONS)

縦229×横157×幅16ミリ。
vi、199ページ。
本文活字は12ポイントのギャラモン(Garamond)。版面・幅105ミリ×38行(173ミリ)。
ギビングスの木版挿絵64点。

ギビングスの故郷アイルランド・コークを流れるリー川(Lee)を巡ります。

 

『LOVELY IS THE LEE』01

『LOVELY IS THE LEE』02

『LOVELY IS THE LEE』03

『LOVELY IS THE LEE』04

1944年初版。
戦時統制下の「THE AUTHORIZED ECONOMY STANDARDS」で作られています。

ギビングスが「川の本」で繰り返し描く川辺にすっくと立つ草のすがたかたちを見ると、「考える葦(reed)」にも、ふさわしい姿勢があるのではないかと感じます。

 

『LOVELY IS THE LEE』05

『LOVELY IS THE LEE』06

考古学的関心。

 

『LOVELY IS THE LEE』07

『LOVELY IS THE LEE』08

手製の蒸留酒。
かつては鹿児島でも見られた光景かもしれません。

 

『SWEET CORK OF THEE』(1951年、J.M.DENT & SONS)

縦219×横145×幅21ミリ。
235ページ。
13ポイントのパーペチュア(Perpetua)。版面・幅101ミリ×33行(162ミリ)。
戦時統制下の本文活字に使われていたギャラモン(Garamond)にかわって、再びパーペチュアが使われています。
ギビングスの木版挿絵67点。

1949年に統制は廃止され、本づくりに制限はなくなります。
統制下の前2作の「川の本」とくらべると、文字組みにゆとりがあります。

前作『LOVELY IS THE LEE』の続編。
ギビングスの故郷アイルランド・コークの話題。コークを流れるブラックウォーター川(Blackwater)。

 

『SWEET CORK OF THEE』01

手もとにあるものは裸本。
前作『LOVELY IS THE LEE』と対になる作品ですが、本のサイズや活字・文字組みでは不統一になっています。

 

『LOVELY IS THE LEE』02

見返しに、アイルランド南西部の地図。

 

『SWEET CORK OF THEE』03

戦時統制が終わったことを感じます。
3色ですが、多色刷りの口絵と扉。

 

『SWEET CORK OF THEE』04

1951年の初版。

 

『SWEET CORK OF THEE』05

『SWEET CORK OF THEE』06

『SWEET CORK OF THEE』07

『SWEET CORK OF THEE』08

アイルランド最南端クリア島にある、最初期のキリスト教遺跡と信じられている十字架の刻まれた石碑。

 

この項、次回に続きます。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

アレポス(AREPOS)の1989年作『AREPOS』の2015年再発CD01

アレポス(AREPOS)の1989年作『AREPOS』の2015年再発CD02

れいちと清水一登が中心の音楽グループ、 アレポス(AREPOS)の1989年作『AREPOS』。
写真は、2015年再発CD(Super Fuji Discs)。

水妖(Siren、セイレーン、サイレン)の歌声は、文字通りサイレンのようにけたたましいものかもしれませんが、れいちの歌声は、人が想像する「水妖の歌声」に近いものではないかと思ったりします。

それとも、人の声でなく、川のせせらぎや波の満ち引きこそが、「水妖の歌声」で、人を漂泊の思いにふらふらと迷いこませるのでしょうか。

「漂泊」といえば、ギビングスの「川の本(River Book)」は、スタイルとしては、松尾芭蕉の「奥の細道」などにも通じるものがあるので、同時代に翻訳されていたら、日本でも受け入れられたのかも知れません。

でも、ネックは、木版挿絵をどこまでていねいに複製・印刷できるかということでしょうか。

 

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359. 1980年の「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」(2021年10月14日)

1980年の「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」ちらし表

 

本を開くと、なつかしいちらしが、はさみこまれていました。

西武渋谷店B館地下一階ブックマートが、雑誌『話の特集』と組んで月ごとに開いていた「書店・話の特集」の、1980年10月のちらし「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」です。

B6のちらしで、ひどく日焼けして痛んでいますが、まだ文字はしっかり読めます。
上部に一個所、押しピンの穴あとがあります。
両隅でなく、なぜ真ん中だけにピンを推したのか、と考えたら、学生時代、確か狭い台所横の柱にピン留めしていたことを思い出しました。

蓮實重彦・山田宏一の本の内容からすると、こんな本も選ぶのかという選書でしたが、この100選はとても参考になって、これを手がかりに映画の本を買ったり、読んだりしていました。

40年前の基準点になった、ちらしだったのだと思います。

 

今も本棚の奥に、30冊ほど、「100冊の映画の本」に選ばれていた本が、眠っていました。
虫干しがてら、引っ張り出して並べてみました。

 

「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」から01

▲「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」から

手もとにある斎藤龍鳳(1928~1969)『なにが粋かよ』は1978年5月15日発行の紙装新版で、古書ではなく、新刊として購入したと思います。
できるだけ安い古本を探していましたが。
11Q30字×25行17Q送り2段組、文字ぎっしりの本です、斎藤龍鳳の人格がそのまま1冊に編集されているような本で、一気に読み通しました。
今だと、この文字組みの本を読むのはきついです。

1980年ごろ読んだのですが、ほんの十数年前の1960年代の過去が、遠い異国のできごとのように思えました。
子どもの1960年代と、おとなの1960年代は、だいぶ違っていました。

映画について書かれたこともおもしろかったのですが、ほとんど忘れています。
海について書いた文章のほうが記憶に残る、そんな本でした。

 

いくつか引用してみます。

私は、この映画(『唇からナイフ』)を見たら、原稿を書いたり試写室へ行くのがいやになり、急に長い夏休みをとりたくなった。三重、和歌山、広島、愛媛と怠けつづけ、泳ぎまわっている。広島のはずれの島の本屋の棚に『唇からナイフ』がならんでいた。映画館では『007』をやっていた。だが私は読まないですむ、見ないですむ。映画『唇からナイフ』が私の一学期にとって決定版だったから・・・・・・。私はいま、休んでいればいい。(「燃えない女が燃えた=『唇からナイフ』」)

『唇からナイフ』のような夏を過ごすつもりでいたのですが、そのことをすっかり忘れていました。

 

 六四年という年は、天災にもまして人災が多かった。一月八波むと志が、バーの女のコを二人乗せたまま、冥土へ行った。ちょうど今頃、八月一七日には、大船メロドラマの雄、佐田啓二が同じく自動車で死んだ。
 オリンピックのあった年で、なんとなく東京じゅうが、一方的にガサついており、私は面白くもおかしくもない毎日をすごしていた。いっしょに暮らしていた女とは、絶望的な状況に入っていた。昔、水泳をやっていたので、運動部にみこまれ、臨時で、試写室通いのあいまをぬってプールへ行かされるはめになったが、いちどもプールへは行かず、サテンのテレビを見て電話原稿を送った。新聞労働者としての最後の年であり、チンチロというあやしげなバクチにふけった最後の年であり、カッコイイ企業内の労働組合運動最後の年であった。
(「再説・六四年の映画状況」)

プールは似合いません。やはり海の人です。

 

 一九六八年の夏、私は自転車で西にむかって走っていた。行く先々で泳ぎ、日が沈むとまた走った。誰とも話をする必要がないし、誰かと話をしたくなれば自転車を止めさえすれば、誰とでも話しあえた。水のなかはサイレントの世界である。水中眼鏡をかけ潜っている六十秒弱の間、私はハンカクメイなのではないかと思えるくらい、世間の現実から遠ざかってしまう。芸術のことも政治のこともそっちのけで、十二、三センチ幅ぐらいのガラスに映る海底にみとれ、呼吸がもうとてもつづかないのを憤懣に思い、同時に、これ以上息を止めていたら死ぬと一方では考え、思い切り強く、ぬるりとした岩肌を蹴って水面に顔を出そうとする。しだいに頭上が明るくなり、水面を下から眺められる位置まで浮かび上がりながら、まだ水面に達しない時、私は私の肺が破れるのではないかとあせる。だが、まもなく私は浮上し、私の鼻腔や口腔が、いそがしく酸素をむさぼり吸う。積乱雲が水平線の上に浮かんでいるほかどこを見まわしても人がいないような時、私は太平洋のまんなかで、ひどく個人主義的な幸福感に浸る。大きく空気を吸い、また頭から逆落しに身体を水中に没して行く。
 陽差しが弱くなると、自転車を点検する。ブレーキの甘くなった箇所、切り換えの渋くなった変速機など、締めたり、油を差したりする。水筒に水をつめ、タイヤを親指で押して異常がなければ出発である。平均二十キロ、雨さえ降っていなければ、まずまず快適な旅だ。焼津、静波、御前崎、浜岡、知多半島、鳥羽、熊野灘、尾鷲、瀬戸内海因島、愛媛県弓削島、ペダルを踏む、そして泳ぐ、またペダルを踏む。両脚はそれが日常になったので、少々の疲労を私が身体全体で感じようとも、意に介さず独立して無意識にペダルを踏む。七月の終りに、ずぶぬれで、東京を出てから三週間以上、私はそんな暮し方をした。私の一九六八年夏である。
(「一九六八年の夏」)

わたしも子どもでしたが、この1968年の海を知っているのです。

学生時代、東京から鹿児島に帰省するときは、東海道・山陽・鹿児島本線ルートではなく、鈍行を使い、遠回りしたものです。

一度は、東京から鹿児島まで自転車で帰省したのですが、この文章にひかれていたから、自転車で帰ってみようと思ったのではないかと、今、改めて思います。

そのときは、箱根(振り返ると、いちばんしんどかった)をこえて、東海道から渥美半島の伊良湖へ行って、鳥羽にわたり、甲賀・京都・大阪経由で、神戸に向かい、淡路島を通って、四国に渡り、北岸をたどって、佐田岬半島から大分の佐賀関にわたり、宮崎から鹿児島へ帰るというルートでした。基本野宿で、夜に走ります。3週間ほどかかりました。

紀伊本線や山陰本線を通るルートで帰ったこともありました。
和歌山の尾鷲で傘を買ったら、骨が16本ありました。傘の性分で、いつの間にか、なくなってしまいましたが。

『なにが粋かよ』を久しぶりに開いてみたら、映画とは関係ないことばかり、いろいろ思い出します。

 

良い本が出た。『遊侠一匹 加藤泰の世界』。おそらく、この本を読まないような多くの庶民こそ、加藤泰の世界に内包されていたところの、人間のつらさや、やさしさ、堪えられないような苦しさ、やすらぎ、哀しさなどを感傷的に、しみじみと感じ、ある時は怒りを噴出させてきたのだと思う。(「なにか粋かよ=加藤泰の世界」)

『遊侠一匹 加藤泰の世界』の書評の書き出しです。
心からの「良い本が出た。」です。
この書評のタイトル「なにが粋かよ」が、斎藤龍鳳の本のタイトルにも選ばれています。
この『遊侠一匹 加藤泰の世界』、どこかにあるはずですが、出てきません。

 

長い雨が続いた。日暮里金美館で、マキノ雅広の『花と竜』を見た夜も、翌日、入谷朝顔市の日に大映試写室で『ああ海軍』(村山三男監督)を見た日も、浅草東映で初日の『組長』『港町ブルース』の二本立を見た日も、すべて雨が降っていた。(「あなたにあげた夜をかえして!」)

学生時代、日暮里に住んでいた時期もあったので、これらの映画館にも覚えがあります。
日暮里金美館の近くにあった稲垣書店が映画専門になる前で、何度か本を売りに行きました。
『山中貞雄作品集』の端本が結構な値段で売られていたとか、そんなことを覚えていたりします。

ずいぶん前に、日暮里金美館はなくなったようです。

 

「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」から02

▲「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」から

鈴木清順『けんかえれじい』(1970年、三一書房)の初版は、1980年ごろ、古本屋でも高い本で、手がだせませんでした。
ここに並べたのは、1991年12月発行の新装版です。
2003年に日本図書センターの「人間の記録」シリーズの1冊としても再刊されています。

北冬書房から出ていた鈴木清順の随筆集、『花地獄』(1972年)、『夢と祈禱師』(1975年)、『孤愁』(1980年)、『まちづくし』(1982年)は、どの本も好きでした。

 

鈴木清順著作01

 

    ◆   

竹中労(1928~1991)の「聞き書き」もの、『日本映画縦断』、『聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは』は、どこをとっても面白い話が引き出されています。 

竹中労の映画本にも、時々登場する、1920年~30年代に活躍した寿々喜多呂九平(1899~1960)という脚本家・映画監督がいます。
西日本新聞鹿児島支局編『さつま人物風土記』(1959年、三州談義社)によると、「入来町は芸術家が多い。まず大正期の映画監督寿々喜多呂九平、まだ無声映画時代で“雄呂血””無明地獄”などの作品をつくっている。」とあり、現在の薩摩川内市の出身のようです。
地元で、寿々喜多呂九平について書かれたものがあるのでしょうか。あれば読みたいです。

阪東妻三郎(1901~1953)をスタアにした寿々喜多呂九平脚本の剣戟作品『雄呂血』(1925年)は、正義の理想を持った若者が、世のしがらみや制度から 「無頼漢(ならずもの)」の汚名を着せられ、流転の人生につきおとされ、 追い詰められる物語。

寿々喜多呂九平も「無頼漢(ならずもの)の気風を持つ人だったのか、いわゆる七高・帝大みたいな高学歴タイプではなく、身ひとつで上京し映画の世界にもぐりこんだたたき上げタイプです。
同じように身ひとつで上京し出版の世界に入った秋朱之介(西谷操、1903~1997)と通ずるものがあります。

故郷を飛び出した青年が、映画・演劇・出版のモダニズムと巡り合う、 その川薩地方における典型的存在だったのかもしれません。

 

     

手もとにある竹中労『日本映画縦断1傾向映画の時代』(1974年、白川書院)と『日本映画縦断2異端の映像』(1975年、白川書院)は、古書店(たぶん矢口書店)で購入した裸本ですが、献呈署名のある本でした。

『日本映画縦断1傾向映画の時代』と『日本映画縦断2異端の映像』

見返しと扉に、竹中労の万年筆による署名があります。
写真では宛名はぼかしましたが、もと全共闘の医系技官に贈られた本でした。
官僚になるにあたり、整理した本だったのでしょうか。
この本を購入した1980年ごろは、どこのだれだが分かりませんでしたが、今は、ネットで検索すると、Wikiにも項目の立っている人でした。故人です。

40年が過ぎたことを感じます。

 

「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」から03

▲「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」から

ほかにも、ケネス・アンガー『ハリウッド・バビロン』、津田一郎『ザ・ロケーション』、植草甚一『映画だけしか頭になかった』、和田誠『シネマッド・ティーパーティー』なども間違いなくあるはずなのですが、どこかにまぎれこんで行方知れずです。

しかし、2021年に選ぶ100冊の映画の本だったら、どんな100選になるのでしょうか。
何が残るのでしょうか。何が新たに選ばれるのでしょう。

『ジャン・ルノワール自伝』は、2021年でも、再び選ばれるのではないかと思います。

 

「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」ちらし裏

▲「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」ちらし裏
「*蓮實重彦の本」「*山田宏一の本」「*蓮實重彦・山田宏一共著・共訳」も、1980年には余白に囲まれる慎ましい冊数でしたが、2021年版を作ったら、軽く100冊を超えて、紙面も足りないのではないのでしょうか。

 

「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」ちらし裏の本

▲「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」ちらし裏の本
当時、蓮實重彦・柴田駿監訳『ゴダール全集』(竹内書店)には手がでず、そのままになってしまいました。

 

蓮實重彦『映画の神話学』見返し署名

▲蓮實重彦『映画の神話学』(1979年、泰流社)の見返しの署名

見返しに白のマジックペンで、蓮實重彦署名があります。

そのころは谷中に住んでいたころでしょうか、ちょっと遠出して、西武渋谷店B館地下一階ブックマートの「蓮實重彦・山田宏一が選んだ100冊の映画の本」に置かれていた本だと思いますが、ほんとうにそうだったか、記憶がさだかではありません。

本屋に行くということは、書棚の配置や、歩くこと、立ち止まること、振り返ることなどとつながっていて、『映画の神話学』は、渋谷の本屋の記憶とつながっています。
記憶はおぼろですが、確か最初に行ったときに購入したのではなく、2度目に行ったときに購入したのでなかったか。

 

     

本屋と記憶というと、10代のころの鹿児島の本屋のようすや、そこをどう巡ったかも、身についた感覚として、夢の歩行のように、よみがえってくることがあります。

高校の先輩たちと画材を買いに天文館まで出たとき、春苑堂本店の雑誌の棚で見た『エピステーメー』創刊準備号。立ち読みですが、表紙を見てページを開いて、これはいったい何なんだろうと驚きました。未知との遭遇です。そのとき、このわからないものに対する先輩たちの反応は薄くて、自分が興味津々になっているものにも、心躍らない人もいるのだと悟りました。
金海堂本店の奥右手の低い位置にあった美術書の棚、「眼は未開の状態にある叢書」を何度か立ち読みして、なんとかマックス・エルンスト『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』 だけは購入したこと。
吉田書店地下の人文書コーナーは立ち寄るけど、なぜか本は買いませんでした。
春苑堂ブックプラザの3階まで階段で登って、ペーパーバックのコーナーで、バーゲンになっていた、Bentley/Farrell/Burnett ブックデザインのイブリン・ウォー(Evelyn Waugh)のペンギンブックス版を手にしたこと。

 

しばらく見ていなかった本を引っ張り出してみたら、かつての本屋に行くまでの道すじや、本屋に入ってからの棚のたどり方、お目当ての本の場所までたどりつく歩行の感覚が、まだ自分のからだに残っていて、自分でも驚きました。

でも、今は、鹿児島の書店は様変わりして、春苑堂も金海堂も吉田書店もありません。

 

     

『現代日本映画論体系④土着と近代の相克』の見返しには、鹿児島のいづろ通りにあった古書店、センバ書房のシールが貼ってありました。

センバ書房のシール

センバ書房もなつかしいです。推理小説やSFの文庫本、創元と早川でお世話になりました。

でも、センバ書房のことを覚えてるのは、もう年寄りの証明みたいなものでしょうか。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈


サントラではなく、映画にちなんだアルバムを2枚。映画の夢、夢の映画に、真正面から近づこうとするアルバムです

Rupert Holmes『Widescreen』(1974年、Epic)

▲Rupert Holmes『Widescreen』(1974年、Epic)
写真は、2001年の Fynsworth Alley 版の再発CD『Widescreen - The Collector's Edition』

1970年代の Rupert Holmes と Jeffrey Lesser の Widescreen Production ものは、「つくりもの」「書き割り」の世界だとしても、それだからこそ大好きです。

 

Clare & The Reasons『Movie』(2007年、Frog Stand Records)01

Clare & The Reasons『Movie』(2007年、Frog Stand Records)02

▲Clare & The Reasons『Movie』(2007年、Frog Stand Records)

日本盤CD(2008年、Spice Of Life)です。

 

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358. 1959年の『ロバート・ギビングスの木版画』(2021年9月29日)

1959年の『ロバート・ギビングスの木版画』表紙

 

正式なタイトルは、
『THE WOOD ENGRAVINGS OF ROBERT GIBBINGS
with some recollections by the artist
Edited by PATIENCE EMPSON
Introduction by THOMAS BALSTON』
(ペイティエンス・エンプソン編、トマス・バルストン序『ロバート・ギビングスの木版画 アーティスト自身による回想とともに』)

縦285×横225×幅38ミリ。
i~xlivページ、1~356ページ。

1940年以降、ロバート・ギビングス(Robert Gibbings、1889~1958)の木版画挿絵本の版元であった J.M.DENT & SONS の刊行。

ロバート・ギビングスの死の翌年に刊行されています。ロバート・ギビングスは、アイルランドのコーク出身。両大戦間イギリス木版画リヴァイヴァルや私家版出版の顔のような存在でした。

1924~1933年、自身が主宰したプライヴェイト・プレス、ゴールデン・コッカレル・プレス(Golden Cockerel Press)本や、1940年以降のデント社(J.M.Dent & Sons)本に収められた木版画を中心に、1913~1957年にわたる1000点を超える作品を収録しています。

ギビングスと同世代のイギリスの画家スタンレー・スペンサー(Stanley Spencer、1891~1959)も、1959年に亡くなっています。1950年代末に世代交代があったように感じます。
ロバート・ギビングスもスタンレー・スペンサーも、十分に面白い存在と思うのですが、ローカルな存在でありすぎるのでしょうか、日本でギビングスやスペンサーの素晴らしさを語る人をあまり見かけません。


『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)口絵と扉

▲『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)口絵と扉

 

『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)のページから

▲『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)のページから
ロバート・ギビングスの川をめぐるエッセイ『SWEET THAMES RUN SOFTLY』(『いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ』1940年、J.M.DENT & SONS)のための木版画から選んだもの。

エリック・ギルやロバート・ギビングスの版画を見ると、ツタやブドウ、バラなどの込み入った蔓草を多用する19世紀までの伝統的な装飾に対して、水辺にスクッと長い葉をたてる植物、アシやスイセンやハナショウブなどの細長い葉をシンプルに組み合わせるのが、20世紀前半の流儀だったのかもと思ったりします。


『SWEET THAMES RUN SOFTLY』は、七つの海を旅してきたロバート・ギビングスが、テムズ川を探ってみようと思い立ち、緑に塗装した平底の川舟「WILLOW」号をつくり、スケッチブックと顕微鏡を手にテムズ川のあちこちを旅して、土地の自然や歴史を語っていくエッセイ。
ギビングス自身の木版画も50点収められていて、 戦争の時代に倦んでいた人々の心にしみいった本だったようです。

 

この木版画と自然・歴史・民俗蘊蓄を傾けた川旅エッセイ本は人気があったようで、「River Books」と呼ばれ、7冊刊行されています。

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』(1940年、J.M.DENT & SONS)
『COMING DOWN THE WYE』(1942年、J.M.DENT & SONS)
『LOVELY IS THE LEE』(1944年、J.M.DENT & SONS)
『SWEET CORK OF THEE』(1951年、J.M.DENT & SONS)
『COMING DOWN THE SEINE』(1953年、J.M.DENT & SONS)
『TRUMPETS FROM MONTPARNASSE』(1955年、J.M.DENT & SONS)
『TILL I END MY SONG』(1957年、J.M.DENT & SONS)

『SWEET THAMES RUN SOFTLY』にはじまり、『TILL I END MY SONG』で終わることで、「SWEET THAMES RUN SOFTLY, TILL I END MY SONG(いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ、私の歌がおわるまで)」という1行の詩のなかに、7冊の本が含まれるというタイトルになっています。

「SWEET THAMES, RUN SOFTLY TILL I END MY SONG」は、T・S・エリオット(T.S. Eliot、1888~1965)の『荒地』(『The Waste Land』1922年)の詩句ということでも有名ですが、ギビングスは、「Sweete Themmes runne softly, till i end my Song」とエドマンド・スペンサー(Edmund Spencer、1552~1599)の『Prothalamin』(『祝婚前曲』1596年)からの引用ということにしています。

 

20世紀前半の英国木版画について、『BRITISH WOOD-ENGRAVED BOOK ILLUSTRATION 1904-1940』(『英国の木版挿絵本 1904~1940』1998年、Oxford University Press)という、手堅い概説書をだしているジョアンナ・セルボーン(Joanna Selborne)は、戦前のギビングスは評価しつつも、1940年以降のギビングスについては、次のように辛口の評価です。

The following summer he began exploring the Thames in a flat-bottomed boat which he designed and built in the university’s woodwork department. Exempted from active war service as a result of old war wounds, he continued to discover the river, partly on patrol in the Naval Home Guard. The outcome of these forays was the publication by Dent of Sweet Thames Run Softly in 1940 with his own text and fifty wood-engravings. It was an instant success both in England and America and led to further immensely popular books on rivers and on Ireland and the South Seas which he wrote and illustrated himself. His river book formula was always the same: small vignettes of observed scenery ― rivers, bridges, boats, flowers, birds, fishes, anglers, and other country topics. They are appealing and apposite interpretation of his anecdotal text. Sketches, a diary, and manuscript notebooks for Sweet Thames reveal extensive research and reading, with notes on birds and flowers taken from other authors. His skill at achieving such fine lines is remarkable, his task made easier by the fact that his sketches were mostly reproduced photographically on the surface of the blocks before being engraved, which accounts, perhaps, for a certain lack of spontaneity.

Gibbings believed that his compositions for the River Series were his best work to date since they were the first he had been able to work on in his own time. Yet although his assured and stylish sense of line emerges in engravings such as the kingfisher, most are more prosaic, repetitive, and craftsmanlike and fall into the traditionally British category, characterized by Bewick, of naturalistic decoration. Like Gill and Ravilious, Gibbings considered himself more a decorator than an illustrator, ‘partly’, he wrote, ‘because I find decoration the easier of the two but also because I feel that only in the rarest cases do illustrations, as such, help the text’. Unlike Gill and Ravilious, however, Gibbings failed to make a virtue of the design potential of wood-engraving in his later works, which lacked the startling originality and inventiveness of his early prints.

【試訳】
1939年の夏、ロバート・ギビングスは、製本の講座を受け持っていたレディング大学の木工部門を利用して平底のボートを設計・造船して、テムズ川の探検を始めました。 先の大戦の負傷の結果として兵役から免除されていたギビングスでしたが、海軍の国土防衛軍のパトロールとしても、川を探索し続けていました。これらの見知らぬ場所への旅の成果は、自身の手になる50の木版画と文章になって、1940年にデント(Dent)社から『いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ(Sweet Thames Run Softly)』として出版されました。この本は、イギリスとアメリカの両方で、大きな成功をおさめます。ギビングスの文章に自刻の木版画を添えた、川やアイルランド、南洋のついての本のシリーズとなって、人気を博しました。ギビングスの川の本のスタイルは、いつも同じです。川、橋、ボート、花、鳥、魚、釣り人、そして、見知らぬ田舎の話題――彼自身が観察した風景の小さな挿絵。 それらは、話題のつきることのない文章の、興味をそそり、ふさわしい解釈になっています。『いとしきテムズ川よ』のためのスケッチ、日記、および原稿のノートブックは、他の著者から取材した鳥や花に関するメモがあり、広範な調査と読書がもとになっていたことが分かります。川の本での木版画のような細かい線を刻む彼の技術には驚くべきものがあります。ほとんどのスケッチは彫刻される前に版木に写真で転写する方法をとることで彼の仕事は容易になりましたが、一方で、これは、彼の版画ののびやかさの欠如にもつながっています。

ギビングスは、「川の本」は、その構成を自分の思うままに取り組むことができた最初の本として、これまでの最高の作品であると信じていました。しかしながら、ギビングスの、確かでスタイリッシュな線の感覚は、カワセミなどの版画に現れていますが、ほとんどの版画は、より平凡で、反復的で、職人仕事のようなものになっていて、トマス・ビュイック(Thomas Bewick、1753~1828)に代表されるような、昔ながらの英国版画のカテゴリーにおさまり、博物誌的な装飾になっています。エリック・ギル(Eric Gill、1882~1940)やエリック・ラヴィリオス(Eric Ravilious、1903~1942)のように、ギビングスも自分自身をイラストレーターというよりデコレーターだと考えていました。「装飾が2つのうちで簡単だと思うこともありますが、イラスト自体がテキストに役立つのはごくまれなケースであると感じていることも理由の1つです。」と彼は書いています。しかし、ギルやラヴィリオスとは異なり、ギビングスは、彼の初期の版画にあった驚くべき独創性を失っていて、後期の作品では、木版画がもつデザインの可能性のよさを作りだすことができませんでした。

 

ジョアンナ・セルボーンの『BRITISH WOOD-ENGRAVED BOOK ILLUSTRATION 1904-1940』(1998年、Oxford University Press)は、副題に「伝統との決別(A BREAK WITH TRADITION) 」とあって、評価が埋もれがちな1904~1940年のモダニズム期のイギリス木版画ならでは表現を前景化する、前に押し出すという意図がある論考でもあるので、19世紀的なもの、トマス・ビュイックの木版画の流れにあるもの、先祖返りのような作品に評価が低めなのも、うなずけます。

ジョアンナ・セルボーンの論旨なら、1910~1930年代のギビングスを推すのが筋で、そちらの魅力がまさっているのも確かです。

一方で、 1940年以降の「川の本」は、戦前の本と比べて、万の単位で部数が出ていたため、今でも手軽に入手できるという利点もあります。

1940年代の「川の本」は、戦時下の統制経済のため材料に制約のある本づくりですが、個人的に、1950年代のイギリスの本の造りが好きなので、「川の本」も固まってしまったチーズのようなところもあるとはいえ、よいものを手にしたという気持ちになります。

 

     

『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)には、1ページ・縦253×横202ミリ、6ページの、内容見本も作られていました。
手もとにある本には、その内容見本もはさみこまれていて、うれしかったです。

 

『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)の内容見本01『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)の内容見本02

『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)の内容見本03『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)の内容見本04

▲『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)の内容見本
とても出来の良い内容見本です。この6ページだけでも濃密で、満足度は高いです。

 

     

表紙カバーには、透明な塩ビが使われ、朱でタイトルが印刷されています。

1959年の本ですが、こうしたデザインは、いつごろからはじまったのでしょう。
刊行から60年経つと、塩ビに擦り傷が目立つのが残念です。いちばんの難点は、すこし縮むことでしょうか。

 

『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)カバー

『ロバート・ギビングスの木版画』(1959年、J.M.DENT & SONS)表紙

 

     

透明なカバーに印字して、表紙と重ねて構成するデザインは、かつてはいろいろ見かけたような気もします。

PVC(ポリ塩化ビニル)やPP(ポリプロピレン)など透明な素材に印刷した、透明な本のカバーの歴史はどんなものなのでしょう。
その特性をいかした、面白いデザインもあるのですが、時間が経つと縮むのが惜しいところです。

本棚を探してみると、1970年代のユリイカ叢書もそうでした。

 

印刷された透明カバーの『アナクロニズム』と『錬金術 タロットと愚者の旅』

▲印刷された透明カバーの『アナクロニズム』と『錬金術 タロットと愚者の旅』
高さ203ミリのものが194ミリに縮んでいます。

 

『錬金術 タロットと愚者の旅』(初版1972年、7版1980年)カバーと表紙

▲R・ベルヌーリ・著 種村季弘・訳論『錬金術 タロットと愚者の旅』(初版1972年、7版1980年)カバーと表紙

 

『アナクロニズム』(初版1973年、5版1977年、青土社) カバーと表紙

▲種村季弘『アナクロニズム』(初版1973年、5版1977年、青土社) カバーと表紙

 

     

戦前は3冊ほどに挿絵を提供した程度の関係でしたが、1940年の『Sweet Thames Run Softly』以降、ロバート・ギビングスの著作は、ほとんど J.M.DENT & SONS から発行・再刊されています。

デント社との関係も良好だったのでしょう。亡くなって4年後の1962年に、しっかりした書誌本もでています。

 

『ROBERT GIBBINGS A Bibliography』(1962年、J.M.DENT & SONS)

▲A.Mary Kirkus, Patience Empson and John Harris『ROBERT GIBBINGS  A Bibliography』(1962年、J.M.DENT & SONS)カバー(ダストラッパー)
縦221×横145×幅19ミリ。i~xiiiページ、1~170ページ。

 

『ROBERT GIBBINGS A Bibliography』(1962年、J.M.DENT & SONS) 表紙

▲A.Mary Kirkus, Patience Empson and John Harris『ROBERT GIBBINGS  A Bibliography』(1962年、J.M.DENT & SONS)表紙

川や海といった水を主題とした作品が多かったので、表紙に青が選ばれたのでしょうか。
戦前にほかの出版社から刊行されていた海洋ものも、戦後、デント社から再刊されています。

 

『ROBERT GIBBINGS A Bibliography』(1962年、J.M.DENT & SONS) 口絵と扉

▲A.Mary Kirkus, Patience Empson and John Harris『ROBERT GIBBINGS  A Bibliography』(1962年、J.M.DENT & SONS) 口絵と扉

 

     

日本で翻訳された、ロバート・ギビングスの木版挿絵の入った本といえば、岩波少年文庫の『キュリー夫人』ぐらいしか見当たりません。
ほかに、思わぬかたちで、翻訳・翻案されていたりするのでしょうか。

 

エリナー・ドーリイ作 光吉夏弥訳『キュリー夫人』カバー

▲エリナー・ドーリイ作 光吉夏弥訳『キュリー夫人』(第1刷1974年、第1刷1991年、岩波少年文庫)カバー

 

エリナー・ドーリイ作 光吉夏弥訳『キュリー夫人』

▲エリナー・ドーリイ作 光吉夏弥訳『キュリー夫人』(第1刷1974年、第1刷1991年、岩波少年文庫)目次

「さし絵 ロバート・ギビングス」

光吉夏弥の訳者あとがきには、「さし絵をかいたロバート・ギビングスは、イギリスのもっともすぐれた木版画家のひとりで、ドーリイの三つの伝記はすべてこの人の絵で飾られていますが、その端正な、深みのある黒と白の木版画は、こうした伝記にふさわしい落ち着いたムードを添えています。」と書かれています。

ギビングスが木版挿絵をかいたドーリイの三つの伝記は次の3作。

Eleanor Doorly『THE INSECT MAN』(『昆虫の男』1936年、W.HEFFER & SONS)
Eleanor Doorly『THE MICROBE MAN』(『細菌の男』1938年、W.HEFFER & SONS)
Eleanor Doorly『THE RADIUM WOMAN』(『ラジウムの女』1939年、WILLIAM HEINEMANN)

ファーブル、パストゥール、キュリーと、科学者3人、子供のための伝記です。

 

エリナー・ドーリイ作 光吉夏弥訳『キュリー夫人』

▲エリナー・ドーリイ作 光吉夏弥訳『キュリー夫人』(第1刷1974年、第1刷1991年、岩波少年文庫)のページ

こういう挿絵は、ロバート・ギビングスの水にちなんだ本とつながっています。

 

     

エリナー・ドーリイ『キュリー夫人』の原題は、『THE RADIUM WOMAN(ラジウム・ウーマン)』でした。

『ラジウム・ガールズ(RADIUM GIRLS)』という作品もありました。

プロジェクト・アンダーク(Phew、小林エリカ)の作品で、音楽はディーター・メビウス(Dieter Moebius、1944~2015)。
「声」として、Phew、小林エリカ、アチコ、後藤まりこ、飴屋くるみ、コロスケが、クレジットされています。

小林エリカのコミック『光のこども』、小説『マダム・キュリーと朝食を』へとつながっています。

 

『RADIUM Girls 2011』(2012年、P-VINE) 01

『RADIUM Girls 2011』(2012年、P-VINE) 02

▲Project UNDARK(Phew, Erika Kobayashi)Music by Dieter Moebius『RADIUM Girls 2011』(2012年、P-VINE)

1917年、アメリカ、ニュージャージー州のラジウム工場で、被爆した5人の女子工員を主題にした音楽作品です。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

『ロバート・ギビングスの木版画』は、1959年に刊行された本でした。

その1959年に生まれたミュージシャンたちが。「1959」と冠したアルバムをつくっています。

SOGGY CHEERIOS『1959』(2013年、P-VINE) 01

SOGGY CHEERIOS『1959』(2013年、P-VINE) 02

SOGGY CHEERIOS『1959』(2013年、P-VINE) 03

▲SOGGY CHEERIOS『1959』(2013年、P-VINE)
1959年生まれの鈴木惣一朗と直枝政広のデュオ。

 

SHORO CLUB『from 1959』(2017年、地底レコード)01

SHORO CLUB『from 1959』(2017年、地底レコード)02

▲SHORO CLUB『from 1959』(2017年、地底レコード)
ショーロクラブではなく、ショロークラブ。
1959年生まれの芳垣安洋、大友良英、不破大輔のトリオ。
ゲストの山本精一は1958年生。

1959年生まれだけでも、すごいバンドが組めそうです。

 

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357. 1949年の『パタフィジック万年暦』(2021年9月7日)

1949年の『パタフィジック万年暦』

 

カレンダーを見ると、今日は9月7日です。
ということは、アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry、1873年9月8日~1907年11月1日)の誕生日にはじまるパタフィジックの暦(CALENDRIER 'PATAPHYSIQUE)では、大晦日になります。

西暦2021年9月7日は、パタフィジック暦では、148年PHALLE(13月)28日。
西暦2021年9月8日は、パタフィジック暦では、149年ABSOLU(1月)1日。
新年の元旦になります。

パタフィジックの信奉者には、「よいお年を」「謹賀新年」です。
来年は150年という、きりのいい年になります。

 

写真のものは、オリジナル版ではなく、ATLAS PRESSで、ロンドン・パタフィジック協会の本を購入したら、おまけについてきたもの。
フランスの1971年版をもとにしているようです。

表紙に「Calendrier Patphysiqve Perpetvel」とあります。ややこしいですが、ここでの「v」は「u」です。


縦148×横105ミリ。文庫本サイズ。表紙を含めて16ページ。ステープル綴じの小冊子です。

 

ロンドン・パタフィジック協会版『パタフィジック万年暦』

▲ロンドン・パタフィジック協会版『パタフィジック万年暦』(Calendrier Patphysique Perpetuel)の刊記

「I ABSOLU 147」とあるので、西暦2019年9月8日の刊行。
ATLAS PRESSで、ロンドン・パタフィジック協会の本を購入したら、おまけについてきました。

「CALENDRIER 'PATAPHYSIQUE」(パタフィジック暦)は、「college-de-pataphysique.org/」のサイトなどでも、PDFをダウンロードできます。

 

ジャリの暦は、『L'Almanach du Père Ubu, illustré』 (『ユビュ親父の年誌、絵付』1899年、Fasquelle)に1月から3月、『L'Almanach illustré du Père Ubu』(『ユビュ親父の絵付年誌 1901年版』(1901年、Fasquelle)に1月から12月と、もとになるものが発表されています。2冊ともフランス国立図書館(BnF)のサイトからPDFをダウンロードすることができます。

それらは今の形のものではなく、今の形のものは、1948年に結成された、パタフィジシャンのグループ、コレージュ・ド・パタフィジック(Collège de ’Pataphysique)で策定された、パタフィジック万年暦(Calendrier Patphysique Perpetuel)です。

パタフィジック万年暦のフランス版の印刷物は、1949年に初版、1951年に第2版、1955年に第3版が出て、1971年の第4版が、2019年のロンドン版のもとになっているようです。
初版には日本紙が使われているようです。20世紀の本における日本の紙のブランド力も感じます。

 

万年暦なので、毎年使える、便利な暦です。
毎月28日が基本で、1年が13か月、毎月13日がまちがいなく金曜日になる暦です。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Kate St John『Second Sight』(1997年)のアナログ盤01

Kate St John『Second Sight』(1997年)のアナログ盤02

Kate St John『Second Sight』(1997年)のアナログ盤が、アメリカの Curious Music というレーベルから2018年に出ていて、売り切れかなと思っていたら、まだレーベルのサイトで直接入手することができました。
Curious Musicというレーベルは初めて知ったのですが、Dieter MoebiusやHans-Joachim Roedeliusの作品も出していて、いろいろ気になるレーベルです。

45回転の12インチ盤2枚組。
透明な盤で、音も美しいです。
リマスタリングは Tim Story 。メンフィスのMemphis Record Pressing でプレスされています。
この英国の音楽が、メンフィスでプレスされているということにも、世界の思いがけないつながりを感じます。

最初のアルバム『Indescribable Night』(1995年)も、アナログ盤があったら、と思うばかり。

 

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356. 1982年の Ant On E『THE MOUTH』(2021年8月29日)

1982年の Ant On E の『THE MOUTH』表ジャケット

 

謎の7インチ・シングル盤「THE MOUTH」を入手。
ちょっと小躍り。

ジャケットには、「To Andy Cameron Love form Flagface」「Available thru Pinnacle」と赤ペンの書き込みがあります。
「Flagface」さんから「Andy Cameron」さんに贈られたもののようです。
「Pinnacle」は、英インディーズ系レコードの配給最大手。 プロモーション用でしょうか。

アーティスト名や演奏者、プロデューサー、ジャケットのデザイナーなどのクレジットはありません。

レコードのラベルによると、レーベルは、Sheet Records。レコード番号は「BULL 4」 。
レコード番号「BULL 3」は、マイケル・ナイマン(Michael Nyman)の7インチ・シングルだったりします。

「face I」収録の「THE MOUTH」のコピーライトに、©1980 BLACKHILL MUSIC ©1980 Sheet Records。
「face II」収録の「viva Escocia! 」(FLAGFACE)のコピーライトは、©Caerts, Sonet。

この1982年に出たと思われるシングル盤の存在は、40年近く、まったく知らなかったのですが、3年ぐらい前、discogsに掲載されて、アンソニー・ムーア(Anthony Moore)のディスコグラフィーに加えられていました。

シングルのジャケットのイラストは、たぶん、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)ではないかと思われます。

存在を知ってからずっと気になっていたのですが、やっと入手することができました。

 

表ジャケット上部の、ant(アリ)+On+音符のEで「Ant On E」(アントニー)、 下部の文章中に「more」とあることで、アントニー・モア、と読読み解けるようです。

discogsのコメント欄に、スイスのレックレックレコードの人が、1982年8月に、アンソニー・ムーアとピーター・ブレグヴァドにインタビューしたとき、このシングル盤をプレゼントされ、「ant(アリ)+On+音符のE」の絵解きをしてもらったと書き込んでいました。

 

表ジャケット中央の絵は、19世紀末、フランスの医師 Marage が発明した「I」「E」「A」「O」「OU」の母音を人が喋るように話す機械を写したもの。元の図版はモノクロですから、色づけは、ブレグヴァドでしょうか。

 

ジャケット下部の “To whom it may concern; The more you talk you earn.”(担当者様;話せば話すほど、君は稼ぐ。 )が何を意味しているのかは不明。
少なくとも、アンソニー・ムーア(Anthony Moore)が1980年ごろ名乗っていた「o」を一つ減らした「more」は含んでいます。

 

裏ジャケットも謎です。

Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)裏ジャケット

▲Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)裏ジャケット

それぞれの国旗の右側は人の横顔になっています。
これは、国民性のイメージなのか、具体的なミュージシャンの顔だったりするのでしょうか。

右下に「'82」とあります。
この1982年は、サッカーワールドカップ1982スペイン大会の年で、Escocia(Scotland)も参加しています。
face II の「 viva Escocia!」は、それにちなんだジャケットのようです。
ただ、4つの国のうち、イングランド、スコットランド、スペインは、1982年のワールドカップに出場していますが、ウガンダはワールドカップ出場はまだありません。ただ1970年代後半、アフリカでは強豪だった時期があったようです。
【2021年9月3日追記】左上の旗は連合王国の旗なので、「イングランド」ではありません。ワールドカップに連合王国が出場したことはありません。

ワールドカップ1982スペイン大会は、1982年6月13日から7月11日にかけて開催されていますので、このレコードのリリース時期が分かれば、そのつながりがより明確になりそうです。

ワールドカップに便乗したレコードの気配がありますが、とにかく、謎の多いシングルです。

 

横顔といえば、アンソニー・ムーア(Anthony More)のアルバム『The Only Choice』(1984年、Parlophone)の内袋 に描かれた、マルセル・デュシャン「プロフィール用の自画像」(1957年)風の横顔シルエットともつながりがありそうです。

 

Anthony More『The Only Choice』(1984年、Parlophone)内袋の横顔

▲Anthony More『The Only Choice』(1984年、Parlophone)内袋の横顔シルエット

 

Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)裏ジャケットのサイン拡大

▲Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)裏ジャケットのサイン拡大

ここに「PB」とサインがあれば、間違いなくPeter Blegvad の作と言えるのですが、これらのサインは何を意味しているのでしょうか? 
1982年ということ以外、読み解けません。

たぶん、本人たちに聞かないかぎり、このシングル盤のジャケット両面の絵解きは難しそうです。

 

【2023年1月23日追記】

この「THE MOUTH」というレコードは謎だらけなのですが、その謎のひとつ、ジャケットでは音符は「E」なのにラベルでは「F」なのは何故なのかを、大阪フォーエヴァー・レコードの東瀬戸悟さんが、アンソニー・ムーアに直接メールで尋ねたところ、単純なミスではないか、という答えだったそうです。

しかし、東瀬戸さんへのアンソニー・ムーアの返事には、それ以上にびっくりする謎解きがありました。
ジャケットの絵やレタリングは、ナイジェル・コーク(Nigel Coke)というグラフィック・デザイナーがピーター・ブレグヴァドのスタイルをそっくり真似て描いたものだというのです。
確かに、上のサインは、「N」と「C」を組み合わせたもので、Nigel Cokeの頭文字です。

ナイジェル・コーク(Nigel Coke)という人物のことは、全く把握していませんでした。
調べてみると、Anthony More『Only Choice』(1984年、Parlophone)のインナースリーヴ写真のクレジットが、ナイジェル・コーク(Nigel Coke)でした。そして、「ART DIRECTION NC FOR AdCo」とあります。この「NC」はナイジェル・コークなのでしょう。インナースリーヴ横顔シルエットのアイデアもナイジェル・コークであれば、「THE MOUTH」の裏ジャケットの4つの旗の右側の横顔ともつながります。

この第356回は、ジャケットの絵やレタリングはブレグヴァドの手になるものという前提で書かれていますが、2021年の認識を残すことにして、そのことに関して修正はしません。ブレグヴァドのスタイルを真似て別人が描いたものということを含んで、お読みください。


Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)ラベル01

▲Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)face I ラベル

face I の「THE MOUTH」は、1980年とクレジットされていますから、Anthony Moreと名乗っていた時期の『Flying Doesn't Help』(1979年、 Quango)と『World Service』(1981年、 Do It Records)の間です。

曲は「THE MOUTH」というだけあって、楽器は使わず、声だけで構成されています。
アンソニー・ムーアの『Pieces From The Cloudland Ballroom』(1971年、Polydor) 収録の「Jam Jem Jim Jom Jum」の系統の作品ともいえます。

現代音楽的な反復というよりポップ寄りではありますが、ヒットをねらうシングル盤にふさわしい曲かはちょっと疑問です。

そもそも、どういう経緯でこのシングル盤がリリースされることになったのか?

 

Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)02

▲Ant On E「THE MOUTH / viva Escocia!」(1982年、Sheet Records、BULL4)face II

ラベルで見ると、曲名が「viva Escocia!」、その下に(FLAGFACE)とあるので、「FLAGFACE」は作曲者、あるいは演奏者と考えられます。

「viva Escocia! 」は、3部構成になっていて、導入部は短いけれど、アンソニー・ムーアらしいドローン系の音。
終結部は、アンソニー・ムーアの反復音楽作品『Secrets Of The Blue Bag』(1972年、Polydor)の録音をそのまま使用していて、このシングル盤に、アンソニー・ムーアが関わっていることが分かります。

問題は中間部。ビートの利いたバンド編成で、当時のAnthony Moreの音に連なるものですが、歌っているのが、アンソニー・ムーアでもピータ・ブレグヴァドでもなく、酔ったようながなり声で歌うおじさん。
このシングル周辺では知られた人物だったのかもしれませんが、何者なのか、全くわかりません。

曲には聞き覚えがありました。
コピーライトにあった、「Caerts」を手がかりに調べてみると、ベルギーの Leo Caerts が作曲した、疑似スペイン風歌曲「Y Viva España」(1971年)の替え歌のようです。

「Y Viva España」は、1970年代、ヨーロッパ中でカヴァーされていて、 太陽の国スペインへの安いパッケージツアーの象徴のような曲でした。

おじさんのがなり声で歌う替え歌を、よく聴き取れないのが残念ですが、スコットランドの試合を見に太陽の国スペインに行くと歌っています。
ただ、曲のオチは、スコットランド人の憂欝的な終わり方をしているようです。

 

表ジャケットに献呈の名前を書かれた「Andy Cameron」氏が何者かは確定できないのですが、1978年のサッカーワールドカップで、スコットランドの応援歌として大ヒットした「Ally's Tartan Army」を出したのが、Andy Cameronというスコットランドのコメディアンでした。

その「Andy Cameron」 氏に、「Flagface」が贈ったものとも考えられます。

そういう意味では、サッカーワールドカップに便乗した、二匹目のドジョウをねらった作品だったのかもしれません。

とは言え、アンソニー・ムーアとピータ・ブレグヴァドとスコットランドのサッカーという結びつきは、謎だらけですし、「ヒット」への意志が極めて薄いシングル盤です。

 

ジャケットに「love from Flagface」と書いたのが、アンドニー・ムーアならうれしいのですが、「Flagface」が何者か、正直なところ、分かりません。

 

実際に聴いてみて思ったのですが、これがシングルとしてリリースされたことが、最大の謎かも知れません。

珍なる盤です。

 

     

「THE MOUTH」のジャケットのレタリングは、Peter Blegvadの手になるものに見えます。

書体の比較のため、同時期にピーター・ブレグヴァドがジャケットの絵とレタリングを手掛けた、Slapp Happy と Dave Stewart & Barbara Gaskin の7インチシングル盤を並べてみます。

 

Slapp Happy「Everybody's Slimmin' / Even Men & Women!」(1983年、Half-Cat Records) 01

Slapp Happy「Everybody's Slimmin' / Even Men & Women!」(1983年、Half-Cat Records) 02

Slapp Happy「Everybody's Slimmin' / Even Men & Women!」(1983年、Half-Cat Records)03

Slapp Happy「Everybody's Slimmin' / Even Men & Women!」(1983年、Half-Cat Records)04

▲Slapp Happy「Everybody's Slimmin' / Even Men & Women!」(1983年、Half-Cat Records)

Half-Cat Recordsは、このシングル盤1枚しかないレーベルです。
ラベルに描かれた猫は、AサイドとBサイドで、クラインの壷のようにつながっているのでしょう。

 

Dave Stewart & Barbara Gaskin「Leipzig」(1983年、Broken Records) 01

Dave Stewart & Barbara Gaskin「Leipzig」(1983年、Broken Records) 02

▲Dave Stewart & Barbara Gaskin「Leipzig」(1983年、Broken Records)

Lettering & Map by Peter Blegvad(Amateur Enterprises)

 

     

「THE MOUTH」がどんなシングル盤かというと、「Alcohol」の兄弟のような盤という感じもしました。
「Alcohol」も変わり者でした。

Peter Blegvad の 7インチ盤「Alcohol」(1981年、Recommended Records) のジャケットも、ブレグヴァドによるものでした。

 

Peter Blegvad「Alcohol」(1981年、Recommended Records)01

Peter Blegvad「Alcohol」(1981年、Recommended Records)

ジャケット裏に、たくさんのコップが描かれています。ミルクの入ったコップは、ピーター・ブレグヴァドのシンボルで、現在も使われています。

言ってみれば、自分の名前はたくさん書いているようなもので、ちょっと危ういふるまいにも受け取られかねません。
魂がさまよい堂々巡りをする時期だったのでしょうか。

 

Peter Blegvad「Alcohol」(1981年、Recommended Records)03

▲Peter Blegvad「Alcohol」(1981年、Recommended Records)のラベル

 

Peter Blegvad「Alcohol」(1981年、Recommended Records)04

音楽が収録されているのは、片面だけ。内袋に「On No Account Attempt To Play Side 2 Of This Disk」(決してこの盤のサイド2を再生しようとしないでください)と注意書きがあります。

 

Peter Blegvad「Alcohol」(1981年、Recommended Records)05


Side B の盤面には、ブドウの蔓が刻まれています。

歌は酔っていますが、盤面は美しいです。

 

     

日は差すようにとげとげしく、厳しい残暑が続きます。
それでも、鶴丸城の蓮花の終わりや、あちこちに秋の気配を感じます。

 

鶴丸城の蓮花01

鶴丸城の蓮花02

鶴丸城の蓮花03

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』01

Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』02

▲Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』(2021年、APE) 12インチアナログ盤。
「成功しなかった私の作曲キャリア」という日本語が目立つ、アンディ・パートリッジの新譜。
他のアーチストから作曲を依頼され提供したものの、ボツになったものを集めたレコード。
デザインは、Andrew Swainson。
Hik Sasakiという人が、日本語訳をやっているようです。

「Ghost Train(幽霊機関車)」 「Great Day(素晴らしい日)」 「Maid Of Stars(星のメイド)」 「The Mating Dance(求婚ダンス)」の4曲を収録。

 

Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』03

Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』04

▲Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』(2021年、APE) 12インチアナログ盤ラベル。

ラベルでは「2. 星のメイド GREAT DAY」「3. 素晴らしい日 Maid Of Stars」となっているところが、ご愛敬。
「成功しなかった」というタイトルにふさわしい間違いというか。

 

Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』(2021年、APE) CD

▲Andy Partridge『My Failed Songwriting Career(Volume 1)』(2021年、APE) CD

ボツ曲にして、この上質な仕上がり。
「Volume 1」とあるので、続きもあるのでしょうか。

 

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355. 2003年の佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本』(2021年8月16日)

2003年の佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本』表紙

 

書肆ひやねの比屋根英夫さんが亡くなっていたことを知りました。
大久保文香さんが、秋朱之介のことも取り上げている中原中也記念館「書物の在る処」展のパンフレットを比屋根さんに送ろうと連絡したら、昨年の5月に亡くなられていた、ということでした。

比屋根さんには、秋朱之介(西谷操、1903~1997)や高橋輝雄(1913~2002)について、何度かお話をうかがう機会がありました。
わたしのとんちんかんな質問にも丁寧に対応して下さり、書物にまつわる話題の豊かさに、もっとお話を聞きたいと思っていました。
しばらく連絡もしないでいましたら、今ごろになって訃報を知りました。
遅くなりましたが、ご冥福をお祈りいたしましす。

秋朱之介については、いろいろお世話になりました。ありがとうございました。

 

写真の佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本・北園克衛を中心に』は、比屋根さんに秋朱之介についてのお話をうかがっていたとき、佐々木桔梗の話題になり、「この本、進呈しますよ」と比屋根さんからいただいたものです。

 

限定300部。
2003年11月1日発行
発行 書肆ひやね

作者が絵を描き込んだ一点ものの本を集めた、 収集家の夢がつくったようなカタログです。
図版が小さいので、それぞれの本を手にした者だけが見ることができるものは隠されたままです。
そういう意味では意地悪な本です。

表紙をまくカヴァーに、半透明のグラシン紙が使われていて、差し込まれたカードによれば、薄黄色のもののほかに赤色のものがあり、30部限定の特装本もあったようです。

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)著者署名

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)著者署名
PBは、プレス・ブブリオマーヌの頭文字。

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)目次

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)目次

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第一章冒頭

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第一章冒頭
「第一章 装幀家としての北園克衛」

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第二章冒頭

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第二章冒頭
「第二章 戦後の北園克衛」

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第三章冒頭

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第三章冒頭
「第三章 日本の肉筆絵入本」

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第四章冒頭

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)第四章冒頭
「第四章 愛書家の夢の軌跡」

 

佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)

▲佐々木桔梗『日本の肉筆絵入本 北園克衛を中心に』(2003年、書肆ひやね)奥付

 

 

『これくしょん 29 追悼・今村秀太郎』(通巻202号、1994年、吾八書房)

▲『これくしょん 29 追悼・今村秀太郎』(通巻202号、1994年、吾八書房)
比屋根さんに、吾八の今村秀太郎の話を尋ねましたら、今村さんのことを書いたものは見かけないと言いながら、この本を下さいました。

 

     

岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1991年、荻生書房)は、書肆ひやねで買い求めました。

この本については、「第237回 1992年の岡澤貞行『日々是趣味のひと』(2018年6月22日)」でも書いています。

鹿児島の小桜定徳と滋賀の高橋輝雄の交流をまとめた『SWALLOW-DALE 06:小桜定徳旧蔵の高橋輝雄木版詩集』(2017年)を、比屋根さんにお送りしたら、鹿児島と高橋輝雄のつながりがあったことに驚いて、喜んで下さいました。

のちに、比屋根さんから、高橋輝雄『遊ぶ蔵書票集』(書肆ひやね)などを見せてもらいながら、高橋輝雄(比屋根さんは「和尚」とよんでいました)の人がら、優游の会の面々と年に一度、滋賀の曾束詣ですることが楽しみだったことなど、お話を聞くことができました。

このときは、比屋根さんと同世代の大久保文香さんも一緒で、楽しい時間でした。
お会いしたのは、このときが最後でした。

 

岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1991年、荻生書房)の扉

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1991年、荻生書房)の扉

 

     岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1991年、荻生書房)の目次から

▲岡澤貞行『日々是趣味のひと』(1991年、荻生書房)の目次から
目次で、このサイトで何度も取り上げている秋朱之介と高橋輝雄の名前が並んでいます。
その仕事に、遅れて気づいたわけです。

本の後半は追悼文集になっています。

高橋輝雄の「野薊」で、

わたしの書票集の企画のときも、わたしはそばで感心して眺めているばかりでした。そのあと、秋朱之介著『書物游記』(書肆ひやね刊)の荻生孝氏の刊行縁起を読んで、岡澤さんの面目の一端を知ることができました。

秋朱之介の存在を、書肆ひやねを介して、知っていたことがわかります。

 

比屋根英夫さんも寄稿していて、『書物游記』について比屋根さんの視点で書いています。

 (岡澤氏から)ある時、秋朱之介氏の原稿を見せられた。著者名が「西谷 操」となっているので、「この方はまだご存命なのですか」などと聞いてしまった。実は家の近くの本牧におられて、大変お元気で、現在は書物(出版)の世界から離れ、横浜の議会関係の新聞をやっておられるとの事、早速原稿を拝見すると、内容が大変おもしろい、棟方志功の事、堀口大學の事、山本周五郎の事、江間章子の事、又戦前の愛書界の事、これは是非一本にまとめたいと私も安請合いをしてしまった。
 しかし、それからが大変であった。店の方も結構忙がしく、これは一人で出来る事ではないと、早速友人の森孝一君、鹿鳴荘の伊藤満雄氏に相談して、編集その他の協力方をお願いした。幸いお二人共心良く引き受けてくれた。
 その後は、岡澤さんは元より愛書家の諸先輩の方々にもお願いして資料をお借りしたり、座談会をしていただいたり、秋さんをお訪ねしていろいろ取材sあせていただくなど、総て岡澤さんが率先して諸先輩の方々と共に協力して下さった。
 内容、期間共、大幅に当初の予定をオーバーしながら、ようやく昭和六十三年秋口に『書物游記』として上梓された。
 秋さんに署名をいただく為に本牧のお宅に岡澤さん共々お邪魔した時の秋さん、岡澤さんの上機嫌だった事、又その数日後横浜のホテルでささやかな、しかし大変なごやかな出版記念会があり、この関での岡澤さんのあの笑顔が今でも忘れられない。

森孝一(荻生孝)さん、伊藤満雄さんの語る秋朱之介についての話も読んでみたいです。

 

高橋輝雄作・比屋根英夫書票

▲高橋輝雄作・比屋根英夫書票「今年の春も暮れにけるかも」
これはいただいたものでなく、書票を置いていた書店で見かけて、入手したものです。

 

吾八時代の話、優游の会の話、収集家の話、取り扱った本や絵の話、峯村幸造さんが入手した『棟方志功版画集 季節の花籠』(裳鳥会)が失われた話、曽束詣での話など、比屋根さんのお話をもっと、きちんと聞きたかったです。
聞き書きが残されていたら、本好きは、わくわくして読むはずです。

ご冥福をお祈りいたします。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

2枚しかリリースされていませんけど、ジョセフ・ラカイユ(Joseph Racaille、ZNRの人です)がプロデュースしたケイト・セント・ジョン(Kate St John)のアルバムは、どちらも存在してくれてありがとうと思えるアルバムです。

 

Kate St John『Indescribable Night』(1995年、All Saints)日本盤CD

▲Kate St John『Indescribable Night』(1995年、All Saints)日本盤CD
「Paris Skies」でアコーディオンの音色が生み出すチープな感傷は、「軽音楽」の醍醐味です。


Kate St John『Second Sight』(1997年、 Paradise Island)日本盤CD

▲Kate St John『Second Sight』(1997年、 Paradise Island)日本盤CD
これもまた「Gardens Where We Feel Secure」で奏でられている音楽か。
小宇宙のなかに完結している、美しい音楽。

90年代のCDなので、アナログ盤は出ていませんが、『Second Sight』のほうは、2018年にアナログ盤で再発されたようです。気になります。

 

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354. 2009年~2019年の The Laurence Sterne Trust 企画展箱(2021年8月15日)

354. 2009年~2019年の The Laurence Sterne Trust 企画展箱4つ

 

18世紀英国の小説家ローレンス・スターン(Laurence Sterne、1713~1768)が暮らした、ヨークシャー・コクスウォルド(Coxwold)のシャンディ・ホール(Shandy Hall)は、現在ローレンス・スターンの記念館になっており、ローレンス・スターン・トラスト(Laurence Sterne Trust)が管理しています。

そこでは、ローレンス・スターンの小説『トリストラム・シャンディ(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)』(1760~1767年)のページをモチーフにして、現代の作家に作品を依頼した展覧会が企画されて、その作品のカードにして、箱に収めたカタログが作られています。
現在、手もとに、次の4箱があります。

2009年「The Black Page(黒いページ)」展 73作品
(第1巻第12章と第13章の間の黒いページ、初版では73ページ)
2011年「THE EMBLEM OF MY WORK(自作の象徴)」展 170作品
(第3巻第36章のマーブル紙。初版では169ページ)
2018年「Paint Her To Your Own Mind(夢の女性を心のままに描いて下さい)」展 147作品
(第6巻第38章の白紙ページ。初版では147ページ)
2019年「The Flourish Of Liberty(自由の身ぶり)」展 103作品
(第9巻第4章。初版では17ページ。これまでは初版のページと作品数を合わせていましたが、この回は例外)

 

2009年の「The Black Page」展と2011年の「THE EMBLEM OF MY WORK」展については、「第202回 2011年の『Emblem of My Work』展カタログ(2017年4月3日)」でも簡単に触れましたが、その後、2018年の「Paint Her To Your Own Mind」展と2019年の「The Flourish Of Liberty」展の箱も手にすることができました。

地方の独立採算の記念館ゆえ、予算も潤沢とはいえないようで、「Paint Her To Your Own Mind」展と「The Flourish Of Liberty」展の外箱は、出来合いのものが使われているのが、ちょっと残念ですが、作品を箱に収めるというスタイルは大好きなので、それぞれ自分でふさわしい箱を自作して用意するのもよいかもしれません。

それぞれの企画展に提供された作品は、 Laurence Sterne Trust のWEBサイトのリンクから全作品を見ることができます。

 

2018年「Paint Her To Your Own Mind」展カタログの箱

▲2018年「Paint Her To Your Own Mind」展カタログの箱

 

2018年「Paint Her To Your Own Mind」展のカード

▲2018年「Paint Her To Your Own Mind」展のカード
200箱限定。

 

2018年「Paint Her To Your Own Mind」展カタログの内容

▲2018年「Paint Her To Your Own Mind」展カタログの内容

 

2019年「The Flourish Of Liberty」展カタログの箱

▲2019年「The Flourish Of Liberty」展カタログの箱

 

2019年「The Flourish Of Liberty」展のカード

▲2019年「The Flourish Of Liberty」展のカード
150箱限定。

 

2019年「The Flourish Of Liberty」展カタログの内容

▲2019年「The Flourish Of Liberty」展カタログの内容

 

Shandy Hall 版『感傷旅行(A Sentmental Journey)』表紙

▲Shandy Hall 版『感傷旅行(A Sentmental Journey)』(2018年、初版は1768年)表紙

 

Shandy Hall 版『感傷旅行(A Sentmental Journey)』奥付

▲Shandy Hall 版『感傷旅行(A Sentmental Journey)』(2018年)奥付
文学館が、自分が専門とする作家の本を、自分の所から出せるのは素敵です。
マーティン・ロウソン(Martin Rowson)の装画。
ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)の本でおなじみのuniformbooksのデザイン。

 

マーティン・ロウソンは、『トリストラム・シャンディ』を漫画化するという、無謀とも思える試みにチャレンジしていた人です。
これもまた奇書です。

コミック版『トリストラム・シャンディ』表紙

▲コミック版『トリストラム・シャンディ』表紙
Martin Rowson『The Lofe and Opinions of TRSTRAM SHANDY, GENTLEMAN』(1996年、PICADOR)


コミック版『▲コミック版『トリストラム・シャンディ』』の黒いページ

▲コミック版『▲コミック版『トリストラム・シャンディ』』の黒いページ

 

     

特定の版でなければ暗号は解けないのに、別の版を使うというのはナンセンスというほかなく、企画展で「数」を決めるに当たって、そのページを典拠とした初版でなければ参考にならないのですが、手もとにある『トリストラム・シャンディ』から企画展のもとになったページを抜き出してみます。

 

手もとにある『トリストラム・シャンディ』の英語版は、ジョン・ローレンス(John Lawrence)の装画が入った1970年のフォリオ・ソサエティ版です。

 

『トリストラム・シャンディ』のページから「The Black Page」

▲『トリストラム・シャンディ』のページから「The Black Page」
第1巻第12章と第13章の間の黒いページ

 

『トリストラム・シャンディ』のページから「THE EMBLEM OF MY WORK」

▲『トリストラム・シャンディ』のページから「THE EMBLEM OF MY WORK」
第3巻第36章

 

『トリストラム・シャンディ』のページから「Paint Her To Your Own Mind」01

『トリストラム・シャンディ』のページから「Paint Her To Your Own Mind」02

▲『トリストラム・シャンディ』のページから「Paint Her To Your Own Mind」
第6巻第38章から。

To conceive this tight, ― call for pen and ink ― here’s paper ready to your hand. ― Sit down, Sir, paint her to your own mind ― as like your mistress as you can ― as unlike your wife as your conscience will let you ― ‘tis all one to me ― please but your own fancy in it.

このことを正しく認識していただくために――どうぞペンとインクをとりよせて下さい――紙はお手もとに用意してあります。――そこでどうぞお席におつきになって、この女性の姿をお心のままにここに描いてみて下さい――できるだけあなたの恋人に似せてでも――奥さんにはあなたの両親をゆるがすかぎり似せないようにでも――それはどっちだって私はかまいませんが――ただあなたの空想だけは満足させて上げて下さい。(朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1969年)

 

『トリストラム・シャンディ』のページから「The Flourish Of Liberty」

▲『トリストラム・シャンディ』のページから「The Flourish Of Liberty」
第9巻第4章から。

 Nothing, continued the corporal, can be so sad as confinement for life ― or so sweet, an’ please your honour, as liberty.
 Nothing, Trim ― said my uncle Toby, musing ―
 Whilst a man is free, ― cried the corporal, giving a flourish with his stick thus ―

 世の中に、伍長はつづけました。生涯捕われの身になってしまうくらい悲しいことはなく――また、隊長どのの前ですが、自由の身であるくらいありがたいこともありません。
それはその通りだ、トリム――叔父トウビーも考えに沈んだように申しました――
人間、自由の身でさえあれば――伍長はそうさけぶと、手の指揮杖をこんな工合にふり立てました――

《自由の手振り書き図》 (朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1969年)

 

『トリストラム・シャンディ』1冊だけでも、いろんな趣向や見立てが可能です。
さて、第5弾は、あるのでしょうか。

 

    

山口県山口市の中原中也記念館から、特別企画展「書物の在る処 中也詩集とブックデザイン」のちらしやパンフレットをいただきました。
9月26日まで開催されています。

高村光太郎、青山二郎らと並んで、秋朱之介(西谷操、1903~1997)も取り上げられています。

 

中原中也記念館特別企画展「書物の在る処」ちらし

▲中原中也記念館特別企画展「書物の在る処」ちらし
A4判4ページ。

 

中原中也記念館特別企画展「書物の在る処」パンフレット

▲中原中也記念館特別企画展「書物の在る処」パンフレット
A4判。表紙を含めて32ページ。

内堀弘さんが、秋朱之介について「志願して苦労した者」というエッセイを書いています。そのなかの

隣の由利耶書房(古書店)は詩集の品揃えで知られた。店主の佐藤俊雄は、この後、秋とともに昭南書房を創立

という記述で、佐藤俊雄(大雅洞)も、戦前、早稲田の古本屋さんだったのかと、はじめて知りました。

佐藤俊雄の由利耶書房は、秋朱之介装釘の『檸檬』を出した稲光堂書店、 創立当初の三笠書房が早稲田にあった時期と重なっていたのでしょうか?

秋朱之介は、昭南書房のころから1970年代まで、佐藤俊雄と長いつきあいがあったようですが、「むしろ、僕は彼の兄さんと知り合いだった。本を通じてね。」と 『木香往来』創刊第壱號(書肆ひやね)の座談会で話していて、佐藤俊雄のお兄さんって何者? と気になっていました。

1992年の秋朱之介インタビュー(未発表)でも、 《佐藤俊雄のお兄さんは、新潟でチューリップの球根を海外に輸出する仕事をしていた。本が好きな人で、ものすごく本を持っていた。佐藤俊雄は、その本を東京に持ってきて、古本屋をはじめた。》といった内容のことを話していました。

その佐藤俊雄のお兄さんの名前は、いまだに調べがついていません。

 

中原中也記念館特別企画展「書物の在る処」特別コーナーちらし

▲中原中也記念館特別企画展「書物の在る処」特別コーナーちらし
A4判、4ページ。

 

現在のCOVID-19環境下でなければ、今からでも見に行きたい展示です。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

れいちと清水一登のデュオ、AREPOSの『ヘンなダンス』(2015年、AREPOSONGS)

AREPOSの『ヘンなダンス』(2015年、AREPOSONGS)01

AREPOSの『ヘンなダンス』(2015年、AREPOSONGS)02

 

フレッド・フリスのボックス『THE FRED RECORDS STORY』第1巻(2021年、ReR Megacorp)ブックレット掲載のインタビューで、マサカー(Massacre)のグループ名やアルバム・タイトルについて語っているところで、次のような個所がありました。

Trivia time! Massacre’s first gig was on February 14th 1980, we urgently needed a name and Tina [Curren] remembered the Valentine’s Day Massacre in Chicago. The first record was called Killing Time, which had many possible meanings. I remember explaining them all to an interested Japanese Musician called Kazuto Shimizu, who shortly afterwards formed a really cool band called Killing Time! Anyway, when it came time to find a title for our “second” record I was looking for a reference, and since the Valentine’s Day Massacre connection had never been formally acknowledged before, it seem like a good title.

【試訳】雑学の時間! マサカーの最初のギグは1980年2月14日で、とにかく名前が必要だった。ティナ(・カレン)が、シカゴのバレンタインデーの虐殺(Massacre)のことを思いついた。マサカーの最初のレコードのタイトルは 『Killing Time』(1981年)で、多くの意味を含んでいた。興味深い日本のミュージシャン、清水一登にそれらのことすべてを説明したことを覚えている。清水一登はその後まもなく、キリング・タイム(Killing Time)という、ほんとうにクールなバンドを結成したんだ。とにかく、私たちのセカンド・アルバム(1998年)のためにタイトルが必要になったとき、私は関連のあることばを探していて、バレンタインデーの虐殺とのつながりは、それまで公式には認識されていなかったので、『Funny Valentine』は良いタイトルだと思った。

 

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353. 1933年の池田さぶろ『財界漫畫遍路』(2021年7月31日)

池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)表紙

 

前回の『さんぎし』で、「(寺師若法師)が氏(八島太郎)を知ったのは、まだ二中の学生時代のこと。鹿児島新聞で池田さぶろの漫画を紹介しているとき、これは如何でしょうと持って来られたのが八島画伯・岩松淳さんであった。」とあり、「池田さぶろ」という名前に「?」となりました。

まったく知らない名前でしたが、鹿児島ともゆかりのありそうな名前で、ちょっと気にかかります。

とりあえず、Googleで検索すると、WEB上で公開されている2つのテキストを見つけました。

1つは、慶應大学の研究者、清松大が発表した「〈従軍記〉の拡散と変容 ― 戦時下メディアにおける池田さぶろの漫画作品」という論文です。
最初2016年に発表され、『跨境 日本語文学研究』第6号(2018年8月、高麗大学校 GLOBAL 日本研究院)にも掲載されています。そのなかで、次のように書いています。

池田さぶろ(三郎, ? - 1989)は、戦前の雑誌界において非常に旺盛な活動を展開していながら、現在では半ば忘れられた漫画家となっている。著書には『財界お顔拝見記』(東京:新時代社, 1930)、『財界漫画遍路』(東京:東治書院, 1933)など、政財界の人物に取材した漫画訪問記事集や、戦時下には『戦ふ銃後女性譜』(東京:教学館, 1943)等の国策迎合的なものが見受けられる。これまでの漫画研究や昭和史研究において、その活動や作品が取りあげられることはほぼ皆無であり、その人物や来歴については明らかにされていない。

いろいろ検索してみても、池田さぶろの生年や来歴はわかりません。
戦前の雑誌界において非常に旺盛な活動を展開していながら、現在では半ば忘れられた漫画家」のようです。

もう1つは、国会図書館のデジタルコレクションにある池田さぶろの本の中で、1冊だけインターネット公開されている、池田さぶろ『財界お顔拝見記』(1930年、新時代社)です。

昭和初期の財界人を漫画(似顔絵)と文章で紹介した本です。
池田さぶろが財界人(財閥系の人が多い)を訪問し、その似顔絵(漫画・戯画)をその場で描き、人物についての短評も書くというスタイルの「読み物」です。取り上げられた財界人にも喜ばれるタイプの読み物で、総勢166人の財界人に取材した、500ページを超える本です。もとは雑誌や新聞の連載のようです。

その内容を見てみると、森廣藏(安田銀行副頭取)の序文「我が同志」に、「南の薩摩潟――ここは池田君の生れ故郷であるといふ――」ということばがありました。
また、松方正義の五男・松方五郎(東海生命社長)を取り上げた文章で「我が薩南の松方王國」と書いています。

その存在を今まで全く知らなかった池田さぶろは、どうやら鹿児島出身の人物のようです。

 

鹿児島県立図書館や鹿児島市立図書館にないか調べてみましたが、1冊もありません。
鹿児島でも忘れられた存在のようです。

 

今は、便利なもので、「日本の古本屋」サイトなどで検索すると、池田さぶろの本のいくつかは、手ごろな値段で入手可能でした。
この種の本とは縁のない人間ですが、忘れられた鹿児島人となると気にかかるものがあるので、3冊、入手してみました。

池田さぶろ『財界漫画遍路』(1933年、東治書院)245ページ、縦226×横156×幅19ミリ
池田さぶろ『財界の顔』(1952年、大日本雄弁会講談社)303ページ、縦215×横156×幅22ミリ
池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年、特殊鋼倶楽部)248ページ、縦215×横156×幅22ミリ、外箱付

『財界お顔拝見記』をふくめ、いずれの本でも、著者紹介や略歴は掲載されていません。もしかしたら、本の帯にそうしたものがあったのかもしれません。

これらの本のなかで、主役は財界人なので、池田さぶろが自分について語るところは少ないのですが、あちこちに鹿児島の出身であることは触れています。

 

冒頭の写真は、その1冊、池田さぶろ『財界漫画遍路』(1933年、東治書院)の表紙です。
たぶん外箱のある本で、入手したものは裸本です。

装釘は、牧野司郎(1893~1972、不動貯金常務取締役)。和田英作(1874~1959)に学んだ洋画家でもありました。
表紙の「牛歩」というサインは、牧野司郎の号。

 

池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)奥付

▲池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)奥付

序文を書いているのは、次の人。

牧野司郎(不動貯金常務取締役、池田さぶろの似顔絵と本の装釘も)
河路寅三(帝国製麻常務取締役、池田さぶろの似顔絵も)
堀越鉄藏(日本銀行理事、池田さぶろの似顔絵も)
池田さぶろ

池田さぶろに漫画(似顔絵)を描いてもらったら、お返しに、池田さぶろの似顔絵を描く財界人も少なからずいたようです。

 

池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のまえがきから

▲池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のまえがきから
『財界漫畫遍路』の装釘もした牧野司郎(不動貯金常務取締役)の序文「第一印象」のページ。
牧野司郎による池田さぶろの横顔像。

 

池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のページから 01

▲池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のページから

『財界漫畫遍路』は「重役考現学」「保険人マンガ行脚」「財界マンガ行脚」の3部構成になっています。

これは「重役考現学」の武藤山治(時事新報社長)のページから。

池田さぶろは、財界人を訪問して、その場で漫画(似顔絵)を描き、財界人に署名や賛をかいてもらいます。
武藤山治は「獨り立てる時に強きものは眞の勇者なり」と賛を入れて署名しています。

池田さぶろ自身は、「さぶろ写」「さぶろ寫」「さぶろ戯画」などとサインしています。

「重役考現学」では、今和次郎(1888~1973)が提唱した「考現学」ということばを使って、実践しています。
この社長室の間取りを描くというアプローチだけでも面白い読み物になっています。

武藤山治(1867~1934)の、時事新報社長時代の部屋です。鐘紡社長時代の部屋が取材されていれば、もっとおもしろかったのではと思ったりします。

しかし、この『財界漫畫遍路』の翌年、1934年には、武藤山治は狙撃されて亡くなるのですから、ちょっと時代の寒けを感じます。

 

池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のページから02

▲池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のページから

鹿児島県出水出身の永池長治(1876~1966、日本銀行理事)について、次のように書いています。

 マンガ子にとつては郷里の先輩である。堂々たる體軀、六尺に近い。
 筆頭理事として永池氏、バンカーとして永池氏は、所謂日銀型の人である。
 薩摩人としては、よくしゃべり、よく談ずる論客である。
 お国なまりのとれないところも、氏らしくてよい。

池田さぶろが、鹿児島出身と分かる記述のひとつです。
「マンガ子」は池田さぶろの自称。

 

池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のページから

▲池田さぶろ『財界漫畫遍路』(1933年9月12日発行、東治書院)のページから

池田さぶろが描く肖像漫画は、基本的に正面からみた顔と3~4頭身に縮小した身体というスタイルですが、こういう後ろ姿という例外もあります。

 

     

国会図書館にある池田さぶろの本では、『財界お顔拝見記』(1930年5月1日発行、新時代社)がPDFダウンロードが可能でした。

とりあげる財界人の経済観というより、人物の出身、家族構成、出身校、その同級生、趣味など、人物像に重きを置いた紹介です。総勢166人を漫画(似顔絵)と人物評で紹介していて、1930年の日本の経済界の空気を感じることができる本になっています。

『財界お顔拝見記』の序文を書いているのは、次の4人。

岩崎清七(東京瓦斯社長) 「漫畫人池田君――」
安田善五郎(安田保善社理事) 「縁はいなもの――」
森廣藏(安田銀行副頭取)「我が同志」
加藤恭平(三菱商事常務取締役)「池田君のユーモア」

ほかに、原邦造(愛國生命社長、本の装釘も)と、3人の漫画家、吉本さん兵(吉本三平、1900~1940)、明石精一、志村和夫(志村和男、1904~1989)が池田さぶろの肖像画をかいています。


     

次に、戦後の1952年に出た、池田さぶろ『財界の顔』(1952年、講談社)。

『実業之日本』『中外商業新報』『産業経済新聞』に連載してきた、漫画(似顔絵)と人物評から選んだもののようです。
1000人以上の財界人の漫画(似顔絵)と人物評を書き続けていたようなので、当時は、財界人から信頼を得ていた書き手だったようです。

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) カバー

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) 表紙

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) カバーと表紙

150人ほどの戦後の財界人――戦後派も追放されていた人も――が紹介されています。

表紙の題字は藤山愛一郎(東京商工会議所会頭)、背の題字は、関桂三(関西経済連合会会長)、扉の題字は石川一郎(経済団体連合会会長)と、ちょっと嫌らしいくらいの人選です。

序文を書いているのは、つぎの5人。

小林一三(東宝社長)「輕花注流第一聲」
佐々木義彦(東邦レーヨン社長)「處世の指針」
石坂泰三(東京芝浦電気社長)「すゝめる所以」
内藤圓治(日東紡績社長)「池田さぶろ画伯」
新関八州太郎(第一物産社長)「古い顔・新しい顔」

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) の奥付

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) の奥付

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のまえがきから

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のまえがきから

まえがきパートには、鮎川義介(1880~1967)や原邦造(日本山林土地会長)が描いた池田さぶろ像も掲載。

満州で暗躍し日産を立ち上げた人という印象の鮎川義介は、こういう絵をかく人だったのかと、ちょっとした驚きもありました。

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから

石川島重工社長、土光敏夫(1896~1988)の賛は「日日是好日」。

座右の銘を「日日是好日」としたのは、だれが始めだったのでしょう?

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから02

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから

中島久万吉(日本貿易会会長、)の記事中に、池田さぶろが自分の思い出を語っているところがあります。

当時講談社から発行されていた雑誌「現代」に執筆するため、私と現代の名編集者とうたわれた諏沢日出男君は、中島男爵のお伴をして秩父の雲取山の山頂を極め、三峰神社で一夜をあかしたことがある。当時賣り出しの永野護とか松浦取引所理事など一行十名をこえる賑やかな顔ぶれだつた、その後諏沢君が中島邸に伺つて借りてきた同人誌「倦鳥」から「現代」に轉載したのが、「足利尊氏」である。今から考へると先生にとつてはとるに足らぬものであつたにせよ、当時としては軍部や、その手先の中島先生に対する、犬糞的報復手段に使われ、それが動機で商工大臣を棒にふらねばならなくなつたのだから、これも一つの時代相といえる。

池田さぶろに話を聞くことができたら、こうした政財界裏面史的な挿話をたくさん聞くことができたような気がします。

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから03

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから

この本に取り上げられている鹿児島出身の財界人は少ないのが残念。その1人、中外製薬の創業者。上野十藏のページ。
ここでは、池田さぶろ自身の鹿児島についての言及はなし。

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) の俣野健輔(飯野汽船社長、 1894~1984)ページから

俣野さんは薩摩つぽうである。今では鹿児島出身の財界人のトツプを承つている。鹿児島だけのトツプではなく、タンカー界のトツプをいつている。こちらが同郷の後輩だとわかると、俣野さんは鹿児島ナマリをまぜてさかんに談論を風発する。先輩と後輩のケジメのおそろしくやかましい國だかた、こちらは黙々と高説を拜聽する外はない。

俣野健輔からみて「同郷の後輩」なので、池田さぶろは、1894年以降の生まれのようです。

 

池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから

▲池田さぶろ『財界の顔』(1952年9月15日発行、講談社) のページから
大谷竹次郎(松竹社長)のページから。大谷竹次郎が池田さぶろの絵に寄せた賛は「不義の富貴は浮べる雲」。

1952年刊の本ということもあって、大谷竹次郎のほか、東宝の小林一三、日活の堀久作、東映の大川博、大映の永田雅一と、勢いのあった映画会社5社の社長が揃っているところも味わい深いです。

放送メディアでは、1951年12月に放送開始した、東京で最初の民間放送TBSラジオの、足立正が「JOKR社長」として紹介されていて、変わり目を感じます。

 

     

もう1冊、池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年、特殊鋼倶楽部)も入手しました。

1961年5月6日に急逝した特殊製鋼社長、石原米太郎(1882~1961)を追悼する伝記として、業界誌『特殊鋼倶楽部』に連載中だった、池田さぶろ「米翁歳時記―石原米太郎氏忙中一言録」を中心にまとめられ、1961年10月に刊行された本でした。

国会図書館が所蔵している雑誌で、池田さぶろの記事が掲載されているものとして目立つものの一つに 『特殊鋼』(特殊鋼倶楽部)があって、1953~1986年の長きにわたって、仕事をしています。

清松大「〈従軍記〉の拡散と変容―戦時下メディアにおける池田さぶろの漫画作品」によれば、

池田は、新潮社が発行していた『文章倶楽部』においてデビューを果たしたものと思われる。同誌の第9年第8号(1923.8)に懸賞当選1として「初夏のピクニック」(表紙絵)及び「文壇漫画文壇オリンピック」が掲載されて以降、池田の作品は1929年4月の廃刊までほとんど毎号のように現れる。

とあるので、池田さぶろは、分かっている範囲でも1923年から1986年まで60年以上、プロの漫画家・文筆家として、活動していたようです。

それでも今は、郷里の鹿児島でも、まったく忘れ去られてしまっています。

 

池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年10月1日発行、特殊鋼倶楽部)外箱と表紙

▲池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年10月1日発行、特殊鋼倶楽部)外箱と表紙

 

池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年10月1日発行、特殊鋼倶楽部)外箱と表紙

▲池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年10月1日発行、特殊鋼倶楽部)奥付

斎藤新吾(特殊鋼倶楽部代表)は編集後記で、「著者池田画伯はなうての名文家で、かつ鉄鋼通の財界人物評論家として画伯の右に出ずるものはない。しかも画伯は筆者とともに四半世紀前からたえず翁に接触し、その人となりをピンからキリまで知りつくしてきた間柄である。したがって画伯の記事は最も信頼できるものといえよう。」と書いています。

この本の主役は石原米太郎()なので、池田さぶろの経歴に関する情報は少ないですが、「明治生まれのマンガ子には」と書いているので、1912年以前の生まれと分かります。また、池田さぶろの「あとがき」で、「私事で恐縮であるが、翁逝去の二ヵ月後、私は女婿の死にあった。悲しみもかわかぬ間のできごとで、七十八歳の天寿を全うされた翁にひきかえ、三十八歳の若い身空で、むなしく昇天したその運命の皮肉さに諸行無常を感じたことは申すまでもない。しかも期せずして菩提寺も同じ寛永寺であったこともその間、私には何かのつながりがあるように思われてならないのである。」と身内の死について言及しています。

 

     

国会図書館が所蔵する、池田さぶろの著書には、次のようなものがありました。

〇池田さぶろ『財界お顔拝見記』(1930年、新時代社)p502
〇池田さぶろ『財界漫画遍路』(1933年、東治書院)p245
〇池田さぶろ『職場現地報告』(1941年、国民工業学院)p381
〇池田さぶろ『戦ふ銃後女性譜』(1943年、教学館)p279
〇池田さぶろ『財界の顔』(1952年、大日本雄弁会講談社)p303
〇池田さぶろ『石原米太郎翁歳時記』(1961年、特殊鋼倶楽部)p248

〇工業技術教育研究会編、池田さぶろ画『絵と標語 作業教本 炭砿篇』(1943年、国民工業学院)p69
〇『技能章に輝く産業戦士』(1942年、国民工業学院)p214
〇金子三郎編『決戦漫画輯』(1944年、教学館)
〇家の光協会編『東の国・西の国:新日本風土記』(1954年、協同組合通信社)p474
 「福島県の卷」画 池田さぶろ

【2022年5月30日追記】
これらの池田さぶろの著書は、国会図書館が開始した「個人向けデジタル化資料送信サービス」によって、すべて閲覧できるようになりました。

 

また、国会図書館蔵の雑誌で、池田さぶろの漫画や記事を掲載したものには、次のようなものがありました。年は掲載年。

『フォトタイムス』(1930・1931年、フォトタイムス社)
『実業の日本』(1930~1933年、実業之日本社)
『雄弁』(1932~1940年、大日本雄弁会講談社)
『婦人倶楽部』(1933・1935年、講談社)
『実業の世界』(1934年、実業之世界社)
『経済』(1934年、改造社)
『文藝』(1934・1935年、改造社)
  池田さぶろ「文壇近頃渡世相」「文士職業見立」
『カレント・ヒストリー』(1934~1939年、国民経済研究所)
『行動』(1935年、紀伊国屋出版部)
『婦女界』(1935・1937年、婦女界出版社)
『戦友』(1935・1937年、軍人會館出版部)
『政界往来 = Political journal』(1936・1939年、政界往来社)
『東邦経済』(1937年、東邦経済社)
『中央公論』(1937・1939年、中央公論新社)
『商店街』(1937~1955年、誠文堂新光社)
『保険銀行時報』(1938・1939年、保険銀行時報社)
『大陸』(1938~1940年、改造社)
『ユーモアクラブ』(1938~1942年、春陽堂文庫出版)
『文藝春秋』(1939年、文藝春秋社)
  池田さぶろ「大陸漫畫通信(漫畫)」
『科学画報』(1939~1958年、誠文堂新光社)
『科学主義工業』(1939~1944年、科学主義工業社)
『経済マガジン』(1939・1940年、ダイヤモンド社)
『アサヒカメラ』(1940年、朝日新聞出版)
『綿工聯』(1940年、日本綿織物工業組合聯合会)
『新満洲』(1940年、満洲移住協会)
『全ハガネ商聯盟会報』(1940~1942年、全ハガネ商聯盟会報発行所)
『肥料』(1941・1942年、肥料協会)
『美術新報』(1941・1942年、日本美術新報社)
『工業組合』(1941~1943年、工業組合中央会)
『織布』(1942年、日本綿スフ織物工業組合連合会)
『興亜』(1942年、大日本興亜同盟)
『週刊少國民』(1942年、朝日新聞社)
『科学朝日』(1942・1943年、朝日新聞社)
『鐡鋼統制』(1943年、鐡鋼統制會)
『明朗』(1943年、春陽堂文庫出版)
『金融界』(1949年、金融界社)
『経済往来』(1949年、経済往来社)
『令女界』(1949年、宝文館)
『動く実験室:少年・少女の科學雑誌』(1949年、少年文化社)
『中学生の友』(1949~1956年、小学館)
『柔道』(1949年、講道館)
『経済知識』(1951年、新経済知識社)
『貿易界』(1952年、東京貿易研究会)
『製紙工業』(1952・1953年製紙工業社)
『財界』(1953年、財界研究所)
『特殊鋼』(1953~1986年、特殊鋼倶楽部)
『鉄鋼界』(1955・1956年、日本鉄鋼連盟)
『産業と経済』(1956~1982年、プリントワン)
『新経済』(1958~1961年、新経済社)
『インシュアランス = Insurance』(1962年、保険研究所)
『ダイヤモンド』(1964・1965年、ダイヤモンド社)
『化学経済』(1966・1968年、化学工業日報社)
『建設業界』(1974~1976年、日本土木工業協会)

 

《わかっている範囲の、池田さぶろの情報》

〇生年不明。没年1989年(清松大の記述から)。俣野健輔より年下で明治生まれなので、1894~1912年の間に生まれている。
〇鹿児島出身。
〇早稲田の商学部出身か。『財界漫画遍路』に「早大時代の恩師、小林行昌博士」という記述があり。
〇鹿児島の学校に通ったのか、他府県の学校に通ったのか不明。(手もとにある旧制七高や旧制鹿児島二中の同窓会名簿には、「池田三郎」の名前無し)
〇1923年から1986年まで、60年以上、マンガ家として活動。
〇主に財界の分野で活動。 財界人を1000人以上取材し、その似顔絵(戯画)と人物評を書いている。単行本化されてないものも多い。
〇戦後、秋田に疎開。1952年『財界の顔』(講談社)のころ再上京。
〇鹿児島県立図書館や鹿児島市立図書館に、池田さぶろの本はなし。
〇寺師若法師が鹿児島新聞に書いて、八島太郎と知り合うきっかけになった池田さぶろの記事を見つけられたら、池田さぶろの生年や出身地、出身校が分かるかもしれない。


鹿児島でもすっかり忘れられた人物ですが、ちょっと調べてみただけでも、なかなか掘りがいのある人物で書き手だと思います。

その再評価をするだけの力量は私にはありませんが、多くの雑誌・新聞に残して埋もれたままになっている池田さぶろの記事群は、昭和の経済史・政治史・文化史を考えるとき、その細部を形づくる大きな鉱脈のような予感がします。

どなたか、池田さぶろ再評価に取り組もうという方が現れることを期待したいです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

アンソニー・ムーアの近年のエレクトロニカ作品はCDにはならず、音楽メディアとしてのCDの凋落を感じますが、アナログ盤できちんと形になって出ているのはうれしいです。

 

Arp & Anthony Moore『Arp & Anthony Moore』(2010年、Rvng Intl)ジャケット01

Arp & Anthony Moore『Arp & Anthony Moore』(2010年、Rvng Intl)ジャケット02

▲Arp & Anthony Moore『Arp & Anthony Moore』(2010年、Rvng Intl)ジャケット
アメリカ、ニューヨークのRvng Intlレーベルからリリースされていた、ベテランと若手を組ませる「FRKWYS」シリーズの第3弾(アナログ盤のみ。CDなし・配信あり)

 

Arp & Anthony Moore『Arp & Anthony Moore』(2010年、Rvng Intl)ラベル01

Arp & Anthony Moore『Arp & Anthony Moore』(2010年、Rvng Intl)ラベル02

▲Arp & Anthony Moore『Arp & Anthony Moore』(2010年、Rvng Intl)ラベル
Slapp Happyファンとしては、「SLOW MOON'S ROSE」新録に驚きました。
若いARP(aka Alexis Georgopoulos)の歌う「Slow Moon’s Rose」も魅力的です。

 

Anthony Moore & The Missing Present Band「The Present Is Missing」(2016年、A-Musik) ジャケット01

Anthony Moore & The Missing Present Band「The Present Is Missing」(2016年、A-Musik) ジャケット02

▲Anthony Moore & The Missing Present Band「The Present Is Missing」(2016年、A-Musik) ジャケット
ドイツ、ケルンのA-Musikからリリースされたアナログ盤(CDなし・配信あり)。

 

Anthony Moore & The Missing Present Band「The Present Is Missing」(2016年、A-Musik)ラベル01

Anthony Moore & The Missing Present Band「The Present Is Missing」(2016年、A-Musik)ラベル02

▲Anthony Moore & The Missing Present Band「The Present Is Missing」(2016年、A-Musik)ラベル

 

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352. 1963年の『さんぎし』10月号(2021年7月25日)

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所)表紙

 

蒸し暑い日が続いて、頭がぼーっとするような日が続きます。

ぼんやりした頭で、全身鹿児島漬け、鹿児島まみれになるのは、どんな本だろうと考えてみました。
ぼんやりした話ですが、いくつか候補が思い浮かんで、そのひとつに、「薩摩文化月刊誌」と冠した、寺師若法師(寺師宗一、1891~1971)編集の『さんぎし』のバックナンバー(1957年~1968年、130号)を読むというのも、ありではないかと思いました。

鹿児島言葉の五七五(七七)文芸「薩摩狂句」とは縁がなく、手もとには古書店で見つけた数冊のバックナンバーしかありませんが、鹿児島県立図書館には揃っているはずです。ただ禁帯出の本なので図書館でしか読めないのが難しいところ。

寺師若法師編集『さんぎし』のバックナンバー130冊を持っている人は果報者です。全身鹿児島漬けになれるはずです。
それを積極的にやるにはためらいがありますが、手もとにある数冊の『さんぎし』をのぞいてみると、そういう時間の過ごし方もありなのかなと思います。

『さんぎし』は寺師若法師が亡くなったあと、休刊になっていましたが、1982年(昭和57年)、「薩摩狂句月刊誌」として復刊となり、現在も刊行され続けています。2021年7月号で復刊470号になっています。1957年の創刊から数えると、600号です。

写真は、1963年10月1日発行の10月号、通巻70号。
この号から、表紙が、鹿児島出身の画家・絵本作家、八島太郎(岩松淳、1908~1994)の「さんぎし(竹馬)」の絵になりました。

寺師若法師(寺師宗一、1891~1971)は、北海道札幌生まれ。8歳から祖父の郷里鹿児島で育ったそうです。1917年(大正6年)鹿児島新聞社(のちの南日本新聞社)に入社、1924年(大正13年)から薩摩狂句の選者。1949年(昭和24年)からNHK鹿児島局でも薩摩狂句の選者。南日本新聞社を退職して6年後の1957年(昭和32年)に薩摩文化月刊誌『さんぎし』創刊。1968年(昭和43年)10月号(通巻130号)まで編集・発行しました。

 

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) 裏表紙

▲寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) 裏表紙
裏表紙の広告は、島津観光や南日本新聞社、丸屋だったようです。

1957~1968年の広告を拾っていくだけでも、楽しそうです。

 

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所)目次

▲寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所)目次
前書きの「前灯」と目次

「前灯」に次のようにあります。

〇・・・本号から表紙絵は、八島太郎画伯の「さんぎし」を頂戴できたことを、皆さまとともに喜びたい。同画伯はわざわざ若法師庵を訪ねて下さった。「今回の帰省で、あなたのご健在は最大のよろこびの一つでした」と仰有っておられた。私が氏を知ったのは、まだ二中の学生時代のこと。鹿児島新聞で池田さぶろの漫画を紹介しているとき、これは如何でしょうと持って来られたのが八島画伯・岩松淳さんであった。度々上之園の寓居を訪ねて来られたから、私よりは山妻の方がよく画伯の中学生時代を知っている。帰米も迫ったある日、表紙絵を所望したら、「さんぎし」の名にふさわしいもの、何度も替えないようなものとのお考えから、「さんぎん(し?)だけを二本、印刷されたら、余韻があるかと思いますが・・・・・・」と書いて、送って下さったのが、この絵である。御意に副うように永く使わせて戴こうと思っている。なお画伯は十日のきりしまで離鹿に際して、「五年以内に帰国しますから、ますますお元気でお元気で」と人懐っこい顔を崩さずにおられた。

ここにある「私が氏を知ったのは、まだ二中の学生時代のこと。鹿児島新聞で池田さぶろの漫画を紹介しているとき、これは如何でしょうと持って来られたのが八島画伯・岩松淳さんであった。」の「池田さぶろ」が気にかかりました。鹿児島とゆかりのある人なのだろうか?

古い雑誌を読む愉しみのひとつに、知らなかった名前を知るということがあります。
「池田さぶろ」について調べてみて分かったことは、次回に書く予定です。

 

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所)奥付

▲寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所)
後書きの「尾灯」と奥付

 

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) 本文から

▲寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) 本文から
田中阿歌麿のエッセイ「湖辺の快味」(1921年)を掲載。

『さんぎし』1963年4月号から9月号にかけて、6回にわたって、鹿児島新聞記者・空川ぜろ平の紀行文「春三日」(大正8年)を再掲されています。「湖辺の快味」は、その締めになっているテキストです。「空川ぜろ平」は、寺師若法師のペンネームなのでしょうか?

空川ぜろ平「春三日」は、大正8年(1919)4月、 湖沼学者、田中阿歌麿(たなかあかまろ、1869~1944)が、鹿児島県霧島の大浪池の水深調査をおこなったときの同行記で、大正ののんびりした空気も感じられる文章です。「空川ぜろ平」は、寺師宗一のペンネームのひとつかと思われます。

田中阿歌麿については、

第126回 1926年の南九州山岳會編『楠郷山誌』(2013年11月27日)
第200回 千駄木の秋朱之介寓居から小日向の堀口大學の家まで(2017年3月16日)

でも、少し言及しています。
『さんぎし』で名前を見かけて、おや、こんなところでお会いしましたか、と思いました。

古雑誌を読む愉しみは、知った名前に思いがけない場所で会うことも、そのひとつです。

 

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) の薩摩狂句01

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) の薩摩狂句02

寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) の薩摩狂句03

▲寺師宗一編集兼発行『さんぎし』(1963年10月1日発行、さんぎし発行所) の薩摩狂句のページから
広告に今と昔を感じます。
尚古集成館のコピーが「島津文化資料の宝庫 磯公園、お猿の国と共に年中休みなし」
「お猿の国」を覚えているかいないかで、世代が分かれるのかも知れません。

 

 拾い読み・抜き書き

古書店で知った児玉達雄の旧蔵書から、初めてその存在を知った本と出会うことができました。

やまぐち・けい、森真佐枝、弓田弓子ら、児玉達雄宛の筆跡とともも記憶に残ります。


『弓田弓子詩集』(1988年10月10日発行、近文社)

▲『弓田弓子詩集』(1988年10月10日発行、近文社)

『弓田弓子詩集』から「廊下」を。俗っぽく言えば、小さな恐怖物語になりそうですが、この廊下のイメージは、絵として頭に残ります。

     廊下

  亡くなってから
  父母はほんの五センチ程になって
  常時並んでいる
  父母の両脇には三センチ程の祖父母
  一センチ程の曾祖父母も
  目蓋を伏せて連なっている
  特にひとりで
  茶の間で食事をしている時など
  襖を少し引いて
  ずらり並んで覗いている
  私を呼んでいる風でもなく
  蔑んでいる様子もなく
  誰も目を開けない
  誰も発声しない
  私は恐くなる
  ひとりだけの咀嚼音が私の叫びとなって
  部屋いっぱいの物音になる
  父母達はその物音に怯えたのか
  襖を閉めて廊下で遊び始めるのだ
  父
  父の父
  父の父の父
  母
  母の母
  母の母の母
  廊下は何やらごった返しだ
  昨日
  亡母の墓石に付着していた鴉の糞を
  小石で削ぎ落としてきた
  そんな事実も
  罪になるのだろうか
  数センチの父母達を踏みつけないように
  昼間でも廊下に
  明かりをつけている

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

2017年のAnthony Moore & Therapeutische Hörgruppe Köln『Ore Talks』、去年の『Out』再発に続いて、アンソニー・ムーアの新譜。

引退した老教授という趣のアンソニー・ムーアです。

期待しているのは「歌曲」ですが、即興的なエレクトロニカ作品を、「もの」としてのアナログ盤で、こまめにリリースできているのもうれしいです。

 

Anthony Moore, Dirk Specht, Tobias Grewenig『The April Sessions』(2021年、Sub Rosa) ジャケット01

Anthony Moore, Dirk Specht, Tobias Grewenig『The April Sessions』(2021年、Sub Rosa) ジャケット02

▲Anthony Moore, Dirk Specht, Tobias Grewenig『The April Sessions』(2021年、Sub Rosa) ジャケット表裏
ベルギー、ブリュッセルのSub Rosaレーベルからリリースされたアナログ盤(CDはなし・配信あり)。

 

Anthony Moore, Dirk Specht, Tobias Grewenig『The April Sessions』(2021年、Sub Rosa)ラベル01

Anthony Moore, Dirk Specht, Tobias Grewenig『The April Sessions』(2021年、Sub Rosa)ラベル02

▲Anthony Moore, Dirk Specht, Tobias Grewenig『The April Sessions』(2021年、Sub Rosa)ラベル

 

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351. 1985年のデヴィッド・チェンバース編『ジョアン・ハッサル』(2021年6月25日)

1985年のデヴィッド・チェンバース編『ジョアン・ハッサル』

イギリスの木口木版画家ジョアン・ハッサル(Joan Hassall、1906~1988)の作品集、デヴィッド・チェンバース(David Chambers)編『Joan Hassall: engravings and drawings(ジョアン・ハッセル:木口木版とドローイング)』(1985年、Private Libraries Association)です。

2500部の通常版と110部の特装版があり、その両方手もとにあります。

画集としてはコンパクトな縦253×横160×幅23ミリ、テキスト62ページ、図版162ページ、計224ページのなかに、500点近くの小宇宙が詰まっています。
図版複製は基本的に原寸大です。

特装版は縦254×横160×幅25ミリ。16ページ追加されています。
外箱は、縦265×横168×幅34ミリ。

編者のデヴィッド・チェンバース(David Chambers)は、ロイズ(Lloyd’s)の保険業のかたわら、プライヴェートプレス(private press、私家版)の書誌研究をし、「Cuckoo Hill Press」という自分の印刷所も持っている人です。

通常版もスペシャル版も透明カヴァーがついています。手もとにある通常版には透明カヴァーはついていません。

自分の好みからすると、堅実すぎる生真面目なつくりの本ですが、それもまた愉しです。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)通常版表紙

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版表紙

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)表紙
通常版(上)と特装版(下)の表紙
通常版が2500部。黒のクロス装。
特装版が110部。 黒革のクォーター装。クロスは灰色。外箱も同じ灰色のクロス。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の外箱と表紙

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の外箱と表紙

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の天金

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の天金

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)扉

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)扉

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)刊記と目次

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)刊記と目次
次のような構成です。

ジョアン・ハッサルによる回想的まえがき。
イギリスの木口木版画家ジョージ・マックレイ(George Mackley、1900~1983)による、ジョアン・ハッサルの木口木版画の技法解説および讃。ジョージ・マックレイの遺稿。 ジョージ・マックレイは、このサイトで紹介したものでいえば、『The Saturday Book(土曜日の本)』に、木口木版の風景画をよく寄稿していました。
デヴィッド・チェンバースによる、ジョアン・ハッセルの作品解説と書誌。
ジョアン・ハッセルの作品複製469点。

Printed in Great Britain by
W. S. Maney, Leeds LS9 7DI
Bound by Smith Settle
Designed by David Chambers

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから
「SELECT BIBLIOGRAPHY」「BOOK ILLUSTRATIONS」の中扉

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから02

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから01b

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから
フランシス・ブレット・ヤング(FRANCIS BRETT YOUNG)『ある村の肖像(PORTRAT OF A VILLAGE)』(WILLIAM HEINEMANN、1937年)の挿絵から。

ここでの樹木の存在感はすばらしいです。
空中の姿を描かれた、飢えて怒りっぽくなっているカッコーたちは、スタンレー・スペンサー(Stanley Spencer)の「アポカリプスの天使たち(Angels of the Apocalypse)」(1949年)の縁者のようでもあります。

この本については、 「第13回 1937年のフランシス・ブレット・ヤング『ある村の肖像』(2012年10月21日)」でも簡単に紹介しています。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから03a

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから03b

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから
ロバート・ルイス・スティーブンソン(Robert Louis Stevenson)『A CHILD’S GARDEN OF VERSES』(『子ども詩の園』、1885年)1947年のHopetoun Pres版の挿絵から。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから04

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから
エリック・リンクレイター(Eric Linklater)『SEALSKIN TROUSERS』(『シールスキンのズボン』1947年、Rupert Hart-Davis)の挿絵から。

「墜落」というと、この絵を思い出します。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから05

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから
ケンブリッジ大学出版(Cambridge University Press)の読書案内パンフレット『READER’S GUIDE』(1947年版)の挿絵から。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから06a

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから06b

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから
前回紹介した『オックスフォード版ナーサリーライムの本』(1955年)の挿絵から選ばれたのはこの4ページ分だけでした。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから07

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから07
ジェーン・オースティン(Jane Austen)の『マンスフィールドパーク(Mansfield Park)』の挿絵から。1959年のFolio Society版。
ジョアン・ハッセルの挿絵の入ったオースティンの小説を読むことは、20世紀の愉楽ではないかと思います。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから08

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから08
「THE POEMS OF ROBERT BURNS」(1965年、Limited Editions Club)の挿絵。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから09

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから09
「OCCASIONAL BLOCKS」の中扉

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから10

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから10
BBCの『THE 3RD PROGRAMME』、『The LONDON MYSTERY MAGAZINE』表紙用の絵。
これら大きな版は、木版ではなく、「metal」版。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから11

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから11
カレンダーやレターヘッド用の図版。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから12

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから12
「BOOKPLATES」の中扉。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから13

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)のページから13
蔵書票。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)通常版の最終ページ

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)通常版の最終ページ

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の追加ページから

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の追加ページから
特装版も160ページまでは通常版と同じです。
特装版には、160ページに続いて、16ページの追加ページがあります。

追加図版の目録とジョアン・ハッセルのサイン。

追加の8点の図版は、オリジナルの木版から刷られています。
印刷は、デヴィッド・チェンバースが、Cuckoo Hill Pressで手掛けています。

1点が「unpublished」、2点が「not used」。

特装版はナンバリングされています。
110部中の110番。しんがりの本が手もとにあります。

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版のみの図版から

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版のみの図版から
「リス(Squirrel)」(1960年)
British Transport Hotelsのカレンダーのための図版。

 

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の見返し01

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版の見返し

 

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版付録のチャップブック01

『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版付録のチャップブック02

▲『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)特装版付録のチャップブック
8ページのチャップブック『THE PLAIN FACTS by a Plain but Amiable CAT』が付属。
縦75×横68ミリ。
ジョアン・ハッサルのサイン入り。

ジョアン・ハッセルの多色木版はあまり見かけません。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

振り返ると、悦楽的でおしゃれでかっこいい音楽には縁遠いのですが、そうしたものが「いいなあ」と思うこともあって、そんなとき思い浮かぶのが、ジュリエッタ・マシーンです。

 

Giulietta Machine『Giulietta Machine』(2003年、Body Electric Records)01

Giulietta Machine『Giulietta Machine』(2003年、Body Electric Records)02

▲Giulietta Machine『Giulietta Machine』(2003年、Body Electric Records)

 

Giulietta Machine『Hula Pool』(2005年、Body Electric Records)

Giulietta Machine『Hula Pool』(2005年、Body Electric Records) 02

▲Giulietta Machine『Hula Pool』(2005年、Body Electric Records)

 

Giulietta Machine『CINEMA GIULIETTA』(2009年、TEOREMA)

Giulietta Machine『CINEMA GIULIETTA』(2009年、TEOREMA)02

▲Giulietta Machine『CINEMA GIULIETTA』(2009年、TEOREMA)

 

Giulietta Machine『MACHINA OSTALGIA』(2012年、TEOREMA) 01

Giulietta Machine『MACHINA OSTALGIA』(2012年、TEOREMA) 02

▲Giulietta Machine『MACHINA OSTALGIA』(2012年、TEOREMA)

 

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