swallow-dale logo

[home] | [SWALLOW-DALE]| [my favorite things] | [平田信芳文庫] | [profile] | [mail]



my favorite things 241-250

 my favorite things 241(2018年7月23日)から250(2018年12月5日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
 241. 1942年の新村出『ちぎれ雲』(2018年7月23日)
 242. 2018年の『PETER BLEGVAD BANDBOX』(2018年8月10日)
 243. 1931年~1932年の『古東多万』の紙ひも綴じと糸綴じ(2018年8月31日)
 244. 1931年『古東多万(ことたま)』第一號(2018年9月20日)
 245. 1931年~1932年の『古東多万(ことたま)』目次(2018年9月29日)
 246. 1980年の鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(2018年10月4日)
 247. 1934年の倉田白羊『雜草園』(2018年10月24日)
 248. 1984年のNovember Books『The Christmas Magazine』(2018年11月12日)
 249. 2013年のサジー・ローチェ文/ジゼル・ポター絵『バンドやろうよ?』(2018年11月14日)
 250. 1986年の『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者へのおまけ(2018年12月5日)
 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

 

250. 1986年の『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者へのおまけ(2018年12月5日)

1986年の『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購読者へのおまけ

 

第205回(2017年6月27日)」で「Vol. 1 No. 1」のおまけを紹介した、ミュージシャンのクリス・カトラー(Chris Cutler)が編集・発行していた音楽誌『Rē Records Quarterly』(1985年~1991年)の、「Vol. 1 No. 3」予約購入者への特典(extra item)の図版です。
それを手にすることのできた幸運な予約購入者ではなかったので、当時はその特典の内容を知ることができませんでした。

予約購入者特典ありの記述だけをたよりに、その内容は分からないままWEB通販で中古品を購入したのですが、第3号のおまけは、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)の手になる未知の図版でした。
こうしためっけもんは、うれしいかぎりです。

この幾何学的形態群は、 『Rē Records Quarterly』第2号に掲載された、ブレグヴァドの作品「On Numinous Objects and Their Manufacture (Part One of a Potentially Endless work)」(「精霊が宿る物とその制作(終わることのない仕事・その第1部)」)を補足する図版でした。
「Vol. 1 No. 3」のおまけ図版は「Numinous Objects(精霊が宿る物)」の図録の一部になるもので、これらの幾何学的形態に、ほんとうに「精霊」が宿るかどうか分かりませんが、それを想定した図版、ということのようです。

1970年代後半から、ブレグヴァドの音楽・絵画・文章すべての作品で、発想源となっていたと思われる言葉に「Numinous」「Numinosity」という言葉がありました。当時使っていた英和中辞典には掲載されていなかった言葉で、何のことかと具体像を結ぶことができなかった言葉でした。

もとは、ラテン語のNumen(ヌーメン)から生まれたことばで、Numen(ヌーメン)は、木や石などの「もの」に宿る神聖なもの、精霊のことを意味します。その形容詞が「Numinous」で、その名詞形が「Numinosity」や「Numinousness」になります。

ブレグヴァドは、単なる物を作品たらしめるもの、ただの物を内から輝かせるものの存在を前提として、では、どういう形であれば、そうした精霊的なものが宿るのかと、怪しさを自覚しつつ、半分笑いながらも生真面目に、綺想をまじえつつ考察を続けて、それを音楽・絵画・コミック・文章などに、いろんな形で落とし込んでいます。

とりあえず「精霊」という訳語をつけてみましたが、こなれた訳語ではありません。唯一神的な、人の形とむすびつきやすい「神」ではなく、日本での木や石などの「依り代」につく「御霊(みたま)」や「事霊・言霊(ことだま)」に近いものと、解釈できないこともありません。

 

「Numinous Objects」の図版のほかに、『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者への、クリス・カトラー(CCのサイン)の挨拶状もあって、そこには、ブレグヴァドの最初のソロアルバム『The Naked Shakespeare』 (1983年、Virgin、V2284) のために、ブレグヴァド自ら作成した雑誌広告用の図版も再録されていて、「Numinous Objects」的な形を並べたものは初めて見るもので、うれしかったです。

『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者への、クリス・カトラーの挨拶状01

『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者への、クリス・カトラーの挨拶状02

『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者への、クリス・カトラーの挨拶状03

『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者への、クリス・カトラーの挨拶状04

▲『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』(1986年発行、Recommeded Records、November Books)予約購入者への、クリス・カトラーの挨拶状
A4サイズの両面刷りで、中央で折って4ページにしています。
第3号の予約購入者分は450部作られたようです。
「Vol. 1 No. 3」の雑誌本体には1986年1月とありますが、この挨拶状では1986年5月の日付になっています。
ブレグヴァドの最初のソロアルバム『The Naked Shakespeare』 (1983年、Virgin、V2284) のための広告は、作品としても素晴らしいと思います。『The Naked Shakespeare』に収録された「You Can't Miss It」を「シリーズ第3番」としてイラスト化したものは見たことがあったのですが、すべてのアルバム収録曲について、こうした詩の図解作品があったのかもしれません。
あるのだとしたら、見てみたいものです。

 

『Rē Records Quarterly』第2号に掲載された、ブレグヴァドの作品「On Numinous Objects and Their Manufacture (Part One of a Potentially Endless work)」(「聖なるものとその制作(終わることのない仕事その第1部)」)には、4つの「Numinous Objects」の図版と1枚刷りのその説明シートがあって、ビスケットの図版以外は、ブレグヴァドの文章や絵のいくつかをあつめた「AMATEUR」(amateur.org.uk/)のサイトに掲載されています。参考までに、ここにも掲載しておきます。
曲線的なもの、直線的なもの、不定型なものと3分類されています。

FIRST MONRPHOLOGICAL TABLE 68 BASIC FORMS & OBJECTS (CURVED)

▲FIRST MONRPHOLOGICAL TABLE  68 BASIC FORMS & OBJECTS  (CURVED)
第1の形態学図表 68の基本の形ともの (曲線的なもの)

 

SECOND MONRPHOLOGICAL TABLE 42 BASIC FORMS & OBJECTS (STRAIGHT)

▲SECOND MONRPHOLOGICAL TABLE  42 BASIC FORMS & OBJECTS  (STRAIGHT)
第2の形態学図表 42の基本の形ともの (直線的なもの)

 

THIRD MONRPHOLOGICAL TABLE 45 BASIC MASSES & MARKS (AMORPHOUS)

▲THIRD MONRPHOLOGICAL TABLE  45 BASIC MASSES & MARKS  (AMORPHOUS)
第3の形態学図表 45の基本のかたまりとしるし (不定形なもの)

 

MONRPHOLOGICAL TABLE KEY

▲KEY
曲線的なもの、直線的なもの、不定型なものの3図表のものの名称表

 

Numinous Objects Bisquits

▲Bisquits(ビスケット)
各図版の右下にある円筒形は、ミルクの入ったコップを表していて、当時のブレグヴァドを表すサインの1つになっています。
ヒッチコックの映画『断崖』(Suspicion、1941年)で、ケーリー・グランドが運ぶミルクの入ったコップの白さが際立つ場面があります。その場面のでミルクの白さに、そのミルクの毒が入っているのではないかと視線が集まります。ミルクに視線を集めるために、ヒッチコックはそのコップに電球を仕込んでいたそうです。
毒と聖性では真逆ですが、光を帯びて存在が際立っているかたちのシンボルとして、ブレグヴァドは、ミルクの入ったコップを使っていました。

「numinous(精霊の)」が「numinosity(精霊性)」になるように、形容詞「luminous(輝く)」が名詞「lunimosity(光輝)」となる、語呂合わせもあって、「numinous objects」を表現する方法として、ものが内から輝くという形もとっています。

ブレグヴァドは、「MILK」についての作品群もつくっていきますが、それはまた別の機会に。

 

これらの図版に描かれた「かたち」すべてが自動的に精霊が宿り聖性を帯びるかというと、そうでもないようです。
ただの空っぽのものも多数含まれているようです。

ブレグヴァドの、ある意味、徒労に近い作業に、なにか目的があるのかというと、どうも表現の器となる文字のかたちの神秘に行きつくようです。そういう意味では、アルファベット圏より、言霊のにぎわう土地、漢字圏での方が当てはまることの多い作業のようにも思われます。

詩の誕生には、どこか人知を超えたところがあります。だからこそ、形から入って、偶然であれ必然であれ、何かを誕生させてしまうという方法も否定することはできません。

 

今日はなんだか雲をつかむような話になってしまいました。
ブレグヴァドが街のカフェのナプキン入れに忍び込ませた冊子やちらしのような、散らばって行方知れずになってしまった作品群を1つの箱におさめたものがあればいいのに、と夢見てしまいます。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

「Numinosity」ということばを初めて耳にしたのは、イギリスのグループ、ナショナル・ヘルス(National Health)の2枚目のアルバム『Of Queues And Cures』でした。Side Oneの3曲目に、新しく加入したJohn Greavesの「Squarer For Maud」という曲があり、その中盤で、ピーター・ブレグヴァドが「Numinosity」について語っています。当時は何のことやらさっぱり分かりませんでした。

National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ジャケット表

▲National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ジャケット表

 

National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ジャケット裏

▲National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ジャケット裏

 

National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ラベル Side One

▲National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ラベル Side One

 

National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ラベル Side Two

▲National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)ラベル Side Two

 

National Health『Of Queues And Cures』の再発CD(2009年、Esoteric Recordings)

▲National Health『Of Queues And Cures』の再発CD(2009年、Esoteric Recordings)

 

National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)の「Squarer For Maud」

▲National Health『Of Queues And Cures』(1978年、Charly Records)の「Squarer For Maud」解説文

「モードのための四角くするもの(SQUARER for MAUD)」というタイトルも謎ですが、曲中の「Numinosity」についてのブレグヴァドの語りも謎でした。解説文にある、1977年にニューヨークで配られたパンフレット『AMATEUR No.1』を入手する手立てなどなく、全体像が見えない状態が続きました。2000年代になって、ブレグヴァドのサイト「AMATEUR」(amateur.org.uk/)で 『AMATEUR No.1』が公開され、そこに掲載されたブレグヴァドのテキスト「AN INTERVIEW (AMATEUR SCIENCE FICTION)」の冒頭を朗読していることが分かりました。ブレグヴァドが曲中に朗読する、その冒頭部分の引用と試訳です。

Q: Is it numinousness, numinessence, or numinosity?
A: It’s like luminous.
Q: You say numinosity?
A: I do.
Q: And when a thing is numinous it exudes an air of mystery, of sanctity?
A: Of energy. It appears charged.

【試訳】
問― 言葉としては、「精霊体(numinousness)」「精霊態(numinessence)」「精霊性(numinosity)」のどれでしょう?
答― 形容表現の「輝く(luminous)」が「光輝(luminosity)」になるような感じです。
問― 「精霊性(numinosity)」ということでしょうか?
答― そうです。
問― それでは、ものごとが精霊性を帯びるとき、ものごとから神秘性というか聖性のようなものがにじみ出ますね。
答― 文字どおりエネルギーを帯びて、充電されたような状態なのです。

「AN INTERVIEW (AMATEUR SCIENCE FICTION)」は、SFと銘打っていますが、対話だけで構成される、何とも奇妙な短篇です。
インタビューされているのは、精霊がどんな形のものに入るのかを調べるために、MAUDという大型コンピューター(『2001年宇宙の旅』のHALのような存在でしょうか)に、あらゆる形のデータを記憶させていく人物。20名のプログラマーとともに、11か月かけて、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集『不死の人』収録の短篇に登場する「ザーヒル」という不可解な存在から軍用余剰物資、多様な釣り用ルアの図版から貨幣学の冊子まで、集められる限りの形を、600マイルの長さの磁気テープ分のデータを記憶させていき、そこで何かが生まれるか・・・、というお話です。 MAUDも何かの略語のような気がしますが、分かりません。

ブレグヴァドの「MAUD」物語からそのまま考えると、「モードのための四角くするもの(SQUARER for MAUD)」という曲のタイトルは、「コンピューターのMAUDに、精霊が宿る四角い形をプログラムする人」という、意味合いになるのでしょうか。

ブレグヴァドの文章や絵を「Squarer For Maud」という曲に重ねると、「Squarer For Maud」がまた違った形で聴けるようになります。思えば、アルバム『Of Queues And Cures』の付録として『AMATEUR No.1』の冊子がついていれば理想的だったのでしょう。


『2001年宇宙の旅で』でHALが歌ったのは「デイジーベル(Daisy Bell)」という歌でしたが、MAUDなら、どんな歌を歌ったのか? とも思います。

 

ところで、短編「AN INTERVIEW (AMATEUR SCIENCE FICTION)」は、1977年発表なので、登場するコンピューターMAUDは、AppleやWindowsのパソコン以前のもので、ハードディスクでなく、磁気テープに記録しています。
そのなかで「600マイルの長さにおよぶ磁気テープに情報をフィードした」という描写があるので、それが何バイトぐらいの情報量になるのか換算してみたくなります。1970年代の磁気テープの情報記録密度を仮に1600BPI(bits per inch、ビット毎インチ)とすると、8ビット=1バイトで、1インチに200バイト。600マイル=38016000インチなので、600マイルの磁気テープのバイト数は、約7.6ギガバイトぐらいになるのでしょうか。
計算を間違えているかもしれませんが、約7.6ギガバイトぐらいであれば、今のふつうのパソコンでも、当たり前に消費されてしまう情報量です。
約40年。時代の隔たりを感じてしまいます。

 

アルバムの裏ジャケットにある「SQUARER fo MAUD」の曲クレジットでは、チェロを抱えた女性の写真の下に「MAUD」に消し線を引いて、「Georgie」としています。この写真の女性は、この録音で、National Healthに加入したチェロ奏者のジョージー・ボーン(Georgie Born)です。
後期のヘンリーカウ(Henry Cow)のメンバーで、リンゼイ・クーパー(Lindsay Cooper)やマイク・ウェストブルック(Mike Westbrook)、レインコーツ(The Raincoats)のアルバムなどで彼女のチェロを聴くことができます。

1980年代以降は、アカデミックの世界に足場を置き、「Georgie」から「Georgina」に変わって、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で、人類学と音楽学の教授をつとめています。

もともと学者の家に育って、祖父は、ノーベル物理学賞を受賞したドイツの物理学者マックス・ボルン(Max Born、1882~1970)、父親は、薬理学者のGustav Victor Rudolf Born(1921~2018)。写真キャプションで「MAUD」に消し線を入れていましたが、「MAUD」のような吸収力の存在ということを表していたのかも知れません。

ほかにも、歌手のオリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton-John)がジョージー・ボーンの従姉にあたると知ったときは、坂本九が阿部薫の叔父だと知ったときと同じくらい驚きました。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

249. 2013年のサジー・ローチェ文/ジゼル・ポター絵『バンドやろうよ?』(2018年11月14日)

Suzzy Roche & Giselle Potter『Want To Be In A Band?』表紙

 

マギー(Maggie)・テリー(Terre)・サジー(Suzzy)のアイルランド系アメリカ人3姉妹が、ローチェス(The Roches)というバンドを組んでいました。
その末っ子サジー・ローチェ(Suzzy Roche)が書いた絵本『バンドやろうよ?(WANT TO BE IN A BAND?)』(2013年、swhartz & wade books、new york)です。
絵は、ト二・モリソンの絵本など、何冊か邦訳もあるジゼル・ポター(Giselle Potter)の水彩画。
ローチェスのように、3姉妹が「The Thirds」というバンドを組んで成長していく絵物語です。

バンドを組みたい人、バンドを組んでいる人、バンドを組んでいた人に贈りたい、かわいらしい絵本です。

ローチェスの長女、マギー・ローチェ(Maggie Roche、1951~2017)が去年のはじめに亡くなっていたことを知って、本棚から引っ張り出しました。

【2018年11月26日追記】
「ローチェ」でなく「ローチ」のほうが適切ではないかというご指摘をいただきました。確かに英語発音的には、「ローチェ」でなく「ローチ」、「ローチェス」でなく「ローチーズ」のほうが正確と思われますが、ここでは、日本での一般的な表記「ローチェ」「ローチェス」のままにしておきます。

 

『バンドやろうよ?(WANT TO BE IN A BAND?)』の裏表紙

▲『バンドやろうよ?(WANT TO BE IN A BAND?)』の裏表紙
左から、マギー(Maggie)・サジー(Suzzy)・テリー(Terre)のイメージに合わせた絵になっています。

 

ローチェスは、ロバート・フリップがプロデュースしたということで聴きはじめたグループですが、The Rochesとして最後のアルバムとなった2007年の『Moonswept』まで、忠実にフォローしていました。

そのすべての盤というわけではありませんが、手もとにあるCDを、ソロやデュオアルバムも含めて、並べてみます。

 

Maggie & Terre Roche『Seductive Reasoning』(1975年、Columbia)

▲Maggie & Terre Roche『Seductive Reasoning』(1975年、Columbia)
Producer: Paul Simon, Paul Samwell-Smith, David Hood, Jimmy Johnson
米盤再発CD(1991、Sony Music Special Products)
3姉妹のローチェス以前に、ポール・サイモンらのプロデュースで出した、上2人姉妹マギーとテリーのデュオ・アルバムです。

 

The Roches『The Roches』(1979年、Warner)

▲The Roches『The Roches』(1979年、Warner)
Produced in Audio Verité by Robert Fripp
邦題は『アーバン・ギャルズ・ザ・ローチェス』(ワーナー・パイオニア)
ローチェ三姉妹のデビュー作。
90年代の米盤再発CD。

 

The Roches『Nurds』(1980年、Warner)

▲The Roches『Nurds』(1980年、Warner)
Produced and Engineered by Roy Halee
90年代の米盤再発CD。

 

The Roches『Keep On Doing』(1982年、Warner)

▲The Roches『Keep On Doing』(1982年、Warner)
Produced by Robert Fripp
90年代の米盤再発CD。

 

■The Roches『Another World』(1985年、Warner)
Producer: Carter Cathcart, Edd Kalehoff, Howard Lindeman, Richard Gottehrer, The Roches
レコード盤を持っているつもりでしたが、棚に見当たりませんでした。

 

The Roches『No Trespassing』(1986年、Rhino、Real-Live Records)

▲The Roches『No Trespassing』(1986年、Rhino、Real-Live Records)
Produced by Joe Ferry, Andy Bloch and The Roches
ミニ・アルバム。1990年の米盤再発CD。

 

The Roches『Speak』(1989年、MCA Records、Paradox Records)

▲The Roches『Speak』(1989年、MCA Records、Paradox Records)
Produced by The Roches and Jeffrey Lesser
米盤CD。
プロデューサーにジェフリー・レッサーを起用。1970年代にルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)とジェフリー・レッサーが組んだWidescreen Productionsという音楽制作チームの、セイラー、スパークス、オーケストラ・ルナからバーバラ・ストライザンドまで、スタジオを楽器として扱うスタイルは大好物でした。
最初はローチェスとジェフリー・レッサーの組み合わせだけで盛り上がったのですが、ここでの、アメリカン・ポップ・ミュージック王道路線的な音作りは、わたし好みのローチェスではなかったようで、ちょっとがっかりした記憶があります。

 

The Roches『We Three Kings』(1990年、MCA Records、Paradox Records)

▲The Roches『We Three Kings』(1990年、MCA Records、Paradox Records)
Produced by The Roches and Jeffrey Lesser
米盤CD。クリスマスソング集。

 

The Roches『A Dove』(1992年、MCA Records)

▲The Roches『A Dove』(1992年、MCA Records)
Produced by Stewart Lerman
日本盤CD。

 

The Roches『Will You Be My Friend?』(1994年、Baby Boom Music)

▲The Roches『Will You Be My Friend?』(1994年、Baby Boom Music)
Produced by Stewart Lerman and Suzzy Roche
米盤CD。子どものための歌曲集。

 

The Roches『Can We Go Home Now』(1995年、Rykodisc)

▲The Roches『Can We Go Home Now』(1995年、Rykodisc)
Produced by Stewart Lerman and The Roches
米盤に日本語ライナーをつけた盤。

 

The Roches『The Collected Works Of The Roches』(2003年、Rhino、Warner)

▲The Roches『The Collected Works Of The Roches』(2003年、Rhino、Warner)
Compilation Produced by David McLees and The Roches
米盤CD。

 

The Roches『Moonswept』(2007年、429 Records)

▲The Roches『Moonswept』(2007年、429 Records)
Produced by Stewart Lerman and The Roches
米盤CD。
ローチェ3姉妹による最後のスタジオ録音盤。

 

ほかのソロ作品・デュオ作品で持っているものも並べておきます。
2007年のThe Roches『Moonswept』以降も、ソロ・デュオ作品は出ているようなのですが、改めてCD棚を調べてみて、2007年のThe Roches『Moonswept』以降、ローチェス関連のCDを買っていないことに気づきました。
気持ちが離れたというわけではありませんが、なんとなく縁が切れてしまいました。

 

Terre Roche『The Sound Of A Tree Falling』(1998年、Earth Rock Wreckerds)

▲Terre Roche『The Sound Of A Tree Falling』(1998年、Earth Rock Wreckerds)
Produced by Nobody
米盤CD。次女テリーのソロアルバム。
長女マギーはゲスト参加していますが、三女サジーの名前が謝辞欄にもありません。ゴシップ的に姉妹の仲が心配になります。

 

Suzzy & Maggie Roche『Zero Church』(2001年、Red House Records)

▲Suzzy & Maggie Roche『Zero Church』(2001年、Red House Records)
Produced by Stewart Lerman and Suzzy Roche
米盤CD。長女マギーと三女サジーのデュオ。

 

Suzzy & Maggie Roche『Why The Long Face』(2004年、Red House Records)

▲Suzzy & Maggie Roche『Why The Long Face』(2004年、Red House Records)
Produced by Stewart Lerman and Suzzy Roche
米盤CD。長女マギーと三女サジーのデュオ第2作。

 

Suzzy Roche『Holy Smokes』(1997年、Red House Records)

■Suzzy Roche『Holy Smokes』(1997年、Red House Records)
Produced by Stewart Lerman and Suzzy Roche
米盤CD。三女のソロアルバム。長女マギーはゲスト参加していますが、次女テリーの名前が謝辞欄にもありません。やはりゴシップ的に姉妹の仲が心配になります。

 

Suzzy Roche『Songs From An Unmarried Housewife And Mother, Greenwich Village, USA』(2000年、Red House Records)

▲Suzzy Roche『Songs From An Unmarried Housewife And Mother, Greenwich Village, USA』(2000年、Red House Records)
Produced by Stewart Lerman and Suzzy Roche
米盤CD。三女のソロ第2作。長女マギーはゲスト参加していますが、次女テリーの名前が謝辞欄にもありません。これまたゴシップ的に姉妹の仲が心配になります。
絵本『バンドやろうよ?(WANT TO BE IN A BAND?)』の表紙にも犬の姿がありましたが、サジー・ローチェに犬の友人は欠かせないようです。

 

ローチェ姉妹の作品を改めて振り返ってみると、長女のマギーもソロアルバムを作りたかったのではないかと思います。
ローチェスのアルバムで繰り返し聴いてきたのは、ロバート・フリップがプロデュースしたデビュー作と3枚目の『Keep On Doing』でした。もういっぺんロバート・フリップと組んで、マギー・ローチェの最初のソロアルバムを作ったら、最高だっただろうな。

ローチェスのどんなところが好きだったのかと考えると、きまじめさ・ぎこちなさから生まれるユーモアでした。
同時代のアメリカの小説でいうと、アン・タイラーの作品と近いものを感じます。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Maggie Roche『selcted songs: where do i come from』(2018年、Storysound Records)

▲Maggie Roche『selcted songs: where do i come from』(2018年、Storysound Records)
Produced by Suzzy Roche and Dick Connette
妹サジーとその娘ルーシー・ウェインライト・ローチェ(Lucy Wainwright Roche)の手で作られた、追悼盤。

CD2枚組で、ローチェスや姉妹デュオのアルバムから、まんべんなく選曲されており、姉妹のコーラスのなかで低音部をになってきたマギーの、40年をこえる歌声のキャリアをたどれます。
加えて、レコードデビュー前のデモ音源や、亡くなる直前のデモ音源も収録されています。

アルバムタイトルにもなっている「Where Do I Come From」は、2016年の自宅でのカセットテープ録音で、マギー・ローチェ最後の録音と思われます。
独りぼっちであることが主題の曲で、最後にカセットテープを止める音が、せつないです。

このサイトではリンクを貼らないことにしているのですが、YouTubeで、「Maggie Roche - Where Do I Come From」として、公式の動画も公開されていることを付け加えておきます。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

248. 1984年のNovember Books『The Christmas Magazine』(2018年11月12日)

1985年のNovember Books『Christmas Magazine』(1984年)広告


第204回(2017年5月28日)で取り上げた、『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.1』(1985年5月1日発行、Ré Records、November Books)に掲載された、November Booksが1984年暮れに発行した『クリスマス・マガジン(THE CHRISTMAS MAGAZINE)』の広告です。
November Booksは、ミュージシャンのクラス・カトラー(Chris Cutler)がRé Recordsといっしょに設立した出版所(会社組織ではありません)です。

1984年暮れに、限定500部刊行された、この『クリスマス・マガジン』ですが、現物を見たことがありません。
画像も見たことがありません。とにかく現物を見てみたいものの一つです。
当時の価格で£8.50ですから、レコード1枚より少し高いぐらい。
広告によると、次のようなものがシルクスクリーン印刷されたフォルダーに収められているようです。

“The Androgyne in Ancient and Modern Art”, a nineteenth century french study transrated for the first time into english;
〈19世紀フランスの研究『古代と現代芸術の両性具有』の最初の英訳〉
a beautiful set of 8 silk-screened ‘postcards’ by Graham Keatley;
〈グラハム・キートレイ作、8枚のシルクスクリーン版絵はがき〉
“How the Hare Got Its Lip split”, an illustrated traditional Tibetan story;
〈チベットの民話絵本「うさぎの口がさけたわけ」〉
a hand coloured lithoprint by Chris Wangro;
〈手彩色を加えたクリス・ワングロの石版画〉
“Stones in My Passway”, a 24 page booklet written and illustrated by Peter Blegvad;
〈ピーター・ブレグヴァド作・画の24ページの小冊子『わが路程の石々』〉
a 7” record by the Mnemonists;
〈ザ・ムネモニスツの7インチ・レコード盤〉
4 lithoprints by Peter Bader;
〈ピーター・ベイダー作。4枚の石版画〉
an alphabetically correct litho print by Jane Colling
〈アルファベットを主題としたジェーン・コリングの石版画。未見ですが、この『クリスマス・マガジン』では「A」を主題とした作品が掲載されたようです。1985年9月の『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.2』から、1997年の『ReR/RECOMMENDED SOURCEBOOK 0402』まで、「B」から「M」までが連載され、その後も連作は描かれ続けて、2011年に「Z」までが完成。2012年5月に「A to Z - An Alphabet」という展示イベントがロンドンであったようです。『The Ré Records Quarterly Vol.1』の4冊の表紙はJane Collingの絵が使われていました。〉
“The Top of Nothing”text by Chris Cutler and drawings by Graham Keatley,
クリス・カトラー文・グラハム・キートレイ画の「空っぽのトップ」
And more and the whole assembled in a folder silk-screened by Third Step Printworks.
サード・ステップ・プリントワークスでシルクスクリーン印刷されたフォルダーに収納。

まったく、盛りだくさんの『クリスマス・マガジン』です。
『The Ré Record Quarterly Vol.1 No.1』が発行された1985年5月の時点で、まだ残部が150部あったようです。
1984年に舞い戻って、注文したいです。持っている人がうらやましい限りです。

 

『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.2』(1985年9月1日発行)と『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.3』(1986年1月1日発行)でも、同じ広告が使われています。

『The Ré Record Quarterly Vol.1 No.2』(1985年9月1日発行)掲載の広告

▲『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.2』(1985年9月1日発行)掲載の広告
同じ広告を4分の1に縮小したもの。 他は、クリス・カトラーの音楽文化研究書『File Under Popular』(1996年に水声社から小林善美による邦訳が出ています)と、Fred Borageの奇書『Rural Class Struggles In Ambridge』の広告。

 

『The Ré Record Quarterly Vol.1 No.3』(1986年1月1日発行)掲載の広告

▲『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.3』(1986年1月1日発行)掲載の広告
「Vol.1 No.1」と同じ広告を使用。 まだ「残り150部のみ」。

 

『The Ré Record Quarterly Vol.1 No.4』(1986年5月1日発行)掲載の広告

▲『The Ré Records Quarterly Vol.1 No.4』(1986年5月1日発行)掲載の広告
左側に、ピーター・ブレグヴァドの『Stones in My Passway』のページが使われています。
広告文が「only 150 remain(残り150部のみ)」から「very few now remain(残部僅少)」に変化しています。このころ売り切れになったのだと思われます。1987年3月の『The Ré Records Quarterly May 1st 1986 Vol.2 No.1』以降の、『The Ré Records Quarterly』誌には、『THE CHRISTMAS MAGAZINE』の広告は掲載されなくなります。

 

『THE CHRISTMAS MAGAZINE』本体は見たことがないのですが、そこに収録されていた、クリス・カトラー文・クラハム・キートレイ画『The Top Of Nothing』と、ピーター・ブレグヴァド画・文『Stones in My Passway』の2つの小冊子は、入手することができました。

クリス・カトラー文・クラハム・キートレイ画の『The Top of Nothing』の表紙

▲クリス・カトラー文・クラハム・キートレイ画の『The Top of Nothing』の表紙
サッチャー嫌いの書です。

 

クリス・カトラー文・クラハム・キートレイ画の『The Top of Nothing』の扉

▲クリス・カトラー文・クラハム・キートレイ画の『The Top of Nothing』の扉

 

Peter Blegvad『Stones in My Pathway』の表紙

▲Peter Blegvad『Stones in My Passway』の表紙
上は、1984年のAMATEUR ENTERPRISES版(London)、下は2002年のロンドン・パタフィジック協会版。
2色刷の1984年版のほうが、作りがいいです。

 

Peter Blegvad『Stones in My Pathway』の扉

▲Peter Blegvad『Stones in My Passway』の扉
上は、1984年のAMATEUR ENTERPRISES版(London)、下は2002年のロンドン・パタフィジック協会版。
入手した1984年版には、ピーター・ブレグヴァドが献辞が書いていて、その部分にはボカシを入れました。

 

Peter Blegvad『Stones in My Pathway』のページから「IMAGINED, OBSERVEDE, REMEMBERED」

▲Peter Blegvad『Stones in My Passway』のページから「IMAGINED, OBSERVED, REMEMBERED(想像して、観察して、思い出して)」
上は、1984年のAMATEUR ENTERPRISES版(London)、下は2002年のロンドン・パタフィジック協会版。

 

1984年にNovember Booksが出した『THE CHRISTMAS MAGAZINE』の全貌が知りたいものです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

いくつかの名前を検索していたら、Maggie Rocheの『selected songs: where do i from』というCDが出たばかりであることに気づきました。
Maggie Roche、はじめてのソロアルバム!

そして、Maggie Rocheが去年の1月に亡くなっていたことを知りました。もう2年近くたっていました。

 Maggie Roche 1951年10月26日 ー 2017年1月21日

Maggie、Terre、Suzzyの三姉妹の音楽グループ The Roches は、大好きでした。

その1979年のファースト・アルバムから「Hammond Song」を。

 

The Roches『The Roches』(1979年、ワーナー・パイオニア) 日本盤のジャケット表

The Roches『The Roches』(1979年、ワーナー・パイオニア) 日本盤のジャケット裏

▲The Roches『The Roches』(1979年、ワーナー・パイオニア) 日本盤のジャケット表裏
真ん中がいちばん年上のMaggie Roche。
邦題は『アーバン・ギャルズ・ザ・ローチェス』でした。

 

The Roches『The Roches』(1979年、ワーナー・パイオニア) 日本盤のラベルA

The Roches『The Roches』(1979年、ワーナー・パイオニア) 日本盤のラベルB

▲The Roches『The Roches』(1979年、ワーナー・パイオニア) 日本盤のラベル

 

The Roches『The Roches』(Warner)の再発CD

▲The Roches『The Roches』(Warner)の再発CD。90年代の米盤。
「Produced in Audio Verité by Robert Fripp」とクレジットされたことに魅かれて購入したくちですが、これは隅から隅までいいアルバムです。

このThe Rochesのファーストアルバム、かつて売って処分してしまいました。
売るときにC46のカセットテープに録音していて、時々聴くと、これがいいんです。
このカセットテープは、よく聴きました。手もとから離れたあと、だんだん存在が大きくなっていくタイプのアルバムでした。
90年代になると、CDでも再発されて、CDの音は、これはこれでいいのですが、なんだかアナログ盤の音が懐かしくなってしまいます。それで、中古盤屋さんで日本盤を見つけて、改めて入手しました。

このアルバムを聴いていると、ストロベリー・アプリコット・パイというものを、無性に食べてみたくなります。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

247. 1934年の倉田白羊『雜草園』(2018年10月24日)

1934年の倉田白羊『雜草園』

 

昭和6~7年(1931~1932)、五十澤二郎(1903~1948)のやぽんな書房から刊行された佐藤春夫(1892~1964)責任編輯の文藝誌『古東多万(ことたま)』を読んでいて、面白い文章を書く人だと感心したのが、洋画家の倉田白羊(1881~1938)でした。佐藤春夫からすると、10歳上ぐらいの人です。

木下杢太郎(1885~1945)らの「パンの会」の宴会で酔っ払っている絵描きさん、ぐらいの印象しかなく、今回、倉田白羊の文章を初めて読んだのですが、『古東多万』に寄稿している有名作家たちより、ずっといいんじゃないかと思ってしまうぐらいの書き手です。
『古東多万』には、次の3編を寄稿していて、いずれも語り口のよい隨筆でした。

蟲ぼし(第1年第1号)
一ヶ月(第2年第1号)
まがひ志士のはなし(第2年第2号)

本があるなら読んでみたいと、探してみたら、身近な図書館には無く、日本の古本屋で調べてみたら、『古東多万』に掲載された3編も収録している、

 倉田白羊『雑草園』(1934年、竹村書房)

という隨筆集がありました。 「裸本・水クイ・表紙汚れ」でしたが、手ごろな値段ということもあって、試しに買ってみました。だいぶ表紙も傷んでいましたが、これはいろいろな意味で楽しく読める本で、ほんとうに拾いものでした。

 

『古東多万』第1年第1号(1931年、やぽんな書房)掲載の倉田白羊「蟲ぼし」掲載ページ

▲『古東多万』第1年第1号(1931年、やぽんな書房)掲載の倉田白羊「蟲ぼし」掲載ページ

 

『古東多万』第2年第1号(1932年、やぽんな書房)掲載の倉田白羊「一ヶ月」掲載ページ

▲『古東多万』第2年第1号(1932年、やぽんな書房)掲載の倉田白羊「一ヶ月」掲載ページ
右ページは、芥川龍之介の遺稿詩集『澄江堂遺珠』その四(佐藤春夫編)
この号の「編輯餘言」で、佐藤春夫は〈倉田畫伯の「一ヶ月」の飄逸な寫實的ユーモアにも小生は大へん推服してゐることを一言して讀者の愛讀を要求する。〉と書いています。

 

『古東多万』第2年第2号(1932年、やぽんな書房)掲載の倉田白羊「まがひ志士のはなし」掲載ページ

▲『古東多万』第2年第2号(1932年、やぽんな書房)掲載の倉田白羊「まがひ志士のはなし」掲載ページ

 

倉田白羊『雑草園』(1934年、竹村書房)扉

▲倉田白羊『雜草園』(1934年、竹村書房)扉

 

倉田白羊『雑草園』(1934年、竹村書房)自序

▲倉田白羊『雜草園』(1934年、竹村書房)自序


倉田白羊の『自序』を書き起こしておきます。

自序
これに載り居る文章の類は、自分から進んで書く氣になつたものは少なく、大槪は雜誌新聞から望まれて書いたものが多い、年數も重なれば自然と溜る、別に蒐めて世に出す氣心など微塵もないところへ、佐藤春夫氏から出さぬかと薦められ、次で五十澤氏からも具體的に煽動されて一度その氣になり、あわてゝまた打ち消した、取り留めの無い駄辯を記錄される事の耻かしさと、いゝ氣になつて文人眞似をし度くかなつたからである、銀座の個展會場で五十澤氏につかまり再び煽動に逢ふに及びてつひに腹をきめた、どんな腹か自分にも判らない、これ等は正に駄辯愚談の個展とも見る可く、發表して今更馬鹿が露顯する次第でもなく、發表せぬ爲めに利口に見えるわけでもあるまい、きめた腹と云ふは先づ此の邊のところか。

この自序を読むと、佐藤春夫と五十澤二郎の2人が勧めて、できた本のようです。五十澤二郎のやぽんな書房は昭和7年(1932)には頓挫していて、五十澤は、中国古典の自由訳を次から次に出し始めるのですが、その版元が、昭和8年頃はじまった竹村書房でした。その流れで、倉田白羊の本が、竹村書房から出た、ということのようです。

倉田白羊は、東京の根岸・日暮里にあった浅井忠(1856~1907)の画塾の門下生で、1898年、浅井忠が上野の美術学校の教授になったとき、他の画塾生とともに受験して入学しています。でも、浅井忠が1年足らずでフランス留学を命ぜられたため、しかたなく黒田清輝(1866~1924)のところに外様として学ぶ形になっています。『雜草園』では、当時の上野の美術学校の様子が活写されていて、明治の美術史的にも興味深いものがあります。

いわゆる巴里志向タイプの美術学校生ではなく、最初期の「漢学書生」タイプの上野の美校生です。
東京育ちの人ですが、画家としては、千葉・群馬・小笠原・長野と田舎に暮らし続けた人です。
文章からすると、漢学だけでなく、落語・講談・阿呆陀羅経の素養があります。昭和初期のモダニズムの時代には古くさいものと感じられていたのかもしれませんが、夏目漱石的なユーモアの系譜の人と位置づけてもよさそうです。
この倉田白羊という人物の引き出しには、いろんなものが入っていそうです。

倉田白羊の父親は漢学者で、母方の祖父は、浪士組結成前の清河八郎(1830~1863)が、1861年に幕府の下っ端を切った事件にかかわって捕縛され、獄死した漢学者・篆刻家の嵩春齋(かさみ はるとき)です。

倉田白羊が、母親について書いた文章にひかれるものがあります。
「母」という隨筆に、河童の話がでてきます。

 母は可なり奇拔な家庭に育てられた人である、酒飮むことを宗教と心得た樣な人を父とし、河に溺れんとする他家の子供を救はんために、小劍を口にくはへて橋の欄干から飛び込んだ女性を母とした、溺るゝ子供を救ふのに小劍が要る筈もないのだが、祖母の鄕里なる肥後の川尻附近には盛んに河童が出沒して、泳ぎ手の背後をねらつて苦しめるとの事である、祖母は畢竟河童退治の勇者であるが、その夜怪しげの小兵が祖母の枕元に現れて『何故邪魔しをつたか』と祖母をなじる、祖母は例の小劍を振つて怪物を追ひ拂ふ事三夜に及んだ云々、と母からはなされて子供ながらに『少し變だぞ』と肯定するわけに行かないのだつたが、本人の祖母も又母も滅多にうそつく人でもなし、祖母と母とを信ずれば勢ひ河童をも排斥出來ぬ事となる。

倉田白羊は、「子供ながらに『少し變だぞ』」と思う子で、そういう子が書く母の思い出であることで、この隨筆の面白みが増しています。

ところで、「河に溺れんとする他家の子供を救はんために、小劍を口にくはへて橋の欄干から飛び込んだ女性」というは、河童の話によくあるパターンだったのでしょうか? 河童の話をたくさん読んできたわけではありませんが、「小劍を口にくはへて」河童と戦う女性の話は初めて読みました。小劍を口にくわえて橋から飛び込んだ方が危ない、と思ってしまいそうですが、それでは理想的な聴き手とは言えないのでしょう。

倉田白羊の母親の話によれば、

 春齋の交友範圍は決して文人雅客に限らなかつた、母のはなしによれば深夜面を包んだ屈強の武士が裏木戸からこつそり祖父母にすくひ取られる、それが直ぐに消える事もあり、少し逗留に及びもする、軍資手薄の時などは衣を典して持たせてもやる、おかつぴきが屋敷周圍をうろうろする事も珍しくはなかつたさうだ、薩摩の海江田某、賴三樹三郎、淸川八郎その外いろいろの名前が母からもれるのだが一々覺えてはゐられない、この樣な不時の客人が到來すると母達は何時も多忙な思ひをする、襦袢から犢鼻褌まで半風子だらけの洗濯ものやら、例によつて酒肴の用意やら、そしてその客人共が上機嫌で小唄の一つもうなる時、つい舌打ちして恨めしい氣持になる事もあつたさうだ、この點私は可なり母ちちに同情するものである。

こういったこともしばしばだったようで、こうした話の引き出しをたくさん持っていた人と思われます。
ここに登場する「薩摩の海江田某」は、あの海江田なのでしょうか。

【2018年11月2日追記】

倉田白羊は、押川春浪の天狗倶楽部のメンバーでもありました。そちらの引き出しを探してみたら、また別の面白いものが見つかるかも知れません。

 

倉田白羊『雑草園』(1934年、竹村書房)の校正者

▲倉田白羊『雜草園』(1934年、竹村書房)の校正者
 圖案及挿畫 著者自身
 木版彫刻  野村俊彦
 校正    五十澤二郎
と校正者としても名前をいれてあります。
倉田白羊の『雜草園』は、五十澤二郎がつくりたかった本だったのでしょう。

 

倉田白羊『雑草園』(1934年、竹村書房)奥付

▲倉田白羊『雜草園』(1934年、竹村書房)奥付
国会図書館などで検索してみたら、第224回(2018年2月12日)で紹介した山口青邨の『雑草園』をふくめ、「雑草園」というタイトルで何冊も出ています。

■昭和9年 雑草園 山口青邨 龍星閣
■昭和9年 雑草園 倉田白羊 竹村書房
■昭和9年 雑草園随筆 高橋康文 雑草園随筆刊行会
■昭和14年 雑草園 石坂洋次郎 中央公論社
■昭和24年 雑草園 永井荷風 中央公論社

本のタイトルに「雑草園」とつける流行でもあったのでしょうか。

 

倉田白羊『雑草園』(1934年、竹村書房)巻末の竹村書房刊行書目

▲倉田白羊『雜草園』(1934年、竹村書房)巻末の竹村書房上梓書目
中川一政の『美術方寸』は、五十澤二郎がやぽんな書房で企画した本で、それを引き継ぐ形で竹村書房から刊行されています。

竹村坦がはじめた竹村書房は、最初は、五十澤二郎の本を出す目的ではじまったようです。

国会図書館などで検索すると、竹村書房は、1933年から1943年の10年間、活動していた出版社のようです。
その刊行書目を並べてみると、興味深い著作が並んでいて、小さい書店ながら、昭和文学に確かな役割を果たした出版社だったと思われます。

 

■竹村書房刊行書目(網羅的なものではありません)

1933年

五十沢二郎『論語』(東方古典叢刊:第6巻)
五十沢二郎『論語・孟子』(東方古典叢刊:第7巻)
五十沢二郎『孟子』(東方古典叢刊:第8巻)
小杉放庵『放庵歌集』
中川一政『美術方寸』

1934年

五十澤二郎『易経』(東方古典叢刊:第1巻)
五十澤二郎『書経』(東方古典叢刊:第2巻)
五十澤二郎『詩經』(東方古典叢刊:第3巻)
五十澤二郎『礼記・上』(東方古典叢刊:第4巻)
五十澤二郎『大学・中庸 附録 礼記』(東方古典叢刊:第5巻)
五十澤二郎『荘子』(東方古典叢刊:第9巻)
五十澤二郎『老子』(東方古典叢刊:第10巻)
中川一政『永福寺余暇』
中川一政『武蔵野日記』
倉田白羊『雑草園』
浜本浩『十二階下の少年達』
西瀬英一『南紀風物誌』
田中貢太郎『朱鳥』
川端康成『抒情歌』
林房雄『文学放談:附・独房信』
林房雄『柘榴のある庭』
日夏耿之介『残夜焚艸録』
小杉放庵『工房小閑』
中河与一『熱帯紀行』
長尾宏也『山郷風物誌』
マリアンナ著、佐藤春夫訳『ぽるとがる文』

1935年

坪田譲治『晩春懐郷』
木下仙『山・山・人間』
長尾宏也『山の隣人』
村山知義『白夜・劇場』
宇野浩二『文芸草子』
武田麟太郎『市井事』
室生犀星『慈眼山随筆』
室生犀星『女ノ図』
室生犀星『復讐』
坂口安吾『黒谷村』
井伏鱒二『頓生菩提』
上泉秀信『村道:戯曲集』
深田久弥『青猪』
坪田譲治『お化けの世界』
坪田譲治『晩春懐郷』
尾崎士郎『人生劇場 青春篇』
尾崎士郎『続人生劇場 愛欲篇』
大仏次郎『手紙の女』
ワルデマル・ボンゼルス著、長尾宏也訳『蜜蜂マアヤの遍歴』
五十沢二郎『新訳支那古典読本 第1 論語・孟子』
五十沢二郎『新訳支那古典読本 第2 老子・荘子』

1936年

武田麟太郎『若い環境』
中川一政『庭の眺め』
藤沢桓夫『恋人:小説集』
丹羽文雄『閨秀作家』
丹羽文雄『若い季節』
坪田譲治『お化けの世界』
室生犀星『印刷庭苑:犀星随筆集』
室生犀星『復讐』
島木健作『三十年代』
井伏鱒二『自叙伝 雞肋集』
下島勲『人犬墨:空谷山房随筆集』
佐藤惣之助『釣魚随筆』
大田黒克彦『水辺手帳』
小林秀雄『小林秀雄文学読本』
高見順『女体』
小田岳夫『城外』
加藤健『詩集』
坪田譲治『風の中の子供』
尾崎士郎『牛刀:隨筆集』
尾崎士郎『河鹿』
尾崎士郎『続々人生劇場 残俠篇』上下 1936・1937
『スタンダアル選集』1936・1937

1937年

松田解子『女性線:長篇小説』
荒木巍『世間の顔』
川端康成『むすめごころ:小説集』
小田岳夫『支那人・文化・風景』
高見順『虚実:小説集』
高見順『流木』
芹沢光治良『秋箋』
芹沢光治良『盛果:小説集』
村山知義『獣神:小説集』
室生犀星『駱駝行:随筆集』
丹羽文雄『海の色』
丹羽文雄『愛慾の位置』
丹羽文雄『薔薇合戦:長篇小説』上下巻
中野重治『小説の書けぬ小説家』
中条百合子『乳房』
岡本かの子『女の立場:随筆』
林芙美子『花の位置』
久板栄二郎『北東の風・断層』
坂本直行『山・原野・牧場』
小川未明『小学文学童話』
新田潤『崖:小説集』
伊藤整『小説の運命』
室生犀星『駱駝行』
スタンダアル原作、佐藤正彰訳『ナポレオン回想録』
スタンダアル原作、桑原武夫・生島遼一訳『匣と亡霊:短篇集』
スタンダアル原作、前川堅市・河盛好蔵訳『日記書簡集』
スタンダアル原作、中島健蔵訳『ラミエル:長篇小説』
アンドレ・ジイド著、淀野隆三訳著『文学読本』
クライスラー原著、新田潤訳『塹壕の四週間』

1938年

片岡鐵兵『思慕』
坂口安吾『吹雪物語:夢と知性』
伊藤整『石を投げる女:小説集』
古谷綱武『文学紀行:評論感想集』
岡田三郎『秋・冬:創作集』
渋川驍『竜源寺:小説集』
間宮茂輔『突棒船』
加藤健『詩集』
丹羽文雄『花戦』
里見弴『求心力』
石川達三『流離:小説集』
上泉秀信『「ふるさと」紀行』
葉山嘉樹『山谿に生くる人人:創作集』
高見順『人間:高見順小説集』
林芙美子『氷河』
林芙美子『月夜』
中本たか子『耐火煉瓦:長篇小説』
真杉静枝『小魚の心:小説集』
岡本かの子『やがて五月に』
坪田讓治『風の中の子供』廉價版
海上福三郎『白い顔』
野口米次郎『われ日本人なり:エツセイ随筆集』
小田岳夫『同行者:支那現代小説三人傑作集』
藤沢桓夫『花ある氷河』
ラルフ・フオックス著、加藤朝鳥訳『成吉思汗』

1939年

藤沢桓夫『緑の褥:長編小説』
室生犀星『波折:小説集』
亀井勝一郎『東洋の愛』
十和田操『平時の秋』
一瀬直行『隣家の人々』
大鹿卓『探鉱日記』
井上友一郎『従軍日記:長篇小説』
円地文子『風の如き言葉』
森田たま『花菖蒲』
真杉静枝『ひなどり』
古谷綱武編『丹羽文雄選集』
高見順『私の小説勉強:高見順評論随筆集』
井伏鱒二『禁札:小説集』
上林暁『ちちははの記』
中村地平『戦死した兄』
太宰治『愛と美について:小説集』

1940年

太宰治『皮膚と心』
信濃毎日新聞社学芸部編、川端康成・片岡鉄兵・上田進監修『農村青年報告』
北条誠『春服:小説集』
青木実ほか著、浅見淵編『廟会:満洲作家九人集』
都築益世『童謡集』
小田岳夫『北京飄々:長篇』
浅見淵『現代作家卅人論』
大井広介『芸術の構想:長篇評論』
今官一『海鴎の章:小説集』
室生犀星『小説 よきひと』
山中貞雄『山中貞雄シナリオ集』

1941年

渡辺公平『黄沙漫々』
正宗白鳥『旅行の印象』
寺崎浩『山脈』
荒木巍『炎天』
室生犀星『定本室生犀星詩集』
室生犀星『信濃の歌』
高見順『高見順自選小説集』
尾崎一雄『金柑:随筆集』
古谷綱武『魅力の世界』
沓掛十六『村の太陽』
藤森成吉『愛と闘ひ:随筆集』
信濃毎日新聞社『農村青年報告 第2-3輯』

1942年

室生犀星『残雪』
太宰治『老ハイデルベルヒ』
小田岳夫『大陸手帳』
佐々木尚友『生きる植物』
高倉新一郎『北辺・開拓・アイヌ』
柴田賢一『太平洋の島と探検:その歴史と地理』
ハーバート・ストラング編、木田重三郎訳編『冒険の記録』
ウィル・ワーディング、木田重三郎訳『ジャンガ ライオンの生態』

1943年

柴田賢一『西の第一線』

 

戦争中の出版社統合で、1943年に竹村書房は店じまいしたようです。
竹村坦は、戦後になると、牧野武夫の乾元社にいたようです。
1933年から1943年の10年間に、なぜ、これだけの本を出し続けられたのかと考えると、 『人生劇場』というベストセラーの存在が大きいような気がしますが、確かなことは分かりません。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Peter Gordon『Eighteen』(2018年、Foom)

▲Peter Gordon『Eighteen』(2018年、Foom)
Love of Life OrchestraのPeter Gordon御大は、昨年2017年の『Condo』から間を置かず、新譜の『Eighteen』をリリース。Peter Gordonは、1996年から2010年まで、リリースがなかったことを考えると、嘘のようです。
アルバム・ジャケットの絵は、Kit Fitzgerald。

今回は、CDはなくて、アナログ盤とデジタルダウンロードだけのようです。
ほんとうに、インディーズに限った話ではありませんが、CDというメディアは難しくなっていくのかも知れません。

アルバム・タイトル「eighteen」は、ピーター・ゴードンがシンセサイザーを使い始めた年ということのようです。1970年代なかばでしょうか。
このアルバムでは、自分の楽器であるサックスは使わず、18歳の自分のように、シンセサイザー主体でアルバムを作るという趣向のようです。

もちろん、ラブ・オブ・ライフ・オーケストラ仕様のダンス・チューンもあります。その「Victor's Dream」を。

 

Peter Gordon『Eighteen』Side Oneラベル

▲Peter Gordon『Eighteen』Side One ラベル

 

Peter Gordon『Eighteen』Side Two ラベル

 Peter Gordon『Eighteen』Side Two ラベル

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

246. 1980年の鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(2018年10月4日)

1980年の鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』マッチ01

 

昭和6~7年(1931~1932)、五十澤二郎(1903~1948)のやぽんな書房から刊行された佐藤春夫(1892~1964)責任編輯の文藝誌『古東多万(ことたま)』の目次に登場する、泉鏡花(1873~1939)、内田百閒(1889~1971)という名前を見ると、否応なく、鈴木清順監督(1923~2017)の映画『ツィゴイネルワイゼン』(1980年、内田百閒原作)、『陽炎座』(1981年、泉鏡花原作)を思い出します。

『ツィゴイネルワイゼン』は、東京タワー横にサーカスのように現れた仮設ドームのシネマ・プラセットで上映されていました。
そのときのパンフレットとか残っていないかなと、棚の奥の箱を探していたら、シネマ・プラセットで配っていたマッチ箱まで出てきました。
今までたくさんのものを失ってきましたけれど、変なところで妙に物持ちがいいことに笑ってしまいます。
『陽炎座』のパンフレット類もあったと思うのですが、今回は見つけられませんでした。無くしてしまったのか。

『ツィゴイネルワイゼン』が大好きで、シネマ・プラセットには何度か通ったので、マッチ箱も、初期のものと、映画があたって続映が決まってからのもの、2種類が残っていました。

 

シネマプラセット『ツィゴイネルワイゼン』マッチ箱02

シネマプラセット『ツィゴイネルワイゼン』マッチ箱03

▲シネマプラセット『ツィゴイネルワイゼン』マッチ箱裏面・側面
マッチ箱コレクターではありませんが、よく見てみると、マッチ箱だけでも、意外と情報量が多いものです。

 

『ツィゴイネルワイゼン』のちらし

▲『ツィゴイネルワイゼン』のちらし

 

『ツィゴイネルワイゼン』のパンフレット

▲『ツィゴイネルワイゼン』のパンフレット
表紙がフルカラーでないことからすると、予算は切り詰めていたのではないかと思われます。

 

『ツィゴイネルワイゼン』の雑誌掲載広告(1980年4月25日発行『ぴあ』)

▲『ツィゴイネルワイゼン』の雑誌掲載広告(1980年4月25日発行『ぴあ』)

 

『ツィゴイネルワイゼン』の半券

▲『ツィゴイネルワイゼン』の半券
マッチ箱同様、青色と赤色のものがあったと記憶します。

 

『ツィゴイネルワイゼン』の7インチのサントラ盤のジャケット01

『ツィゴイネルワイゼン』の7インチのサントラ盤のジャケット02

▲『ツィゴイネルワイゼン』の7インチのサントラ盤(1980年、シネマ・プラセット)のジャケット

 

『ツィゴイネルワイゼン』の7インチのサントラ盤のラベル01

『ツィゴイネルワイゼン』の7インチのサントラ盤のラベル02

▲『ツィゴイネルワイゼン』の7インチのサントラ盤のラベル
鈴木清順の映画といえば、舞い散る桜です。

サントラ盤のA面は、
(作者パブロ・デ・サラサーテ自奏のよる)ZIGEUNERWEISEN
サラサーテが死ぬ4年前、1904年の録音です。
サントラ盤のB面は、「録音構成ツィゴイネルワイゼン」で3つのパートが収録されています。
1、中砂と小稲の出会い――2分00秒
2、狐の穴の中――1分57秒
3、大団円――3分02秒

 

『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』の音楽を担当したのは、河内紀。
河内紀の古本についてのエッセイも好きです。

河内紀『古本探偵』(2000年1月5日発行、北宋社)

▲河内紀『古本探偵』(2000年1月5日発行、北宋社)
『ユリイカ』(青土社)『彷書月刊』(弘隆社)掲載の文章をまとめたもの。
古い本から音や音楽の気配を聴きとろうとする文章なので、好きなのかも知れません。

 

河内紀『解体旧書――古本探偵2』(2000年5月2日発行、北宋社)

▲河内紀『解体旧書――古本探偵2』(2000年5月2日発行、北宋社)
TBSの『調査情報』誌に連載していた「解体旧書」を中心にまとめたもの。
辻まこと(辻潤の息子)や土方久功、『暮しの手帖』以前の花森安治について、この本を通して知ったのだと思い出しました。

 

『ツィゴイネルワイゼン』の翌年公開された『陽炎座』では、豪華な脚本・写真本もつくられました。『陽炎座』グッズは見つからなかったのですが、この本だけはすぐ出てきました。残念ながら、箱や本に大分シミがでています。
今は物覚えが悪くなりましたが、この『陽炎座』の台詞をかなり覚えている自分に驚いてしまいました。
『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』は、映画館で観たいという思いが強くて、DVDやブルーレイを持っていません。
もう一度映画館で観てみたいものです。

『陽炎座』(1981年、シネマ・プラセット、群雄社出版)

▲『陽炎座』(1981年、シネマ・プラセット、群雄社出版)

 

『陽炎座』本付録フィルム1コマ

▲『陽炎座』本には、映画のフィルム1コマが付録になっていました。
フィルムに汚れもあり、大分退色しているようでしたが、試しに簡単にスキャンしてみたら、映画終盤の陽炎座崩壊の場面で、松崎(松田優作)の視線の先に、大桶のなかの品子(大楠道代)の姿が見えてきて、ちょっと感動しました。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

1980年、『ツィゴイネルワイゼン』のサントラ盤と対になるように聴いていたのが、phewの『終曲/うらはら』(1980年、Pass Records)でした。

phewの『終曲/うらはら』ジャケット01

phewの『終曲/うらはら』ラベル01

phewの『終曲/うらはら』ジャケット02

phewの『終曲/うらはら』ラベル02

phewの『終曲/うらはら』カード

PHEW: Vocal, Voice, Noise.
RYUICHI SAKAMOTO: Drums, Piano, Voice, Prophet Five, Arp Odyssey, MC 8.

Recorded & Mixed at Sound City Studio, Tokyo.

Engineered by Sinichi Tanaka

Produced by RYUICHI SAKAMOTO

Photos by Umihiko Konishi

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

245. 1931年~1932年の『古東多万(ことたま)』目次(2018年9月29日)

『古東多万』の第一年第二號目次

 

前回に引き続き、五十澤二郎(いざわじろう、1903~1948)のやぽんな書房が刊行した、佐藤春夫(1892~1964)責任編輯の文藝誌『古東多万(ことたま)』の話です。

『古東多万』の第1年第2号(昭和6年10月・11月合併号 昭和6年11月5日発行)から最終号の別冊(昭和7年9月1日発行)までの目次を掲載してみます。

古い雑誌は、目次だけでも、いろんな人物たちが交差するようすが見えてきて、時代の空気がそのまま感じられます。タイムカプセル度が高いメディアだと思います。


『古東多万』第一年第二號 昭和六年第十月・第十一月合併号 目次 昭和六年十一月五日発行

第一年第二號「本號定價」は「金九十錢」の「九十」を消して「七十」になっています。

【表1】「古東多卍」と表記 中川一政による柿の木版 油紙重ね貼り
【表2】『言泉』の「ことだま 言靈」の語釈引用
【広告】やぽんな書房近刊書目 中川一政畫集 煙霞帖 夜木山房叢書 1
目次 2―3
【広告】やぽんな書房既刊書目 4
【口絵】古器  石井柏亭
【扉】古東多万の鏡文字 5
ロダンとブールデル(一) 高田博厚 6-15
耋人独語  馬場孤媒 16-22
書信 編輯者宛 辰野隆 9月15日 22
飛行場漫筆  内田百間 23-27
癡人の手帳より  辻潤 28-34
澄江堂追珠 その二 或る雪の夜  佐藤春夫編 35-47
夜木山房縁起  神代種亮 48
二科を見て  武者小路實篤 49-52
支那民歌  增田渉譯 52
【挿画】犬  島田墨仙
美術院と南畫院  中川一政  53-55
【広告】白水社 山田一夫創作集 夢を孕む女 56(53-56は青みを帯びた紙)
楢重遺文  佐藤春夫編(挿画2点) 57-66
天草四郎の生地  渡邊庫輔 67-70
【広告】日夏耿之介鑒修 襍志 戯苑 戯苑發售處 70
メリメの手紙  平井程一譯 71-73
【広告】やぽんな書房 73
丈二夜話 其一  愛鶯莊主人 74-76
【讓受度】佐藤春夫譯著「ピノチオ」 76
【稟告】「古東多万」定價改訂 76
哀薔薇  阿藤伯海 77-82
水鶏の卵  龍膽寺雄 83-92
伊勢詣  瀧井孝作 93-98
【新刊紹介】(夜木山房主人)阿Q正伝、貞操帶、輕氣球虛報、グウルモンの言葉、片影 99-102
【紹介】谷崎潤一郎・佐藤春夫兩先生短冊頒布會の事(五十) 102
【校正】第一號の誤植修正(校正子) 102(99-102は青みを帯びた紙)
上海文藝の一瞥  魯迅講述 增田渉譯記 103-123
話した話  春陽會大阪夏期講習會茶話會・青山二郎「甌香譜」出版紀念會中川一政 124-128
父と母  高木一夫 129-137
家鴨の喜劇  魯迅 魯迅・增田渉共譯 138-143
東京巡査勤務情況画帖  ジヲルジユ・ビゴ 144-153
【新刊紹介】追補 西鶴、成美、一茶(一政) 154
【綱輯餘言】追補(五十) 154
【編輯餘言】(夜木) 155-156(155-156は青みを帯びた紙)
【奥附】156
【表3】以士帖印社広告 佐藤春夫『魔女』 推薦文は堀口大學
【表4】雅博拿書房ロゴ(中川一政)

奥附に「昭和六年十一月五日束京市京橋區銀座西八丁目五番地民友社印刷所に於て印刷し、同十一月十日東京市赤坂區傳馬町二丁目八番地、相互出版協社やぽんな書房之を発行す。是が編輯責任者は東京市小石川區關口町二百七番地、佐藤春夫にして、發行者は東京市赤坂區傳馬町二丁目八番地、五十澤二郎なり。本誌印刷用紙は會員弘瀬一良氏の厚誼に依り同氏工場に於て漉造せらるゝものにして、表紙は同人中川一政の圖案により東坊城光長これを板刻し、森井仁太郎これに艷出加工の上、大完堂下島義次郎により製本さるゝもの也。」 とあります。表紙の油紙は、森井仁太郎による「艷出加工」ということのようです。

第二號の佐藤春夫「編輯餘言」に「○今月號の發刊遅延は主として用紙の製造地なる土佐地方の豪雨の爲に紙の到着が遅れたのに原因してゐるが相濟まぬ次第である。」とあるので、『古東多万』誌の印刷用紙を漉造し提供している弘瀬一良氏の工場は、土佐にあったことが分かります。

土佐の弘瀬姓というと、「絵金」こと弘瀬金蔵の名前が思い浮かびます。何かのつながりがあるのでしょうか?
佐藤春夫が登場しても全く違和感のない映画『陽炎座』(1981年)は、1926年(大正15年・昭和元年)が舞台でしたが、その終わりに絵金や芳年にインスパイアされた残酷絵が使われていていました。

 

『百鬼園隨筆』(1933年、三笠書房)

この号に掲載された、内田百間「飛行場漫筆」は、のちに秋朱之介(西谷操、1903~1997)が編集・装幀にかかわった『百鬼園隨筆』(1933年10月、三笠書房)に収録されます。
この第二號の表3には以士帖印社の『魔女』広告が掲載されていますので、秋朱之介は間違いなくこの『古東多万』誌は目を通していると思います。秋朱之介がどの時点で、内田百閒の本をつくりたいと思い始めたのかは分かりませんが、『古東多万』刊行のころには、だんだんそのタイミングが近づいてきていたのだと思います。

 

『古東多万』第二號の表紙3の以士帖印社『魔女』広告

▲『古東多万』第1年第2号の表3に掲載された、以士帖印社版・佐藤春夫『魔女』広告
以士帖印社の住所が「横濱本牧宮原八九九」となっており、『魔女』刊行のころには、秋朱之介が五十沢二郎の居候をやめていたことが分かります。
広告にある、佐藤春夫著の小説『古今東西二人女』は、以士帖印社から出版されることはありませんでした。

 

『古東多万』第1年第2号では、日本のダダイストこと、辻潤(1884~1944)が「癡人の手帳より」〈『古東多万』目次では「手帖」、本文は「手帳」、『癡人の獨語』(1934年、書物展望社)では「手帖」〉で、アメリカの幻想小説家ブランチ・キャベルの『ぜ、くりいむ、おぶ、ぜ、じえすと』を紹介しています。翌年の『古東多万』第2年第2号では一部翻訳もしています。

自分はこの小説(ブランチ・キャベルの『ぜ、くりいむ、おぶ、ぜ、じえすと』)を譯して 「古東多万」と云ふ雜誌に連載しやうかと考へてゐるのだが、第一この小説の題名をなんと云ふ日本語にあてはめたらいいかと約一週間程頭をひねつたのだが、どうしても適譯がめつからないのだ――かんじは「味の素」のやうな、若しくは「落語のオチ」のやうな風に思へるのだが、これではまるでぶちこわしだから、やつぱりそのままそつくりして置くより仕方がないと考へてゐるのだ。(「癡人の手帖より」)

この作品は、のちに荒俣宏『別世界通信』(1977年、月刊ペン社)でも取り上げられ、1979年に国書刊行会の『世界幻想文学大系』第29巻、ジェイムズ・ブランチ・キャベル著・杉山洋子訳『夢想の秘密』として全訳されています。

 

ジェイムズ・ブランチ・キャベル著・杉山洋子訳『夢想の秘密』(1979年、国書刊行会)奥付

▲世界幻想文学大系第29巻 ジェイムズ・ブランチ・キャベル著・杉山洋子訳『夢想の秘密』(1979年、国書刊行会)奥付

 

表2にある、『言泉』の「ことだま 言靈」の語釈引用について、辻潤が『孑孒以前(ぼうふらいぜん)』(昭和11年5月、昭森社)収録の「惰眠洞放言」(初出は尾山篤二郎編集『自然』、昭和7年1月)で次のように書いています。

こないだも佐藤春夫に会った際きいた話だが、彼の編集している「ことだま」の読者で、「ことだま」というのは全体どういう意味かという質問を発してくる人間がかなりあるので、二号の表紙の裏にその説明をとりつけざるを得ない仕儀に至ったと、さすがの春夫も嘆息これを久しゅうしていたようだったが、それをきいた僕もまったくアキレタリアのホトトギスみたいなスタイルになってしまった。それを「キング」とか「クイン」とかいう雑誌の愛読者程度ならともかく、いやしくも佐藤春夫編集するところの文学雑誌を読もうという程の心掛けを持っている文学青年? が、「ことだま」を知らないに至っては言語道断で、まったく笑いごっちゃない。しかし、翻って考えてみると、これはあまりにわが国に「ことだま」がサキワイ過ぎている結果、ついにたまたまかくの如き滑稽なる現象を生じたのであるかも知れない。過ぎたるは及ばざるにしかずとは、孔子もうまいことをいったものだ。


『古東多万』第一年第三号 目次 昭和六年十二月五日発行

古東多万第一年第三号 昭和六年十二月五日発行 目次

本號定價 金七十錢
【表1】「古東多卍」と表記 第二號と同じ中川一政による柿の木版 油紙重ねなし
【表2】『言泉』の「ことだま 言靈」の語釈引用
【広告】やぽんな書房近刊書目 中川一政畫集 煙霞帖 夜木山房叢書 1
目次 2―3(1-2は青みを帯びた紙)
【広告】やぽんな書房既刊書目  4
【口絵】裸婦  梅原龍三郎 
【扉】古東多万の鏡文字 5
ロダンとブウルデル 承前  高田博厚 6-13
昔がたり  吹田順助 14-23
校友會の崩れ  戸川秋骨 24-30
【広告】やぽんな書房版 中川一政詩集 見なれざる人 30
シルウエット  辰野隆 31-36
【広告】やぽんな書房梓 瀧井孝作著 折柴句集 36
メリメの手紙3  平井程一譯 37-45
【広告】やぽんな書房梓 45
澄江堂遺珠 その三  佐藤春夫 46-52
丈二夜話 其二  愛鶯荘主人 53-55
五律四首  阿藤伯海 55
南仙集  蕙雨山房主人 56
新板鳥瞰  日夏耿之介 57-59
支那民哥  增田渉譯 59
【広告】やぽんな書房 『やぽんな』新年號  60(53-60は青みを帯びた紙)
小市 -レミー・ド・グールモンより- 石井柏亭 61-67
譯詩十篇(ゲーテ、ヹルレーヌ、李白、張九齡、廓振、雀顥、岑參、アノニユーム)  阿部次郎 68-80
東京巡査勤務情況画帖 一名、警官の多忙  ジヲルジユ・ビゴ 81-90
ぽるとがる尼僧マリアンナ その遺したる艶書とに關して――  佐藤春夫 91-108
【広告】白水社刊 108
入道雲  珂那川忽 109
舌代  十一月廿五日の古東多万在京愛讀者茶話會 109
【広告】古東多万第一號・第二號目次 110
編輯餘言  夜木生記 111
【広告】やぽんな書房 112
【奥附】112(111-112は青みを帯びた紙)
【表3】以士帖印社広告 佐藤春夫『魔女』 推薦文は堀口大學
【表4】雅博拿書房ロゴ(中川一政)

『古東多万』第1年第3号の表紙3に掲載された、以士帖印社版・佐藤春夫『魔女』広告

▲『古東多万』第1年第3号の表3に掲載された、以士帖印社版・佐藤春夫『魔女』広告

『古東多万』第1年第3号と秋朱之介の結びつきといえば、口絵の梅原龍三郎を、佐藤春夫『霧社』(昭和11年、昭森社)の装幀者として起用しています。


『古東多万』第二年第一号 新年號 目次 昭和七年一月一日発行

古東多万第二年第一号 昭和七年一月 目次

本號定價 金九十錢
【表1】「古東多卍」と表記 中川一政による木版 油紙重ね貼り
【表2】『言泉』の「ことだま 言靈」の語釈引用
【広告】佐藤春夫作・硲伊之助画『絵入 みよ子』(青果堂) 推薦文・中川一政「讀者は圓本といふ便利的出版でなしに直に作者に逢ふやうなおもひがするだろう。」 1
目次 2―3
【広告】日夏耿之介鑒修 襍志 戯苑 戯苑發售處 4(1-4は赤みを帯びた紙)
【口絵】ゴヤ  戰禍圖譜
【扉】古東多卍 5
ブリアン氏の横顔 (國際聯盟理事會議長ブリアン氏に関する逸話)  堀口九萬一  6-14
【埋草】老子道德經七八 14
舞臺の上の反語  森田草平 15-29
【埋草】老子道德經七一 29
一家言  太田善男 30-36
【広告】やぽんな書房版
柹の葉  新村出 37-42
【埋草】老子道德經三五 42
都忘れて  山口剛 43-50
【広告】佐藤春夫・谷崎潤一郎両先生 肉筆短册頒布會
晴窗帖(山茶花・猫・萬年青・白菜・枇杷)  木下杢太郎 51-57
【埋草】老子道德經八一 57
「銀座」散歩  正宗白烏 58-63
【埋草】支那民哥  增田渉譯 63
神々の住まひ  龍膽寺雄 64-70
【埋草】老子道德經四八 57
昨日にまさる戀しさの  萩原朔太郎 71-72
公園  五十(投稿欄「入道雲」改題)73
雅號漫談  矢野峰人 74-79
【広告】ヤポンナ新年號目次 79
新板鳥瞰  日夏耿之介 80(73-80は赤みを帯びた紙)
廣遠野譚  柳田國男 81-90
痩女  野上豐一郎 91-96
西洋人形の影  佐藤惣之助 97-102
コクトオの「阿片」より  堀口大學 103-113
澄江堂遺珠 その四 老を待たんとする心と妬み心と  佐藤春夫編 114-124
一ヶ月  倉田白羊 125-138
東京巡査勤務情況画帖  ジヲルジユ・ビゴ 139-148
丈二夜話 その三  愛鶯荘主人 149-151
【広告】やぽんな書房 151
編輯餘言(藤春生) 152(149-152は赤みを帯びた紙)
【表3】やぽんな書房既刊書目 【奥附】
【表4】雅博拿書房ロゴ(中川一政)

『古東多万』第2年第1号と秋朱之介の結びつきといえば、木下杢太郎の『晴窗帖(山茶花・猫・萬年青・白菜・枇杷)』は秋朱之介の大きなインパクトを残した隨筆だと推測しています。「ブリアン氏の横顔」の堀口九萬一(ほりぐちくまいち、1865~1945)は、堀口大學(1892~1981)の父ですが、秋朱之介は堀口九萬一のところにも親しく出入りしていたようです。


『古東多万』第二年第二號 二月號 目次 昭和七年二月一日發行

古東多万二月號 昭和七年二月一日發行 目次

本號定價 金七十錢
【表1】「古東多卍」と表記 中川一政による木版 油紙重ね貼り
【表2】『言泉』の「ことだま 言靈」の語釈引用
【口絵】佐藤氏像  硲伊之助
【広告】日夏耿之介鑒修 襍志 戯苑 戯苑發售處 1
目次 2-3
【広告】佐藤春夫作・硲伊之助画『絵入 みよ子』(青果堂) 4(1-4は青みを帯びた紙)
【扉】古東多卍 5
シヤルル・ド・フウコウを傳ふ (サハラ砂漠のカトリック修道僧) 藤井伯民 6-15
【埋草】老子道德經三八 15
貝殻追放 ことばの亂脈  水上瀧太郎 16-22
【埋草】老子道德經一八 22
讀書錄  日夏耿之介 23-26
變り行く言葉  馬場孤蝶 27-34
“Epper Si Mouve” -「くりいむ おぶ ぜ じえすと」第四巻 26-  J・B・きゃべる 辻潤譯 35-43
【埋草】老子道德經四一 43
James Branch Cabell Benjamin De Casseres 辻潤譯 44-48
【埋草】老子道德經二七 49
靜動  千家元麿 50-51
南仙集  蕙雨山房主人 52
メリメの手紙  平井程一譯 53-59
【広告】やぽんな書房
【埋草】老子道德經三六・三七 59
公園  ひでを 60(53-60は青みを帯びた紙)
ヒマラヤ  永見德太郎 61-70
支那民哥  增田渉譯 70
酒興五題(李白、干武陵、敏崔童、杜牧、邵康節)  土岐善麿 71-76
黒衣の花嫁 丈二夜話 其四  愛鶯莊主人 77-83
【埋草】老子道德經七九 83
詩三篇(「模様」「庭鷄」「雪」)  室生犀星 84-87
まがひ志士のはなし 倉田白羊 88-95
人魚  渡辺庫輔 96-102
【広告】やぽんな書房梓
夜木散人漫錄(一) 熊野灘の漁夫人魚を捕へし話  佐藤春夫 103-108
【埋草】送別  王維 108
菅平高原への御案内記  井伏鱒二 109-111
【広告】やぽんな書房
編輯餘言(藤春生記) 112
【奥附】112(109-112は青みを帯びた紙)
【表3】やぽんな書房既刊書目
【表4】雅博拿書房ロゴ(中川一政)

佐藤春夫の「編輯餘言」に、 「○小生に是非何か創作をとの同人からの注文であつたから試みたけれども何も出來ないので、ほんのお申わけの埋草として漫錄(一)を書いた。これはほんの見聞記みたいなものを心覺えに記錄して置かうといふので、紙數のある限りはなるべき毎號書かせて頂くつもりである。」とあって、この二月号から、佐藤春夫も散文作品を掲載しはじめます。

『古東多万』二月号と秋朱之介の結びつきといえば、「菅平高原への御案内記」を書いている井伏鱒二の長編小説『星空』を、西谷操(秋朱之介)は、昭和17年に新たに起ちあげた昭南書房から、昭和17年11月に刊行しています。

井伏鱒二の長編小説『星空』(1942年、昭南書房)のカヴァー

井伏鱒二の長編小説『星空』(1942年、昭南書房)の表紙

▲井伏鱒二の長編小説『星空』(1942年、昭南書房)のカヴァーと表紙
小説としては他愛のない作品ですが、すっきりした装幀の本です。装幀者の名前はありませんが、芹澤銈介ではないかと思います。

 

室生犀星の『餘花』(1944年、昭南書房)

▲室生犀星の『餘花』(1944年、昭南書房)
詩三篇(「模様」「庭鷄」「雪」)を寄稿している室生犀星の作品集『餘花』も、西谷操(秋朱之介)は、昭南書房から、昭和19年3月、刊行しています。

 

荒俣宏『別世界通信』(1977年、月刊ペン社)のカヴァー

▲荒俣宏『別世界通信』(1977年、月刊ペン社)のカヴァー
『古東多万』二月号に掲載された、辻潤のキャベルの翻訳について、荒俣宏『別世界通信』 (1977年5月10日初版発行、月刊ペン社) 「VII ロマンスの誕生」 で、次のように書かれています。

面白いことに、理想の王国をめざす男と、その男を現世の小さな日常に閉じこめてしまう女との、宿命的な出会いを描きつづけたJ・B・キャベルを最初に愛した日本人は、あのニヒリスト辻潤なのだ。辻には『ぼうふら以前』という翻訳小品集があって、そこにキャベルを二編ほど収めている。そのことを知ったぼくは、意外な人物がキャベルを愛好していた事実を前に、しばらく目をしばたたいたものだ。たぶん辻潤は、日本ではじめてキャベルを訳した人物だと思う。そう考えて、辻の『ぼうふら以前』や『螺旋道』といった翻訳集を読んでいったら、かれが宇宙的虚無感にあふれた何人かの作家――たとえばハネカアとかカッサース――などをちゃんと訳出しているのにぶつかって、啞然となった。しかも、どこかのあと書きで、辻みずからがキャベルの『冗談の精髄』を完訳しようと企てたらしいことまで知らされた。すくなくともキャベルについては、ぼくたちはなんと手ごわい先達をもっていたことだろう。

「キャベルを二編ほど」と引っかかりのある表現をしていますが、『古東多万』二月号に掲載され、単行本『ぼうふら以前』に収録されたのは、J・B・きゃべるの辻潤による翻訳〈“Epper Si Mouve” -「くりいむ おぶ ぜ じえすと」第四巻 26-〉と、カッサース(Benjamin De Casseres)による「James Branch Cabell」論の辻潤による翻訳の2編だったので、「二編ほど」という表現になったようです。
この紹介も1つのきっかけとなって、『世界幻想文学大系』第29巻 ジェイムズ・ブランチ・キャベル著・杉山洋子訳『夢想の秘密』(1979年、国書刊行会)の翻訳刊行につながったのだと思います。

『別世界通信』 は、2002年に『新版 別世界通信』(2002年7月30日 第1刷発行 イースト・プレス)となって、内容が改定されています。同じ個所も引用してみます。

おもしろいことに、理想の王国をめざす男と、その男を現世の小さな日常に閉じこめてしまう女との、宿命的な出会いを描きつづけたJ・B・キャベルを最初に愛した日本人は、あのニヒリスト辻潤なのだ。辻には『ぼうふら以前』という翻訳小品集があって、そこにキャベルを二編ほど収めている。そのことを知ったわたしは、意外な人物がキャベルを愛好していた事実を前に、しばらく目をしばたたいたものだ。たぶん辻潤は、日本ではじめてキャベルを訳した人物だと思う。そう考えて、辻の『ぼうふら以前』や『螺旋道』といった翻訳集を読んでいったら、かれが宇宙的虚無感にあふれた何人かの作家――たとえばハネカアとかカッサースなど――をちゃんと訳出しているのにぶつかって、啞然となった。しかも、どこかのあと書きで辻みずからがキャベルの『夢想の秘密』を完訳しようと企てたらしいことまで知らされた。すくなくともキャベルについては、ぼくたちはなんと手ごわい先達をもっていたことだろう。

字は新編で修正された個所です。荒俣宏は、辻潤についての記述を深掘りしようとはしなかったようです。


荒俣宏の文章では言及されていませんが、最初に辻潤がキャベルの「くりいむ おぶ ぜ じえすと」翻訳について言及したのは、『古東多万』第1年第2号掲載の「癡人の手帖より」です。「癡人の手帖より」は、単行本では『癡人の獨語』(1934年、書物展望社)に収録されています。

この『癡人の獨語』と『ぼうふら以前』の2冊の制作には、森谷均(1897~1969)がかかわっています。

昭和38(1963)年8月の『日本古書通信』に、沢田伊四郎・森谷均・八木福治郎による座談会「限定本豪華本 本づくり三十年」が掲載され、次のような発言があります。

森谷 (斎藤昌三から書物展望社を)とりあえず助けてくれ、というわけだ。いわばパトロン・・・・・・。展望社がピンチだった頃だ。そう永くはいないつもりで、それで半年くらい一緒にいたかな。
八木 それは何年ですか。
森谷 昭和九年だったか。
八木 半年くらいではあまり斎藤さんとしては、どうなんです、
森谷 多少は助けましたよ。僕が入ってからやめるまでに五、六点は出しましたから。三村さんの「佳気春天」、深尾須磨子の「丹波の牧歌」、辻潤の「痴人の独語」、それから白秋の「きよろろ鶯」。僕は白秋のところへ何回も行ってね。
沢田 「きよろろ鶯」は僕も手伝ってあげたね。
八木 半年ぐらいでご自分で昭森社を始められたんですね。
森谷 僕が東京へ行く時にね、小出楢重の遺稿を土産に持って行ったわけよ。それを出さないうちに斎藤君と別れたんだ。
八木 小出さんの本というのは「大切な雰囲気」。
森谷 そう、それが僕の処女出版になった。
(『日本古書通信』28巻8号から、昭和38年8月15日発行)

この座談会に秋朱之介が加わっていれば、話がもっと膨らんだのにと、惜しく思います。
森谷均は短い書物展望社時代に、『癡人の獨語』の制作にかかわり、昭森社草創期、秋朱之介と組んでいた「京橋区銀座二ノ四」時代の昭和11年5月に、辻潤『孑孒以前(ぼうふらいぜん)』を刊行しています。

辻潤『孑孒以前(ぼうふらいぜん)』の広告01

辻潤『孑孒以前(ぼうふらいぜん)』の広告02

辻潤『孑孒以前(ぼうふらいぜん)』の広告03

▲昭森社のPR誌『木香通信』(昭和11年の4月号・6月号・8月号)に掲載された辻潤『孑孒以前(ぼうふらいぜん)』の広告
この広告コピーを書いたのは、森谷均というより秋朱之介のような気がします。
ぼうふらは、めったに使わない漢字ですが、「孑孑」ではなく「孑孒(ケツキョウ・ぼうふら)」が正しいです。

 

高木護編『辻潤全集 別巻』(1982年、五月書房)の「辻潤年譜」によると、このころ、辻潤はたいへんなことになっています。
関連部分を引用してみます。年のあとの年齢は辻潤のものです。

昭和7年(一九三二)49歳
二月、「である」第一巻第二号に「もう・てんとあかん」を発表。「古東多万」第二巻第二号にジェムス・B・キャベルの「Epper Si Mouve」とカッサアス「James Branch Cabell」を訳載。同月発行のの同誌第二巻第三号にフロイド・デルの「智的漂泊――或はインテリゲンチャの為の弁」を訳載。同月、二、三日眠らずに呑みつづけ、精神に異常を来たし、天狗様になったぞ、羽が生えてきたぞといって屋根から飛び降りたり、町中をおらび歩いたりして、新聞のゴシップ記事になる。青山脳病院の斎藤茂吉博士の診察を受け、しばらく入院する。そのころのことを「東京の大岡山にいた時のこと、羽根が生えてね、こう部屋の中をゆったりふわふわ飛べるんですよ、思い通りにね。そして、部屋に山水の画がかけてあったが、それをじっと見ているとね、今度は自分がその画の谷間を飛んでいるのが見えるんだ。愉快じゃないですか。ところがね、好事魔多しだ、しくじっちゃいましたよ。自分が飛べると自信がついたもんだから、二階の窓からすっと飛んで出た、途端にさ、下界へ落っこちゃって、驚いたね、これには。それで、はっと意識が明瞭になったんだ。怪我がなくてよかったが、そでが丸ビルの屋上かなんかだったら、今ごろ辻潤地獄の空をもっぱら飛んでいたことだろう・・・・・・ハハハハ」と話している。

四月、谷崎潤一郎、佐藤春夫、田中貢太郎、北原白秋、萩原朔太郎、加藤一夫、佐藤朝山、宮川曼魚、新居格、武者小路実篤、西谷勢之介、中山忠道(中山啓)、安藤更生、古谷栄一、宮嶋資夫、室伏高信、井沢弘、村松正俊、山本正一、卜部哲次郎、津田光造らの世話人で「辻潤後援会」ができ、銀座の伊東屋六階で文壇画壇らの名家揮毫小品即売会がひらかれ、その売り上げ金を静養費の一部として贈られる。
辻潤後援会のこと
何も事々しく趣意書でもありますまいが、辻潤が永年の思想的漂泊の結果、狂気を発したのは君にとっては自然な到着地として何等悲嘆驚愕すべきではないかも知れないが、友人たる我等としては呆然自失する。しかし只拱手傍観しては居られない。君は今、市外幡ヶ谷の井村病院に在って静養中であるが、診察によれば当分恢復を期待することも覚束ないらしい。然も家庭には老母と幼少の二児が居る。
病人をも家族をも後援するの要あるは喋々を須まい。我等少数の力を以ては及び難いので、この際諸君子の御同情を得て、後援会を起こしたいと希望して次の如き方法を案じてみました。何卒御賛成を賜わるよう幾重にもよろしく御願い申し上げる次第であります。
昭和七年四月二十三日 世話人 佐藤春夫曰
一、後援方法稿料寄贈或は現金寄贈とする。
一、稿料寄贈は辻潤論を書き、その稿料を寄贈する。
一、原稿は新聞雑誌で発表出来る限り発表する。
一、後でそれを纏め、一巻の単行本にして出版する。
後援会事務所
小石川区南関口町二〇七 佐藤春夫方
とある。

昭和9年(一九三四)51歳
九月二十日に、谷崎潤一郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、新居格、武林無想庵らを発起人として、新宿角筈の「セノウ」にて「辻潤君全快祝う会」が催される。発起人の他に上山草人ら多数が出席。

昭和10年(一九三五)52歳
八月、エッセー集『癡人の独語』を京橋区新富町三丁目七番地の斎藤昌三経営の書物展望社から出版。これは特製本百部限定皮装本(一冊も同一のものがないというラッパアの裏表紙の肉筆絵サイン入り)と、普通版六百部限定本(ラッパアの裏表紙の)二種であった。同月、添田知道編集の「素面」に句を五句発表。同月十七日、十八日、神奈川県茅ヶ崎の斎藤昌三の少雨荘での「素面の会」の一泊句会に出席。「ニラルドミラリニンニクニヤリニヤリから」などの句をひねる。

九月、「書物展望」第五巻第九号の「書斎めぐり」に潤のスナップが載る。同月二十一日、浅草の「三州屋」で『癡人の独語』の出版記念会が開かれ、佐藤惣之助、木村幹、荒木郁子、大津賀八郎、古谷栄一、倉持忠助、曽根彩花、酒井真人、斎藤昌三、石井獏、井伏鱒二、村松正俊、添田知道、卜部哲次郎、矢橋丈吉、尾形亀之助、片柳忠男、山本正一、宮前一彦、山内我乱洞ら六十数名が出席。また新宿の「白十字」で萩原朔太郎、武林夢想庵や読者たちが中心になって二回目の出版記念会が開かれ、読者だと称して会費を払わない者たちめで押しかけてくる。

昭和11年(一九三六)53歳
五月、エッセー集『孑孒以前』を京橋区銀座二丁目四番地の昭森社から出版。これは同社社主森谷均の厚意によるもので、最後の著書となる。

ここにある集まりのいくつかに、秋朱之介も参加していたのではないか、と思います。


『古東多万』第二年第三號 三月號 目次 昭和七年三月一日発行

古東多万第二年第三號 第三月號

本號定價 金七十錢
【表1】「古東多卍」と表記 中川一政による木版
【表2】編輯者の言葉
【広告】佐藤春夫作・硲伊之助画『絵入 みよ子』(青果堂) 1
目次 2-3
【広告】やぽんな書房既刊書目 4(1-4は赤みを帯びた紙)
【口絵】坂本繁二郎
【扉】古東多卍 5
智的漂泊 -或はインテリゲンチヤの爲の辯-  フロイド・デル 辻潤譯 6-24
夜の心  千家元麿 25
俺松庵十首  谷崎潤一郎 26-27
やぽんな書房後援畫會  中川一政 28-29
アニツク城下版「魚鑑」(一)  平田禿木 30-37
【挿畫】アニック城下版「魚鑑」表紙 31
【埋草】老子道德經五三 37
メリメの手紙4  平井程一譯 38-48
【広告】やぽんな書房 48
【埋草】雨  野凱南 48
明治初年の外人畫家(一)  木村莊八 49-52
【挿畫】ジオルジユ・ビゴオ著 “Shocking au Japon” 51
【引用再録】明治初年の洋画研究 白馬會講苑に於て  安藤仲太郎 53-58
【埋草】老子道德經二 58
公園  柳田先生訪問記 高木一夫 59
二月十七日枕頭口吟 -ある人に寄す-  佐藤春夫 60
紙芝居  西谷碧落居 60(53-60は赤みを帯びた紙)
情意の干滿  豐島與志雄 61-65
母のこと  阿部ツヤコ 66-71
【埋草】老子道德經七四 71
十一月の記  高木一夫 72-89
繪入本「みよ子」上梓について  佐藤春夫 90-91
精神病者の多い町  高橋新吉 92-100
離騒釋義(一)  公田連太郞 101-108
【広告】文人雜誌ヤポンナ 第三月號 109
編輯餘言(藤春生記) 110-111
【広告】佐藤春夫・谷崎潤一郎 肉筆短册頒布會 111
會員諸氏に告ぐ-本誌定價に就いて- 112
【奥附】112(109-112は赤みを帯びた紙)
【表3】新潮社版 佐藤春夫 武蔵野少女
【表4】雅博拿書房ロゴ(中川一政)

『古東多万』二月号のころ、辻潤が病の世界へ入っていく一方で、別のダダイスト詩人が帰ってきています。
佐藤春夫の「編輯餘言」に、次のような記述があります。

○三宅やす子女史の訃に愕いた編者は二十年來の友人藤澤淸造の悲痛な最後を傳へられて凄然たる心持に打たれた。文を諸友に乞ひまた自らも君の回想を記して弔意を表しようと努めてみたけれども遂に文章を成さなかった。三宅氏の方は幸に令孃ツヤコさんの可憐な一文を乞ひ得た。
○悲報(三宅やす子と藤澤淸造の死)に引きかへて喜ぶべきは一時は一命を危ぶまざるを得なかつた高橋新吉が精神的健康を恢復して、前日末上京し時々は山莊を訪うて快活な談話をする一事で。早速本號にもその一小品を得たがこれを手はじめに今後度々諸氏の御愛讀を願ふことにしたい。

2人のダダイスト、辻潤と高橋新吉(1901~1987)が、入れ替わりで登場しています。


『古東多万』第二年第四號 四月號 目次 昭和七年四月一日発行

古東多万第二年第四号 目次

定價 金五十錢
【表1】「古東多卍」と表記 中川一政による木版
【表2】編輯者の言葉
【広告】ヤポンナ書房刊 鈴木金二 長篇小説 友達 1
目次 2-3
【広告】ヤポンナ書房刊 宮崎丈二詩集 白猫眠る 推薦文・千家元麿 4
【口絵】マルチネ像  高田博厚
【扉】古東多卍四月号 5
ペイタアのプラトオン論 -ウオルタア・ペイタア覺書の一節-  ライオネル・ジョンスン 荒川龍彦譯 6-16
【埋草】老子道德經三三 16
藝術雜感  武者小路実篤 17-19
海表望鄕歌(ブラウニソグ)  日夏耿之介 20-21
寫本「良寛法師吟草」  艸心洞主人 22-29
【埋草】老子道德經六二 29
沒  高橋新吉 30-46
「梅斐爾德木刻士敏士之圖」 47-50
情意の干滿〔再掲〕  豐島與志雄 51-55
或る春の日に  吹田順助 56-57
明治初年の外人畫家(二)  木村莊八 58-67
メリメの手紙(5)  平井程一譯 68-79
【埋草】老子道德經六七 79
楚辭釋義(二)  公田連太郎 80-86
夜木散人漫録(二) -西湖紫雲洞の話- 佐藤春夫 87-91
【広告】佐藤春夫・谷崎潤一郎兩先生 肉筆短册頒布會 91
公園  散歩  妹尾健太郎 92-93
編輯餘言(藤春生) 94-95
【広告】やぽんな書房既刊書目 96
【奥附】 96
【表3】広告 ヤポンナ 第四月號目次
【表4】やぽんな書房 中川一政の木版

佐藤春夫の「編輯餘言」に、 次のような記述があります。

○茲に最も困った事には、小生にとつては二十年來の舊友であり、本誌にとつても創刊號以來のよき後援者であつた辻潤君が思ひがけなくも旬日前から少々常軌を逸し過ぎた言動が多い。平生から酒を愛しまた習俗に嫺はぬところの多い同君ではあるが、今度のは少し病的と思はれるので一兩日前からさる病院に入院してゐる次第である。従つて前號來の同君の譯稿も當分は駄目になつてしまつたことを御承知願ふ。老母と幼年の三兒とが途方に暮れてゐるのは誠に痛ましい。

○尚小生の私刊全集たる夜木山房叢書はいろいろな都合で多少遲刊するが、諸種の用意だけは進捗しつゝある。

○本日は中川(一政)氏の義弟千田是也君が東京演劇集團の旗揚げをするので氣勢を揚げるために、中川五十澤及小生が發起して在京會員中の同志を募つてこれから見物に出かける豫定になつてゐる。其ため四五日ぶりでも髭も當らなければならない。もう時間が迫つたから入浴しなければならない。擱筆する。(三月二十六日五時ごろ、藤春記す)

夜木山房叢書の制作には秋朱之介がかかわっていたと推測されますし、秋朱之介は演劇青年でもありましたから、東京演劇集団旗揚げ公演観劇の「同志」だったのかもしれません。

裏方は表に出てこないのが常ですが、このころの秋朱之介の動向が何か記録に残っていれば、と思います。


『古東多万』第二巻第五號 五月號 目次 昭和七年五月一日発行

古東多万第二巻第五号 目次

定價 金五十錢
【表1】「古東多卍」と表記 中川一政による木版
【表2】編輯者の言葉
【広告】戯苑發售處 日夏耿之介撰 詩集咒文 1
目次 2-3
【広告】ヤポンナ書房刊 鈴木金二 長篇小説 友達 4
【扉】古東多卍五月號 5
正宗谷崎兩氏の批評に答ふ  永井荷風 6-16
「魚鑑」(二)  平田禿木 17-20
【埋草】老子道德經三五 20
晩年のN君  宇野浩二 21-28
【広告】梅斐爾德木刻士敏士之圖 28
斷片  隖其山 29-31
【埋草】老子道德經七九 31
雨  吹田順助 32-33
西鶴偶惑  里見弴 34-37
メリメの手紙(6)  平井程一譯 38-48
【広告】やぽんな書房 48
【埋草】老子道德經八〇 48
公園 佐藤宛私信の一節 武林夢想庵 49
【埋草】老子道德經三九 49
短篇『乞食婆の歌』  富澤有爲男 50-65
楚辭釋義(三)  公田連太郎 66-74
小林清親小傳及び自畫傳に就て  編輯者 75-91
【広告】ヤポンナ 第五月號目次 92
新板鳥瞰  日夏耿之介 93-94
【埋草】老子道德經五五 94
編輯餘言(藤春生) 95
【広告】佐藤春夫・谷崎潤一郎兩先生 肉筆短册頒布會 95
【広告】やぽんな書房既刊書目 96
【奥附】96
【表3】広告 ヤポンナ書房刊 宮崎丈二詩集 白猫眠る 推薦文・千家元麿
【表4】やぽんな書房 中川一政の木版

佐藤春夫の「編輯餘言」に、次の記述があります。

○前號にその發病を報じた辻は、幡ヶ谷の井村病院にあつて靜養中で稍鎭靜の状態だと聞くけれど、再び文を草するやうな日は果して何日であらうか。

文藝誌『古東多万』は、辻潤の回復を見ないまま、資金不足で終わりを迎えます。

 

『古東多万』別冊 目次 昭和七年八月二十五日印刷 昭和七年九月一日發行

古東多万別冊 目次

目次 1
ロダンとブールデル(三) ―亡き富田濟子に献ぐ―  高田博厚 2-10
相聞居詠草  吉井勇 3-4
詩の賚  ステファヌ・マラルメ 鈴木信太郎訳 6-7
【広告】老子古注集訓刊行會 老子古注集訓(佐藤春夫先生 中川一政先生 日夏耿之介先生贊翼 公田連太郎先生鑒校) 7
或る時  吹田順助 9-10
濱茄  中戸川吉二 11-16
西歐詩醇  (シルレル)阿藤伯海11-16
【広告】古東多万合巻 16
風波  魯迅作 增田渉譯 17-21
メリメの手紙 承前  平井程一譯 22-27
【告知】古東多万 第二巻刊行會員募集 27
新板鳥瞰  日夏耿之介 27
楚辭釋義 (四)  公田連太郞 28-30
休刊陳謝その他の言葉 佐藤春夫 31-32
付記 〔二郎〕
【奥附】32

7ページに、『古東多万』誌の空いたスペースに使われていた「老子道德經」の書籍化したものと思われる『老子古注集訓』の広告がありますが、実際に刊行されたかどうか分かりません。『古東多万』では、埋草の老子は読み物として人気があったようです。

この別冊は、発行元が五十澤二郎のやぽんな書房のではなく、佐藤春夫の古東多万社という形になっています。
やぽんな書房がいつ終わったのかはっきり分かりませんが、このころには、五十澤二郎は、昭和8年から出版される竹村書房の中国古典の準備に入っていたようです。

 

最後に、佐藤春夫が『古東多万』創刊号に掲げた「編輯者の言葉」を。

予はこの好機を以て刻下のジヤアナリズム以外に清新にして多趣多益なる定期刊行物を得たしとの素志を実現せんとす。前人の未だ企てざりし境地を望みて創造的興味をもつて編輯を楽しみつつあり。執筆者名簿を点検作成すれば、例へば、野に出でゝ花を摘むが如き喜びあり。熟ら思ふに一切の生活及芸術上の最高の師匠たる自然はジヤアナリズムに於ても第一の模範を垂れたるに似たり。月々の花屋と果物屋との店頭は雑誌店の店頭よりはるかに多く人を喜ばしむる所以を思ひて、予輩は敢て前人に倣はず、これを花束と果物籠とに学ばんとす。また空に浮ぶ雲の色の地上と隔絶しながらも自らにして折々の季節の色を帯びたるが如くに我等が創刊するところの物も亦、時流を超越せるがうちに自ら時勢の反映あるべきを期す。要は予輩はジヤアナリズムの使命を更めて自覚し、その特有の美を創造せん事を意図する者、幸に江湖の諸君の支持を得て刻下のジヤアナリズムに寄与して一服の清涼剤たるを得んか。願はくは同情を賜へ。
 編輯責任者 佐藤春夫 白す

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

TUJIKO NORIKO『SOLO』(2006、Editions Mego)

TUJIKO NORIKO『SOLO』(2007、Nature Bliss、Editions Mego)

このアルバムが出てからもう10年以上経ったのかと驚きます。
古びていません。もっとも、たかだか10年で古びるようなものなら、それもどうかと思います。

ただの電子音にも人の感情がのると、思わぬ方向に増幅されます。
汚れちまった悲しみの詩情があって、深夜の闇のひとつぶ、ひとつぶが音になったような、
このアルバムに、しんしんと、しみいりたいときがあります。

ひっそりと聴き継がれてほしいです。

 

▲ページトップへ


 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

244. 1931年『古東多万(ことたま)』第一號(2018年9月20日)

1931年『古東多万(ことたま)』第一號

 

前回に引き続き、『古東多万』の話です。
写真は、『古東多万』第一號(1931年9月15日発行、やぽんな書房)の表紙です。装幀は中川一政(1893~1991)。

佐藤春夫(1892~1964)については、牛山百合子による詳細な年譜があり、その年譜に、個人的に関心のある五十澤二郎(いざわじろう、1903~1948)や秋朱之介(西谷操、1903~1997)の動きを重ねてみると、時代の空気の見通しがよくなったような気がします。もっとも、五十澤二郎や秋朱之介の行動については資料が圧倒的にたりないので、くっきり見渡せるというほどではないのですが。

五十澤二郎や秋朱之介が、佐藤春夫とどういう形で関係を結ぶことになったのか、詳細な経緯は分かりませんが、彼らが接触するようになったと思われる昭和5年(1930)は、佐藤春夫の人生にとっても節目の年でした。

昭和5年(1930)8月18日、佐藤春夫、谷崎潤一郎、千代の三人は、連名で離婚結婚の挨拶状を発送します。佐藤春夫は谷崎潤一郎の前夫人・千代と結婚します。いわゆる「細君譲渡事件」の年でした。

そして、もうひとつ大きいできごとがあります。同じ年の9月、兵庫県武庫郡本山村岡本梅谷の谷崎邸に滞在中、佐藤春夫は軽い脳溢血をおこし、昭和5年12月から昭和6年3月まで郷里の和歌山の下里で療養することになります。「軽い」とはいわれるのですが、その前後の佐藤春夫について、次のような証言が残されています。

千代夫人「(脳出血までの)それまでの佐藤はね、鋭くてね、もう怖くて怖くて。あれ、脳溢血になってやっと普通にできるようになりました」〈「大久保房雄インタビュー 懐かしい文士・佐藤春夫さんの思い出」『佐藤春夫読本』(2015年、勉誠出版)〉
谷崎潤一郎は、佐藤春夫の追悼文「佐藤春夫のことなど」で、その脳出血以降「もう若いときのような、おそろしい鋭さはなかった」と語っています。

千代夫人や谷崎潤一郎が言う「鋭さ」を失うことがなかったら、佐藤春夫は、同い年の芥川龍之介(1892~1927)のように自死することを選ぶこともあったのではないか、と想像したりします。

そんな時期に、佐藤春夫と五十澤二郎・秋朱之介との関わりが始まっています。

以下の年譜での、佐藤春夫関連の日付は、佐藤春夫研究家・牛山百合子が作成した次の資料を参考にしました。

・『定本佐藤春夫全集』第36巻(2001年6月10日発行、臨川書店)「書簡」
・『定本佐藤春夫全集』別巻1(2001年8月10日発行、臨川書店)牛山百合子「年譜・著作年表」
・牛山百合子「佐藤春夫の手紙―詩集『魔女』の頃」(學燈社『國文學』2000年11月)

 

牛山百合子「佐藤春夫の手紙―詩集『魔女』の頃」(學燈社『國文學』2000年11月)

 

以下は、佐藤春夫と五十澤二郎・秋朱之介とのかかわりについての年譜ですが、そのちょっと前の「円本」のころから、年譜をはじめます。

 

大正14年(1925)佐藤春夫33歳、秋朱之介・五十澤二郎22歳

●11月12日 佐藤春夫は、父・佐藤豊太郎宛ての書簡で、「現金にて壱万円はいつでも出来ることに決定いたし居り候。手ごろの土地でもあらば一半をその方に投じ一半は家屋新築、或は適当なる売家等なきかと心掛け居り候へども・・・」と、新居建築を考えていることを報告。その資金として、新潮社、改造社、第一書房からの印税や前借り、合わせて約1万円を当てにしています。この段階では、昭和元年(1926)暮れに始まった円本ブームは想定されていないのですが、その円本ブームが佐藤春夫の新築移転を後押しすることになります。

 

大正15年・昭和元年(1926)佐藤34歳、秋・五十澤23歳

●12月 改造社が円本ブームのきっかけとなった『現代日本文学全集』の刊行を開始します。昭和改元と重なったため、昭和は円本ブームとともに始まったとも言われるようになります。佐藤春夫は、その恩恵を受けた作家のひとりでした。

 

昭和2年(1927)佐藤35歳、秋・五十澤24歳

●5月29日 佐藤豊太郎宛書簡に、「家の設計、大石七分がやり面白いが、一万円ぐらゐかかりさう」と報告。
大石七分は、西村伊作(文化学院創立者)の弟。

●5月 改造社・中央公論社で活躍した出版人・牧野武夫の回想録『雲か山か 出版うらばなし』(1976年・中公文庫、元版は1951年の学風書院)に、次の記述があります。

昭和二年は、第一次の円本合戦が盛大に展開された年であった。その年の五月、私は改造社の宣伝特派員としてはじめて九州の地をふんだ。武者小路実篤、佐藤春夫、高須梅渓の三氏を講師とする講演班を持って行ったのである。高須老はその頃すでに半アル中と見られるほどの酒仙ぶりで、飄々浪々としていたがさすがに講演はうまかった。佐藤先生は例によって金ぶちの鼻眼鏡も颯爽と、若々しく華やかなハイカラ振りであった。黙々として言葉すくなの武者小路さんは、日向の新しい村経営で一世の視聴をあつめていた頃で、この間なくなった真杉静枝さんが武者小路氏の前に現れたのも、たしかその旅行のときであった。

円本ブームのとき、佐藤春夫は、改造社のPR講演要員だったようです。

●7月29日 佐藤豊太郎宛書簡に、「新居は小石川区関口台町二〇七に御座候」「新居九月一ぱいには多分落成いたすべきか」と報告。

●7月24日 佐藤春夫と同い年の芥川龍之介自殺(35歳)。佐藤春夫は中国へ旅行中でした。

●8月5日 円本ブームのきっかけとなった改造社の現代日本文学全集の第29巻として、『里見弴 佐藤春夫集』発行。

 

現代日本文学全集第29巻『里見弴 佐藤春夫集』(1927年、改造社)表紙

現代日本文学全集第29巻『里見弴 佐藤春夫集』(1927年、改造社)奥付

▲現代日本文学全集第29巻『里見弴 佐藤春夫集』(1927年、改造社)表紙と奥付。鹿児島県立図書館蔵。


●9月 佐藤春夫、小石川区関口町207の新居完成。
戦中戦後に、長野の佐久に疎開しますが、ここが佐藤春夫の終の棲家となります。

●9月 佐藤春夫、岩波書店の芥川龍之介全集編輯同人に。

 

昭和3年(1928)佐藤36歳、秋・五十澤25歳

●5月、佐藤春夫、鹿児島へ旅行。のちに秋朱之介との会話の種になったかも。

 

昭和4年(1929)佐藤37歳、秋・五十澤26歳

●9月15日 佐藤春夫『車塵集』(武蔵野書院)
巻頭に「芥川龍之介がよき霊に捧ぐ」という献辞。

『車塵集』は、秋朱之介が「美しい本について」というエッセイで、座右の宝5冊に選んでいます。「佐藤春夫の本は、ダンピングに出ない本はない位売れなかった。『車塵集』なども、高田馬場の古本屋の店先に積んであったのを、ボクが全部買い占めたことがある。
芥川龍之介の本の装幀で知られる小穴隆一(1894~1966)の装幀です。座右の宝5冊には、小穴隆一が装幀した芥川龍之介『春服』も選んでいます。芥川×小穴的な本への憧れが、秋朱之介の本づくりのおおもとになっているのかもしれません。

 

昭和5年(1930)佐藤38歳、秋・五十澤27歳

●5月19日 同い年の詩人・生田春月(1892~1930)自殺(38歳)

●5月20日 『新選佐藤春夫集』(改造社)発行。

●8月18日、佐藤春夫、谷崎潤一郎、千代と連名で離婚結婚の挨拶状発送。佐藤春夫と千代の結婚。いわゆる「細君譲渡事件」。

●9月 兵庫県武庫郡本山村岡本梅谷谷崎邸に滞在中、佐藤春夫は軽い脳溢血をおこす。
昭和5年12月から昭和6年3月まで郷里の和歌山の下里で療養。

●10月、五十澤二郎、やぽんな書房を横浜〈横浜市神奈川区神奈川町字立町1717(横浜市東神奈川渡辺山逢茶庵内)〉に設立。そこに秋朱之介(西谷操)が居候して、川上澄生の詩画集『ゑげれすいろは』の制作を手伝うようになります。
秋朱之介と五十澤二郎が出会った経緯は、分かっていません。
昭和5年初秋に出された『やぽんな叢書』の案内では、やぽんな書房の住所は「横濱市東神奈川渡邊山」となっています。

●10月14日 佐藤春夫から、改造社の浜本浩宛てに、全集を3冊ぐらいにという書簡。

●佐藤春夫は、五十澤二郎との出会いについて「 誰の紹介もなく最初手紙で用件の内容を云って面会を求めて来たのに応じた。さうして雑誌(『古東多万』)は、経営上の責任一切は彼、編輯上の責任は全部僕といふ事ではじめた。」(1958年5月15日発行、佐藤春夫「五十沢二郎といふ人」『限定版手帖18』今村秀太郎)と書き残しており、五十澤から佐藤への手紙から、つきあいが始まったようです。

ちょっと後の話になりますが、秋朱之介が内田百閒との出会いについて、『王様の背中』の書評(秋朱之介「水無月襍記」昭和9年7月1日發售『書物』7月号、三笠書房)で、次のように書いています。

私が未知の内田先生へ最初の御便りを差し上げたのは、昨年の秋近い頃でした。葉鶏頭の葉うらが色づいて。夾竹桃の葉が黄金色に散つて、道ゆき女がなつかしくて、旅行く烏の聲のかなしいころ。みすぼらしい姿で私は法政大學の別館に先生と最初の會見をしました。先生の著作刊行の件についてでした、それからいまだ一年も經ぬうちに。先生、お互の上にどんなに大きな變化がありました事か。

ここでの「昨年の秋近い頃」というのは、昭和8年(1933)8月下旬くらいでしょうか? 三笠書房は昭和8年9月に創業し、秋朱之介はその最初の責任編集者的役割を果たします。秋朱之介は内田百間『百鬼園隨筆』(昭和8年10月25日発行、三笠書房)の編集・装幀にかかわっており、この本で、内田百閒は人気随筆家となります。
この『王様の背中』評は、秋朱之介が三笠書房を辞める直前の文章なので、だいぶ感傷的になっていますが、やはり最初は、秋朱之介が面識のない内田百閒に手紙を書いたことで、つきあいがはじまっていたことが分かります。

これらの手紙が残っていればいいのですが、残っていませんので、推測ばかり多くなってしまいます。

ただ秋朱之介の場合、すでに堀口大學のところには出入りしていたので、堀口大學を通して、佐藤春夫と知り合った可能性もあります。
昭和5年10月に五十澤二郎が横浜で起ちあげたやぽんな書房に、秋朱之介は居候して編集を手伝うことになるのですが、そのときに佐藤春夫をすすめたのは秋朱之介だったのかもしれません。資料が残っていないので「かもしれません」ばかりですが、谷崎と佐藤のあいだで「細君譲渡事件」のあった昭和5年、五十澤二郎や秋朱之介は、大量生産大量販売の「円本」とは真逆の美意識に基づいた、新たな本づくりに動き出していました。

 

昭和6年(1931)佐藤39歳、秋・五十澤28歳

●1月10日 佐藤春夫より南江二郎宛ての書簡に「ヤポンナと以士帖との出板方針には満腔の賛成を表する者也この趣御序の説宣布致声なし下され度」 と書き、この時点で、五十澤二郎と秋朱之介に信頼を置いていることが分かります。

●2月11日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。川上澄生の伊曽保版画送付への御礼と『魔女』について。
『定本佐藤春夫全集』に収録されているものでは、秋朱之介宛ての最初の書簡。
佐藤春夫の住所は、和歌山県東牟婁郡下里町
秋朱之介の住所は、横浜市神奈川区神奈川町字立町1717(横浜市東神奈川渡辺山逢茶庵内 以士帖印社 秋朱之介様)

●2月26日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。『魔女』について。

●3月1日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。川上澄生版画送付の御礼。

●3月5日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。「魔女やその他の拙作を貴君の手にお委ねするの件」について。

●3月12日 日夏耿之介より秋朱之介宛て書簡。牛山百合子「佐藤春夫の手紙―詩集『魔女』の頃」でその存在が言及された書簡。3月5日の佐藤春夫書簡にオシヨオネシイ宛の艶書について日夏耿之介に聞いては、との言及があり、秋はすぐ日夏に問い合わせたようです。その返事。

●1931年春 明確な日付はありませんが、以士帖印社(エステルいんしゃ)の小冊子『以士帖』では、「1931年春宵」とだけあります。
以士帖印社の住所は「横濱市神奈川立町一七一七逢茶庵内」で、秋朱之介は、五十澤二郎のやぽんな書房に居候したまま、以士帖印社の冊子を刊行しています。小冊子『以士帖』で佐藤春夫『魔女』の刊行を予告。

●4月13日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。川上澄生への蔵書票依頼。
佐藤春夫の住所が、「東京小石川区関口町207」になっており、3月までの郷里和歌山での脳溢血の療養を終え、東京に戻っています。
秋朱之介と以士帖印社の住所も、「横浜市本牧宮原899」に変わっていますので、このころ、秋朱之介も五十澤二郎の居候でなくなったようです。

●4月17日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。『魔女』原稿と蔵書票。

●5月20日 中川一政『詩集 見なれざる人』(やぽんな書房、横浜・神奈川・渡邊山)発行。
のちの昭和18年(1943)、秋朱之介(西谷操)は、この詩集の改版『野の娘』を、昭南書房で出版することになります。

●7月 佐藤春夫、改造社の『改造』誌に「魔女」詩集を発表。

●9月5日 『古東多万』(やぽんな書房)第一年第一號発行。
やぽんな書房は、佐藤春夫、中川一政、日夏耿之介を同人、五十澤二郎と高木一夫を執事とする相互出版協社。
その月刊雑誌『古東多万』の責任編輯者は佐藤春夫。
『古東多万』では、五十澤二郎とやぽんな書房の住所が、「東京市赤坂区伝馬町2丁目8番地」になっており、五十澤は横浜の渡邊山を5月から9月の間に離れたと思われます。

佐藤春夫の「五十沢二郎といふ人」(1958年、『限定版手帖18』今村秀太郎)を引用してみます。

 やぽんな書房のことも、その経営者五十沢二郎の事もをかしいほど何も知らない。忘れたのではない。最初から知らないのである。僕の個人雑誌「ことたま」を約一年出した人であるのに。
 誰の紹介もなく最初手紙で用件の内容を云つて面会を求めて来たのに応じた。
 さうして雑誌は、経営上の責任一切は彼、編輯上の責任は全部僕といふ事ではじめた。
 確実な経済的基礎があるやうにも見えなかったが、信用してもヒドイ目にあひさうな人柄とも見えなかつたので簡単な口約束で始めて雙方でこの約束は最後までよく守られた。この点彼も紳士契約を実現した紳士であつた。
 彼は顔面蒼白の痩形な人で、組紐のボタンをつけた一種独特のルバシカ風なものを着てゐた。奇矯といふ程ではないが、独創を喜び奇を好む風が見えてゐた。
 やぽんなといふのはエスペラントか何かと聞いたら、知らないデタラメにつけた名だと云ひ、五十沢も伊沢が本当だらうが、五十沢をイザワと読ませるのは無理ではないかといふと五十鈴川をイスズガワと読むではないかと五十をイとよむ用例を挙げた。
 編輯会議めいた事をして毎月一度以上は必ず顔を合して談笑するやうになつてからも身の上ばなしなどはしない人であつた。歌人高木一夫君は当時から彼を助けてゐた人だから高木君はもつと詳しく知つてゐるであらう。
 終戦の翌年越後高田に疎開中の堀口大学を訪うて、はからずも五十沢が自殺して世を去つた事を知つた。
 彼には自費出版になる中国の古典叢書が二三種(?)あつた。率直に要領のいい口語で大意を伝へたもので彼らしい独自のものである。高木の編纂で近く複刊本が出ると聞いてゐる。

 

『古東多万』誌のやぽんな書房近刊広告

▲『古東多万』第一號掲載のやぽんな書房近刊広告

『古東多万』第一號のやぽんな書房近刊広告に、〈夜木山房叢書 約十巻 家蔵版定本佐藤春夫全集 第一巻「たび人」「霧社」「女戒扇奇譚」全三冊定価其他近日発表〉の記載があります。
残念ながら、このやぽんな書房版の佐藤春夫自選全集は刊行されることはなく、『古東多万』とほぼ同時期に刊行された改造社版の全集が、佐藤春夫の最初の全集となりました。
1931年3月5日の佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡には、「その他の拙作を貴君の手にお委ねするの件」とあるのですが、このやぽんな書房版の全集のことだったのではないかと思われます。

秋朱之介(西谷操)は、昭和11年(1936)、この広告にあった「たび人」「霧社」「女戒扇奇譚」など台湾を舞台にした作品をまとめた『霧社』(昭森社)を制作し、梅原龍三郎の装幀で刊行しています。秋朱之介には、こういう粘り強い面もあります。

「夜木山房」というのは、佐藤春夫の「東京小石川区関口町207」の新居のこと。神代種亮によれば、「夜木」の合字「棭」は、合歓(ねむ)の樹名で、佐藤春夫邸の前に合歓の木があったことから名付けられています。このころ、佐藤春夫は「夜木山房主人」と名乗っていました。

 

『古東多万』第1年第1号(1931年9月15日発行、やぽんな書房)目次

▲『古東多万』第1年第1号(1931年9月15日発行、やぽんな書房)目次

【表1】 中川一政
【表2】 相互出版協社 やぽんな書房規約抄
【広告】日夏耿之介鑒修 襍志 戯苑 戯苑發售處 1
目次 2-3
【やぽんな書房近刊書目】中川一政畫集 煙霞帖、夜木山房叢書約十巻 4
裸婦写生図(口絵)故小出楢重
【扉】古東多万 第一號 中川一政 5
僕の性に合ふもの合はぬもの―ゴルスワージイの「駈落者」とジョイスの「ユリシーズ」(*評論)  森田草平 6-16
蟲ぼし  倉田白羊  17-24(*随想)
家大人の膝下に寄す  佐藤春夫 25(*詩)
鞆ノ津所見  井伏鱒二 26-30
【埋草】杜牧 遺懷 小松緑郎 30
眠られぬ夜  小林秀雄 31-36(*随筆)
【埋草】Rubaiyat 郭沫若訳
メリメの手紙 -(1)-  平井程一(訳) 37-43
【埋草】スクラップ・ブック フランスの文学者が寄せ書きした扇子の記事(時事新報)
糠雨  久保田万太郎 44-48(*随筆)
近什  藤井紫影 48(*俳句五句)
澄江堂遺珠 -(一)思ふはとほき人の上-  佐藤春夫編 49-52 65-69
ジョン・ヘイグその他  内田誠 53-55
【広告】やぽんな書房
山莊對話  日夏耿之介 56-60
【広告】白水社
ジヤーナリズムを敵に廻して -入道雲-  (森田草平) 61
フラソス文芸消息  高田博厚 62-64
【紹介】谷崎潤一郎・佐藤春夫両先生短冊頒布会の事-(五十) 64
覺海上人天狗になる事  谷崎潤一郎 70-76
貝の穴に河童が居る  泉鏡花  77-112
新刊紹介 -さえらほか-  (藤春) 113-115
編輯余言(藤春記す) 115-116
【表3】 編輯者の言葉 月刊雜志古東多万・頒布章程抄
【表4】 やぽんな書房

 

創刊号巻頭のエッセイが森田草平(1881~1949)なのが、今の感覚からすると、この人選でよかったのかという感じもするのですが、創刊号に、谷崎潤一郎と泉鏡花(1873~1939)の作品が並んでいるということだけでも、すばらしいと思います。

佐藤春夫の責任編集の雑誌ですが、佐藤春夫は、創刊号に自分の小説作品を掲載はしていません。それが「病後」ということと関わりがあるのかどうかはわかりません。

佐藤春夫編「澄江堂遺珠」は、芥川龍之介の詩の遺稿で、岩波版全集から漏れたものをあつめたものです。
泉鏡花の小説「貝の穴に河童が居る」は、河童が主人公で、故・芥川龍之介の存在がこの雑誌には濃厚に感じられます。
冒頭の口絵も、この年の2月に亡くなった小出楢重(1887~1931)の作品ですし、画家・倉田白羊(1881~1938)はあっけない死について考察し、久保田万太郎(1889~1963)は亡くなったばかり俳優を回顧し、生と死のはざまの世界が、この雑誌の基調のようになっています。
生と死ではないですが、小林秀雄(1902~1983)の文章は夢とうつつの間を行き交い、そうしたはざまの世界を行き交うことが、この雑誌の主調のような印象を受けました。それは、この雑誌だけでなく、昭和初年の気分だったのかもしれません。

映画で例えると、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)や『陽炎座』(1981年)の世界です。もっとも、『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒、『陽炎座』は泉鏡花が原作ですから、当たり前といえば当たり前です。

秋朱之介(西谷操)は、1931年4月には、やぽんな書房を離れていたと考えられ、『古東多万』の編集にはかかわっていませんが、『古東多万』寄稿者には、その後の秋朱之介の出版に関わりの深い名前が多くみられます。
『古東多万』第1年第1号の寄稿者で、秋朱之介が本づくりにかかわった人は次の通りです。

・佐藤春夫『魔女』(1931年、以士帖印社)、『霧社』(1936年、昭森社)
・中川一政『詩集 野の娘』(1943年、昭南書房)、『歌集 向う山』(1943年、昭南書房)
・小出楢重『大切な雰囲気』(1936年、昭森社)
・井伏鱒二『星空』(1942年、昭南書房)
・日夏耿之介 ポオ『大鴉』(1933年未刊、書林オートンヌ)

【2018年10月21日追記】

斎藤昌三『閑板 書国巡礼記』(1933年・書物展望社、1999年・平凡社東洋文庫)に、

「『蘆刈』と『澄江堂遺珠』装釘感」(初出は「時事新報」昭和8年5月26日号)

という、谷崎潤一郎『蘆刈』(1933年、創元社)と、佐藤春夫が編集した芥川龍之介遺稿詩集『澄江堂遺珠』(1933年、岩波書店)の装釘評が収録されています。その中に秋朱之介にかかわる、次の記述がありました。

 芥川氏の『澄江堂遺珠』は、全集に洩れた詩編を、佐藤春夫氏が編して上梓したものであるが、どれも余りに有り合わせの装釘であったことを敢えて断言する。
 それは本文を飾ったオーナメントが、佐藤氏には気に入ったものではあろうが、雑誌「古東多万」の二度勤めは聊か物臭過ると思う。それ許りでなく表紙にしても、昨年出版された無名詩人の『技巧』をそのまゝの転用であるのは遺憾とする。何故外凾に使用した澄江堂自筆の、大学ノートの貼混ぜを活用して、表紙の木目和紙と反対にしなかったのかと不思議に思われる。外凾は失くなることもある。模倣の木目紙ならなくなっても惜くはないが、この貼混ぜの方は永久に本文と生死を倶にすべきである。単に店頭の陳列にのみ捉われたことは賛成できない。

この文章には秋朱之介の名前は出てきませんが、「表紙にしても、昨年出版された無名詩人の『技巧』をそのまゝの転用であるのは遺憾とする」とあるのは、秋朱之介が装釘した池田圭の詩集『技巧』(1932年、以士帖印社)のことで、岩波書店の『澄江堂遺珠』は、その木目和紙を使用した表紙で、秋朱之介を模倣していると批判しているわけです。
『澄江堂遺珠』は持っていないので、ネット上で画像検索してみると、確かに、『技巧』と『澄江堂遺珠』は、表紙の木目和紙の使い方が似ています。 〈第203回 1932年の池田圭『詩集技巧』(2017年4月27日)参照〉

当時の佐藤春夫と秋朱之介の関係を考えれば、岩波書店の芥川龍之介『澄江堂遺珠』の装釘に、秋朱之介も噛んでいたとも考えられますが、今までこの相似には気づきませんでした。

秋朱之介は、小穴隆一が装釘した芥川龍之介の本が好きだと書いていますし、芥川龍之介の本を自分でも装釘してみたかったのではないかと思ったりもします。

変な話ですが、斎藤昌三が指摘した、この模倣を肯定的に考えると、秋朱之介は、池田圭『技巧』を通して、間接的にではありますが、芥川龍之介の本も装釘した、ということになるのかもしれません。

 

●9月30日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。
『魔女』のハナギレや検印について。

●10月5日 佐藤春夫『魔女』(以士帖印社、横浜市)読書家版発行。
「第206回 1931年の佐藤春夫『魔女』(2017年7月25日)」を参照いただければ幸い。

●10月20日 『佐藤春夫全集』第一巻(改造社、全3巻)発行。
佐藤春夫は、10月6日付けの『佐藤春夫全集』第一巻序文で、「去年改造社が諸家の全集を叢書的に逐次刊行するの計画を立て予にもその一冊に加入せんことを強請せらる。予忸怩として固辞しせも永年の交誼と且つは、版元にある多少の旧債とのために断然これを拒否すること叶わず社員浜本浩君の迥に紀州に予を訪ひて三度慫慂せらるるに及びて不本意乍ら遂にこれを受諾するに到れり。」と書いています。
昭和2年の家屋新築後の「版元にある多少の旧債」が、改造社版全集刊行の理由の一つと思われます。
この全集は1冊1円の「円本」ではなく、1冊の定価2円50銭。革のハーフバウンド装、天金の立派な装幀です。ここでも装幀は中川一政。第2巻は1932年1月18日発行、第3巻は1932年6月20日発行です。

『佐藤春夫全集』(改造社、全3巻)の箱の背

『佐藤春夫全集』(改造社、全3巻)の表紙の背

『佐藤春夫全集』(改造社、全3巻)の見返し

▲ 『佐藤春夫全集』(改造社、全3巻)の箱・表紙の背と見返し(中川一政・画)

 

現代日本文学全集第29巻『里見弴 佐藤春夫集』(1927年、改造社)の本文

『佐藤春夫全集』(改造社、全3巻)の本文

▲現代日本文学全集第29巻『里見弴 佐藤春夫集』(1927年、改造社)の本文と『佐藤春夫全集』(改造社、全3巻)の本文
1927年の円本は、総ルビが特徴。1931年全集ではルビはほとんどなく、読者層もしぼっているようです。

●10月27日 佐藤春夫より秋朱之介宛て書簡。この日、秋朱之介は佐藤邸訪問。10月30日に再訪の予定。
『定本佐藤春夫全集』第36巻に掲載されている、秋朱之介宛て佐藤春夫書簡は、この日のものが最後でした

 

年譜を見ていて、『古東多万』第1年第1号(やぽんな書房)と佐藤春夫『魔女』(以士帖印社、横浜市)と『佐藤春夫全集』第1巻(改造社、全3巻)がほぼ同時期に刊行されていることに、今更ながら驚きます。

 

ところで、『古東多万』第一號の華といえば、間違いなく泉鏡花の「貝の穴に河童が居る」(『古東多万』第一號の目次では「ゐる」、本文では「居る」になっています)です。

とてもとても変な話です。気味が悪く、色っぽい話でしゅ。「でっしゅ」「でしゅ」という空気の漏れたような語尾が特徴の、「赤沼の若いもの、三郎」という河童が主人公です。「芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。」「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」といったぐあいにしゃべります。「腐れた肺が呼吸に鳴る」と表現されています。

鏡花の世界では当たり前なのでしょうが、「遠近(おちこち)の法規(おきて)が乱れて」空間が歪んでいます。河童の三郎は三尺(約1メートル)ほどの背丈なのですが、砂浜の馬蛤(まて)貝の小さな穴に身を隠すことができます。

「貝の穴に河童が居る」は、単行本『斧琴菊(よきこときく)』(1934年、昭和書房)に収録されるとき、「貝の穴に河童の居る事」と改題されています。そのことについて、 昭和9年月吉日に書かれた「例言」で、鏡花は次のように書いています。

昭和六年九月中旬、殘暑盛夏を凌ぐ夕、佐藤春夫氏、氏が愛誌古東多万の名苑に一莖の野草を添へむがため、褥暑を厭はず、番町の借家を訪はる。兼約なり。其の日薄暮、草稿成る。貝の穴に――河童、河童、河童わづかに化けたり。河童が居る・・・・・・事、此の、事といふを、題に加うべきか、否か、打案ずることやゝ久しうして、やがて記さむとせし其の折なりけり、佐藤氏の車を見たるは。立迎へ、坐に請ずるととゝもに、
「谷崎さんのは出來ましたか。」
「いましがた届きました。岡本から、」と言はる。
「題は。」と問ふ。
「覺海上人天狗になる事。」
や、名將の「事」の字かいたる旗、颯爽として迅く城頭に飜れるなり。後馳せに同色の旗をひらめかすを恥ぢて、座の佐藤氏にも言はでやみにき。いま一字を添へて題としたるは、すこしく我が思を徹して、且つひとり其の執着を嘲けるのみ

谷崎潤一郎の「覺海上人天狗になる事」 が先に入稿されていたので、『古東多万』では「事」の字をさけたようです。

昭和14年(1939)、泉鏡花は、谷崎潤一郎と千代(のちに佐藤春夫と結婚)の娘谷崎鮎子と、佐藤春夫の甥っ子・竹田龍児の結婚の媒酌人になっています。単に文学の先輩ということだけでなく、人間としても谷崎潤一郎と佐藤春夫の二人にとって大きな存在だったことがうかがわれます。


『斧琴菊(よきこときく)』(1934年、昭和書房)鹿児島県立図書館蔵の表紙

『斧琴菊(よきこときく)』(1934年、昭和書房)鹿児島県立図書館蔵の奥付

▲『斧琴菊(よきこときく)』(1934年、昭和書房)鹿児島県立図書館蔵の表紙と奥付
『斧琴菊』初版は、鹿児島県立図書館でも借りることができるのですが、残念ながら改装されていて、オリジナルの小村雪岱(1887~1940)装釘の表紙や箱や見返しは、すべて失われています。
「例言」で言及されている表見返しに芥川龍之介が書いた鏡花全集の推薦文の「眞筆を謄寫」したものや裏見返しの「膚ぬぎの天女の婀娜なる圖」が見られないのは残念です。

 

2013年の泉鏡花『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)

▲2013年の泉鏡花『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)
人形作家の石塚公昭が、人形をつくり、写真を撮影して、『貝の穴に河童の居る事』を一冊の本にまとめています。
この本の写真をもとに、朗読ではなく、義太夫語りしたものが動画サイトにありました。語りは竹本越孝、三味線は鶴澤寛也で、スライドが石塚公昭とあります。
鏡花の文章は、「語りもの」の文章として、「節」とともに語られるのが、いちばんいいのかもしれません。

 

2014年の東雅夫編『柳花叢書 河童のお弟子』(ちくま文庫)

▲2014年の東雅夫編『柳花叢書 河童のお弟子』(ちくま文庫)では、泉鏡花・柳田國男・芥川龍之介の河童作品がまとめられていますが、泉鏡花「貝の穴に河童の居る事」が巻頭を飾っています。

いちばん手軽なところでは、青空文庫で読むことができます。
堀辰夫の「貝の穴に河童がゐる」評も青空文庫で読むことができます。短いものですが、的確な評です。

大分くどくどと長ったらしくなってしまったので、『古東多万』第二號以降の目次は次回にします。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈


『古東多万』第一號の文章が、この世とあの世のはざまを行き交うものと通じていたせいか、やくしまるえつこの「霊」という声が頭の中で聞こえてきました。

相対性理論のアルバム『ハイファイ新書』(2009年、みらいrecords)

相対性理論のアルバム『ハイファイ新書』(2009年、みらいrecords)から「ふしぎデカルト」を。

はざまを行き交うものたちは、今だと、アニメ的想像力のなかでは、ごく当たり前の、ふつうの住人なのかもしれません。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

243. 1931年~1932年の『古東多万』の紙ひも綴じと糸綴じ(2018年8月31日)

1931年『古東多万』第1号

 

『古東多万』は、やぽんな書房(雅博拿書房)の五十澤二郎(いざわじろう、1903~1948)が、佐藤春夫(1892~1964)に思うままに編集してもらった文藝誌です。装幀も中川一政(1893~1991)が思うがままにやっています。

誌名の「古東多万」は言霊のことで、第2号では、辞書『言泉』の「ことだま 言霊」の釈義も引用しているのですが、「ことだま」と濁らず「ことたま」と読んだ方がふさわしい気がします。

昭和6年(1931)9月5日発行の第1年第1号から、昭和7年(1932)5月1日発行の第2年第5号まで続けて8号発刊され、昭和7年9月1日発行の別冊をもって休刊、計9冊が刊行されています。

目次を少しのぞいてみただけでも、泉鏡花、谷崎潤一郎、井伏鱒二、小林秀雄、久保田万太郎、森田草平、高田博厚、神代種亮、武者小路實篤、瀧井孝作、戸川秋骨、辰野隆、阿部次郎、矢野峰人、水上滝太郎、千家元麿、土岐善麿、平田禿木、宇野浩二、木村荘八、小林清親、武林夢想庵、吉井勇、里見弴、吹田順助、平井程一、竜胆寺雄、柳田国男、辻潤、阿藤伯海、魯迅、正宗白烏、高橋新吉、木下杢太郎、日夏耿之介、内田百閒、新村出、堀口大學、堀口九萬一、室生犀星、萩原朔太郎、…と錚々たる名前が並んでいますし、口絵の図版も中川一政の人脈でしょうか、小出楢重、石井柏亭、梅原竜三郎、硲伊之助、坂本繁二郎らの作品を掲載しています。
しかしながら、女性の執筆者は阿部ツヤコしか見当たらず、男子校文藝っぷりが時代を感じさせます。

『古東多万』は、佐藤春夫の伝記的観点から掘り下げてみても、以士帖印社として『古東多万』誌に広告を掲載している秋朱之介(1903~1997)の視点から見ても、いろいろと発見のある内容の濃い雑誌なのですが、まず手にとって目につくのは、その本の綴じ方です。今どきの本の感覚からすると、異貌の作りです。今ふつうに本屋さんに入って、いろんな棚を見回しても、『古東多万』のような綴じの本を見ることはないと思います。
表紙や本文用紙に和紙を使っていて、2つの穴に紙ひもを通しただけの綴じですが、90年近くたった今も丈夫です。その綴じだけでも独自の存在のような気がします。

今回は、『古東多万』の内容ではなく、その綴じ方にしぼって、写真を並べてみたいと思います。

 

『古東多万』第1年第1号

▲『古東多万』第1年第1号 昭和6年9月5日発行
1折で2穴に紙ひも綴じ。

 

『古東多卍』第1年第2号01

『古東多卍』第1年第2号02

▲『古東多卍』第1年第2号 昭和6年11月5日発行
表紙での誌名が『古東多万』から『古東多卍』に変わっていますが、目次や奥付では『古東多万』のままです。この二重表記は第2年第5号まで続きます。
この号は、紙ひも綴じではなく、3つの折丁に2穴で糸を通して綴じています。これも独特な綴じ方です。
表紙に貼り込まれた茶色い紙は、表紙絵の題材が柿なので茶色い紙が「柿渋紙」だと洒落になっているかもしれません。

【2018年9月8日追記】
「柿渋紙」ではなく、透過性のある「油紙」のようです。
秋朱之介が江川書房の『本』誌(1933年)に掲載した「ル・ポールの書痴」の「最近数年の間に刊行された特殊な本について」のなかで、やぽんな書房の瀧井孝作『折柴句集』の油紙装を〈油紙で油のにおいのするこの本を夏白い服を着てもって歩くことを考えてみるといい(中略)こんな本を悪趣味の本というのである〉と油紙の使用を批判して、それに付け加える形で〈恐らく評判の悪かった油紙表装の「古東多万」という襍志も刊行されていた〉と書いていていました。
80年以上たつと、べたべたすることはないのですが、ぼろぼろと崩れやすい状態なのは確かです。

【2018年10月25日追記】
斎藤昌三が『書物展望』に連載していた「装幀徒然草」の「下手趣味本」〈初出『書物展望』昭和9年6月号(書物展望社)、『書淫行状記』(1935年、書物展望社)、『斎藤昌三著作集 第三巻』(1981年、八潮書店)〉の項で、やぽんな書房の装幀について、次のように書いています。

昭和六年に、やぽんな書房から滝井孝作の『折柴句集』が、雨合羽用の油紙で装幀して出てゐる。背は黒の麻糸でアヤに綴ぢて、頗る野趣に富んでゐる。然し題箋の糊の研究が足らなかったか、今日では所々はがれてゐる。外凾は渋の手引きで、これも嬉しい出来である。
同じ年に同じところから、宮崎丈二詩集『白猫眠る』が出てゐる。中国趣味の色彩で、手に油がシミるやうな感を与へる。この二著はゲテ趣味の一代表である。

余談になりますが、斎藤昌三の「下手趣味本」では秋朱之介にも言及していて、

詩集『魔女』の昭和七年版は、国産ではないが蛇皮を以て背貼りとした所が、一のゲテであらう。秋朱之介得意の意匠である。尚同人の手掛けたものに昨年(1933年)の『ドストイスフスキー研究』の再版がある。南京米の袋で装幀してあるが、部厚い布だったので、角の折込みが大半ハネ返って腸をハミ出してゐる。折角妙案のつもりでも製本がまるっきりゼロでは致し方ない。同君は如何に装幀に精進しても、製本の方で殆ど失敗を重ねてゐるのを気の毒に思ふ。

眼高手低ということでしょうか、なかなか手厳しいです。

 

『古東多卍』第1年第3号01

『古東多卍』第1年第3号02

▲『古東多卍』第1年第3号 昭和6年12月5日発行
1折で2穴に紙ひも綴じ。

 

『古東多卍』第2年第1号01

『古東多卍』第2年第1号02

▲『古東多卍』第2年第1号 昭和7年1月1日発行
2つの折丁に2穴で糸綴じ。表紙に貼り込まれた茶色い紙は、柿渋紙か油紙です。

 

『古東多卍』第2年第2号01

▲『古東多卍』第2年第2号 昭和7年2月1日発行
この号はステープル綴じ。表紙には柿渋紙か油紙が貼り重ねられています。

 

『古東多卍』第2年第3号01

『古東多卍』第2年第3号03

▲『古東多卍』第2年第3号 昭和7年3月1日発行
2つの折丁に2穴で糸綴じ。
このころ、やぽんな書房の資金力が危うくなってきたのかもしれません。中川一政が支援企画を立てています。

 

『古東多卍』第2年第4号01

『古東多卍』第2年第4号02

▲『古東多卍』第2年第4号 昭和7年4月1日発行
1折で2穴に紙ひも綴じ。

 

『古東多卍』第2年第5号01

『古東多卍』第2年第5号02

▲『古東多卍』第2年第5号 昭和7年5月1日発行
1折りで2穴に紙ひも綴じ。

 

『古東多万』別冊01

『古東多万』別冊02

▲『古東多万』別冊 昭和7年9月1日発行
1折りに1つの穴で糸綴じ。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Judy Dyble『Earth is Sleeping』

2018年7月に出た、Judy Dybleの新譜『Earth is Sleeping』が素晴らしいです。
新譜のタイトルになっている「Earth Is Sleeping」を。
50年前、ジャイルス・ジャイルス&フリップのとき、Judy Dybleが歌っていた「I Talk To The Wind」への50年後のアンサーソング、だと思います。

1949年生まれだから、現在69歳。

Judy Dybleは、1960年代後半、フェアポートコンヴェンションやジャイルス・ジャイルス&フリップ(キングクリムゾンへ移行)の最初期メンバーとして、かぼそい歌声を披露していました。このアイデアにあふれていたミュージシャンたちのまわりで、音楽作りに付き合ってくれる女の子は彼女ぐらいしかいなかったのかと思うぐらいです。しかし、アマチュアからプロになる段階で、サンディー・デニーなど、歌のうまい人にとって変わられてしまいました。
1970年に、Trader Horneのヴォーカルとしてアルバム『Morning Way』を出し、1971年には、ハットフィールド・アンド・ザ・ノース前のフィル・ミラー、スティーブ・ミラー、ロル・コックスヒルのバンド、DC and the MDsのヴォーカルなど、音楽に関わり続けていましたが、1973年に音楽ライターだった夫とともに、ロンドンを離れ、音楽の世界から離れます。それからは図書館司書として働くようになったようです。それでも、人気バンドとなったフェアポートコンベンションの結成何周年だかな記念ライブには何度かゲストで参加しています。 旦那さんとは1994年に死別しています。

2004年、55歳のときに、最初のソロアルバム『Enchanted Garden』をリリースして、音楽の世界へ帰ってきました。

 

2009年『Talking with Strangers』

▲2009年のアルバム『Talking with Strangers』には、キングクリムゾンやフェアポートコンヴェンションの旧友が多数参加。
このアルバムから改めて聴き始めました。


2013年『Flow and Change』

▲2013年にアルバム『Flow and Change』 。

 

2015年『Gathering The Threads』

▲2015年に3枚組のCD-R、1964年~2014年の回想編集盤『Gathering The Threads』。
集大成がCD-Rというのは、インディーズならではです。

 

2016年『An Accidental Musician』

▲2016年に回想録『An Accidental Musician』出版。

 

2017年Judy Dyble & Andy Lewis『Summer Dancing』

▲2017年8月にJudy Dyble & Andy Lewisで『Summer Dancing』 、そして、2018年7月にJudy Dyble『Earth Is Sleeping』。

2015年の3枚組編集盤と2016年の自伝で、ある意味、「回想」としての人生を締めくくったのだと思っていましたら、そのあとに出た2017年の『Summer Dancing』と2018年の『Earth Is Sleeping』の2枚のアルバムの出来が、ほんとうによくて、びっくりしました。
70歳を前にして歌い手として花開いたというか、Judy Dybleの歌声に期待したことはなかったので、思いがけない音楽体験でした。

 

▲ページトップへ

 

 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

242. 2018年の『PETER BLEGVAD BANDBOX』(2018年8月10日)

2018年の『PETER BLEGVAD BANDBOX』外箱01

 

2017年7月に、2017年暮れに発売予定と予約を募っていたPeter Blegvad Bandのボックス『PETER BLEGVAD BANDBOX』。
丁寧な作りのReRレーベルらしく、何度が発売延期になっていましたが、ついに2018年7月に完成、わたしの手もとにも届きました。

Recommended Records(ReR Megacorp)からリリースされた、Peter Blegvad Bandの『Downtime』(1988年)、『Just Woke Up』(1995年)、『Hangman's Hill』(1998年)、『Go Figure』(2017年)の4枚のアルバムとそれに関連する音源をまとめたボックスです。

Peter Blegvad Bandは、基本は、Peter Blegvad(vocal、guitar)、John Greaves(bass)、Chris Cutler(drums)のトリオで、最新の『Go Figure』では、Karen Mantler、Bob Drakeを加えてクインテットになっています。

Virginでリリースした『Naked Shakespeare』(1983年)などと一緒にまとめて、Peter Blegvadの仕事として一緒にしてもらえれば嬉しかったのですが、音楽の世界の権利関係は難しいようです。

何はともあれ、ブレグヴァドのボックスがちゃんと形になって、世に出たということだけでも嬉しいです。


付属の72ページのブックレット『Notes for the PETER BLEGVAD BANDBOX』も力作で、各曲についてピーター・ブレグヴァドやクリス・カトラーがコメントしていますので、そこで語られていたことを、第219回第221回の記事にも【2018年8月追記】として書き加えました。

 

PETER BLEGVAD BANDBOXクラムシェル

クラムシェル型のボックスの底部の写真には、『KNIGHTS LIKE THIS』(1985年、Virgin)のジャケットにも使用されていた自動筆記装置の写真の別テイクが使われています。

 

2018年の『PETER BLEGVAD BANDBOX』外箱02

CDサイズのクラムシェルのボックスを開けると、デジパックのCDとブックレットが収められています。
Recommended Records(ReR Megacorp)からリリースされた、Peter Blegvad BandのCD4枚、Bob Drakeによる新リマスター、Colin Sackettによる新パッケージ版。

1. Downtime (1988) ReR PB1
2. Just Woke Up (1995) ReR PB2
3. Hangman's Hill (1998) ReR PB3
4. Go Figure (2017) ReR PB4

そして、未発表音源やライブ音源を収めた2枚組のボーナスCD

5. It's All 'Experimental' 1 ReR PB5
6. It's All 'Experimental' 2 ReR PB6

 

『Notes for the PETER BLEGVAD BANDBOX』表紙

▲ブックレット『Notes for the PETER BLEGVAD BANDBOX』表紙
しかし、この力の入ったブックレット(表紙を含め72ページ)が、CDサイズなのがほんとうに惜しいです。
せめて20㎝×20㎝、できれば、LPサイズがよかったです。
一新されたCDとブックレットのデザインは、uniformbooksのコリン・サケット(Colin Sackett)。
Proof-reading(校閲)ということで、クリス・アレン(Chris Allen)の名前があります。Atlas Pressの編集者さんだと思います。

 

CD-R『THE IMPOSSIBLE BOOK』

▲予約者特典のCD-R『THE IMPOSSIBLE BOOK』
さらに、予約者特典は、2016年にBBCラジオで放送したPeter Blegvad & Iain Chambersによる、29分の音楽劇『The Impossible Book』のCD-R。 XTCのアンディ・パートリッジやPere Ubuのデヴィッド・トーマスも声優として参加しています。
250枚限定のナンバリング入りで、ピーター・ブレグヴァドのサイン入り。
ということは、予約者は250人以下だったということでしょうか。
う~む。 そんなものかと思ってしまいます。
「THE IMPOSSIBLE BOOK」は、今でもBBC3のサイトでストリーミングで聴くことができるので、珍しい音源ということではありませんが、CD音質で聴くことができるのはめでたい限りです。

 

『DOWNTIME』 (1988年)の新パッケージ01

『DOWNTIME』 (1988年)の新パッケージ02

▲『DOWNTIME』 (1988年)の新パッケージ。

 

『Just Woke Up』(1995年)の新パッケージ01

『Just Woke Up』(1995年)の新パッケージ02

▲『Just Woke Up』(1995年)の新パッケージ

 

『Hangman's Hill』(1998年)の新パッケージ01

『Hangman's Hill』(1998年)の新パッケージ02

▲『Hangman's Hill』(1998年)の新パッケージ

 

2017年の新譜『GO FIGURE』

▲2017年の新譜『GO FIGURE』

 

ブックレット『Notes for the PETER BLEGVAD BANDBOX』のあとがきにあたる文章「How it ends?(どうお終いにするか?)」に、CDというメディアがもうすぐ「obsolete(廃品)」になるという表現があって、「CD」の将来への悲観を実感します。

「How it ends?(どうお終いにするか?)」を引用・試訳してみます。

   How it ends?

As for the music preserved on these CDs ― the CD format will soon be obsolete so there’s as little likelihood of people in the future hearing it as there is of aliens hearing the sounds on the golden disc the Voyager probe is carrying into the universe beyond our solar system.
Despite which we’ve collected the recordings in a box partly to preserve them ― and partly to take stock, to put a few things in context, see them (hear them) in perspective. Amateur cultural history.
Having reached a certain age, curating one’s past becomes part of an artist’s job. It's all vanity, of course, but unless you're famous and your work sells no one else is going to do it for you, so it’s up to you. To you and a few friends. Here's to friendship.

Q ― Was your decision to become a musician motivated purely by choice or do you think there was an element of destiny involved?
A ― I'm not sure it was a decision, and I’m not sure I’d call what I became a ‘musician’ really, but aside from that, it was mainly a life-style choice. It looked like fun to be in a rock & roll band. And it looked like a cure for non-entity, a way to forge a self, a second birth.

  The friends that have it I do wrong
  When ever I remake a song,
  Should know what issue is at stake:
  It is myself that I remake.
  ― W. B. Yeats

I went through patches of very much wanting and striving to have a successful music career. I was willing to prostitute myself, but I lacked other qualifications. Overall, the ‘career’ aspect of creativity wasn’t so crucial to me. I was ― and remain ― an amateur, with uncommercial, Surrealist tendencies. I want to use my practice experimentally as a kind of alchemy, the goal being to transform consciousness, to change my mind. It's a lifetime project.

【試訳】どうお終いにするか?

これらのCDに保存されている音楽については、CDというフォーマットは廃物寸前なので、将来、人がこのCDを聴く可能性は、ボイジャー探査機が太陽系を越えてはるかかなたの宇宙まで運んでいるゴールデン・ディスクの音を耳にする異星人が存在するのと同じくらいで、ないに等しい。

それにもかかわらず、ぼくたちがこれまでの録音をボックスにまとめたのは、一部は保存のためであるし、一部は在庫をつくるためでもあるし、幾ばくかのものを歴史的文脈のなかに置き直して、新たな見通しのなかで見聴きするためでもある。アマチュアの文化史。

ある年齢に達すると、自分の過去を調べ直すことはアーティストの仕事のひとつということになっている。もちろん虚栄という面もあるのだが、普通ならあなたが有名で、あなたの作品がよく売れるものでないかぎり、だれもそんなことをあなたのためにしてくれない。だから、このボックスはあなたのおかげ。あなたと数人の友達のおかげ。友情のたまものなのである。

【問い】あなたがミュージシャンになると決めたのは、純粋にそうなろうと自分で決めたことが動機になったのでしょうか? それとも、そのことに運命の要素が関わっていたと思われますか?
【答え】決めたかどうかは確かでなくて、「ミュージシャン」になるというようなすったもんだがあったかどうかも不確かだけど、それは置いておいて、もっぱらライフスタイルの選択の問題だったと思う。ロックバンドのメンバーでいることは楽しそうに見えたし。なんだか存在しない何者かを治すような、自己をつくりあげて、2度目の誕生をするような感じに思えた。

  友たちはぼくが間違いをしているという。
  ぼくが歌を作り変えるのは間違いだという。
  知るべきは何がほんとうの問題かだ
  ぼくが作り変えているのはぼく自身なのだ
  ーW.B.イェーツ

ぼくは音楽の世界での成功を強くのぞんできた。そのために自分の魂だって売ることも辞さないつもりだったけど、ぼくには成功するために必要なほかの資格が欠けていた。結局、創作の世界でキャリアを積み重ねるということは、ぼくにとって本質的なことではなかったのである。ぼくはアマチュアだったし、今もアマチュアのまま、売れることのないシュルレアリストのままだ。ぼくは、自分の経験を錬金術のようなものとして実験的に使いたい。その最終目標は、意識を変容させること、ぼくの心を変えていくこと。 それが生涯のプロジェクト。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

『 It's All 'Experimental' 1 & 2』01

『 It's All 'Experimental' 1 & 2』02

未発表音源やライブ音源を収めた2枚組のボーナスCD『 It's All 'Experimental' 1 & 2』の収録曲をざっと見てみます。

『It's All ‘Experimental' 1』

01. On All Fours(3:44)
01から04は、1999年6月14日、ロンドンのWoodcutter's Ballでのライブ音源。ピーター・ブレグヴァド、クリス・カトラー、ジョン・グリーヴスのトリオのほか、Loudon Wainwright、Syd Straw、Eddi Reader、B.J.Cole、Adam Philips、Jakko Jakszyk、the Dear Janes、Kristoffer Blegvadらがゲスト出演。
ライブでの景気づけの曲だが、ここでは、遅めのアレンジ。

02. Golden Age(2:51)
作家の嫉妬のうた。「Powers in the Air」と対になる曲。

03. Shirt and Comb(4:52)
エディー・リーダー(Eddi Reader)と2人で演奏。
Eddi Readerのシングル盤「Patience of Angels」(1991年)にスタジオ録音版を収録。

04. King Strut(6:06)
Woodcutter's Ballでのライブのフィナーレ。

05. Face Off(3:10)
05から12までは未発表曲およびデモ音源。
『Go Figure』(2017年)セッション。アルバム未収録曲。
1984年の作品。Les Fusi ls du Lait(John Greaves、Kristoffer Blegvad、Chris Stamey、Anton Fierのバンド)でも演奏していて、 アントン・フィアはこの曲の音源を、ミック・ジャガーの最初のソロアルバムを準備中のビル・ラズウェルに送ったが、ミック・ジャガーには採用されなかったという。残念。
顔を引きはがすというアイデアは、フラン・オブライエン(Flann O'Brien)の文章がもとになっている。

06. Mama's Boy(2:53)
『Go Figure』(2017年)セッション。アルバム未収録曲。
ピーター・ブレグヴァドの母レノーレ・ブレグヴァド(Lenore Blegvad、1926~2008、作家・画家)のために準備した曲だが、まとめきれなかったようである。
ブレグヴァド自身は、いつ詩を書き始めたかはっきりしないそうだが、1965年には始めていたという証拠になる本があって、1965年の母からのクリスマスプレゼントが、詩の韻のための辞書だったという。
母のことを曲にしようとしてきたけれど、まとまらない。自分の曲より、Loudon Wainwrightの「Missing You」や「Homeless」を聴いた方が、はるかに気持ちが伝わるというコメント。

07. Golden Helmet(4:19)
『Go Figure』(2017年)セッション。アルバム未収録曲。
反戦歌。野ざらしの騎士の兜が蜂の巣になっている図像、平和を表す図像から。
Curtis Mayfield「People Get Ready」のコード進行を単純化して援用。
言葉や物語を載せる乗り物としての音楽。
いつか、同じ言葉がくり返される一方、節ごとに旋律が変わる曲をつくりたい。

08. My Shadow and Me(4:00)
『Just Woke Up』(1995年)セッション。アルバム未収録曲。
ピーターパンは失った自分の影を取り戻そうとしたけど、この曲の主人公は自分の影を振り払おうとする。
その影は「Waste of Time」に出てくる「devil in my cranium(僕の頭蓋にいる悪魔)」の親類かもしれない。
Irving Berlinの1927年の劇に同じタイトルあり。
「shadow」が主題ということで、間奏にShadows「Apache」(1960)がひそんでいる。

09. Great Escape(4:07)
『Hangman's Hill』(1998年)セッション。アルバム未収録曲。
ずっと気に入った演奏がなかなかできなかった。
ボブ・ドレイクが新たにバックトラックを作って録音。

10. Say No Now(4:07)
初出は、CD版『Downtime』(1989年)のボーナストラックとして。
あるライブで、たぶん酔った観客たちが「Say No Now」のところで、「NO」と大声でかぶせてきた。気分のよいものではなかったできごととして記憶に残っているようである。

11. The Ballad of the Green Boy(2:47)
初出は、CD版『Downtime』(1989)のボーナストラックとして。
中世のラップ。伝統的な怪異譚とヒップホップの掛け合わせ。
子供のときに見たジョセフ・ロージーの映画『緑色の髪の少年』(1948)の記憶、Bob Hopeがgallows treeを言うときに使った「slumber lumber」ということば、Ezra Poundの詩「The Tree」などが混じる。

12. (Something Else Is) Working Harder(4:38)
1993年、Chaim Tannenbaumとつくったデモ・ヴァージョン。

13. WOPS (Words Of Power)(3:02)
13から16は、ピーター・ブレグヴァドが「eartoon」と読んでいる5分前後の音響劇。
2002年から2015年にかけて、BBC3ラジオの言語バラエティ『The Verb』のために、音のあるコミックというブレグヴァドの造語「eartoon」作品を80本ほど制作。(ほとんど未聴なので、どこかまとめてリリースしてくれないものか・・・)
その多くが「Static in the Attic(屋根裏の雑音)」という架空のラジオショーで、2人のブレグヴァドが対話するという設定。ドッペルゲンガーはブレグヴァドの頭から離れることのない主題のようである。
今回のボックスに収録した4つの「eartoon」は、2002~2003年の作品。
「WOPS」は、最初に作った「eartoon」。
初期のロックンロールに多く使われた、辞書にないような擬音についての2人のブレグヴァド対話。
ボックスに収録したものは、このボックスのための再録音。
バンドは、Chris Cutler、John Greaves、Bob Drake。ボブ・ドレイクのスタジオで2007年録音。

14. The Phrasealator(3:52)
2人のブレグヴァドの対話。
アメリカ軍がイラクで使った英語・アラビア語簡易翻訳機について。

15. Speaking Clock(5:25)
2人のブレグヴァドの時計についての対話。
挿入歌はWoody Guthrie「This Land is Your Land」の替え歌「This Time is Your Time」。

16. Burning Books(4:21)
2人のブレグヴァドの対話。
ナチの焚書から70年たった、2003年5月10日に放送。

 

『It's All ‘Experimental’ 2』

『It's All ‘Experimental’ 2』は、ライブ音源を集めたもの。01は1998年の京都、02から09の8曲は、東京吉祥寺のStar Pine's Caféでの演奏です。ピーター・ブレグヴァド、ジョン・グリーヴス、クリス・カトラーのトリオ編成。この東京でのライヴはわたしも聴きに行きました。

 

Star Pine's CaféフライヤーStar Pine's Caféチケット

そのときのフライヤーとチケットは、まだ手もとに残っています。
京都は、1998年6月5、6、7日の3日間。
東京は、1998年6月12、13、14日の3日間の予定でしたが、15日に追加公演があり、その東京の4日間は、私も毎日通いました。
『It's All ‘Experimental’ 2』には、追加公演の6月15日の音源が8曲収録されています。

 

01. Unearthed ―(The Bottle And Hardware)(8:22)
(京都、1998年)
1998年の日本公演では、ピーター・ブレグヴァド、クリス・カトラー、ジョン・グリーヴスの3ピースロックバンド、クリス・カトラーの即興ソロ、ジョン・グリーヴスのピアノ弾き語り、3ピースバンドのよる即興と朗読など、毎日構成を変えて、いろんな形を披露。
「Unearthed」のテキストは『Headcheese』(Atlas Press、1994)に収録された「The Bottle」と「Hardware」。
『Unearthed』(Sab Rosa、1994)でも取り上げているが、演奏はまったく違うもの。

02. King Strut(4:38)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
このステージでの歌唱はボブ・ディラン風。

03. Stink(2:07)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
コーラスの「till the end of time」を、初期doo-wop風だったり、the Mothers of Invention風だったり、Ruben and the Jets風だったり。

04. Model of Kindness(3:11)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
ヨーロッパやアメリカでは、フェス対応の1時間のセットリストだったが、日本では長い時間のソロコンサートとしてのセットリストを求められた。そのため歌詞を忘れる個所も何度もあったが、ジョンとクリスは素晴らしかったと。

05. Meet the Rain(4:23)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
何度か歌詞忘れの個所あり。

06. Scarred for Life(3:00)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
エコー良し。

07. Lying Again(4:01)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
「Wisdom(智恵)」という歯ブラシのブランド名(18世紀、工業製品としての大量生産された最初の歯ブラシ)と「Revelation(啓示)」というブランド名のスーツケースが発想の元になった。

08. A Little Something(4:12)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
1973年スラップハッピーの2枚目のアルバムのために作られた曲。

09. Northern Lights(4:02)
(Star Pine's Café、東京吉祥寺、1998年6月15日)
1980年代後半、アントン・フィアとニューヨークで共作。
「Schenectady」に「get to see」と韻を踏ますのはひどい、との評あり。
確かに「Face Off」で「Chicago」に「cigar glow」と押韻したのと同じくらいひどい、と弁解。

10. Shirt and Comb(4:16)
(The Woodcutter's Ball、ロンドン、1999年6月14日)
『King Strut』の前年、長いツアーに出て、家族が恋しかった。そのころ、Richard and Linda Thompsonばかり聴いていて、そのせいか、ブリティッシュ・トラッドの系統に連なる曲が作りたかったそうである。

11. Karen(3:18)
(The Woodcutter's Ball、ロンドン、1999年6月14日)
80年代はじめ、散歩のリズムで、頭の中で生まれた曲。

12. Bee Dream(3:02)
(The Woodcutter's Ball、ロンドン、1999年6月14日)
シド(Syd Straw)がハーモニー、最後にジャッコ(Jakko)のソロ。

13. Meantime(3:48)
(The Woodcutter's Ball、ロンドン、1999年6月14日)
『King Strut』の曲。ジャッコ(Jakko)と『Choices Under Pressure』で再録音。

14. Haiku, fragment(1:59)
(PB, John, Chris and Karen, Castello Estense、Ataforum Festival、Ferrara、2002年6月14日)
録音中にテープがいっぱいになり、残念ながら最後まで録音できず。
R. H. Blythの俳句の翻訳を引用している。

 

▲ページトップへ


 ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦

241. 1942年の新村出『ちぎれ雲』(2018年7月23日)

1942年の新村出『ちぎれ雲』表紙

 

第238回 1934年の木下杢太郎『雪櫚集』(2018年7月12日)」に続いて、木下杢太郎(太田正雄、1885~1945)が装幀した本を、いくつか並べてみたいと思います。

戦争中の昭和17年(1942)9月に出版された、新村出(1876~1967)の『ちぎれ雲』(甲鳥書林)の枇杷の多色木版は美事です。
扉の裏に「題簽 藤井紫影 装幀 木下杢太郎」とありますが、残念ながら、表紙の多色木版の彫師・摺師がだれだったかは、本に記載されていません。

藤井紫影(藤井乙男、1868~1945)は国文学者。「題簽 藤井紫影 装幀 木下杢太郎」の2人とも、1945年に亡くなっています。

 

新村出『ちぎれ雲』(甲鳥書林、1942年)の箱と表紙

▲新村出『ちぎれ雲』(甲鳥書林、1942年)の箱と表紙

 

新村出『ちぎれ雲』(甲鳥書林、1942年)の奥付

▲新村出『ちぎれ雲』(甲鳥書林、1942年)の奥付

昭和18年1月の岩波書店『文學』(第11巻1号)に掲載された、「本の装釘」という隨筆で、木下杢太郎は今まで装釘してきた本について回想していますが、 『ちぎれ雲』については、次のように書いています。

 新村博士の隨筆集「ちぎれ雲」が出版書肆から届けられた。其表紙の繪をば著者と書房とから賴まれて作つたのであるから、其包を開くときにまた異やうの樂みがあつた。新村博士の賴となれば何を措いても諾はなければなるまいと思ひ、五月の雨雲に暗い日曜日の朝の事であつた、紙を捜して圖案を考へた。小さい庭には小手鞠の花がしをらしく咲き乱れてゐた。隣の庭には枇杷の實がやうやく明るみかけてゐた。
 小手鞠、雪柳は、わたくしは夏の花よりも秋の枯葉を好む。お納戸、利久、御幸鼠、鶯茶、それにはなほ青柳の色も雜つて、或は虫ばみ、或はねぢれたのもあり、斑らに濃い地面の色の上に埀れ流れるのは自らなる繪模様である。東北では氣候が遅れるから、夏初め其少しく蕾を現はしたころ、木の葉はまだちらほらとしか出ない。其風情も亦甚だ好い。さすがに茶人は好んでその秋の枯枝を挿花にする。
 其日にはどの枝も殆ど満開であつた。地を梅鼠がかつた濃い茶にして、其一枝を寫し試みた。
 六月の始め隣の枇杷はいよいよ熟した。この三四年実の枯れ、蕾のつぶだつのを見て過した。それは暦のやうであつた。そして天行の健かにして、且つ倏忽なるのを感じないわけには行かなかつた。
   枇杷の花やつひこなひだは実だつたが
それは庸事であるが実感である。
 終日枇杷を寫して更紗やうの模様にした。ところがその時はまだ先生の新著の名前をば聞いて居なかつた。小手鞠と枇杷と、この二枚の繪を、書肆を通じて、博士に示すと、博士はあとの物を選ばれた。今贈られた本を見ると「ちぎれ雲」が其名である。そして其標題の事象の季は秋であるといふ。ちぎれ雲に枇杷の實を配したのは、心有る爲草とは謂へなかつた。先生は猿蓑の
   たゝらの雲のまだ赤き空     去来
   一構鞦つくる窗のはな      凡兆
   枇杷の古葉に木芽もえたつ    史邦
を引いて此不調和を取りつくろつて下すつた。唯この本の初めの部には草木に関する考証幾篇かが有り、其内容にはこの表紙のまんざらそぐはぬこともあるまいと自ら慰めた。

一方、新村出は、『ちぎれ雲』の「自序」(昭和17年8月3日)に次のように謝辞を書いています。

 かきふるした文稿の幾きれかが、書林の人々の厚意で、またもや一冊にまとまるありがたさ、うれしさ。さて書名はと考へてみると、今度はいつもに似ず迷ひも少なく、おほかた出版されるのは、秋ぐちにもならうかと、ふと思ひあてたのは、猿蓑の佳句、近江の珍碩が作、高土手の鶸のなく日や雲ちぎれ。それから是非この題簽は紫影翁に、かつまた装幀は宿望の木下杢太郎兄に、それぞれお賴みしようぞと、心のはずみは並々でなかつた。幸にして希望が達せられたよろこばしさ。
 かやうな念願を發したのは、そもそも初夏のことで、枇杷の實が近きあたりに、ことしは黄色がことにあざやかに私の目をたのしませてくれた頃であつた。かくて下見をさせられた杢太郎兄の圖柄に接すると、偶々私の感境をそのまゝ密畫のこまやかさ、うつくしさ。たゝらの雲に、枇杷の古葉が附いたかのやうにも連想のひとり合點をしつゝゑつに入つてゐた。それに、因緣の不思議さは、その下繪を示しに來た書林の人に、紫影翁が傷心の裡に揮つてくれられた筆蹟をわたすことが出來て、かたじけなさをしみじみ味はつたのであつた。

杢太郎の『雪櫚集』に収録された「晴窗帖」(初出は1932年1月のやぽんな書房の文藝誌『古東多万』)という作品は、動植物のおしゃべりで構成されているのですが、「枇杷」もまたお喋りしています。

     枇杷

 枇杷の雄「やい見ろやい。また先生が雪隱の窻からおらが方見て居るぞ。」
 枇杷の雌「あの先生、やあな人さ。おらが花咲かせたと云つては畫き、おらが實を結んだと云つては畫き、實が熟したと云つては畫き。」
 雄「先生も熱心だが雪隱からぢや臭いべ。」
 雌「あしこからがちやうど見好(みえ)えとめえて、いつもあしこから寫してござらしやる。」
 雄「もう三年越になるの。」
 雌「おらが繪がでえぶたまつたらうに、何だつてあんなに澤山かかつしやるだべい。おらが身持のところがどこが好(え)えだか。」
 雄「身持のところだらまだ好(え)えが、先生おらたちが今何して居るか知つて居ないべ。」
 雌「知つてたら可笑しくて笑ふべ。」
 雄「ほら先生がこつち見た。――先生こんちや、好(え)えお天氣で。――見ろ先生おらが言葉分かんめえとめえて、あんな顔してござらつしやる。」
 雌「先生、雪隱なかに小一時間も立つてるよ。」
 雌「馬鹿な先生だ。そら好(え)え風が來たぞ。ま一つしようぞ。」
 雌「毎日の事だに、そんなに彈まねえでゐさい。」

単に美しい枇杷の絵の装幀ということだけでも十分なのですが、木下杢太郎の装幀には、言葉の層も重ねられていて、純粋な装幀というより、文人の装幀になっています。

 

与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社、1928年)の箱と表紙

▲与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社、1928年)の箱と表紙
『心の遠景』は、与謝野晶子(1878~1942)が生前にまとめた最後の歌集になります。
箱と表紙は木下杢太郎の絵をもとにした多色木版。
箱がドウダン、表紙がカナメモチ。

 

与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社、1928年)の表紙

▲与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社、1928年)の表紙

 

与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社、1928年)の奥付

▲与謝野晶子『心の遠景』(日本評論社、1928年)の奥付
手もとにあるものは、すれて状態があまりよくないので、発行当時の状態は、想像力でおぎなっていただければ幸い。
「自序」の最後に、「木下杢太郎氏装幀 伊上凡骨氏彫刻」とあり、彫師として、伊上凡骨(1857~1933)の名前が明記されています。
もっとも、 杢太郎の「本の装釘」(1943年)によれば、伊上凡骨の工房のお弟子さんが彫ったようです。

 與謝野寛・與謝野晶子両詩宗は既に歴史のうちの名となつた。わたくしは今考へて、其新詩社に通つた頃と其あとの數年ほど樂しかつた時は無いと思ふ。まだ富士見町に住んで居られる時、晶子夫人から本の装釘を賴まれた。それはどの本の爲めといふのではなかつた。当時わたくしは名古屋の閑所に住み、その庭のかなめもちとどうだんの葉をていねいに寫生した。うち忘れた頃それが晶子夫人の歌集「心の遠景」の表紙と其紙函との装飾に用ゐられた。この集の発行は昭和三年六月の事である。わたくしは名古屋を去つて仙台に在つた。木版は孰れも伊上凡骨が其弟子を督して彫刻する所であつた。無頓着に引いた細い線を克明に彫つてくれたのを見て氣の毒と思つた。

 もちのうちではかなめもちが其葉の色が一番美しい。殊に春落葉する前に、暗赤の古葉を着け、これに新芽の淡緑と壮葉の藍鼠とが交るのが、色取が好い。
 今も勤先の窓の前に幹の繁いかなめもちが一本有る。春になると寫生したい衝動を起す。雨宮傭蔵君の爲めに画帖に即席に寫したことはあるが、本の表紙の爲めに畫かうと思つたことは嘗て無かつた。来年の春は一つ寫してやらうと思ふ。
   春にして細葉冬青(もち)の枯葉の
   色紅く音も無く散りゆくは
   秋の落葉に比して
   さみしきかなや、ひとしほ
     *
   草の芽に落葉や雨のしめやかさ
とは大正十五年の春、名古屋のかなめもちを見て作つた詩である。

1928年5月の日付のある「自序」で、与謝野晶子は次のよう書いています。

 此集の装幀は、特に木下杢太郎さんが筆を執つて下さいました。勿論私の心では、久しい以前から、大きな兄の一人として尊敬してゐるのですが、木下さんは年から云つて私を姉のやうに親しくして下さるのです。かたじけない事だと思ひます。

 

谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の箱と表紙

▲谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の箱と表紙
木下杢太郎と同世代の谷崎潤一郎(1886~1865)による青春回想ですが、手もとにあるものは、箱も表紙も傷んで状態があまりよくないので、箱の青と表紙の白は、想像力でおぎなっていただければ幸い。

 

谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の表紙

▲谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の表紙

 

谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の扉

▲谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の扉

 

谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の奥付

▲谷崎潤一郎『青春物語』(中央公論社、1933年)の奥付

杢太郎の「本の装釘」(1943年)では、次のように書いています。

 まだ其前に谷崎潤一郎君の爲めに其「青春物語」の装釘をしたことがある。此書は昭和八年の出版に係る。他ならぬ谷崎ゆゑに引受けたが、本の表紙にしようとなると中々いい趣好が思ひ浮ばなかつた。いろいろの蛇、殊に臺湾の紅、藍、色あざやかなのを雜ぜて氣味わるく美しい文様を作らうと思つたが、寫生が無くては思ふやうに行かないから断めた。また開いた山百合の幾つかの隙間にルノワアルばりの裸形の女を、ちやうど朝鮮の李王家の美術館に在る葡萄の蔓の間に唐子を染付けた水差の模様のやうにあひしらはうかと思つたが、それは失敗した。モデルについて裸体を寫すの便宜が無かつたからである。結果到着したところは、わかむきの銘仙の柄に見るやうなやたら縞であつた。裏打をした宣紙に臙脂・代赭・藍・浅緑・黒など、太い縞細い縞を定規で引きまた染めると、其堺目が程好くにじんで好看を呈したが、之を板木に彫ると境界が鋭く硬くなり、且つエオジン、インヂコの絵具では日本絵具の生臙脂・藍で畫いたやうな色調にはならなかつた。且つ畫稿では見立たなかつた平行線のゆがみが氣に懸つて見え出した。
 これには扉の圖案をも添へ、カルトンの體裁をも考へた。實際この二つのものを考へてやらないと好い釣合は得られないのである。

昭和8年(1933)6月に書かれた谷崎潤一郎の「緒言」では、次のような謝辞が書かれています。

○その外木下杢太郎君が装幀を考へて下すつたこと、吉井勇君が序文の和歌を寄せて下すつたこと等、此の物語の出版は舊友の温情と援助に負ふ所が尠少でない。作者はこの機會に以上の方々へ厚く御禮申し述べる。

 

小宮豊隆『黄金蟲』(小山書店、1934年)の箱と表紙

▲小宮豊隆『黄金蟲』(小山書店、1934年)の箱と表紙
この時期、小宮豊隆(1884~1966)と太田正雄(木下杢太郎)が東北帝国大学の同僚であった縁で、この装幀が生まれたのだと思われます。

 

小宮豊隆『黄金蟲』(小山書店、1934年)の表紙

▲小宮豊隆『黄金蟲』(小山書店、1934年)の表紙

 

小宮豊隆『黄金蟲』(小山書店、1934年)の奥付

▲小宮豊隆『黄金蟲』(小山書店、1934年)の奥付

杢太郎の「本の装釘」(1943年)では、次のように書いています。

 (『雪櫚集』と)同じ年(1934年)に出た小宮豊隆君の「黄金蟲」がやはりこの(仙台時代の)庭の寫生画を其本の表紙に用ゐた。それは一種のぎばうしのスケツチである。普通のものに較べて葉も小さく、花の莖も短く、殊に葉にはちりめんじわが寄つてゐる。何でももとは舶来の種だと云ふことである。これは表紙の圖案にしようなどと思つたのでなく、板下の用意もなく、鉛筆の筋などが雜然として殘つてゐた。木版師はそんな不用意の部分をも丹念に板に刻んだ。その刷上りは上の方であつた。

昭和8年12月1日に書かれた小宮豊隆の「序」では、次のように謝辞を書いています。

 表紙の畫は、木下杢太郎が引き受けてくれた。それが出來上がつた所を見ると、自分の文集には勿體なすぎる位、趣の深い畫であつた。その上是を木板にするのに金がかかりさうな氣もして、少少躊躇してゐると、小山書店の主人が先づこの畫に打ち込み、自分でさつさと是を表紙にする手筈を調へてしまつた。勿論自分の本が立派な装幀で世の中に出る事は、嬉しい事である。然しその爲め金をかけすぎて、小山書店が損をするやうでは、新進気鋭の小山書店主人に、甚だ申譯がない。この上は私は、この『黄金蟲』が、小山書店の損にならない程度に、賣れる事を祈るとともに、木下杢太郎の畫の板が、出來るだけ原畫の趣を傳へるやうに、仕上げられる事を祈るより外はない。

木下杢太郎に装幀を依頼し、多色木版の表紙にすることで、制作費は、はねあがったのかもしれません。同じ版元が、また装幀をお願いするということが、なかなかできなかった気配があります。
それでも、一度は、コスト度外視で、杢太郎に装幀を依頼したかったのかもしれません。
杢太郎で表紙を作りたいという気持ちが報われる、そんな仕上がりです。

 

結城哀草果『歌集 すだま』(岩波書店、1935年)の箱と表紙

▲結城哀草果『歌集 すだま』(岩波書店、1935年)の箱と表紙
山形のアララギ派歌人・結城哀草果(1893~1974)は、小宮豊隆『黄金蟲』の装幀を見て、木下杢太郎に装幀を依頼。
この表紙は、多色木版ではなく、布染めです。

 

結城哀草果『歌集 すだま』(岩波書店、1935年)の表紙

▲結城哀草果『歌集 すだま』(岩波書店、1935年)の表紙

 

結城哀草果『歌集 すだま』(岩波書店、1935年)の奥付

▲結城哀草果『歌集 すだま』(岩波書店、1935年)の奥付

杢太郎の「本の装釘」(1943年)では、次のように書いています。

 之(小宮豊隆『黄金蟲』)を見て結城哀草果君が其歌集の表紙模様を作つてくれと云つた。それでやはり不用意に寫して置いた庭の萬年青の寫生画一枚を上げた。昭和十年に出た「すだま」がその集である。板も印刷も甚だ好かつたが原画が少しぞんざいに過ぎた。一體わたくしの表紙畫は多くは庭の草木の寓目の寫生であるから、其地のいろはいつも茶いろである。ちかごろは旅先でゆつくり寫生をするやうな事は無いので、モチイフが限られるのである。

昭和10年(1935)8月9日に書かれた結城哀草果の「巻末記」 では、次のように謝辞を書いています。

ここに特筆すべきことは、私の歌集のために、木下杢太郎先生は表紙装幀と挿繪を賜り、小川芋錢畫伯は、口繪を下さつた。この高恩は私の生涯は勿論、子孫へ傳へて忘却せぬことを誓ふ次第である。

『歌集 すだま』の表紙は萬年青です。杢太郎の「晴窗帖」で、「萬年青」は次のようなお喋りをしています。

    萬年青

 「おや今日は病院へは行かねえのだな。近頃は日曜でも出かけて行くくせに、今日は休か。」
 といふつぶやきが聞えるから、その方を見ると、さう云ふのは足許の萬年青だつた。こちらから話しかけもせぬのに、向ふがなほも語り續けた。
 萬年青「君――いや先生、君が――あなたが、内のかかあが實を結ぶのを待つてるなあ、わつしやもう疾うからにらんでるんだ。赤い實の上に雪が積つたところを畫いてやらうと君が獨語を言つたのをわつしやあ聞いてるんだ。へん、わつしの先祖にはそりや寄生的存在も有りました。葉を筆で洗つて貰つて得意になつて態(しな)をするやうな奴もそりや確に居たんです。然しこつち黨はかう見えてもプロレタリヤですよ。君に畫かれる爲めにや存在して居やしないんです。この間も君が僕の事を、この萬年青あプロレタリヤだなんて言つたんでせう。そりや全くその通りでさあ。碌に植木屋の手にも懸けてくれず、こつち黨だつてビタミンの足りない食物(たべもの)で命を繋いでゐるんでさあ。雪が降ろうが溶けようが、今年やかかあに實は持たせねえから、此段は今から斷つて置きます。」

 

小堀杏奴『囘想』(東峰書房、1942年)の箱と表

▲小堀杏奴『囘想』(東峰書房、1942年)の箱と表
小堀杏奴(1909~1998)は、森鷗外(1862~1922)の娘。

 

小堀杏奴『囘想』(東峰書房、1942年)の表紙

▲小堀杏奴『囘想』(東峰書房、1942年)の表紙

 

小堀杏奴『囘想』(東峰書房、1942年)の奥付

▲小堀杏奴『囘想』(東峰書房、1942年)の奥付

杢太郎の「本の装釘」(1943年)では、次のように書いています。

 それ(『黄金蟲』の装幀)よりも前に、わたくしは小堀杏奴夫人からも其著書の表紙の圖案を賴まれてゐた。其時は本の装釘の事などまるで頭になかつたが、わざわざ尋ね來られての頼みに、かれこれ思ひめぐらして逢着したのは、今から三十餘年前、即ち大正二年の夏八月、伊豆の湯ケ島で作つた溪流の寫生畫である。当時三越が賞を懸けて江戸褄の圖案を募集したことがある。それで思ひ付いてそれに通ずる四つの圖案を考へた。第一は「春」で、下部に前景として赤黒い鳥居の上半が出で、その傍に半ば開いた櫻の花の樹が枝を張る。水桶と縄のぼんでんとを立てのせた屋根も見え、その向ふには船の檣が乱れ立つところである。着物の裾に鳥居はどうかと思つた。「夏」は繁りはびこる岸辺の白樫の柯葉の隙間に沸白の溪流が透かし見え、岩の上に鶺鴒が尾を動かすところである。「秋」は濃茶の色に二三株のさび赤んだ杉の梢が山のはざまに聳えるところである。「冬」は雪持の萬年青に紅い實ののぞいてゐるところである。無論募集には應じなかったが、若し應じて選に當つたとしたら其當時では尤も新様の江戸褄となつたであらう、洋風の寫生をそのまま圖案化したものであつたから。其後数年にして、同じ店の江戸褄の募集の選に當つた作品のうちに、ポプラの樹を前景としてその梢を鳥の翔り過ぐるといふやうなのもあつた。わたくしのかつて企てたやうな方角の圖案であつた。
 この九月の或る日曜日に、その「夏」の部を本の表紙にあふやうに畫いたのであるが、板下として手際好く爲上げるのには中々骨が折れた。若し印刷がうまく行つたらこれは見よい装釘ともならう。本の題はまだきまつて居なかつたやうであるから、それとこの圖案との附が好く行くかどうかは知らぬ。

『囘想』に収録された「装釘」(昭和14年11月)という随筆で、小堀杏奴は、杢太郎の『雪櫚集』の装釘が好きだということを話の枕に、「木下杢太郎先生」との交流を描いています。
昭和17年10月31日に書かれた「後記」では、次のように謝辞を書いています。

 何より嬉しいのは、私の勝手なお願ひを聞入れて、木下杢太郎先生が素晴らしい装幀を下さつた事である。装幀に比して内容があまりに貧しい事に氣がひけるが、それでもやはり嬉しい氣がする。題も仲々決まらず苦しんだが、これも先生の御意見により、囘想と決めた。私のつまらぬお願ひに對して、お忙しい時間を割いて下さつた事をすまなく思ふと同時に、深い感謝の念を感ぜずにはゐられない。又出版に就いて、東峰書房で理解をもつて盡力して下さつた事をありがたく思つてゐる。

 

『日夏耿之介選集』(中央公論社、1943年)の箱と表紙

▲『日夏耿之介選集』(中央公論社、1943年)の箱と表紙

 

『日夏耿之介選集』(中央公論社、1943年)の表紙

▲『日夏耿之介選集』(中央公論社、1943年)の表紙

 

『日夏耿之介選集』(中央公論社、1943年)の奥付

▲『日夏耿之介選集』(中央公論社、1943年)の奥付

杢太郎の「本の装釘」(1943年)では、まだ仕上がったものを手にとっていない日夏耿之介(1890~1971)の本について、次のように書いています。

 そのうちに、日夏耿之介君から手紙が來て、中央公論社から出す其選集の表紙の模様をつくれと云つて來た。それはちやうどわたくしの選集と同じ型であると云ふ。小堀杏奴夫人がわたくしを尋ねられたのは、それより後の事であつたが、座敷に灯がつき、庭が暗くなると、思ひがけず、履脱の上にあつたベコニアの葉が光り出した。背景になるもちの繁みが黒ずんで來たので、ベコニアの葉の紅緑がくつきりと明るく目立つたのである。是れは表紙になると其時考へた。そして十月の或る日曜日にそれを爲上げた。まだ試しずりを見ないからどういふ風に出來るか分らない。始めはもちの葉を克明に写して暗い背景としようと思つたが、あまり煩はしい故、藍一色にした。

 

こうして木下杢太郎装幀本を並べてみると、木下杢太郎に装幀してもらった書き手は、果報者だと思います。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

wha ha haジャケット表

坂田明率いるWHA-HA-HAのアルバムを、イギリスのRecommended Recordsが再編集したLP『wha ha ha』(1983年)から、A面1曲目「Akatere」を。「明るいテレンコ娘」の略。小川美潮の歌唱。
千野秀一の曲で、一時期NHKの演芸番組のテーマ曲にも使われていたと思います。

 

『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)の裏ジャケット

▲『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)の裏ジャケット

 

『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)に封入されたA3の刷り物の表

▲『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)に封入されたA3の刷り物の表

 

『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)に封入されたA3の刷り物の裏

▲『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)に封入されたA3の刷り物の裏
1983年イギリスのジャポニズム図像。LPに収めるため、折り目があるのが残念。

 

『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)ラベルA面

▲『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)ラベルA面

 

『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)レベルB面

▲『wha ha ha』(Recommended Records、1983年)レベルB面

この英国盤は、Discogsサイトで購入したのですが、出品者からのメールにあった実名が見覚えのある名前でしたので、確認してみたら、Peter Blegvadの知り合いの人物でした。
そして、このLPは、Peter Blegvadが自宅のアナログ盤を処分するというので、もらってきたものだという話でした。
つまり、この『wha ha ha』英国盤は、Peter Blegvad旧蔵のレコードだったわけです。

ネットの買い物でも、思いがけないことがあるものです。

 

▲ページトップへ