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my favorite things 101-110

 my favorite things 101(2013年4月8日)から110(2013年6月12日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

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 101. 1900年ごろのホフマン『英語版もじゃもじゃペーター』(2013年4月8日)
 102. 1957年のエドワード・ゴードン・クレイグ『わが生涯の物語へのインデックス』(2013年4月17日)
 103. 1924年のエドワード・ゴードン・クレイグ『木版画と覚書』(2013年4月23日)
 104. 1957年の木山捷平『耳學問』(2013年4月28日)
 105. 1992年の『五代友厚・寺島宗則・森有礼』(2013年5月8日)
 106. 1991年のウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング『ディファレンス・エンジン』(2013年5月10日)
 107. 1971年のドナルド・バーセルミ『ちょっとへんてこな消防車』(2013年5月16日)
 108. 1982年のアン・テイラー『ローレンス・オリファント 1829-1888』(2013年5月26日)
 109. 1975年のハットフィールド・アンド・ザ・ノース『ザ・ロッターズ・クラブ』(2013年6月4日)
 110. 1938年の『聖者の物語』(2013年6月12日)
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110. 1938年の『聖者の物語』(2013年6月12日)

1938Marty_Histoire Sainte_cover

 

Paul de Pitrayの文章にアンドレ・マルティ(André E. Marty)の絵で構成された子ども向けの聖書絵本『聖者の物語(HISTOIRE SAINTE)』(1938年,Hachette)です。表紙はマリアへ天使ガブリエルが受胎告知する場面です。

翼をもつ人に描かれ方に,ちょっと関心があります。絵画で描かれる翼ある人には,軽さよりも重力を感じてしまいます。次の瞬間,地に落ちていくような重さです。

ハットフィールド・アンド・ザ・ノースのアルバムにコラージュされていたシニョレッリの天使たちは,くんずほぐれつ墜ちていく天使たちで,翼には天使のしるしということ意外に意味がなさそうでした。

アンドレ・マルティが描いた『聖者の物語』表紙の翼をもつ存在は,明らかに宙に浮かぶわけではなく,すっとつま先立ちしていて,この姿勢は図像としては意外と珍しい気がします。

「翼のある人」が20世紀的主題としてふさわしかったかは別として,翼のある存在を描いたもので印象に残る20世紀の絵画作品に,スタンレー・スペンサー(Stanley Spencer,1891~1959)が描いた『アポカリプスの天使たち(Angels of the Apocalypse)』(1949年)があります。その図版を初めて見たのは,手もとに本がないので,うろおぼえですが,高校生の頃,たぶんハーバート・リード(Herbert Read,1893~1968)の『モダン・アートの哲学』だったような気がします。スペンサーが描くアポカリプスの天使たちは,翼はありますが,近所のおばさんたちのような風采と衣装で,とても日常的で,ユーモラスでありながら,どこか恐ろしい印象があって記憶に強く残りました。宗教的主題をたくさんの作品を描いたスペンサーですが,なぜか翼のある存在を描いた作品は珍しく,『アポカリプスの天使たち』は例外的な作品かもしれません。

天使など翼のある存在は,フィクションでは見慣れた存在ですが,実際には見ることがない存在であり,徹底して不自然な存在です。なんとなく天使は空を飛ぶという前提は当たり前のように納得していますが,それを図像に表現すると,それが飛んでいるのは,やはり徹底して不自然な状態には違いなく,不自然なものとして割り切って描いた方がその存在が浮かび上がるような気もします。

 

1938Marty_Abraham

▲『聖者の物語』のアブラハムとその息子イサクと天使。
どちらかというと,退屈な構図の多い『聖者の物語』ですが,嫡子イサクを神の生贄として捧げようとするアブラハムと,それをとどめようとする天使を描いた場面の天使は,その急降下ぶりが不自然で,ありえない構図すぎて,とても素敵です。

 

1896Monvel_Jeanne D'Arc

▲ブーテ=ド=モンヴェル(M. Boutet de Monvel,1851~1913)の絵本『ジャンヌ・ダルク(Jeanne D'Arc)』(1896)では,ジャンヌにフランスを救うように告げる大天使ミカエルは中空に立っていました。多色石版の美しい絵本です。

 

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109. 1975年のハットフィールド・アンド・ザ・ノース『ザ・ロッターズ・クラブ』(2013年6月4日)

1975Hatfield and the North_The Rotters' Club

 

ちょっとレコードジャケットに光をあてすぎたでしょうか。日本盤とも米盤とも違う,英盤独特のピカピカなコーティングの質感は,なにか堪らないものがありました。1970年代の少年にとって,独自のときめきを放っていました。まあ,安上がりな感激ではありますが,今でも手に取るとわくわくします。

ハットフィールド・アンド・ザ・ノース(Hatfield and the North)のセカンド・アルバム『ザ・ロッターズ・クラブ(THE ROTTERS' CLUB)』(1975年,英Virgin)です。訳すると『ろくでなしクラブ』。わたしも,1970年代の英ヴァージン・レーベルからリリースされたアルバム群に心を奪われてしまったくちです。なかでも『ザ・ロッターズ・クラブ』は,心のもっとも柔らかい部分に居座り続ける,別の見方をすれば「成長」を許さない,やっかいな,愛して止まないアルバムの1枚です。

A面最後の「Didn't Matter Anyway」は,お別れの曲というと,真っ先に思い浮かぶ歌です。「Didn't matter anyway. We'll Meet again some another day. (とにかくたいしたことじゃなかったんだ。またいつか会えるよ)」とリチャード・シンクレアが歌いはじめると,なんともいえない寂しさがつのります。激しい感情がわきあがるというタイプではなく,どこか諦念をともなった別れの曲です。触れることなく,ただ手を振るだけで別れる,そんな別れです。

ハットフィールド・アンド・ザ・ノースのドラムスだったピップ・パイルが亡くなったとき,葬儀の場でリチャード・シンクレアが歌っていたそうです。

 

1975The Rotters' Club_A

1975The Rotters' Club_B

▲Hatfield and the Northのセカンド・アルバム『The Rotters' Club』(1975,Virgin)アナログ盤レーベルのSide One / Side Two。ロジャー・ディーンがデザインしたレーベル面。

 

1974Hatfield Single_A

1974Hatfield Single_B

▲1974年に出たシングル盤のSide One / Side Two。ロジャー・ディーンがデザインしたモノクロのレーベル面。

 

2002Jonathan Coe_The Rotters' Club

▲2001年に、イギリスの小説家ジョナサン・コー(Jonathan Coe)が,『The Rotters' Club』というタイトルの長編小説を発表しています。写真は2002年にPenguin Booksから出たペーパーバックです。

 

2005BBC4_The Rotters' Club

▲ジョナサン・コーの小説『The Rotters' Club』を原作として,2005年にイギリスのBBC4がドラマ化しています。内容的には少なくとも10回はほしいところですが,50分×3回のドラマに圧縮しているので,駆け足感は否めません。とにもかくにも映像化されています。BBC制作のドラマですが,今のところ英国盤DVDは出ていないようです。オランダ盤DVDが出ています。

小説・ドラマの舞台は,1970年代のイギリス・バーミンガムです。10代の少年少女たちの学園生活を中心にその家族や教師たちの70年代的な日々を描いた群像劇です。小説では, 2003年に主人公の子どもたちの視点から携帯電話も衛星放送も何もなかった1970年代を回想するという枠物語になっています。
主人公の少年は,Ben(Benjamin) Trotterで,友人からBent Rotter(倒錯したろくでなし)と言われています。名門校に通う高校生です。ベンジャミンくんが,姉ロイス(Lois)のボーイフレンド,長髪のマルコム(Malcolm)からHatfield and the Northという新しいバンドを薦められる挿話があるのですが,姉ロイスとマルコムは、バーミンガムで起こったIRA爆弾テロにまきこまれて,マルコムは亡くなってしまいます。小説では,ベンジャミンがマルコムに1974年の秋,コックスヒル/ミラー(Coxhill/Miller)やケヴィン・コイン(Kevin Coyne)とハットフィールド・アンド・ザ・ノースのライブに連れて行ってもらうという,とてもうらやましい場面があるのですが、ドラマでは会話で処理しています。

姉ロイスは、長い入院生活を送ることになり,ベンジャミンがマルコムに教えてもらったバンドの新譜をプレゼントする場面が,ドラマでも使われています。お姉さんがプレゼントの包みをあけると、ハットフィールド・アンド・ザ・ノースのセカンド・アルバム『ザ・ロッターズ・クラブ』があらわれます。亡くなったマルコムは聴くことができなかったアルバムです。いい場面です。

姉役の女優さんはよいのですが,ベンジャミンくんの憧れの君シシリー・ボイド(Cicely Boyd)役の女優さんには,1970年代感がありません。2000年代の娘さんという感じです。2005年の顔と1975年の顔は,近い過去とはいえ,違います。なんとも残念で,1970年的な顔立ちの娘さんをさがし出して,キャスティングできなかったかと,こうるさい小姑感まるだしになってしまいます。

『The Rotters' Club』という大好きなレコード・アルバムの名をタイトルにしているだけに,気持ちとしては,小説もドラマも大傑作に化けてほしかったのですが,ちょっと期待はずれでした。とはいえ,1970年代に10代だったの主人公たちの物語ですので,出来不出来を超えて,心に響くところが多々あって楽しめました。

たぶんジョナサン・コーの『ザ・ロッターズ・クラブ』の登場人物たちは,同時代の日本で,その音楽に夢中になっていた少年少女が存在したということを,想像したこともなく,海外の読者を想定していない,多分に英国限定的な小説になっています。一方で,ハットフィールド・アンド・ザ・ノースのセカンド・アルバム『ザ・ロッターズ・クラブ』は英国限定でなく,確かに日本の少年の心にもしっかり届いていました。その差は大きい気がします。

結論としては,心のもっともデリケートな部分にかかわるアルバムだけに,こういう愛されているアルバムのタイトルを使うということは,やっぱり反則かな,というのが率直な感想です。

ドラマでは,70年代当時の音楽がふんだんに使われていて,例えばロキシー・ミュージック/ブライアン・フェリーの音楽は3話中どの回にも登場して,
 1974年を扱う第1話で「All I Want Is You」
 1975~76年を扱う第2話では「Love is the drug」
 1976~77年を扱う第3話では「Smoke gets in your eyes」
が流れます。その一方で,ハットフィールド・アンド・ザ・ノースの音楽はなぜか使われていません。なので,ハットフィールズの面々には著作権使用料1銭も回らないわけで,それも何か筋が通っていないような気がします。

 

2002_2004Louis Philippe_Jonathan Coe

▲小説家ジョナサン・コーは,ポップ・マエストロというべきミュージシャン,ルイ・フィリップ(Louis Philippe)と共作しています。2002年の『9th & 13th』では,『ザ・ロッタース・クラブ』ほかの小説をジョナサン・コー自身の朗読とルイ・フィリップ&ダニー・マナーズの音楽で構成し,2004年のルイ・フィリップのソロアルバム『The Wonder Of It All』では,タイトル曲の詞をジョナサン・コーが書いています。『ザ・ロッターズ・クラブ』のベンとシシリーが2000年代に再会した場面のような歌詞になっています。かつて恋人だった二人が,何年もたって,それぞれ子どもも持って再会し,別の道もあったんじゃないかと思い浮かべながら,遊んでいる子供たちを眺めている。そんな内容の歌詞です。ルイ・フィリップ流の極上のポップソングに仕上がっています。

 

1974Hatfield and the North

▲Hatfield and the Northのファースト・アルバム(1974年,Virgin)英アナログ盤。
ヴァージン・レーベル初期の写真家・デザイナーで記憶に残るのは,レーベルデザインを担当したロジャー・ディーンやチューブラー・ベルズやワイアットの写真のTrevor Keyですが,ハットフィールド・アンド・ザ・ノースの写真やアートワークをやっていたLaurie Lewisの存在も忘れられません。
ハットフィールド・アンド・ザ・ノースのアルバム・ジャケットは,基本的にコラージュです。ファースト・アルバムのジャケットでは,曇り空のイギリスの田舍街に,ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli,1445ごろ~1523)が描いたオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂『最後の審判』から「罪されし者を地獄へ追いやる天使」の一部がコラージュされています。イギリスでは「The Damned (Cast into Hell)」というタイトルで知られている作品です。

 

1975The Rotters' Club_ Signorelli

▲Hatfield and the Northのセカンド・アルバム『The Rotters' Club』の裏ジャケットから。
セカンド・アルバムのアルバムの裏ジャケットにもルカ・シニョレッリ「罪されし者を地獄へ追いやる天使」の一部をコラージュしています。

 

1975The Rotters's Club_Valkyrie

▲ルカ・シニョレッリの図像のほかに,『The Rotters' Club』のコラージュにある,翼のある馬に乗る女性像の出典は分かりませんが,イギリスの画家エドワード・ロバート・ヒューズ(Edward Robert Hughes,1851~1914)の作品『A Dream Idyll(A Valkyrie)』に構図が非常に類似していますので,ワルキューレ主題でしょうか,その作品と何らかの影響関係にある作品と思われます。

【2022年6月27日追記】

読者の方が,翼のある馬に乗る女性像の出典をご教授くださいました。
絵は,やはりエドワード・ロバート・ヒューズ(Edward Robert Hughes,1851~1914)のものでした。

イタリアの作家ジョヴァンニ・フランチェスコ・ストラパローラ(Giovanni Francesco Straparola、1480?~1557?)の昔話集を,W・G・ウォータース(W. G. Waters、1844~1928)が英訳した『The Nights of Straparola』(ストラパローラの夜,1894年,LAWRENCE AND BULLEN),その本のエドワード・ロバート・ヒューズによる挿絵が出典でした。

第7夜最初の話,フィレンチェの夫婦(Isabella と Ortodosio Simeoni)の話の挿絵。
仕事でフランダースに行き,そこの女性(名はArgentina)に夢中になって帰って来なくなった夫をさがすため,妻は魔女(名はGabrina Fureta)の力を借り悪魔(Astaroth と Fafarello)を呼び出します。魔方陣の中で裸身になり,悪魔(Fafarello)が変身した馬に乗り,フランダースまで飛んでいく場面が挿絵になっています。フランダースに着いた妻は,魔法の力でフランダースの女性と入れ替わり,夫の子どもをみごもります。夫の不在のまま子どもを宿したかたちの妻は,さて幸せをつかめるのかどうか,というお話。

ストラパローラの本は,長野徹訳『愉しき夜: ヨーロッパ最古の昔話集』(2016年、平凡社)という邦訳もでていました。

 

1975The Rotters' Club_Ruby Crystal

▲Hatfield and the Northの『The Rotters' Club』のジャケットから。
『The Rotters' Club』のアルバム・ジャケットの女性は,ファンレターに返事を書いているという設定になっているのですが,その束になったファンレターの宛名はハリウッドのMGMスタジオのルビー・クリスタル(Ruby Crystal)宛となっています。

 

1972Matching Mole_Ruby Crystal

▲ルビー・クリスタルは一応,架空の存在なのですが,ロバート・ワイアットがソフトマシーン脱退後に結成したバンド,マッチングモウル(Matching Mole)の『Matching Mole's Little Red Record』(1972年,英CBS)のバックコーラスDer Mütter Korusのクレジットにルビー・クリスタル(Ruby Crystal)の名前があります。

ロバート・ワイアットのパートナー、アルフレーダ・ベンジのお友達の女優さんが、大人の事情からRuby Crystalという変名で参加したという話をもとに,ハットフィールド・アンド・ザ・ノースのアルバム・ジャケットで女優のアイデアを膨らませたのでしょうか。

ネタ晴らしをすれば,マッチング・モールに参加していたRuby Crystalは,女優のジュリー・クリスティー(Julie Christie)でした。個人的にはトリュフォーの『華氏451度』やロージーの『恋』で記憶に残り続ける女優さんです。

思えば,TV版の『ザ・ロッターズ・クラブ』に足りなかったのは、まさにジュリー・クリスティーで,ヒロインの母親にでもキャスティングすれば,「伝説」にだってなれたのではないでしょうか。

 

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108. 1982年のアン・テイラー『ローレンス・オリファント 1829-1888』(2013年5月26日)

1982Anne Taylor_Laurence Oliphant

 

ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング(William Gibson & Bruce Sterling)の歴史改変ものSF作品『ディファレンス・エンジン(THE DIFFERENCE ENGINE)』(1990年)では,ヴィクトリア期の実在の人物ローレンス・オリファント(Laurence Oliphant,1829~1888)が主要登場人物になり,森有礼ら薩摩藩が英国に派遣した留学生も登場します。その参考資料として使われたと思われる伝記が,1982年にオックスフォード・ユニヴァーシティ・プレス(OXFORD UNIVERSITY PRESS)から出版されたアン・テイラー(Anne Tayler)著『ローレンス・オリファント1829-1888(LAURECE OLIPHANT 1829 - 1888)』です。

ダストラッパーに「TRAVELLER・WRITER・WIT・SECRET AGENT・DIPLOMAT・MYSTIC・ENTREPRENEUR(旅行家・作家・才子・諜報員・外交官・神秘主義者・起業家)」と多面的存在としてアピールされていますが,ローレンス・オリファントは,19世紀後半イギリスがかかわった世界各地の紛争地域に必ず現れた人物で,19世紀世界を舞台にした歴史ものには格好のキャラクターです。

日本との関わりにおいても興味深い存在です。最近では,ロングセラーになっている渡辺京二『逝きし世の面影』(1998年葦書房,2005年平凡社)で,オリファントの日本描写が数多く引用されていますので,そのことで名前が知られているかもしれません。
オリファントは,歴史の表舞台に立った人物ではありませんが,森有礼はじめ薩摩の人間との関係性だけをとっても,いくつもの引き出しがあって,興味深い存在であることに間違いありません。

オリファントについては,アン・テイラー『ローレンス・オリファント1829-1888』のほかに,おもな伝記作品が3冊あります。

 

1891Laurence Oliphant_Oliphant

▲1891年『ローレンス・オリファントとその妻アリス・オリファントの生涯の回想(MEMOIR OF THE LIFE OF LAURENCE OLIPHANT AND ALICE OLIPHANT, HIS WIFE)』BY MARGARET OLIPHANT W. OLIPHANT
1888年にローレンス・オリファントが亡くなった後,オリファントの版元であったWILLIAM BLACKWOOD AND SONSから出された二巻本の伝記です。いわゆる公式の伝記です。作者のマーガレット・オリファント(1828~1897)はミセス・オリファント(Mrs. Oliphant)の名前で知られたロマンス小説作家で,姓は同じですが,ローレンスとは親戚ではないようです。
手もとにあるのは,いわゆる図書館の廃棄本です。蔵書票が貼られているので,所有の経緯が読み取れます。タイトルページに,「出版者より謹呈(WITH THE PUBLISHERS' COMPLIMENTS)」と刻印が押されているので1891年の謹呈本です。見返しに蔵書票が貼られW Drummond Youngへ贈られた本だと思われます。W Drummond Youngはスコットランドの画家William Drummond Young(1854~1924)でしょう。さらにもう1枚蔵書票が貼ってあって,アメリカ,ボストンにある1791年創設の歴史文書アーカイヴMassachusetts Historical Societyの蔵書票です。1924年7月29日にBigelow Fundから寄贈と記されています。ボストン美術館などとも関わりの深いビゲロウ家から贈られた本が,文書館の整理で,古書市場に流通したものかと思われます。オリファントもビゲロウも日本とは縁がある存在なので,日本にやってきたのも何かの縁だったのでしょう。

 

1942Prophet And Pilgrim

▲1942年『予言者と巡礼 トマス・レイク・ハリスとローレンス・オリファントの信じがたい物語,懐疑論者を論破するため詳細に記録された彼らの性的神秘主義とユートピア的共同体(A PROPHET AND A PILGRIM Being the Incredible History of Thomas Lake Harris and Laurence Oliphant; Their Sexual Mysticisms and Utopian Communities Amply Documented to Confound the Skeptic)』BY HERBERT W. SCHNEIDER AND GEORGE LAWTON
第二次大戦中の1942年に,アメリカのコロンビア大学(COLUMBIA UNIVERSITY PRESS)から出版された「COLUMBIA STUDIES IN AMERICAN CULTURE」シリーズの1冊。ハリスの教義を「性的神秘主義(Sexual Mysticisms)」と概括しています。写真の版は,1970年AMS PRESSの復刻版です。

 

1956Oliphant_Henderson

▲1956年『ローレンス・オリファントの生涯(The Life of LAURENCE OLIPHANT)』
BY PHILIP HENDERSON(Robert Hale Limited)
ダストラッパーには副題的に「TRAVELLER・DIPLOMAT・MYSTIC(旅行家・外交官・神秘主義者)」と記されています。
作者のフィリップ・ヘンダーソンは,ウィリアム・モリス書簡集の編者です。ウィリアム・モリスへの関心とローレンス・オリファントへの関心が並列するところが興味深いところです。

ローレンス・オリファントは,ヴィクトリア期のイギリスで,作家として,イギリスの国会議員として,あるいはファッションリーダーとして何の不自由のない存在でしたが,1860年代 トマス・レイク・ハリス(Thomas Lake Harris,1823~1906)というキリスト教系の神秘主義者に魅入られ,それまでの生活を捨て,ハリスがアメリカにつくった共同体,新生兄弟社(the Brotherhood of New Life)に入れ込み,財産もその教団に投じます。そのとき,オリファントは,幕末薩摩から英国に派遣されていた留学生たちも誘い,留学生たちもそれに応じるという出来事がおこります。

オリファントのハリスへの傾倒は,どの伝記でも,オリファントのような優れた人物がペテン師のような怪しげな人物にころっとだまされたのが理解しがたいと,批判的な書かれ方をしています。

オリファントとハリスは,森有礼(沢井鉄馬),鮫島尚信(野田仲平),長沢鼎,畠山義成(杉浦弘蔵),吉田清成(永井五百介),市来勘十郎(松村淳蔵)ら薩摩から英国留学生をアメリカにあるハリスの宗教的共同体のメンバーとして生活しながら勉学を続けないかと勧誘します。幕末の混乱で薩摩からの送金が途絶えた留学生たちは,その誘いを受け入れます。畠山・吉田・市来らは1868年5月宗教的共同体から離脱し精神的にも絶縁しますが,共同体から離れた後,外交官に転身した森・鮫島らは,ハリスの影響下にあり続けたと思われます。長沢鼎はハリスとともに行動し,ハリスの共同体が経営するカリフォルニア・サンタローザのブドウ農園・ワイン倉を引き継ぐ存在となります。

宗教的・政治的なことばは,それを発する者がどの立場にいるかで,意味が変わってきますが,アン・テイラー『ローレンス・オリファント1829-1888』で引用されている同時代証言には比較的中立的な立場からのものもあって貴重です。その1つで,自由貿易主義者の国会議員ジョン・ブライト(John Bright)の日記の記述に,ハリスがオリファントや薩摩の留学生にもたらした宗教的体験の一端を知ることができます。

ジョン・ブライトは,1867年のある日,オリファントに薩摩からの留学生を紹介され,面談します。イギリスではまだ日本人の存在は珍しかったので,プライドはそのときの会話を詳しく日記に書き残しています。薩摩の留学生たちは,キリスト教は迷信のひとつに過ぎないと考えていたのですが,1866年の夏アメリカに出向いて,ハリスの説教を聞いたとき,奇妙なほど感激し,泣き出すものさえあったと語ります。ハリスが留学生の手をとると,説教に心動かされなかったものも手が震え,その震えは何週間もおさまらず,説明しがたい心の震えに襲われることになったといいます。薩摩の青年たちは,ハリスを通じて神の呼吸が彼らの胸をみたし,心臓が高鳴り震え,からだ全体で神の存在を感じることができたという神秘的体験をブライトに熱心に語っています。プライドは留学生たちの対話を楽しく有意義だと思いつつも,留学生に起こった変化の本質は理解できなかったと書いています。留学生と分かれて,夜道を歩いて帰り,寝る前にミルトンの『失楽園』を読んだと,日記を締めくくっています。

アン・テイラーは,プライドが会った薩摩人を松木と五代ではないか推測していますが,1867年には松木と五代は帰国しているので,これはたぶん,吉田清成と鮫島尚信と思われます。吉田は後にハリスの教団から離脱しますが,当初ハリスとオリファントからは最も有望な存在と見なされていたようです。
留学生たちはハリスのことを「Faithful(信義にあつきもの)」とよび,共同体で暮らすものは,そうしたニックネームのようなもので呼ばれていたようです。ハリスの共同体にかかわった留学生たちの呼び名すべてを調べることができれば,留学生たちの共同体内での役割みたいなものが分かるかもしれません。ただ重要な存在であるローレンス・オリファントは共同体では「Woodbine(スイカズラ)」という半端な名前で呼ばれていたので,呼び名に強い意味はないのかもしれません。

ハリスのもたらす宗教的体験が,論難者たちが告発するように「性的」なものだったかは,はっきりしませんが,「呼吸を合わせる」方法など,少なくとも身体を呼吸で統御する方法も含まれていたようです。どちらかというと頭でっかちな新知識優先で,そうした身体的体験にうぶであった薩摩の留学生たちが,ハリスとの出会いでもたらされた身体的な宗教的体験に魅入られてしまったのも分かるような気がします。ウィリアム・ジェイムズ(William James,1842~1910)の『宗教的体験の諸相』(1901年)の事例として出てきてもおかしくありません。

これら英語圏の伝記の書き手たちに,日本語文献を読み込む能力が在れば,オリファントの伝記はより豊かなものになったと思うのですが,これは将来に期待すべきでしょうか。

 

2007Mori Arinori_Arai Ousui

▲荒このみ・生井英考編著『シリーズ アメリカ研究の越境(6) 文化の受容と変貌』(ミネルヴァ書房、2007年)に収録された阿部珠理「森有礼・新井奥邃のアメリカ体験と思想実践」で,森有礼・新井奥邃(あらいおうすい)のハリス体験についてのおおよそを知ることができます。HERBERT W. SCHNEIDER AND GEORGE LAWTONの『予言者と巡礼』に依拠しています。

では,ハリスは,オリファントの伝記作者たちが言うように宗教的ペテン師だったのかというと,それだけでもないようです。師匠がどれほどの存在かを見るには,その弟子を見れば分かる,ということもあります。ハリスの弟子,森有礼・新井奥邃という2人の存在を考えると,毀誉褒貶をこえて,力のある存在だったのではないかと思われます。

 

2010Arai Ousui

▲コール ダニエル・金泰昌編『公共する人間 5 新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者』(東京大学出版会,2010年)

新井奥邃(新井常之進,1846~1922)は,2000~2006年に全9巻+別巻の『新井奥邃著作集』(春風社,新井奥邃著作集編纂会)が刊行され,再評価がすすむ明治・大正期のキリスト教思想家です。『公共する人間 5 新井奥邃』は,その全集刊行後,新井奥邃理解の現状を知る格好の一冊になっています。

新井奥邃は仙台藩士で,戊辰戦争では奥羽越列藩同盟結成にかかわり,五稜郭にたてこもって,新政府軍と戦います。戊辰戦争後に新政府の外交官になっていた森有礼と知り合い,森に伴われて渡米します。森は新井をハリスの共同体に紹介し,新井は,その後約30年間を長沢鼎らとともにハリスの宗教的コミュニティの一員として労働と瞑想の日々を過ごします。独立した集団は,独自の印刷部門を持つものが通例ですが,ハリスの共同体でも自らの印刷所を構え,ハリスの宗教詩などを出版しています。新井は,その活版印刷の植字,編集,蒸気ボイラーで動く印刷機の操作をまかされるようになります。ハリスの教団では,カリフォルニアのサンタローザのブドウ農園・ワイン倉経営が活動の中心になっていったので,新井は,共同体のなかでも単独者的な存在だったようです。

しかし,19世紀後半のアメリカ・カリフォルニアで,倒幕派の元薩摩藩士と佐幕派の元仙台藩士が共同生活をしていたというのは,それだけでも,とても不思議で,劇的な光景です。

1899年(明治32年),新井53歳のとき,アメリカを離れ,たぶん自分で組版・製本したと思われる英語の自著『内観祈祷録』(Inward Prayer and Fragments)』1冊だけを手に,単身で日本へ帰国します。1904年(明治37年),支援者の寄進で東京の巣鴨に「謙和舎」を開き,青年たちと共同生活をしながら,著作活動をします。どの教会にも所属せず,独立した存在であり続けました。足尾鉱山鉱毒事件で知られる田中正造の心の支えになった人物でもあります。

美術史的関心からいうと,新井奥邃の思想は,柳敬助,荻原碌山(守衛),高村光太郎といった藝術家たちに強い影響を与えています。高村光太郎は新井の著作を繰り返し繰り返し読んでいたことが知られています。柳敬助は,新井に何度も肖像画を描かせてくれと頼んでいますが,新井はそれを許しませんでした。新井には1枚の写真も肖像画も残されていません。新井はモダニズムの20世紀まで生きた人ですが,図像参照が当然の前提とされる世界とはまったく違った精神世界を生きていたようです。

ちなみに,鹿児島県歴史資料センター黎明館には,高村光太郎作の園田孝吉の胸像が常設展示されています。森(広瀬)常の写真と思われていた園田銈のだんなさんです。もしかしたら,高村・園田の関係は,森・新井と地下水脈でつながっていたのかもしれません。

 

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107. 1971年のドナルド・バーセルミ『ちょっとへんてこな消防車』(2013年5月16日)

1971Barthelme_fire engine

『THE NEW YORKER』誌を中心に,ちょっと先鋭的で都会的な笑える短編小説を書き続けていたドナルド・バーセルミ(Donald Barthelme,1931~1989)が,お嬢さんのAnneに捧げた絵本です。正式タイトルは『ちょっとへんてこな消防車,あるいはあっちこっち現れる魔神(The Slightly Irregular Fire Engine, or the Hithering Thithering Djinn)』で,1971年にFarrar Straus Girouxから出版されています。バーセルミは賞とはあまり縁のない作家でしたが,この絵本は全米図書賞の児童書部門で受賞しています。1887年,少女マチルダ(Mathilda)が不思議な世界を壺の魔神とともに巡る物語で,イラストは19世紀の木版画などを切り貼りしてバーセルミがコラージュしたものです。

コラージュというのは,とてもとても20世紀的な表現のひとつで,ありあわせのものを切り貼りして別のものを生み出すもので,シュルレアリズムから広がった技法として知られています。マックス・エルンストの『百頭女』などで,美術表現の前線に出て来て,現在のサンプリングやマッシュアップともつながっている表現技法です。

 

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▲The Overlook Pressから再刊された2006年版『ちょっとへんてこな消防車』の表紙。本文内容に変更はありませんが,本文用紙のクリーム色が強めになっているので,1971年版と印象がだいぶ違います。

バーセルミの絵本『ちょっとへんてこな消防車』は,『百頭女』と同様にコラージュで作られた絵本です。バーセルミは,コラージュや図版をつかった短編作品を『THE NEW YORKER』誌などに発表しています。1925~2007年の『THE NEW YORKER』誌全冊を収録したDVDソフトで,バーセルミのグラフィックものの掲載号をざっと調べてみたら,発表時期は1960年代後半から1970年代なかばまでに集中しています。こうした作品を発表できる時代の空気みたいなものがあったのかもしれません。(余談になりますが,『THE NEW YORKER』誌DVDソフトは,2008年以降更新されなくなったのが残念。デジタル・アーカイヴものは,閲覧ソフトがすぐ古びていくので,継続性がないものが多く,10年後100年後に安心して見ることが出来るかどうか全く分からないため,アーカイヴとしては,まだまだ不安定すぎます。デジタル・アーカイヴというのはそもそもそれ自体矛盾した言葉なのかもしれません。)独自編集で,バーセルミのグラフィックものの1巻本選集があれば,欲しいです。

 1968年5月4日号 The Explanation(図版)
 1968年8月17日号 Eugénie Grandet(図版)
 1968年10月12日号 Kierkegaard Unfair To Schlegel(図版)
 1969年5月24日号 At The Tolstoy Museum(コラージュ)
 1970年6月13日号 A Nation Of Wheels(コラージュ)
 1970年8月8日号 The Show(コラージュ)
 1971年5月1日号 The Story Thus Far:(コラージュ)
 1972年10月21日号 Wrack(コラージュ)
 1973年7月16日号 That Cosmopolitan Girl(図版)
 1974年1月28日号 The Photographs(図版)
 1976年1月12日号 The Dassaud Prize(コラージュ)

ついでに,『The New Yorker』誌へのバーセルミの寄稿作品数を年ごとに調べてみると,1970年代前半に特に密で蜜な関係だったようです。基本的に短編の掲載ですが,1967年2月18日号には長編『雪白姫(Snow White)』の一挙掲載がありました。同時代的にはビートルズの「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」の両A面シングルがイギリスで発表されたのが1967年2月17日で,公式の日付では1日違いです。

 1963年 3作品
 1964年 6作品
 1965年 4作品
 1966年 3作品
 1967年 4作品
 1968年 6作品
 1969年 6作品
 1970年 10作品
 1971年 10作品
 1972年 10作品
 1973年 11作品
 1974年 10作品
 1975年 5作品
 1976年 7作品
 1977年 9作品
 1978年 11作品
 1979年 9作品
 1980年 6作品
 1981年 3作品
 1982年 3作品
 1983年 5作品
 1984年 3作品
 1985年 3作品
 1986年 3作品
 1987年 6作品
 1988年 0作品
 1989年 1作品

 

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▲昭和53年(1978年)『海』1月号(中央公論社)の「ドナルド・バーセルミ 短編の世界」。雑誌をばらして,保存していました。
「タイヤの国」や「写真」などバーセルミのグラフィックな短編小説が翻訳紹介されたのは,この『海』の特集が最初だったと思います。単純かも知れませんが,小説家のグラフィックな試みにわくわくしていたものです。

バーセルミのテキストは,何というか,頭のいい人やアーチストの集まった場所でのパーティジョークみたいなところがあって,その文脈を離れて読むと何か疎外されているような印象をうけることもありますし,細かい笑いの種が仕込まれていても,それが日本語化されたから面白いというタイプの作家ではないのかも知れませんが,それでも「われわれのうち何人かはわれらが友コルビーを脅かしてきた」や「きみはヴィンセント・ヴァン・ゴッホのように勇敢だ」など,好きな短編が次から次に思い浮かびます。

短編小説「インディアンの蜂起」では,インディアンたちが現代の街をなぜか襲撃して,街を守るためにバリケードを築くのですが,そのバリケードは「ふたつの灰皿。ひとつは焦げ茶の陶器,もうひとつは焦げ茶で縁がオレンジ色のぼかしになっている陶器。粗製のフライパンひとつ。赤ぶどう酒のリットル瓶二本。ブラック&ホワイト,アカヴィット,コニャック,ウォッカ,ジン,ファッド#6シェリーなどの四分の三リットル瓶。黒い練鉄の脚に樺のベニヤ板を張り合わせたドア。うす青の縞が入った赤だいだい色の毛布一枚。赤の枕と青の枕,ひとつずつ。わらで編んだ屑かご。ガラス製花瓶二個。コルク栓抜きと罐切り,平皿二枚と茶碗二個,ともに焦げ茶の陶製。黄と紫のポスター一枚。焦げ茶の木製で,彫刻つきユーゴスラヴィアのフルート。その他もろもの」(山崎勉・邦高忠二訳)で構成されています。お酒の空き瓶コラージュでできた酔いどれのバリケードです。

酔いどれと言えば,バーセルミがヒューストン大学創作科で教えていたときの学生トマス・コブ(Thomas Cobb)は,デビュー小説『クレイジー・ハート(Crazy Heart)』(1987年)でバーセルミを主人公の酔いどれ音楽家のモデルとしています。2009年その『クレイジー・ハート』が映画化されたとき,その役はジェフ・ブリッジス(Jeff Bridges)が演じていて,第82回アカデミー賞主演男優賞を受賞しています。バーセルミの本に親しみ,ジェフ・ブリッジスの映画を少なからず見ているものとしては,なんだか不思議な巡り合わせ,組み合わせです。

バーセルミの短編集の翻訳は『アマチュアたち(Amateurs)』(1976年)で止まっていて,それ以後の短編はほとんど翻訳されていません。個人的には,Kim Herzinger編纂の2冊の雑文集『ドン・Bの教え(The Teachings of Don B.: Satires, Parodies, Fables, Illustrated Stories, and Plays of Donald Barthelme)』(Turtle Bay Books,1992)と『知ら・ない(Not-Knowing: The Essays and Interviews of Donald Barthelme)』(Random House,1997)の2冊が翻訳されると,うれしいです。

 

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106. 1991年のウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング『ディファレンス・エンジン』(2013年5月10日)

1991THE DIFFERENCE ENGINE

 

ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング(William Gibson & Bruce Sterling)の小説『ディファレンス・エンジン(THE DIFFERENCE ENGINE)』(角川書店,1991年,黒丸尚訳。オリジナル版は1990年刊行)は,歴史改変ものの小説です。

ウィリアム・ギブスンは,1980年代に,近未来の千葉などを舞台にして『ニューロマンサー(Neuromancer)』『カウント・ゼロ(Count Zero)』『モナリザ・オーヴァドライヴ(Mona Lisa Overdrive)』の三部作で,サイバーパンクという電脳世界を舞台とするSFジャンルをつくりあげた人です。いずれも黒丸尚訳で早川文庫から出ていて,新刊が楽しみな作家でした。振り返ると,黒丸尚が亡くなった1993年以降,SFジャンルの小説とは縁が薄くなってしまったような気がします。
『ディファレンス・エンジン』はサイバーパンク三部作に次ぐ作品で,ありえたかもしれない過去を扱っています。過去を題材とした小説には,例えば司馬遼太郎の方法もあれば山田風太郎の方法もあります。個人的には山田風太郎のほうが好みで,『ディファレンス・エンジン』もその系統の歴史改変ものです。

小説『ディファレンス・エンジン』の基本設定は,19世紀英国の科学者チャールズ・バベッジ(Charles Babbage)が構想した蒸気コンピュータ「ディファレンス・エンジン」が完成し実現してしまったヴィクトリア朝世界です(現実の歴史では構想だけに終わった発明です)。この設定はよくできています。出来過ぎなくらいです。そのせいかストーリーより設定から導き出される細部のほうが楽しい作品になっていて,それは小説としては欠陥といえるのかもしれません。
主要登場人物も架空の人物と現実に存在した人物が入り交じっています。小説『不如帰』の主人公川島浪子と実在の人物大山捨松が登場するようなものです。そして,小説内では,現実に存在した人物も蒸気コンピュータが実現してしまった世界のルールに従って行動します。

主要登場人物3人のうち,シビル・ジェラード(Sybil Gerard)とエドワード・マロリー(Edward Mallory)は架空のキャラクターです。架空とは言ってもシビル・ジェラードは19世紀に実際に書かれたベンジャミン・ディズレーリの小説『シビル』の主人公の名前で,小説に別の奥行きを与えるキャラクターになっています。
そして,もう1人のローレンス・オリファント(Laurence Oliphant,1829~1888)は実際の人物で,鹿児島ともゆかりのある人物です。薩摩が英国に派遣した森有礼ら留学生と深い関係を持つ人物です。ということで,このSF作品に,森有礼も登場します。

『ディファレンス・エンジン』では「森有礼氏は,若き日本人“生徒”の中ではオリファントの愛弟子なのだが,ブリテン的なものなら何にでも強烈な喜びを示す」キャラクターとして登場し,福沢諭吉とともに,蒸気コンピュータの日本への輸入を画策します。森有礼の父森有恕の漢詩も引用されていて,それだけでも奇妙なSF小説です。
ローレンス・オリファントは旅行作家,外交官,国会議員,女王陛下のエージェント,神秘家など多面体のような複雑な性格をもつヴィクトリア朝の人物で,オリファントを主要人物に選んだことだけでも,ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリングは冴えています。

 

2012NEW YORKER Sci-Fi

旧聞になりますが,昨年2012年6月,『THE NEW YORKERS』誌が,SFを特集して驚きました。1925年創刊の週刊文藝誌ですが,初めての「Science Fiction」特集でした。

 Ray Bradbury
 Ursula K. Le Guin
 China Miéville
 Margaret Atwood
 Karen Russell
 William Gibson
 Jennifer Egan

といった人が寄稿していました。その人選の善し悪しは,SFから縁遠くなっているので分からないのですが,その中にウィリアム・ギブスンの名前もあって,やはり選ばれるかと思いました。レイ・ブラッドベリは生前最後の雑誌掲載だったようです。ほかにもアンソニー・バージェス(Anthony Burgess)が『時計仕掛けのオレンジ』について1973年に書いた未発表原稿も掲載されていて,なかなか豪華な特集になっていました。

 

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▲森有礼(1847~1889)誕生地の「森有禮子生誕地記念碑」。「子」は子爵のこと。

近所に「森有禮子生誕地記念碑」があって,小学校のころ,それを陣地にして鬼遊びをしたことがありました。最初は清水小学校のなかにある,体育館前の栴檀の木と日露戦争の「伊東元帥生誕碑」の二手に分かれて陣取り鬼ごっこをやっていたのですが,それがとても楽しく盛り上がり,陣地を清水小学校横を流れる稲荷川をはさんで,「伊東元帥生誕碑」と「森有禮子生誕地記念碑」に分かれて争えば,渡河作戦もできてもっと面白くなりそうだと,二手に分かれたのですが,鬼ごっこのおもしろさは相手が挑発する様子が見えることにもあるので,伊東祐亨VS森有礼の陣取り鬼ごっこは,思ったほど盛り上がらないまま,あいまいなかたちで終わってしまいました。

子どもころは森有礼の「ありのり」でなく「ゆうれい」という読みが気になって,なぜ「幽霊(ゆうれい)」の碑があるのか,ちょっとわくわくするようなところもありました。ただ「森有禮子生誕地記念碑」には幽霊が出そうな雰囲気がなかったので,なんだか不満でした。「ゆうれい」と名乗るからには幽霊らしいセッティングをしてほしいものだと子どもっぽく思っていたものでした。森有礼が生きていたころも「明六の有礼(あけむつのゆうれい)」といわれて,森の西洋的思考や洋装は揶揄されていたようです。「幽霊」のように得体がしれないやつだと思われていたのでしょうか。

 

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 伊東祐元帥(1843~1914)誕生地の「伊東元帥生誕碑」

 

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105. 1992年の『五代友厚・寺島宗則・森有礼』(2013年5月8日)

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平成4年(1992年)9月11日~10月11日に,鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催された企画特別展『五代友厚・寺島宗則・森有礼――近代日本につくした鹿児島人――』のカタログ(鹿児島県歴史資料センター黎明館発行,平成4年9月11日発行)です。
この企画展には,森有礼(1847~1889)旧蔵の5冊の写真アルバムも展示され,それまで存在しないとされていた森有礼の最初の妻,広瀬常(森常,「阿常(おつね)」と表す場合も)と思われる写真も初めて一般公開されました。カタログ93頁のキャプションには,「森 常(伝) 幕臣広瀬秀雄の娘 明治八(一八七五)年結婚 同十九年離婚」とあり,あくまで「(伝)」として確定はしていませんが,森常と思われる写真が初めて公開されたことは画期的なことでした。

『五代友厚・寺島宗則・森有礼 ――近代日本につくした鹿児島人――』カタログ88頁に,

森は(『明六雑誌』掲載「妻妾論」で主張した)この夫婦対等論と婚姻法を,自ら広瀬常との結婚で実行しました。参会者一同の前で婚姻契約書に署名し,一方が約束を侵す時は,裁判に訴えることなどを規定しました。翌日,一部の新聞は,「森有礼のハイカラ結婚式」と報じました。

とあるように,広瀬常(森常)は,日本で最初に契約結婚をした女性です。その結婚式の司会進行は福沢諭吉でした。日本で最初に西洋風のウェディングドレスで結婚した女性ともいわれています。森有礼は外交官として中国・イギリスに駐在しましたので,それに同伴した森常は,清の西太后やイギリスのヴィクトリア女王にも謁見しています。当時の記録では「美しい人」と賞讃されていますが,なぜか写真が1枚も残されていません。

NHKの大河ドラマ『八重の桜』の選定に一役買ったと思われる鈴木由紀子『女たちの明治維新』(NHK出版,2010年7月30日第1刷)でも,高須久子,紅馬細香,張紅蘭,大浦慶,楢崎龍,楠本稲,新島八重,大山捨松,若松賤子,陸奥亮子といった女性たちにまじって「森有礼と契約結婚した広瀬常」も大きく取り上げられています。

1992年に紹介されたこの写真については,その後,別人説も出て変転がありましたので,それを目についた範囲で年代順にまとめておきたいと思います。

 

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▲鹿児島県歴史資料センター黎明館企画特別展『五代友厚・寺島宗則・森有礼――近代日本につくした鹿児島人――』カタログ93頁から。森有礼の2人の夫人。

 

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▲石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』(平凡社)
 初版第一刷 1996年10月21日
 初版第四刷 2004年7月22日
森有礼旧蔵アルバム中の3枚の女性写真が森(常)のものではないかとされた経緯については,石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』の「第八章 森有礼のアルバムはタイムマシーン」(128~152頁)に詳しく述べられています。奥付から判断すると,少なくとも2004年までは森(常)説がとられていたようです。

昭和30年(1955年)頃,石黒敬章の父・石黒敬七が森有礼旧蔵の五冊のアルバムを入手。

昭和41年(1966年),石黒敬章が石黒コレクション保存会を設立。父・石黒敬七が収集した幕末明治の写真など2万点のコレクション。

昭和57年(1982年)
 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』p132より。
 ◎最初の一歩
 昭和五十七年(1982年)このアルバム(石黒コレクション保存会所蔵の森有礼アルバム)の所在をどこかで伝え聞いて,森有礼を研究されている犬塚孝明氏(1996年現在鹿児島純心女子大学教授)が来宅された。犬塚氏はこれまで多くの森に関する資料を探して来られたが,写真史料は初めてであり「映像のもつ史料価値の重要性を,このときほど知らされたことはなかった」と後に書かれている。アルバムには,ケプロンやクラーク,モルレイといった日本と深い関わりをもった人は勿論,ロバート・ストーン,エドワード・キンズレイ,ジェファーソン・デーヴィスらの写真も自筆のサイン入りで残されている。犬塚氏は,森の書簡や日記等とつき合わせながら,こうした人々との出会いの時期を探ることが森の思想形成を知る上で重要であるとの認識をもったそうである。
 私は,この犬塚氏から,アルバムには森と一緒に海を渡った薩摩留学生の珍しい写真が残されていること,渡航は幕府に隠れての隠密行動だったため,写真の名前は全て変名で書かれていることなどを教えていただいた。その変名のリストを送っていただいたので,以後「この関研蔵というのは五代才助(友厚)の変名なのです」と,少しは知ったかぶりをできるようになった。
 犬塚氏は,例の(森アルバム中の洋装の)美女の写真について,「この女性の写真は三枚あります。もしかすると森の最初の妻,常かもしれません」と瞠目に値することを言われた。「常は,アーネスト・サトーやクララ・ホイットニーの眼に魅力的に映った美人でした。ただ森は常と破局を迎えたあと,彼女の写真を一枚残らず処分したと伝えられているので,或いは別人かもしれません」と言い添えた。よって常の写真は一枚も存在せず,比較して鑑定することができないそうである。

昭和58年(1983年)
 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』p132-133より。
 翌昭和五十八年(1983年),犬塚氏が書かれた『若き森有礼 東と西の狭間で』(KTS鹿児島テレビ)には,この森アルバムから複写した写真が三十数枚掲載された。麗人の写真も載せてあったが,単に「森の所持していた女性写真」としかキャプションが付けられていなかった。学者としてはまだ断定する訳にはいかなかったのであろう。しかし私は,森は彼女の写真全てを処分するには忍びなく,数枚は残しておいたのではないかと思ったのだった。

平成4年(1992年)9月
 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』p138より。
 ◎森有礼の結婚
 平成四年九月,鹿児島県歴史資料センター黎明館で,「五代友厚・寺島宗則・森有礼 ――近代日本につくした鹿児島人――」という企画展があった,犬塚氏も協力されており,私のところの森有礼のアルバムも請われた出展した。郷土の偉人だけに参観者も多かったそうである。図録も発行され,森有礼のアルバムの存在も徐々に知られるようになっていった。

平成5年(1993年)3月
 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』p138より。
 その図録をご覧になられ,平成五年三月のある日,作家の森本貞子氏が来宅された。森本氏は森常に関わる本を執筆中であり,私のところに森アルバムがあることを知って来られたのである。
 森常かもしれない女性の肖像写真をご覧になると,「私は二十年間も森常の写真を探し回っても見つからないので,彼女の写真はないものと思っていました」と感嘆の声を上げられた。「常はお雇い外国人の地質学者ライマンが見染めてプロポーズしたのですが受け入れられず,ライマンはそのため一生独身で通したほど,魅力的で美しい女性だったといわれています」と,森本氏は続けた。
 このとき頂戴した森本氏の著書『女の海溝 トネ・ミルンの青春』によれば,広瀬常は明治五年東京の芝増上寺に開設された開拓使仮学校女学校の生徒だった。明治七年正月,浜御殿内延遼館で開拓使主催の宴会が行われ,開拓使仮学校の生徒たち十名がコンパニオン役で駆り出された。その宴会の席で,常の美貌にライマンがコロッと参ってしまい,同席していた森有礼外務大丞も常に一目置くことになったのだという。ライマンは「広瀬常女を娶りたく云々」の結婚願書を,開拓使宛に提出した。その書類は,森の胸中を知った黒田清隆開拓次官によって握り潰されてしまう。そこで渡りに船と森が常に求婚して受け入れられるのである。森と常が結ばれるのは,こういう経過だったそうだ。

 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』p142より。
 ◎常の写真か否かを探る
 森本氏は,常の妹福の写真をお持ちだった。福は明治屋の創業者磯野計と結婚している。それは明治屋の社史からコピーした福の肖像だった。鮮明ではなかったが,二枚の写真を比べてみると,瓜二つといえる程そっくりであった。これ程似ているのであれば,もはや他人とは考えられなかった。姉妹に違いないと思った。でも姉妹(シマイ)だとしても,話は終い(シマイ)だという訳にもいかない。もう一押ししよう。
 念のため,次に私は写真台紙に印刷されている写真館名からも推理を試みた。常と思われる三枚の写真はロンドンで撮影されている(『幕末・明治のおもしろ写真』では[写真5][写真6][写真7])。[写真5]と[写真6]には,JAMES S. BAYFIELD. 10 WELLINGTONTERRACE BAYSWATER ROAD ROAD W. とある。ベイズウォーター・ロードを地図で探すと,ケンジントン・パーク・ガーデンズとハイド・パーク・ガーデンズ九番地の日本公使館[図1]から,近隣(約1キロメートル)のところであった。
 もう一枚の幼子を抱いた写真[写真7]は,LOCK & WHITEFIELD. 178, REGENT ST. LONDON W. と書かれている。こちらの写真館は明治十三年六月以降移転したキャベンディッシュの日本公使館[図2]から至近のところだった。キャベンディッシュはリージェント通りとオックスフォード通りが交差する,オックスフォード・サーカス北西部で,リージェント通りは東に僅か二百メートルのところにある。
 まさに思惑通りの結果がでた。慣れない異国で写真を撮る場合,特別上手いとか安いとか評判でない限り,近くにある写真館で済ますであろう。常らしき写真は三枚とも,日本公使館近くの写真館だった。ジェームズ・ベイフィールド写真館の写真台紙[写真8]は,裏面に日本の傘と生け花がデザインされていることに興味をそそられた。近くにできた日本公使館をあてこんで日本的デザインにしたものであろうか。森アルバムには,日本人が写したこの台紙の写真が他に数枚ある。或いは単に当時流行したジャポニズムにすぎないのかもしれない。
 そこで森アルバムにある三枚の美女が森常だとする根拠を次に列記する。
(1)まず,写真が森有礼の遺したアルバムにあり,何も書き込みがないこと。知人から名刺代わりに貰った写真であれば,大抵裏面に,写っている人の名前か或いは森有礼様と記してあるものだが,この写真には三枚とも何も書かれていない。森の妻であればわざわざ名前を書く必要はない。
(2)美人であること。ライマンが一目惚れしたことが無理もないと思われる程だ。明治時代は芸者の美人が多い。それ故か,明治の元勲で芸者を娶る人も多く,陸奥宗光は美人で名高い新橋芸妓の小鈴を夫人としている,しかし森アルバムの女性は美人であっても,芸妓のような水っぽさは感じられない。
(3)妹福の写真と酷似している。鮮明な写真ではなかったが,福も美人だった。福と似ていることは,かなり決定的な根拠となろう。
(4)三枚の写真全てが,(森有礼のロンドン公使館勤務時代)森常が居住したロンドンの日本公使館(明治初年の公使館は,事務所と公使の住居を兼ねていた)近くの写真館で撮られている。
(5)[写真7]の幼児の年齢が英と合うこと。長男清は明治八年十二年三十日,次男英は明治十一年三月四日の生まれである。[写真7]は,公使館がキャベンディッシュ・スクエアーに移ってから撮られたと考えられるから(リージェント通りの写真館で撮影),明治十三年六月一日からロンドンを発つ明治十七年二月二十六日の間ということにある。このとき清は満四~八歳,英は満二~五歳である。写真の子供は二歳ぐらい見えるので,清ではなく英で,明治十三,四年頃キャベンディッシュ・スクエアーに移転してからすぐに撮影されたことになる。

 このくらい状況証拠が揃えば,私はもう常と断定してよいと思った。森本氏も同意見だった。氏は常の写真は存在しないとして今までに書き綴った文を,この写真の出現で全て書き改めなければならないと語った。でも二十年間探し求めた常の写真を発見し,満足そうであった。
 それにしても,森と離婚した明治十九年には,常はまだ二十九歳の若さだった。清と英は森と寛子夫人(岩倉具視の五女)が引き取り,長女安は離婚直後に親戚の横山家に養女として出されたという。不思議なことに独り身となった常の消息は,その後バッタリ途絶えてしまうという。森本氏は戸籍も墓も懸命に探されたが,分からなかったそうだ。
 一説によると離婚後気がおかしくなったとする噂があるが,それは信じられないと言われる。常のその後を探す仕事を,森本氏は今も続けられている。次の著書が出されるまでには,新たな発見があるかもしれない。

 

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▲森本貞子『秋霜譜 森有礼とその妻』(東京書籍,平成15年7月5日第1刷発行)
森本貞子の歴史小説。森本貞子の前2著『女の海峡――トネ・ミルンの青春』『冬の華――島崎藤村夫人・冬子』(ともに文藝春秋)は,会話の使い方がフィクション的であるものの,「ノンフィクション」の体裁で書かれていましたが,森有礼と広瀬常を主題とした『秋霜譜』は,謎の多い広瀬常(森常)の生涯をフィクションで補填する「歴史小説」の体裁をとっています。
森有礼と常の離婚はその理由が明らかにされておらず,常が外国人と不倫の関係となって紅毛碧眼の子供を産んだなどという「浮説」さえ流れていました。森本貞子の『秋霜譜』では,そうした風説のようなものが離婚の原因でなく,常の実家,広瀬家を嗣いだ養子広瀬(藪)重雄が,伊藤博文暗殺未遂事件とされる「静岡事件」にかかわって刑に服していたことを明らかにし,そこに離婚の理由があったのではないかという説をだしています。また「静岡事件」の関係者が教派神道の一派実行教の信者で,森有礼の暗殺者で黒住教の信者だった西野文太郎との関連など,「浮説」の陰で語られることのなかった事実を調べあげ,大きな問題提起をしています。ノンフィクションでなく歴史小説という形式をとったことで,その説が軽んじられるとしたら残念で,歴史小説という形式が最適だったのかという点だけは疑問が残るところです。

2003年に刊行された『秋霜譜』には,森有礼旧蔵アルバム中の3枚の女性写真を森常であると確信して書かれた部分があります。

平成15年(2003年)7月
 森本貞子『秋霜譜 森有礼とその妻』p117より。
 さて,ライマンがプロポーズした広瀬常とは,どのような女(ひと)だったのだろうか。
 やがて森夫人となった常の写真はないものだろうか。
 筆者が常をめぐって調べ始めたころ,森夫人の写真は森家にも開拓使女学校にも残存していないとされていた。森家では有礼と常夫人に関する資料はすべて国会図書館に寄贈した,と言われるが図書館にもない。
 常の妹で,明治屋創設者の磯野計(はかる)と結婚した福子の写真は磯野家に残されている。
 扇を手に洋装の立姿の彼女の写真は気品にあふれ,涼やかな目もととひきしまった口もとに理知的な美しさが漂っている。
 『明治屋百年史』によれば姉常と妹福子はその当時,美人姉妹として有名だったという。
 筆者は常夫人の写真を求めて北海道庁資料館,北海道大学北方資料館をはじめ,ライマンの資料が二千点も収集されているアメリカ・マサチューセッツ大学アムハースト校に渡り調査した,しかし日本滞在中の長く顎鬚をのばしたライマンの写真は数多く残されていたが,常の写真は見出すことができなかった。
 探し始めてから十数年,あきらめかけていた矢先に常夫人の写真が現存していることを知った。平成六年,鹿児島県立歴史資料センター黎明館の森有礼の資料調査の担当者から,森家のアルバムが東京の「石黒コレクション保存会」に現存しており,常夫人の写真も載っている,と知らされたのである。〔注:石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』では,平成5年3月に森本氏来宅とあります。〕
 「石黒コレクション保存会」は東京杉並区の石黒敬章氏宅にある,敬章氏の父敬七氏が,幕末から明治,大正時代にかけての写真及び写真機,ポスター等約二万点を収集したもので,そのなかに森有礼家のアルバムが五冊あった。
 アルバムは模様入りの皮革製で,当時の日本ではこれほど豪華なアルバムを製造できるはずはなく,外国製のものだろう。そのうち二冊の裏表紙に「森有礼旧蔵」「森有礼遺愛アルバム」と書きこみがある。書きこみは石黒敬七氏がアルバムを一括入手された時に,記されたものだそうである。
 写真はすべてセピア色で,多くは外国人。アーネスト・サトウや森家と親しかったクララ・ホイットニー一家の写真も収録されている。森有礼の写真は青年時代の物から壮年に至る時期まで揃っている。
 五代友厚や寺島宗則の顔も見える。だが,写真の裏面に贈呈したと思われる人物名が記入されているのは数枚で,いずれの写真も撮影年月日も名前も記されていない。
 そこに,森有礼夫人常と思われる写真が三葉あった。一葉はロンドンのリーゼント・ストリートの写真館で撮影したもので,二,三歳の男の子を抱く若い美貌の母親の写真である。気品あふれる洋装姿の母親こそ常夫人に違いない。森家でロンドンに渡った女性は,常夫人のほかにはいないからだ。
 張りのある瞳,ととのった鼻と引きしまった口もとに気品が漂い,旗本の娘らしい優雅さが感じられる。
 他の二葉の常夫人と思われる写真も,ロンドンの日本公使館近くの写真館で撮影されたもの。洋装姿の婦人の上半身像で,一葉はストライプの服をモダンに着こなし,先の写真と同じコインのネックレスが婦人の胸元を飾っている。涼やかな目もとも,ととのった口もと,理知的な雰囲気も,写真で見る常夫人の妹,磯野福子とそっくりである。当時の日本女性としては洗練された洋服の着こなしが,長い異国生活を物語っている。
 もう一葉は冬服姿の上半身像で,冬帽子に外套という日本人離れした装いはまさに貴婦人の美しさ。
 常夫人の魅力について,英国人外交官で日本滞在の長かったアーネスト・サトウは明治十六年(一八八三年)四月五日付の日記に「常夫人は相変らず美しかった」と記している。サトウは駐英公使夫人となった常とロンドンで再会したのであった。
 写真から察して開拓使女学校時代の常は,きわ立って美しい清楚な女性だったと想像される。ことに白人にとっては,たおやかな常の容姿は,魅惑あふれる典型的な日本女性と映ったのではあるまいか。
 そしてこの写真を撮ったロンドン滞在のころが,森一家にとってもっとも幸福な時代であった。

 

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▲犬塚孝明 石黒敬章『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(平凡社,2006年5月22日初版第1刷)
1996年の石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』や2003年の森本貞子『秋霜譜 森有礼とその妻』では,森常の写真とされてきた3枚の女性写真ですが,犬塚孝明と石黒敬章が森有礼旧蔵アルバムを再構成した『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』では,別人だったと旧説を撤回しています。森本貞子の『秋霜譜』にとっては,残念な新説が提示されています。2006年の新説を知った上で,『秋霜譜』の森常の写真についての描写を再読すると,改稿する機会があればと思わずにはいられません。ただ,森本貞子の『秋霜譜』での「静岡事件」をめぐる部分は画期的ですので,そのことについて『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』でも言及があれば読みたかったところですが,「静岡事件」についての記述はありません。

2006年5月
 犬塚孝明 石黒敬章『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』
  第三章 古い日本,新しい日本(犬塚孝明)p130より。
 年末に森は木挽町十丁目十三番地に,二階建ての洋館を新築した。一年ほど前に,鹿児島の郷里から年老いた両親,亡兄有秀の妻広子と長男有祐を東京に呼び寄せたこともあって,家が手狭になったからである。もう一つの理由は,妻を迎える準備のためである。相手は旧幕臣の娘で広瀬常(阿常)。聡明で容姿の美しい女であったという。当時芝山内にあった開拓使仮女学校を出たてのハイカラ娘で,森より八歳年下の十九歳であった。
 森と広瀬常の結婚式は,明治八年二月六日,木挽町の新居で執り行われた。斬新な洋風スタイルの結婚式に世間は驚く。福沢諭吉が証人となって婚姻契約書が取り交わされ,両者が自署するという完璧な洋式婚であった。契約結婚ともいわれた。森は有言実行の男である。自らの結婚観を現実に適用し,信念を貫いたのである。
 来日中の開拓使顧問ケプロンは,日記にこう誌す。
 前代理公使森有礼氏,今日,若い日本のレディーと結婚した。これが何か重要な出来事であるというのは,氏自身の考えによる改まった儀式で結婚し,合衆国における結婚の,契約の条件を多く取り入れたからである。これまでは当事者両方の義務を認める儀式はなく,男性側の利益だけを考えたようである(『蝦夷と江戸』)。
 「美しい女」といわれた阿常の写真は一枚も残されていない。かつて私は,森のアルバム中に見つけた女性を阿常ではないかと推測したことがある。この写真を阿常として紹介した本も出た。しかし,その後,様々な角度から検討した結果,この女性が当時のロンドン領事園田孝吉の妻銈(けい)であることがほぼ確実となった。これについては,次章で詳しく述べてみたい。したがって,通説の通り,阿常の写真はやはり一枚も残っていないのである。

  第四章 西欧への眼差し,教育への「視想」(犬塚孝明)p180より。
 明治十五年春,旧知の薩摩人園田孝吉がロンドンに領事としてやって来た。園田は嘉永元(一八四八)年生れの三十四歳,森より一歳年下である。北薩川内平佐郷出身の俊才で大学南校を卒業後,外務省に入り,明治七年よりしばらく英国に書記生として勤務,いったん帰国したあと,再び領事の資格で赴任した。
 ロンドンの領事館は,財政事情の悪化を理由に,一時閉鎖されたが,森が本省に対してその再設置を執拗に働きかけ,園田の赴任にこぎつけた。前年五月に帰国した一等書記官富田鉄之助の交替要員でもあった。領事館はビショップ・ゲート街八十四番地に置かれ,横浜正金銀行のロンドン支店と隣り合わせの部屋を使用していた。
 園田も森と同じく得意の英語を駆使して,英国民の間に日本文化や国情を伝える努力を惜しまなかった。園田の文化外交活動には,同伴した妻の園田銈の功績も大きかった。銈は幕臣富永發叔の娘で,幼くして長州の井上馨に可愛がられ,上京後は女子師範学校に入り,英語や洋画に秀でた才媛であった。井上は自分の秘書官でもあった園田にこの娘を娶す。園田が英国に渡った時,銈は十八歳であった。ロンドンの社交界はこの才色兼備の少女のような外交官夫人をMrs. Sonodaと呼んで絶讃した。当時の社交事情に詳しい消息通は,ある外国人が,銈の美しい容姿と洗練されたマナー,優雅な身のこなしを見て,「最も典雅なるパリ型」と評し,彼女にGraceful and Delicateの讃美の言葉を贈ったと伝えている。
 森がこの若き外交官夫人を賞讃したであろうことは想像に難くない。園田銈の写真と思われるカルトは,三枚ある。一枚はリージェント・ストリート百七十八番地のロック・アンド・ホイットフィールド写真館で幼子を膝に抱いた姿で写したもの。これが最も若い。幼子は着英直後の明治十五年十月に生まれた長男文衛である。同じ写真を,私はかつて駐英公使上野景範の孫にあたる景福氏から見せて頂いた。裏面には確か園田ケイと書かれてあったと記憶している。他の二枚は,いずれもベースウォーター街のウェリントン・テラス十番地にあったジェイムズ・S・ベイフィールド写真館で撮ったものである。うち一枚は帽子とコートを着用。もう一枚は典型的なヴィクトリア朝のバッスル・スタイルである。
 最初の子供を抱いたとバッスル・スタイルの写真では,銈は同じペンダントを首にかけている。恐らく銈のお気に入りであったに違いない。
 ここに一枚の肖像画がある。山本芳翠の筆になる「園田銈像」である。明治十八年制作の油彩で,現在は郡山市立美術館が所蔵している。この作品は,一九九二年に日英両国で開催された「JAPANと英吉利西 日英美術の交流一八五〇-一九三〇」展にも出品された。ここでも銈は,首から例のペンダントをかけ,エレガントなヴィクトリア朝風のドレスを着て描かれている。山本は日本洋画草創期の画家で,明治十一年パリに留学,同地の美術学校で洋画技法を学び,ヴィクトル・ユーゴーとも親交があった。当初法律を学ぶ目的でやって来た黒田清輝の画才を見出した人物としても名高い。駐仏公使の鮫島尚信から手厚い援助を受けたこともあって,鮫島が明治十三年に急死した時,彼を思慕するあまり苦心惨憺してその肖像画を描き上げたといわれる。鮫島と無二の親友であった森を訪ねて,ロンドンの公使館にも顔を出したであろう。銈の肖像も,何度目かのロンドン滞在中に手がけたものに違いない。

【2018年12月18日追記】
読者の方より、次のようなご指摘がありました。
犬塚孝明・石黒敬章『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』では、「園田の文化外交活動には,同伴した妻の園田銈の功績も大きかった。銈は幕臣富永發叔の娘で」とありますが、富永發叔は遠州横須賀藩士(明治維新後は房州花房藩士)で、幕臣ではないとのことです。 『議会制度百年史』(1990年,大蔵省印刷局)によれば、富永發叔(辰次郎,1833~1919)は、横須賀藩目付役・普請奉行等を経て、維新後は民部省・工部省・三潴県・長崎県などの官吏を歴任し、明治35年に衆議院議員に当選しているという記述があると、ご教授いただきました。

  第四章 西欧への眼差し,教育への「視想」(犬塚孝明)p184より。
 いずれにしても社交界の花形であった園田銈を森は羨望の眼をもって眺めたに違いない。それは妻の阿常にはない雅で華やかな美しさであった。外交官夫人にふさわしい知的で清楚な美しさと言ってよいかも知れない。いわば森好みの美人であった。それが銈の写真を三枚もアルバムに飾った理由であろう。
 アルバムに収められたこの女性を初めて見た瞬間,森阿常でないか,と見誤った私の誤断もここにある。ロンドンの社交界を嫌う阿常のいささか陰鬱で神経質なイメージと異なった,明るく晴れやかで伸び伸びした美しさが銈には感じられるからである。ちなみに,夫の園田孝吉は,明治二十三年に外務省を退官し,松方正義の要請で横浜正金銀行の頭取に就任,その後実業界で活躍する。

 

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▲植松三十松『辛夷開花』(文藝春秋,2010年9月30日第1刷発行)
2009年2月16日から2010年3月1日まで『美貌の功罪』のタイトルで『静岡新聞』に連載したものを改題。森常を主人公とした小説。西洋人との不倫説をとった小説です。静岡新聞で連載された小説ですが「静岡事件」には言及していません。巻末に参考文献が40冊ほど掲載されていますが,森本貞子『秋霜譜 森有礼とその妻』の書名はありません。この無視ぶりは不思議です。
表紙カバーの女性は顔を見せてくれません。広瀬阿常(森常)については,顔を描けない圧力がかかってしまっています。

ちなみに,内田魯庵が『思い出す人々』(岩波文庫,1994年)の「四十年前」(大正14年3月再記,初出は大正4年9月の「三十年前」)で,鹿鳴館時代の「浮説」を書き残しているのですが,森有礼について次のように書いています。

 伊井公侯(伊藤博文と井上馨)を補佐して革命的に日本の文明を改造しようとしたのは当時の内閣の智嚢といわれた文相森有礼であった。森は早くから外国に留学した薩人で,長(州)の青木周蔵と列んで渾身に外国文化の浸潤った明治の初期の大ハイカラであった。殊に森は留学時代に日本語廃止論を提唱したほど青木よりも一層徹底して,剛毅果断の気象に富んでいた。
 青木は外国婦人を娶ったが,森は明治の初め海外留学の先駈をした日本婦人と結婚した。式を挙げるに福沢先生を証人に立てて外国風に契約を交換する結婚の新例を開き,明治五,六年頃に一夫一婦論を説いて婦人の権利を主張したほどのフェミニストであったから,身文教の首班に座するや先ず根本的に改造を企てたのは女子教育であった。

また,大正4年『きのふけふ』収録の「三十年前」では,
終には某の大臣の夫人が紅毛碧眼の子を産む怪事をさへ生じた。
とあり,大正14年の「四十年前」では,
某の大臣の夫人が紅毛碧眼の子を産んだという浮説さえ生じた
と「怪事」から「浮説」に変わっています。森有礼を直接名指ししているわけではありませんが,大正14年の「四十年前」には「今なら文部省に睨まれ教育界から顰蹙される頗る放胆な自由恋愛が官学の中から鼓吹され,当の文部大臣の家庭に三角恋愛の破綻を生じた如き,当時の欧化熱は今どころじゃなかった」と追記されています。大正4年の「三十年前」でも大正14年の「四十年前」でも「森は明治の初め海外留学の先駈をした日本婦人と結婚した」という記述があるので,内田魯庵は森の妻を誰か別人と混同しているようです。

 

     

荻野仲三郎『園田孝吉傳』(印刷所・秀英舎,大正15年4月20日発行)に、園田孝吉と園田銈の写真図版(1882年,ロンドン領事就任前に,日本で撮られたもの)が収録されています。国会図書館のデジタルコレクションでも閲覧可能なので、関心のあるかたはご参照ください。
その写真を見ると、広瀬常と推定されていた写真が園田銈の写真だったことがはっきり分かります。

森有礼と広瀬常は,旧薩摩藩士と旧幕臣の娘のカップルでしたが,園田孝吉と園田銈も旧薩摩藩士と旧佐幕派の娘のカップルです。明治維新後に、こうした縁組が意図的に組まれたのかもしれません。園田孝吉は1889年に帰国後,実業界に転身し,松方正義の後押しで横浜正金銀行頭取,十五銀行頭取をつとめています。

石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』と犬塚孝明・石黒敬章『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』に掲載された問題の女性写真図版をすべて引用して比較したいところですが,それらの図像比較は、これらの本を読む時のいちばんおいしい部分ですので,関心のある向きは,現物に直接あたってください。

とはいえ,3枚の女性写真はすべて園田銈だということで決着がついたのか,といえば,そうでもないような気もします。3枚の女性写真はほんとうに同一人物なのか。特にストライプのドレスの肖像写真,企画特別展『五代友厚・寺島宗則・森有礼――近代日本につくした鹿児島人――』のカタログに「森常(伝)」として掲載された女性は園田銈とは別人にも見えます。山本芳翠が描いた肖像画と共通するアクセサリーが根拠の1つになっていますが,アクセサリーは譲られたり贈られたりするものでもあるので,同一性の証明のためには,弱い証拠です。例えば「森常から園田銈へ譲られたもの」ということもあり得ない話ではありません。

写真は,そこに写っているものを記憶するものがいないと,あっけなくそれが何か分からなくなってしまうものなのかもしれません。
証拠写真といいますが,もはや写真は存在の証拠にならなくなってしまうのかもしれません。過去が分からなくなってしまったということが一方であり,フォトショップのような画像処理ソフトが一般化してしまうと,写真に写るAが現実のAであることの根拠みたいなものが,なくなってしまいます。写真は,信用できないもの,まず疑ってかかるべき画像になってしまったようです。

森常をめぐるこの20年ほどの言説を振り返ってみると,「似ている」という判断基準は,あてにならないものだとも感じます。現在AはAであることを証明するために顔認証であったり,生体認証であったり,相似をもとにした技術が開発されていますが,100% AはAであることを証明することは意外と難しいようです。似ていることは何の証明にもならない――言えることは,ただ似ているだけ,それ以上のものでもそれ以下のものでもないということでしょうか。

広瀬常(森常)は,日本の女性史にとって画期的な存在であるにもかかわらず,1枚の写真も肖像画も残らず,森有礼との離婚後の消息もまったく分かっておらず,没年も明らかでありません。それが現状です。写真の複製されるという性質を考えると,この世界のどこかに必ず広瀬常(森常)の写真は存在すると思います。ただ現れたとしても,わたしたちは,気づかないまま,見過ごしてしまうのかもしれません。

 

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104. 1957年の木山捷平『耳學問』(2013年4月28日)

1957Kiyama Shouhei Mimigakumon

 

昨日,古本屋さんの文庫本3冊百円のコーナーで,1950年代の文庫本3冊を買ったところ,3冊とも奥付に検印が押してありました。そういえば1960年代ぐらいまでは文庫本にも検印が押されているのが当たり前でした。

本の奥付に検印を押す習慣がなくなって久しいですが,印を押すという作業は,手仕事ですし,印の作りかた・選びかたで味もでます。著者本人が押したか,あるいは,家族,お弟子さん,編集者が押したかは分かりませんが,印を押すという動作に,確かにそこにまぎれもなく人がいたと感じることができます。

著作権者が本を正規のものと認めるために行っていた検印という風習は,手間を省くということから,1970年代には「検印省略・検印廃止」ということになってしまいました。 検印が廃止されたから,100万部以上のベストセラーも生まれやすくなったのかもしれません。現在も検印が続いていたら,例えば村上春樹は本に検印を押す作業だけで腱鞘炎でしょう。

検印は著者のセンスを見る手がかりのひとつでした。印は「文人」が自らを表す道具でもありますから,人となりがでます。料理でもおいしくするための「ひと手間」という言い方をしますが,検印も本の味をつくる「ひと手間」でした。

奥付の印で印象深いもののひとつに,1957年の藝文書院版『耳學問』があります。木山捷平(1904~1968)の短編小説集ですが,この虚を突くような大きさの朱印には,笑いました。

昨日,古本屋さんでもとめた文庫本3冊の奥付を並べてみます。

 

1958Hagiwara Sakutarou Aoneko

1959Eguchi Kan

1952Noda Utarou Pan

萩原朔太郎(1886~1942)の新潮文庫版『青猫』検印は,著作権者の萩原家の認め印で,簡単なものですが,江口渙(1887~1975)の角川文庫版『わが文学半生記』と野田宇太郎(1909~1984)の三笠文庫版『パンの會』の検印は,それぞれ姓でなく名を使っていて,味わいがあります。

 

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103. 1924年のエドワード・ゴードン・クレイグ『木版画と覚書』(2013年4月23日)

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エドワード・ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig,1872~1966)の本で,とりあえず1冊というとき,この本を選びます。演劇畑の人なら『劇場藝術論(ON THE ART OF THE THEATRE)』や『書物と劇場(BOOKS AND THEATRES)』などを選ぶのでしょうが,『木版画と覚書(WOODCUTS AND SOME WORDS)』(J. M. DENT & SONS LTD.,1924)は,60頁ほどの自伝的なテキストと60点ほどの木版画複製で小さく完結していて,それが気持ちの良い1冊です。『木版画と覚書』のテキストは,俳優・演出家としての回想でなく版画家としての回想になっていて,興行ビジネスがからまないだけに,どこか心やすいところがあって,のびのびとした本になっています。右手の付け根にできたタコをダイヤモンドや真珠よりも貴重なメダルと自慢しています。ゴードン・クレイグにとっての「From gardens where we feel secure(私たちが安心と感じる庭から)」書かれた本だったような気がします。

序文を書いているのは,大英博物館の版画担当キャンベル・ドジソン(CAMPBELL DODGSON,1867~1948)。ドジソンという名前から推測されるようにルイス・キャロル(Lewis Carroll,1832~1898,本名Charles Lutwidge Dodgson)の遠縁にあたる人です。

俳優ゴードン・クレイグが木版画を始めたのは,ジェイムズ・プライド(James Pryde,1866~1941)とウィリアム・ニコルソン(William Nicholson,1872~1949)の2人組デザインチーム,ベガースタッフ(Beggarstaffs)との出会いからでした。ゴードン・クレイグの版画は,その流派と言われても仕方ないくらい影響を受けています。その素朴でシンプルな線への指向は,ゴードン・クレイグ演出のミニマルな舞台装置に転じていったとも考えられるわけで,20世紀演劇史的にも意味のある影響だったのかもしれません。
ウィリアム・ニコルソンは魅力的な線を描く人です。絵本の『かしこいビル(Clever Bill)』『ふたごのかいぞく(The Pirate Twins)』は,クラシックになっていて,松岡享子や谷川俊太郎の翻訳も出ています。

 

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▲エドワード・ゴードン・クレイグ『木版画と覚書』のタイトルページ

手もとにある版は,裸本ですが,ウィリアム・グリモンド(William Grimmond,1884~?)の蔵書票が貼られています。ウィリアム・グリモンドは,ペンギン・ブックスが出していた「THE KING PENGUIN」シリーズのブックデザインを手がけていた人で,イラストレーターとしては,イギリスの子供靴メーカーStart-rite Shoesのロゴになっている双子を描いた人としても記憶されています。そのStart-riteの1930年代のポスターで,遠近法が強調された構図で手をつないで奥へ歩いて行く双子のイメージは強力だったのか,LPレコードのジャケットにも引用されています。
 ・アシッド・フォークのクラシック,サイモン・フィン(Simon Finn)『Pass The Distance』(1970)
 ・ソフトマシーンの傍系作,ジョン・エサリッジ&リック・サンダース(John Etheridge & Ric Sanders)のバンド『2nd Vision』(1980)
などで,ウィリアム・グリモンドが描いた双子が使われています。

 

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▲ウィリアム・グリモンドの蔵書票
古書には,時々思いがけない挟み込みがあります。ウィリアム・グリモンドの蔵書票が貼られた『木版画と覚書』には,新聞記事の切り抜きが挟み込まれていました。新聞記事は『THE MANCHESTER GUARDIAN』紙の1949年1月22日(土)のALAN BENDLEによる記事の切り抜きで,「イギリスがそのすべてを忘れ去った男(The man England forgot all about)」という見出しの記事でした。それに加えて,日本の和紙と思われる紙に刷られた,ゴードン・クレイグのサイン入りの木版画も挟み込まれていました。

 

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▲ウィリアム・グリモンド旧蔵の『木版画と覚書』に挟み込まれていた木版画。「- hors serie -」「Dr P - from EGC - 1947」と添え書きされています。舞台装置用の星空のイメージ画でしょうか。

 

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▲ウィリアム・グリモンドが装釘した,キング・ペンギン版ジャネット・リーパー(JANET LEEPER)著『エドワード・ゴードン・クレイグ 演劇のためのデザイン(EDWARD GORDON CRAIG DESIGNS FOR THE THEATRE)』(1948年)の表紙。ゴードン・クレイグの星空の版画を使って装釘しています。ウィリアム・グリモンド旧蔵の『木版画と覚書』は,このキング・ペンギン版をデザインするときの資料だったと思われます。

 

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▲キング・ペンギン版ジャネット・リーパー著『エドワード・ゴードン・クレイグ 演劇のためのデザイン』(1948年)のタイトルページ。枠囲みの小文字がゴードン・クレイグの簡単なプロフィールになっていて,洒落ています。書き写してみます。

 1906 TO 12 EDWARD GORDON CRAIG
 PRACTISED SEVERAL CRAFTS -
 1889 TO 07 WAS ACTOR -
 1893 To 1926 WAS METTEUR-EN-SCÈNE I. E.
 PRODUCED PLAYS AND OPERAS
 WAS DESIGNER OF SCENES AND COSTUMES -
 AND WAS WOOD ENGRAVER -
 COMPOSED SOME TUNES -
 WROTE SOME BOOKS -
 MADE SOME ETCHINGS

 COULD NOT PLAY GOLF -
 PLAYED FOOTBALL -
 COULD ROW -
 NOT SHOOT -
 COULD NOT COOK -
 COULD NOT BIND A BOOK -
 NOR UNDERSTAND BUSINESS -
 COULD DO NOTHING WITH ELECTRIC WIRES -
 IS NOT A PRINTER -
 COULD COMPOSE A PAGE OF TYPE -
 1908 TO 15, 1918 TO 19, 1923 TO 29 PUBLISHED THE MASK -

 

1911 Gordon Craig flower 01

▲ゴードン・クレイグの本は,「GC」と花のマークが目印になっています。
これはEDWARD GORDON CRAIG『劇場藝術論(ON THE ART OF THE THEATRE)』(WILLIAM HEINEMANN,1911)表紙の「GC」と花のマーク。この本は日本の小山内薫や「新劇」に影響を与えた本として知られています。

 

1925 Gordon Craig flower 01

▲EDWARD GORDON CRAIG『書物と劇場(BOOKS AND THEATRES)』(J. M. DENT & SONS LTD.,1925)のダストラッパーのGCと花のマーク。ジョン・イーヴリン(John Evelyn,1620~1706)の17世紀イタリアでの劇場体験や18世紀の劇場のロウソク照明など,書籍と劇場を主題とした,ちょっと歴史考証的なテキストを集めた本です。

 

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102. 1957年のエドワード・ゴードン・クレイグ『わが生涯の物語へのインデックス』(2013年4月17日)

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エドワード・ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig,1872~1966)は,19世紀後半から20世紀初頭にかけての伝説的な俳優,舞台演出家であり,木版画家です。1920年代ぐらいまで,20世紀の「期待の星」のような存在だった演劇人です。
19世紀イギリスの大女優エレン・テリー(Ellen Terry,1847~1928)の息子,舞踏家イサドラ・ダンカン(Isadora Duncan,1878~1927)の恋人としても知られています。
1920年代以降は,世界の舞台から退場して,隠遁してしまったような印象があります。
『わが過ぎし日々の物語への索引(INDEX TO THE STORY OF MY DAYS)』(Hulton,1957)は,エドワード・クレイグの潜在力から考えると,ちょっと残念な回想録です。ダストラッパーはゴードン・クレイグの木版画をもとにデザインされています。母親のエレン・テリーの肖像と自画像です。
謝辞を読むと,この回想録を準備するにあたって『土曜日の本』編集者ジョン・ハッドフィールド(John Hadfield)の手助けがあったようです。

 

1996 Gordon Craig 1968

1968年に息子のエドワード・クレイグが書いた伝記『ゴードン・クレイグ 20世紀演劇の冒険者(Gordon Craig The Story Of His Life)』は,平凡社から邦訳(佐藤正紀訳,1996年)されています。
その中で『わが生涯の物語へのインデックス』について,次のような1節がありました。

「クレイグの回想録の第一部は一八七二年から一九〇七年を扱っていて,これは,『わが生涯の物語へのインデックス』と題されて,コレクションの売却が行われた年にフルトン・プレスから出版された。ほかの著書の場合と同様,彼はこの第一号を(妻の)エレナに贈った。それには,次のような但し書きが同封されていた。

……読むに値するのは二一三頁と二三六頁だけ――ほかの部分はくだらないし,一部分は不完全――ともあれ,できるだけのことはした。子供たちといっしょの僕らのフィレンツェでの生活は,第二巻から始まる。それは,何人かの人の眼を開かせることになろう。」(邦訳450頁)

その「読むに値する」213頁に書かれていたのは,

「私がエレナ・メオに初めて会ったのは一九〇〇年のことだった。彼女は自身が何者か,何を欲しているのか,どこへ向かおうとしているのか,何をなすべきか心得ている私が知る数少ない女性の一人である。彼女は,それを持てる限りの力でやってのけた。(It was in 1900 I first met Elena Meo - and she is one of the few women I know, or know of, who knew what she was, wished, and where she was going, and what she had to do. She then did this with all her might. )」

という一節です。もうひとつの236頁には「9月:エレナ(SEPTEMBER: ELENA)」という1行があります。自分の本を妻恋の手紙として使ったわけです。

残念なことに,いちばんの読者であるエレナが1957年暮れに急死し,エドワード・ゴードンの回想録第二部は書かれることはありませんでした。

 

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101. 1900年ごろのホフマン『英語版もじゃもじゃペーター』(2013年4月8日)

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ロンドンのGriffith, Farran, Browne & Co Ltd. が出した『英語版もじゃもじゃペーター(THE ENGLISH STRUWWELPETER: PRETTY STORIES AND FUNNY PICTURES FOR LITTLE CHILDREN)』の第48版です。印刷はドイツで,ドイツ版と同じ図版です。オリジナルのドイツ語版は1845年に『3歳から6歳の子どものための、愉快な物語と15枚の美しく彩色されたおかしな挿絵』というタイトルで刊行されて,1858年から『もじゃもじゃペーター(STRUWWELPETER)』というタイトルで知られるようになります。
古い子ども向けの本には刊記がないものが多く,この版もその例に漏れず,正確な刊行年は分かりません。作者のハインリヒ・ホフマン(Dr. Heinrich Hoffmann, 1809~1894)が書いた,刊行31年目で『もじゃもじゃペーター』第百版を祝う序文英訳も掲載されていますので,1876年以降の版だと思いますが,たぶん1900年ごろの版でしょう。
髪の毛や爪を伸ばし放題のもじゃもじゃペーターをはじめ,悪いことをすると,報いを受けるというお話が,10の詩で語られるのですが,ホフマンの上手さとは無縁の豪快で愉快な絵とあいまって,子ども心をぎゅっとつかむ何かがあって,絵本の古典になっています。

 

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▲寝しなに読むアンソロジーとして理想的な1冊に,詩人W. H. オーデン(W. H. Auden,1907~1973)が編んだ『A Certain World』(1970)があります。オーデンは,そのなかで,子ども時代の愛読書として『英語版もじゃもじゃペーター』を挙げていて,その中からいちばん好きな作品だという「指しゃぶりっ子のお話(The Story of Little Suck-A-Thumb)」を掲載しています。そこに登場するのが,名高いハサミ男(scissor-man)です。

 

1900Struwwellpeter_Scissor Man

▲指ばかりしゃぶっていると,ハサミ男がやってきます。オーデンは,「指しゃぶりっ子のお話」を「去勢コンプレックス(Castration Complex)」のタイトルで掲載しているのですが,確かにホフマンのお話には,そうした一面もあったのかもしれません。

 

1979xtc_drums and wires

▲ハサミ男(scissor-man)はいろんなところに現れますが,ロックバンドXTCのサード・アルバム『drums and wires』(Virgin,1979年)のB面5曲目に収録された「Scissor Man」,チョキチョキチョキ(Snipping, snipping, snipping)とやってくるハサミ男も忘れがたい存在です。

 

1964-2013Shunou Masayuki

▲XTCの「Scissor Man」に触発され,デビュー作『ハサミ男』を書いた覆面ミステリー作家,殊能将之(しゅのうまさゆき)が2月11日に亡くなりました。49歳(1964~2013)でした。

 ハサミ男(1999年8月,講談社ノベルス)
 美濃牛(2000年4月,講談社ノベルス)
 黒い仏(2001年1月,講談社ノベルス)
 鏡の中は日曜日(2001年12月,講談社ノベルス)
 樒 / 榁(しきみ / むろ)(2002年6月,講談社ノベルス)
 子どもの王様(2003年7月,講談社ミステリーランド)
 キマイラの新しい城(2004年8月,講談社ノベルス)
 どんがらがん(アヴラム・デイヴィッドスン著)(2005年10月,河出書房新社)

ポストポストモダンとでも言えそうな作風で,2004年以来の新作を待ち続けていた作家です。web日記やtwitterで発信してはいましたが,2月7日の「んじゃまた」が最期のつぶやきでした。同じ日の1つ前のツイートで「バタバタの理由を一応説明しておくと、兄が急死したのだ。享年58。死因は脳出血」とありますから,兄弟で続いて急に亡くなったようです。
「われらが時代の作家殿」が,すっと席をはずすように居なくなってしまいました。とても,残念です。

 

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