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 my favorite things 411(2024年1月27日)から415(2024年2月26日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 

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 411. 1981年の古川清彦『近代詩人群像』(2024年1月27日)
 412. 1957年の古川清彦詩集『歩行』(2024年1月28日)
 413. 1934年の秋朱之介編輯『書物』九月號(2024年2月24日)
 414. 1932年の『詩と詩論 X』(2024年2月25日)
 415. 1936年の『木香通信』「閨秀新人 春の詩集」(2024年2月26日)
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415. 1936年の『木香通信』「閨秀新人 春の詩集」(2024年2月26日)

『木香通信』「閨秀新人 春の詩集」


左川ちか(1911年2月14日~1936年1月7日)が亡くなった年の春、秋朱之介(西谷操、1903~1997)がいた最初期の昭森社の『木香通信』創刊號(1936年4月)で「閨秀新人 春の詩集」という小特集が組まれています。
「閨秀詩人」という言葉は今は使えない言葉ですが、この女性詩人6名を集めたのは、間違いなく秋朱之介だと思います。

「若芽」竹内てるよ(1904~2001)北海道・東京
「おらんだ苺の夕べ」江間章子(1913~2005)東京・岩手
「圍繞」大野良子(1900~1997)長崎・東京
「街の花屋」鈴木梅子(1898~1973)宮城県白石
「車窓」館美保子(1893~1990)新潟・東京
「死と生誕」莊原照子(1909~1999)東京・鳥取

選ばれた6人が、それぞれの地域において評価すべき、すぐれた詩人であることに驚きます。

秋朱之介は昭森社で、そのなかのひとり、莊原照子の詩集『マルスの薔薇』(1936年7月5日刊行)をつくりました。
この本づくりは、秋朱之介の独断専行で、莊原照子の十分な了解を得ないまま勝手に進行し、まずいことに誤植も多いものになりました。
このことも、秋朱之介と昭森社の関係の終わりにつながったのではないかと思われます。

秋朱之介は、ほかの女性詩人についても昭森社から詩集をだすつもりだったと思います。
可能性としての過去ということにまりますが、1930年代の珠玉のような詩集群が生み出されたかもしれません。

 

手もとにある『木香通信』創刊號の表紙です。書き込みもあってかなり痛んでいます。

『木香通信』創刊號の表紙

『木香通信』については、「第188回 1936年の『木香通信』6月号(2016年9月26日)」でも書いています。

 

     

6人の女性詩人が『木香通信』創刊号に寄稿した詩を引用します。

 

「若芽」竹内てるよ

  若芽  竹内てるよ

われら北國の子供らにとつて
春の來るほどうれしいものはない。
丘のアカシヤにみどりの芽が出ると
上つぱりをぬいで足を自由にして
その枝にまたがつて若芽をたべるのだ。 

きりつと丈夫な白齒でかんだ若芽の味が
甘く酸つぱく舌の上に流れてゆくとき
眞實、子供らのからだに春がしみとほる。

高い枝々の上にみんな、ならんで
けぶり、おほらかに波打つ海を見る
小鳥は子供らの耳許で親しくさへずり
日は、さんさんとおかつぱの髪の毛に燃える。

われら北國の子供らにとつて
春は一つの情熱である。
人生の不思議なゆめとまどわしが
空から胸にとび込んで來るやうな氣がして
思はず小さい襟許をかき合はせるのだ。

枝をしのらせて、またがつて
青い、寶石のやうな若葉をその齒のあひだにかみしめながら
わけのわからない悲痛に泣く子もある。

みはてもしれぬ水平線のむかうから
白く、小さく、汽船などが來て
海が
すばらしい紫になるのも丁度その頃である。


竹内てるよは、2002年、美智子妃がスイス・バーセルで開催された国際児童図書評議会(IBBY)創立50周年記念大会の祝辞で引用した「頬」という詩が有名かもしれません。

  頬  竹内てるよ

生れて何も知らぬ吾子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな

その頬は赤く小さく 今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも

いつ人類のための戦ひに燃えないといふことがあらう

生れて何もしらぬ吾子の頬に
母よ 悲しみの涙をおとすな

ねむりの中に静かなるまつげのかげをおとして
今はただ白絹のやうにやはらかくとも
いつ正義に決然とゆがまないと云ふことがあらう

ただ自らのよわさと いくぢなさのために

生れて何もしらぬ吾子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな


竹内てるよ(1904~2001)は、北海道出身の詩人。
『花とまごころ』(1933年2月10日発行、溪文社)、1952年の『竹内てるよ作品集』全四巻(寶文館)など、国会図書館の送信サービスで閲覧できます。


■「おらんだ苺の夕べ」江間章子

  オランダ苺の夕べ  江間章子

母たちの手によつてわたし達はお揃ひの服装になつた。五人。旅の朝、わたし達は新らしい瀑布を見た。何處で? 此の町で、この旅舎の庭を出て。そして、ぼくたちは夜出發する爲めには、髪を切り揃へた。光りの絲とか凡ゆるわたし達には忘れられてゆき度いものが、もつと小さくなつてゆく仕事場は、大きくエンジンヲ響かせてゐた。土を踏んでゆくため、わたしの足の裏は濡れた。水の流れに沿つて小さな小さな花が遠くまでさいてゐた。友たちは水の中から出て、わたしたちに加はつた。


『木香通信』の10日遅れで刊行された『春への招待』(1936年4月10日発行、東京VOUクラブ出版) 冒頭の詩です。
『木香通信』4月号の目次では「おらんだ苺の夕べ」、本文では「オランダ苺の夕べ」、『春への招待』では「オランダ苺の夕べ」。

 

『木香通信』6月号(1936年6月1日発行、昭森社) にも、江間章子の詩「黑い月」が掲載されています。

  黑い月  江間章子

 フランスの砂の匂ひだ 家に入る マロニエの木蔭に戀人がとり殘される にぶいペンの音が反響する 人が去つたあとも大理石の柱がゆれ動いてゐる
 祖父のステツキを抱へたまゝ娘はその足でキヤバレの舞臺をふんだ マルメロの籠を抱へて家政婦が庭を歩いた 流行の歌をうたひながら PPPPG

 

     

江間章子『〈夏の思い出〉 その想いのゆくえ』 (1987年6月24日発行、宝文館出版 )収録の「詩と俳句のあいだ」(初出・朝日新聞)に、西谷操(秋朱之介)のことが書かれています。

 大學門下生に、三つの名前を持つ変わり者がいた。本当の名前は西谷操ではなかったろうか。私が彼らを知ったころは、すでに西谷は詩を書かないで、フランスから帰国したばかりの海老原喜之助などと親しくしていた。
 堀口先生が小石川にお住まいのころ、私は彼にさそわれて、お邪魔したことがある。そこには、もの静かな貴公子〈安南の王子〉がいた。「あの人たちは、詩よりも日常の生き方を、堀口先生にならっていた」と、サムライたち(大學門下の詩人たちのこと)を評するひともいる。
 西谷操はその後、本づくりに熱中し、私にも人形の衣裳の布で、一冊ずつちがう表紙の詩集をつくるといってくれたが、私はフランス綴じの、なんでもない詩集でなければいやだと、断った。若げのいたりで、ちょっと惜しかったと、いま思う。
 戦後、私が東京に戻ってくると、西谷操は、横浜の本牧に、奇跡的に焼け残った隠れ家のような住まいに、夢二好みの美しい奥さんとくらしていた。
 戦時中、堀口先生から不用の家具を払うように命じられ、それが想像以上の値で古道具屋が引き取ったといい、彼はそのお金を手にしてゆたかそうだった。
 その向い側には、やはり西谷操にすすめられて、大森から居を移したという、まだ有名でない山本周五郎がいた。彼は間門の丘から、山うどを採ってきて、そのころめずらしいスコッチをすすめた。「女をきれいにするのも、醜くするのもかんたんなこと」という言葉に、小説家は恐ろしいと思った。


秋朱之介が、江間章子に詩集制作の声をかけたのは、秋朱之介の1935年夏以降の銀座時代かと思われます。戦後に山本周五郎(1903~1967)と会ったときの操書房時代にも『花籠』という江間章子の詩集を準備していたようですが、刊行されませんでした。

秋朱之介と江間章子については、「第227回 1990年の江間章子『タンポポの呪咀』(2018年3月16日)」「第292回 1994年の江間章子『ハナコ』(2019年11月30日)」でも書いて居ます。

江間章子(1913~2005)は、中田 喜直(1923~2000)作曲の「夏の思い出」や團伊玖磨(1924~2001)作曲の「花の街」の作詞者として知られています。
『春への招待』(1936年4月10日発行、東京VOUクラブ出版)は国会図書館の送信サービスで閲覧できます。
戦後、母子家庭の江間章子が生活の糧にしていた少女小説も国会図書館の送信サービスで閲覧できるようになっています。


「圍繞」大野良子

  圍繞  大野良子

スキーに乘つて歸る時 ひつそりと寂しまつた後の方から
おいう おうい と私を呼んでゐる。
先に行く人に遲れまいと急ぐ深雪に 私の足は
おくれがちなのに

暮れなづむ雪の山路は
紫硝子のもの哀しさ
振りかへれば眉白い老人(をいびと)の群が
一人――二人
――三人 五人と ばらばらと 私を追つて來る
物言ひたげな灰色の眼が しばたゝき しばたゝき
幾重の雪山が私を圍む
老人のわなゝく唇の邊に あゝ 雪が降つて來た

前にも後にも人影はなく 歸りおくれた一人の
私を邀して語らうとする山々の言葉
何を告げようとするのか 私は知つてゐる
いつか遠い世にも聞いたことがあるやうだ
私の心の奥の何も彼も知つてゐる皺ばんだそれ等の顔・顔
じつと觀つめる冷巖な雪の眼眸
スキーはもう動かなくなつた。

私は幼い子供に還つて雪の中に手をつく
やがて無音の眩暈の中に 一團の吹雪と化してしまふのか
山の姿を透して 唯ほの白い時の推移
よろぼひながら圍繞する白衣の群。

私は懐しい人間の世界を烈しく希求した。

 

     

『書物倶樂部』創刊號(昭和9年10月5日發行、裳鳥會)に、秋朱之介は大野良子の詩集の書評を書いています。

「よるさく花の香」 秋朱之介
―装釘内容のすぐれた本に限り毎月幾冊でも御紹介申上げます―
 
  大野良子女史の詞集、月來香を讀む。

 月來香は詩人河井醉茗先生の刊行になり四六判コツトン紙刷一百五十數頁の大冊にして、その表装は淡靑色月明紙になり、厚表紙背に銀金版にて草體書名著者名を刻された美書、本書のけつ點を擧ぐるなら、花切の粗末なのが目について惜しかつた。本文は十二ポイント活字組、河井先生の三頁に亘る序文がある。

 月來香、月來香は、晝間淋しい蕾の花である、ほつそりと痩せて影も薄く地に立つてゐる。夕が來ると、白い花瓣をそつと開いて吐く高い香に、花の心は慰められるであらう。

 その花の香には似ないけれど相模、安房と海濱の生活の幾年月、朝夕に語り、訴へ祈つたこれは貧しい言葉の集である。思へば詩は幼い時から私と共にあつた。何時も私の前に立つて慰め勵まして導いてくれた。私はその後影を見失ふことなく今日までついて來た。詩は私を何處に導いてゆくのか知らない。けれども私は何處までもついて行かうと思ふ。

 と、本書の著者はその後書で述べて居られる。その初期?に齋藤茂吉先生、與謝野晶子先生の門に學び、その後期をひたすらに河井醉茗先生の指導の下に精進された著者の詩集である、月來香は、實に立派なものである。

 潜に惟ふに此詩集にして明治年代に出たらんには一躍名を成したであらうに、今日に於ては時期稍遅きの憾みはあるが、併し明治年代に於ては實に一人の女性詩人も世に送られなかつた。その後自由詩時代以後に於ては幾多の女性詩人の集に接したが、質に於て量に於て多くは稀薄、永遠の生命を保つものは極めて乏しい、とその序文で河井醉茗先生は本書の刊行の遅きを憾んで居られる。

 また著者について、河井先生は言をついで居られる。曰く大野さんは夢の世界の彷徨者でない、美を探求するにしても確乎たる現實感の上に立ち冷嚴冒すべからざる詩風を把持してゐる。情熱の放流ではなくて抑制され均整されたる情感である。句法の緊密と、語感の的確は、純藝術の本壘に據つて妄りに崩壞を許さない、鏤月裁雲の彫刻的手法は歳月と共に永く塵氣を絶つであらう、と。

 之だけでも本書の紹介は云ひつくされてゐるやうだ、現下詩壇衰頽の折斯ふした詩集が刊行されると云ふことは大變意義深く喜ばしい限りである。本書には六十篇の詩が盛られ、いづれをとつてみてもやさしく美しい。その中の二三を擧げてみやう。

  袂

 今朝―
 私の袂は重い
 何も入つてゐないのに
 長すぎるやうだ
 手を伸べて
 眺めても
 昨日とちつとも變らないのに
 何故か
 今朝―
 私の袂はおもい

 

  わくらば

 はらり
 はらり と
 わくらばのかなしさよ
 そは
 病むひとの
 か細きかひなにも似て
 そと 私の肩におかれる。

 

  簪

 秋の聲
 手函の中に見いだせし
 色錆びし銀の簪

 かざせとて 母が工匠に作らせて
 十五の我にたまひたる

 かゝる簪のふさふべき
 髷も結はなく年經りぬ

 さゝずなりにし簪
 銀の光のわびしさよ、

 ―東京市目黑區中目黑四丁目一四八〇
 女性時代社、定價一、五〇―

 

この書評で注目したいのは、「潜に惟ふに此詩集にして明治年代に出たらんには一躍名を成したであらうに、今日に於ては時期稍遅きの憾みはあるが、併し明治年代に於ては實に一人の女性詩人も世に送られなかつた。その後自由詩時代以後に於ては幾多の女性詩人の集に接したが、質に於て量に於て多くは稀薄、永遠の生命を保つものは極めて乏しい、とその序文で河井醉茗先生は本書の刊行の遅きを憾んで居られる。」という部分です。

秋朱之介は熱心なマリー・ローランサンの信奉者で、裳鳥会(1934年)と昭森社(1936年)に『マロー・ロオランサン詩集』を制作しています。
秋朱之介は、時代を超えて記憶される日本の「女性詩人」を自らの手でプロデュースしたかったのではないでしょうか。
『木香通信』で取り上げた女性詩人たちの詩集を自らの「藝術作品」としてつくるつもりだったのではないかと思います。

 

大野良子『記憶にのこる明治の長崎』(1988年10月20日初版第1刷、1989年2月30日初版第2刷)という、資料にたよらず、子どもの時の記憶だけをもとに書かれた回想録があります。
成人後は東京で暮らしたため、ここでの記憶は、その後の街の変化に影響されていません。

こうした回想録が残されている街は、幸せだと思います。

大野良子『記憶にのこる明治の長崎』

大野良子(1900~1997)は長崎生まれ。1921年に東京へ。
詩集『月來香』(1934年9月1日発行、女性時代社)、詩集『馬頭琴』(1940年8月25日発行、女性時代社)などは、国会図書館の送信サービスで閲覧できます。


「街の花屋」 鈴木梅子

  街の花屋  鈴木梅子

十月の水色の空氣
街の花屋の電燈が
白衿を着て慇懃に光る。
  カアネイシヨン。野菊。黄菊。
  ダリア。コスモス。秋海棠。
  ドウダン。エニシダ。

賣子の乙女は桃色の帶を結び
膝に純白のエプロンは垂れる。
喪服の婦人の衿あしに
は冴え冴えとして觸れ
肌白い掌はのびてカアネイシヨンの
紅に觸る。

白磁の壺は艶やかにお愛嬌を蒔き
籠の籠目には澄む。

巷の風に流れて浮ぶ花ゴンドラのやうな
花屋。

明りを浴びた賣子の乙女が
瞳の奥で驚きを知る。

 

秋という名の人物のつくる雑誌に「秋」ということばを含む詩を送ると、別の意味が生まれるような気がします。
「閨秀新人 春の詩集」なのに、秋の詩なのは、だいぶ前に預かっていた詩だったのからかもしれません。

 

秋朱之介編輯の『書物倶樂部』(1934年11月25日発行、裳鳥會)に掲載された裳鳥會限定版倶樂部の名簿に、

七十四 鈴木梅子

限定番號 七十四 鈴木梅子

と名前があります。
鈴木梅子も堀口大學の弟子です。
秋朱之介は資金力に欠ける人でした。詩と本の同志として、秋朱之介の本づくりに期待して、支援していたと思われます。

『木香通信』創刊號・四月號(1936年、昭森社)に掲載された、秋朱之介の堀口大學(1892~1981)への公開書簡にも、鈴木梅子が登場します。

  水戸の梅  ―我が良き師へ―

 銀座へ移つてから一度もお訪ねしない私の無沙汰をおゆるし下さい。大變あかじみて裾のきれた着物一着しかもちませんので、いつも先生のことは思つて居りながらこの服装では御訪ねしかねるので御座います。一昨年いや昨年の春先でしたか北陸の詩人鈴木梅子さんが作つて下さつた大切な着物をこんなによごし、こんなに破つて了つたかと思ふと何故か申譯ないやうで涙がこぼれます。この着物を私は二年着がへもなくつゞけて着て來たのです、いつも先生からやさしいお便りをいたゞくたびに胸のいたむ思ひです。
 また春が來ました。先生も鈴木さんもそして私も無事でこの春を迎へる事の出來ました事を喜びます、それにしても、私にはまだもの足りないものが御座います。もつと外の人も私達のやうに無事でこの春を迎へてくれゝばよいといふ希ひが切に私のこゝろをいためるのです。私は逝き去つた古い春の思出をいつまでも忘れることが出來ません、あの春、そしてまたあの春その中でも私の胸に最もなつかしく呼びかけるあの水戸の春を
 先生、あの頃はみんなが幸福でした。それにしても今日私達みんながあの春のやうに幸福でせうか。早春の朝の八時に上野のステーシヨンに集って、たのしく私達は水戸行の列車に乗り込みました。先生に、若海先生、岩佐さんに城さん、菱山さん、靑柳さんが來られなくつて、それに私、もう一人缺けてゐる、私にはいつもやさしくしんせつであつた、その方がどんなことをされても、憎むことも恨むことも、けなすことさへ出來ない私には眞に有難かつた良い御夫人であった。
 水戸の梅は散りかけてゐました。春信の繪の中でのやうに、先生、あの料亭のはなれの茶室で、私達は酒をくみ東京小石川茗荷谷の料理を食べました。それからバスで大洗に行き、半日を酒をくみ藝者を呼んで楽しみました。一寸風のある日で宿はそんなに込んではゐませんでした。金時といふ藝者外數人が來てわいせつな俗謡を歌つてきかせました。おしりをめくり變な腰つきの踊りも見せてくれました。岩佐さんが奥の手を出し、城さんが唄を唄ひ、時の過ぎるも忘れて賑やかに遊びました。そうして夜、水戸でナツトウをしこたま買ひ、上野の永藤の二階の奥の部屋でお茶をよばれて樂しい一日の行楽は終りました
 それにしても、今日また梅の春が訪れ、その日の我が身、今日の我が身、またそれぞれのその行樂の一行の人の身を思ふ時私はさびしいのです。
 ふるとしの雪はいづくとあだがへし、このとしこの日あとゝふなゆめ、フランソア・ヴイヨン居士の時代も今日も、人のこゝろに變りはない、岩佐さんはその間に母を失ひ、城さんは父を失ひこの四月から母と妹を引とつて家を借りることになつてゐるので金がかゝるとこぼしてゐました。それでも毎日酒には困つてゐないらしい。菱山さんはどうして居られるのか、その他の人は?
 久しくみなさんに逢ふ機會もなく、只雜事ばかりふへてゆきそうしてみんな歳とってゆく。そしてみんな籠の中の鳥のやうに、唄ふことさへ出來なくなられたのではありますまいか。それにしても私は唄ひますシュツベルヴイエルのやうに。
  昔一緒だつた人達よ。
  私のとざした眼の後に。
  ぬれた笑顔が六つある。それが私のメダイヨン。
  涙でふいて呼びかけて
  散りゆく梅を思ひ出す。

鈴木梅子は、東北の人で、「北陸」の人ではありませんが、秋朱之介は、鈴木梅子がつくった着物を贈られ、それを一張羅として着続けていたようです。

こうしたつながりを考えると、秋朱之介は、鈴木梅子の詩集を自分でつくる気まんまんだったのではないかと思います。

 

「水戸の梅」に続いて、次の告知がありました。

  新人出てよ
創作、飜譯、詩歌、評論、等
各種の原稿を募集する。
自信あるものをどしどし送れ、但採否は編輯者に一任のこと、原稿は一切返送せず
編輯部秋宛

「編輯部秋宛」ということで、「銀座二ノ四」時代の昭森社は、秋朱之介が仕切っていたことがうかがえます。

 

鈴木梅子の詩集は、戦前は刊行されることはありませんでした。
秋朱之介が昭森社にもうすこし長くいたら、秋朱之介装幀の鈴木梅子詩集がでていたのではないかと思います。

鈴木梅子の最初の詩集と2冊目の詩集は、昭森社から上梓されています。
昭森社と鈴木梅子を最初に結びつけたのは、秋朱之介だったことは間違いないと思います。

 

鈴木梅子については、西田朋『鈴木梅子の詩と生涯』(2020年8月30日初版、2021年5月20日再版、土曜美術社出版販売)が出版されています。

西田朋『鈴木梅子の詩と生涯』

 

残念ながら、秋朱之介についての記述はありませんでした。
鈴木梅子の蔵書は残されているようです。
秋朱之介が装幀・制作したものがあればいいのですが。

鈴木梅子(1898~1973)は、宮城県白石の詩人。堀口大學の弟子。
詩集『殻』(1956年9月15日、昭森社)、詩集『をんな』(1959年3月、昭森社)は、国会図書館の送信サービスで閲覧できます。


「車窓」館美保子

  車窓  館美保子

星が光つてゐる
遠ざかる山々の、風で磨かれた雪溪のあたりに
幽かな耀きと夕闇の深さを見せながら。

私はスキーのあとの渇きで
その山の氷のやうなしろい斜面を
ひと破片でもと思つて眺めた。
つひうとうととまどろむクツシヨンのあたたかさ、車輪のとどろき

さて明日は――
明日も健かに生きよ、巷の女
紅梅の蕾を雪にうづめて。

館美保子(1893~1990)は新潟生まれの詩人。
『明眸』(1928年5月10日発行、『明眸』發行所)、『黑い椅子』(1957年5月1日発効、黑い椅子發行所)は、国会図書館の送信サービスで閲覧できます。


「死と生誕」莊原照子

  死と生誕  莊原照子

或るとき信と善と此の二つのものが
わたしのちひさいかがとを超え
森の方へと逃げちまひました。

この裏街の愉しい鳩
幼兒らは銀のシヤヴヱルを持ち
波をかきわけるによねんも無い。

まるでルルドの聖龕(みづし)のやう
愛に傷いたその頬も
春のおとめは洗ひます。

雪で綴られた家々よ
また冷たいポストの番兵よ
夜が走る

崖を追ふ おまへの生 二つの夢
そこで絶えず嬉戲するはるかな侮蔑の海
此の白く冷酷な穹の一隅でまたしてもあなたのペンは美しく花咲いた。

 

     

秋朱之介は、昭森社で莊原照子『マルスの薔薇』(1936年7月10日發行)を制作します。
秋朱之介のあとがきを引用します。

  『マルスの薔薇』あとがき

 テルちやんのママがいま重病でふせつて居られる、だからテルちやんは絹糸草のやうに蚊のやうにやせて、詩も小説も書けない。
 私はテルちやんには、まだ一度も逢つたことさへないのだけれど、別に逢ひたいとも思はぬのだけれど、テルちやんも大變體の弱い方ときく、テルちやんの小説や詩が私のところにたくさん送つて來てあるので、その中から小説一篇と詩數篇を撰んで本書を編んだ。私はテルちやんの作品のいいことを知つてゐる。ママの病氣ははかばかしくないらしい。
 遂に心衰のテルちやんからは詩も小説も手紙も來なくなつた。
 私は昭森社主森谷均氏へ「マルスの薔薇」刊行について交渉した。森谷氏は快諾して下さつたので、私はこの小さな書物をコクトオの八十日世界一週を思ひ乍ら自分で装釘して五日で作り上げた。
 テルちやんの知らぬ間に出來上った。本書が突然テルちやんの扉をたたいて、テルちやんのママの病氣をよくし、テルちやんを快活にすることを信じて。
一九三六年 初夏
秋朱之介

 

「テルちやん」と親しげに呼んでいますが、この呼びかけは一方的なものだったのでしょうか。

『木香通信』8月号に掲載された、莊原照子『マルスの薔薇』の秋朱之介による広告文も引用します。


半ば開け放たれたガラス戸の外は紫陽花の水色がまるで靑い沼だ、〈マルスの薔薇〉と著者は水無月の初夏の明るい風景を詩の言葉で述べてゐるのである。また、兎の瞳よりもまだ美しい木の實だつた。〈マルスの薔薇〉とこれ以上の美しい表現がまたとあらうか。これは病弱の詩人莊原照子が最初の中篇小説であり、また詩集だ。私は知つてゐるこの美しい、はいからなそうして、この部數の少ない、葩のやうな書物が、飛ぶやうにすぐ賣切れになることを。 ″秋〟

マルスの薔薇

莊原照子著
―秋朱之介装―

薔薇 さしゑ入 限定二五〇部一―一〇局紙版二、〇〇 一一―二五〇特装紙版一圓直接申込者にのみ頒布店頭へさらさず

東京銀座二ノ四・昭森社

 

広告に「照原照子」と名前に誤植があるのが、さらに残念。

莊原照子に捧げるようなかたちで急いで本を作り上げたのですが、相手の気持ちを考えない贈りものになってしまったようです。

手皮小四郎氏が、鳥取の詩誌に連載していた『モダニズム詩人 莊原照子 聞書』連載第15回「秋朱之介、『マルスの薔薇』を編む」(『菱』175号、二〇一一年十月一日発行、詩誌「菱」の会)によれば、自身の第一作に十分な時間をかけたいと思っていた莊原照子にとって、秋朱之介が「五日で作り上げた」作品集は、誤植の多さなど、莊原照子を「快活にすること」のない不満の大きい第一作になってしまいました。
手皮氏によれば、莊原照子が『マルスの薔薇』刊行直後の昭和十一年九月に発表した文章では「社主(森谷均か)からは、私自身が校正すべきでしたと詫状をもらひ、怒る事もならない」とあり、今であれば自主回収になるような校正の不備があり、作家と編集者の関係は、不幸な形で、挽回の機会がないまま終わりました。仕事をかかえすぎていたのも
とはいえ、秋の拙速さゆえに、モダニズム詩人・莊原照子唯一の本が世に残ることになったことも事実です。

莊原照子の『マルスの薔薇』の拙速で、秋朱之介による女性詩人の詩集出版が続かなかったのではないかと思います。

莊原照子(1909~1999)生前唯一の詩集『マルスの薔薇』(1936年、昭森社) は、国会図書館の送信サービスで閲覧できます。

 

『木香通信』6月号(1936年6月1日発行、昭森社)

6人とは別の伊東昌子の詩が掲載されています。

  春のサイレン  伊東昌子

殖民的な理由でトレイニングを強制する
派手な法律家たちは
玉蜀黍に喝采し
音樂的なことでサーベルを軽蔑する
ランニングシヤツとごむ靴を穿き給へ
南京豆を囓り
サーカスの馬に乘り
怪しげな椿姫を口ずさむと
タツクルより晩い春があつた

 

江間章子が、饒正太郎と伊東昌子の詩人夫妻についての回想を『埋もれ詩の焔ら』(1985年10月21日第1刷発行、講談社)に残しています。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

モイア・ブレナック(Máire Breatnach)はアイルランドのフィドル奏者。
そこが自分の故郷ではないのに、その音に懐かしさ、ノスタルジーを感じさせる人です。

アトランティック・レーベルの「Celtic HeartBeat」シリーズは、エンヤの大ヒットのあと、その二匹目のドジョウをねらっていたようなところもありましたが、モイア・ブレナック(Máire Breatnach)の『ブランの航海(The Voyage Of Bran)』(1994年、Atlantic) は、中世アイルランドの伝説をモチーフにしたアルバム。よく聴きました。45分の音楽航海を堪能できます。シンセサイザーの音色は好みが分かれるかもしれませんが、抒情派プログレが好きな人なら好きにならずにいられないんじゃないでしょうか。

Máire Breatnach『The Voyage Of Bran』(1994年、Atlantic)

Máire Breatnach『The Voyage Of Bran』

 

Máire Breatnach『Celtic Lovers』(Hummingbird Records)

Máire Breatnach『Celtic Lovers』

『ブランの航海(The Voyage Of Bran)』の続編。
輸入盤に日本語ライナーと帯をつけたものですが、日本盤もでていました。
日本盤発売元は、THE MUSIC PLANT。

 

Máire Breatnach『Angels’ Candles』(1999年、Bord na Gaeilge)

Máire Breatnach『Angels’ Candles』

日本盤発売元は、 トリニティー・エンタープライズ。

 

『Final Fantasy IV』(1991年、SQUARE BRAND、NTT出版、アメリカーナ・レコード)

『Final Fantasy IV』01

『Final Fantasy IV』02

ゲームとは無縁なのですが、モイア・ブレナック(Máire Breatnach)はアレンジ・演奏しているというので買い求めました。アコーディオンはシャロン・シャノン(Sharon Shannon)でした。

作曲は、植松伸夫。アレンジャー・サウンドプロデューサーはモイア・ブレナック(Máire Breatnach)。

ただクレジットでは、「MÁIRE BHREATNACH」「MÁIRE BHRETNACH」となっています。

 

『凍りつく夏(Freezing Summer)』オリジナル・サウンドトラック(1998年、ワーナーミュージック・ジャパン)

『凍りつく夏(Freezing Summer)』

 

日本テレビ系列で放送された室井滋・佐野史郎主演の連続ドラマ。見たことはありません。

演奏を一緒にしているわけではありませんが、Máire Breatnachと清水一登が同じアルバムに同居しています。
こんなぜいたくな起用をしていたアルバムもあったのでした。

 

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414. 1932年の『詩と詩論 X』(2024年2月25日)

1932年の『詩と詩論 X』表紙

 

『詩と詩論』第十冊の初版は1931年に刊行。
手もとにあるのは、1932年8月18日発行の宣傳版。
初版は1円50銭。宣伝版は特別価60銭。

1930年代モダニズム文学の中心人物、春山行夫(1902~1994)が編集していた『詩と詩論』『文學』(厚生閣書店)は、鹿児島の古本屋さんでも、そろいでなくバラですが、時々見かけます。
1930年代モダニズムの牙城は鹿児島にも勢力をのばしていたということでしょうか。

『詩と詩論』(厚生閣書店)の、第十冊(X)に掲載されているジェイムズ・ジョイス(James Joyce、1882~1941)の翻訳で、左川ちか(1911~1936)の名前を知りました。

手もとに6冊ほどありますが、鹿児島の騎射場にあった古本屋さんで購入したと記憶しています。

 

『詩と詩論』第十冊奥付

 

伝説的な『左川ちか詩集』は、昭和11年(1936)11月、昭森社の「木挽町三ノ二」時代に、三岸節子の挿画・装画で出ています。
昭森社の「銀座二ノ四」時代であったら、秋朱之介(西谷操、1903~1997)の関与が推測できるのですが、制作にはかかわっているのかは微妙です。
秋朱之介も間違いなく左川ちかの詩集を作りたかったのではないかと想像したりします。

 

『詩と詩論』第十冊収録の「室樂」01

『詩と詩論』第十冊収録の「室樂」02

ジョイスの「室楽」に続くページには、ヘミングウエイの「インデアン部落」。

 

『詩と詩論』第十冊収録の「室樂」

室樂
ジエイムズ・ジヨイス
左川ちか

5

窓の外で金髪がゆれ
私はあなたの樂しさうな歌をきく。

本をとぢ私は讀むことをやめる
床の上に踊る焔を見ながら

私は本を離れて室を出る
あなたがたそがれの中で歌つてゐるのので。

樂しく歌ひながら 歌ひながら
窓の外で金髪がゆれる。

 

ジエムズ・ジヨイス 左川ちか訳『室樂』 (1932年8月10日発行、椎の木社)では、訳が大きく変わっています。

5

窓に凭れよ、金髪のひとよ、私はあなたの樂しい歌をきいたのだ。

本をとぢ私は讀むことをやめた、床の上に踊る焔の影を見ながら。

私は本を離れた。私は室を出た。あなたがたそがれの中で歌つてゐるので。

樂しい歌をうたひ、そしてうたつてゐる。窓に凭れよ、金髪のひとよ。

 

     

左川ちかの詩が雑誌にあると、うれしくなります.

 

『詩と詩論』第十二冊(1931年6月16日発行、厚生閣書店)
こちらは定価2円の初版。

『詩と詩論』第十二冊01

『詩と詩論』第十二冊02

『詩と詩論』第十二冊03

左川ちかに山中冨美子(1914~2005)が続きます。雑誌の醍醐味です。

 

『詩と詩論』第十二冊04

 

『文學』第四冊(1933年8月10日発行、厚生閣書店)
特価60銭の宣伝版。

『文學』第四冊01

『文學』第四冊02

『文學』第四冊03

『文學』第四冊04

『文學』第四冊05

 

     
『詩と詩論』や『文學』の広告ページもわくわくします。
通常版から1年くらいして安価な普及版を出すのが常だったようです。

現代の藝術と批評叢書

現代の藝術と批評叢書

 

レスプリ・ヌウボオ

レスプリ・ヌウボオ

著者の並びは男子校のようです。
女性詩人の場所はあったのでしょうか。

 

『文學』第1冊~第6冊(厚生閣書店)は、国会図書館の送信サービスで閲覧できますが、『詩と詩論』第1冊~第14冊(厚生閣書店)は、今のところ、国会図書館の送信サービスで閲覧できません。

ジエイムズ・ジヨイス 左川ちか譯『室楽』(1932年8月10日発行、椎の木社)、
『左川ちか詩集』(1936年11月20日発行、昭森社)、『左川ちか詩集』特製(1936年11月20日発行、昭森社)は、国会図書館の送信サービスで閲覧できます。

 

     

1930年代の詩人の本で、左川ちか関連のものの出版が続いています。
『左川ちか詩集』が岩波文庫に入って、20世紀詩人の「古典化」のなかで、位置を確保したようです。

 

島田龍編『左川ちか全集』(2022年4月23日、書肆侃侃房)

島田龍編『左川ちか全集』01

島田龍編『左川ちか全集』02


『ねむらない樹』9(2022年8月29日第1刷発行、書肆侃侃房)
 小特集 左川ちか

『ねむらない樹』9

 

川崎賢子編『左川ちか詩集』(2023年9月15日第1刷発行、岩波文庫)

川崎賢子編『左川ちか詩集』


『左川ちか モダニズム詩の明星』(2023年10月30日初版発行、河出書房新社)

『左川ちか モダニズム詩の明星』


『左川ちか モダニズム詩の明星』に収録された、昭和9年(1934)夏ごろ、左川ちかが内田忠にあてた手紙に、こんな一節がありました。

 銀座の毛皮屋がとても夏向きの店に変りました。花と、植木と熱帯魚と金魚と、大きな水槽に金魚がたくさんをりますの。 熱帯魚がほしくて、いつでものぞいて見てまいります。お金が出来たら、銀座のやうなところへ江間章子さんと店を出したいと話していますの。江間さんは帽子屋と写真屋、私は本屋、シルビアビーチの本屋のやうなの。 早くお金が出来るといいと思ひます。

昭和9年(1934)、シルヴィア・ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店が、ちゃんと憧れの対象になっていたことに感動しました。
銀座にそんな本屋ができていたら、なにか特別で素敵なものが生み出されたような気がします。

江間章子(1913~2005)と左川ちか(1911~1936)は親友で、銀座の北園克衛の事務所にたむろしていたようです。
北園克衛の事務所は、「京橋区銀座西四丁目四ノ五 井上ビル」や「京橋区銀座西八丁目七番 日本鉱業ビル」にあったとあります。
秋朱之介が新宿から「銀座二ノ四」に移ってくるのは1935年の夏ごろ、そこに森谷均(1897~1969)が訪ねてきて昭森社の「銀座二ノ四」時代が始まります。
秋朱之介は、このころ江間章子に詩集の制作を申し出ているので、つながりがあるのは確かですが、左川ちかとかかわりがあったかどうかは不明です。

『左川ちか モダニズム詩の明星』に掲載された、川村湊編「モダニズム女人詩抄――左川ちかをめぐる星座群」に11人の女性詩人が紹介されています。
伊東昌子(生没年不詳)、塩寺はるよ(1914~1934)、莊原照子(1909~1999)、澤木隆子(1907~1993)、中尾千尾(1913~1983)、倉田ゆかり(1913~2006)、江間章子(1913~2005)、方等みゆき(1896~1958)、山中富美子(1914~2005)、藤田文江(1908~1933)、上田静栄(1898~1991)。

 

『現代詩手帖』2023年11月号(2023年11月1日発行)
 特集 世界のなかの左川ちか

『現代詩手帖』2023年11月号

 

【2024年2月27日追記】

実は、1936年11月『左川ちか詩集』が昭森社から出版されたことに、秋朱之介のいる場所が影響を与えたのではないかと考えています。

1933年に三笠書房を創立したのは竹内道之助ですが、三笠書房の発行人の名義は、妻の竹内富子になっています。竹内富子は、堀内印刷所の娘で、堀内文治郎の妹です。『書物』をはじめ初期の三笠書房の出版物の多くは、堀内印刷所(堀内文治郎)で印刷されていました。

秋朱之介が三笠書房のなかで居場所を失い始めた1934年7月、三笠書房は「東京市神田区神保町三ノ六」に移転します。同時に、堀内印刷所(堀内文治郎)も「東京市牛込区山吹町一八一」から「東京市神田区三崎町二ノ二二」に移転しています。三笠書房は堀内印刷所の出版部という側面も強かったと思われます。(堀内文治郎はのちに二見書房を立ち上げます。)

1933年10月から1934年7月の三笠書房の「東京市淀橋区戸塚町一ノ四四九」時代、その顔であった秋朱之介は三笠書房から「追放」されます。
それから、新宿の「東京市淀橋区角筈一ノ一 エルテルアパート」時代を経て、銀座に拠点を移します。

1935年10月から1936年8月、昭森社は「東京市京橋区銀座二ノ四」で、森谷均は秋朱之介とともに出版活動を始めるのですが、この「銀座二ノ四」時代、昭森社の出版物の印刷に、堀内印刷所は使われていません。

ところが、昭森社が1936年8月「東京市京橋区木挽町三ノ二」に移転し、秋朱之介が昭森社を離れると、昭森社の印刷に堀内印刷所(堀内文治郎)が使われ始めます。

1936年11月20日発行の『左川ちか詩集』の印刷人は、堀内文治郎でした。

 

 拾い読み・抜き書き

村永美和子の詩集『一文字笠〈1と0〉』(2014年1月31日初版発行、あざみ書房)に2つの名前が並ぶ見開きがありました。

村永美和子の詩集『一文字笠〈1と0〉』01

村永美和子の詩集『一文字笠〈1と0〉』02

 

傘 たたみ
浦 の水嵩 の上 素足すすめて藤田文江
空いた手にアジサイ 一茎

 

〈麒麟〉 の字面に
一再ならず ちかづく
詩人左川ちか が詩にのこした〈殻〉の麟

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

ジェイムズ・ジョイスの「ゴールデン・ヘア(Golden Hair)」というと、シド・バレット(Syd Barrett、1946~2006)の歌がまず思い浮かびます。2枚のソロアルバム『The Madcap Laughs』(1970年、Harvest)と『Barrett』(1970年、Harvest)は手もとにないので、2001年の『The Best Of Syd Barrett - Wouldn't You Miss Me?』(Harvest)から。

The Best Of Syd Barrett - Wouldn't You Miss Me?

 

ダリの模写がうまかった高校の美術部の先輩が、しゃがんでいる男の姿の絵を描いていました。
それが『The Madcap Laughs』(1970年、Harvest)ジャケットのシドバレットのポートレイトをもとにしたものだと、のちにレコードを入手してから気づきました。
シド・バレットは、1970年代の地方都市の美術部員にとっても、伝説の人でした。
ピンク・フロイド(Pink Floyd)の「Wish You Were Here(あなたがここにいてほしい)」はシド・バレットのことだというのは、神秘の知識へ入る符牒のようなものだったのかもしれません。

シド・バレットのレコードはもう売ってしまいましたが、カセットテープは残っています。
ノーマルテープですから、お金に余裕がなかったのでしょう。

 

The Madcap Laughs

 

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413. 1934年の秋朱之介編輯『書物』九月號(2024年2月24日)

秋朱之介編輯『書物』九月號表紙


秋朱之介(西谷操、1903~1997)が編集した三笠書房の『書物』終刊号(1934年9月1日發售)です。
三笠書房は、秋朱之介(西谷操)同様、艶本出版から出版の世界に入った竹内道之助(1902~1981)が、フランス文学・ロシア文学など文藝中心の出版のために創業。
秋朱之介は、三笠書房最初期の編集者・装幀者として、1年と短期間ではありましたが、その創業の足固めに重要な役割を果たしました。

三笠書房の創業とともに創刊された、秋朱之介編輯『書物』は、12冊目で終わりました。

秋朱之介にとっては寝耳に水、突然の廃刊だったようです。

 

『書物』の編集長・秋朱之介による編集後記、最初に「白鳥の歌は死ぬ時」と引用した廃刊の言葉を引用します。

 

秋朱之介編輯『書物』九月號編集後記・奥付

 

  篇什のちの文  秋朱之介

  白鳥の歌は死ぬ時
   ――エロスの領分より―― 堀口大學

 また秋が來て木の葉は落ち、ひねもす渡り鳥がないてゆく。プラタナスの葉の舞ふアスファルトの街では、少女が口笛をふいて歩いてゐる。壁の上の夾竹桃も百日紅もまた向日葵もなぜか私にはかなしい花に見える。

 皆様には御變り御座いませんでしたか、御伺申上げます。私は海も山も見ずやけつくやうなアスファルトのとける東京で、この夏を過しました。

 本號はチェーホフ研究特輯號として縦横にチェーホフの作品を解剖批判する豫定でありましたが、ある事情がそれをゆるさなかつた事を遺憾に思つてゐます。その上に大變な遲刊。讀者には何とも申譯なく思つてゐます。

 それでも暑い中をわざわざ本誌のために御執筆下さつた諸氏に厚く御禮を申上げます、本誌も愈々十月一周年紀念號を迎へる處までこぎつけましたが、月刊雜誌書物、秋朱之介編輯は、本號をもつて廢刊の止むなきにいたりました。書物誌上で皆様にまみゆるのも之が最後ですが、しかしまた近く必ずみなさまにまみゆる日のあるであらうことを疑ひません。

 大變永い間色々と御援助、御指導下さいました皆樣に對して、ここに厚く厚く御禮を述べて、篇什後記、また廢刊の辭とする。

 

この文章は、秋朱之介『書物游記』(1988年、書肆ひやね)に「書物後記」として収録されています。

 

     

『書物』誌の奥付


『書物』誌は「秋朱之介編輯」を謳い文句にしていましたが、奥付の編輯兼發售印刷人の名義は竹内富子となっています。
竹内富子は竹内道之助の妻で、三笠書房の本を印刷していた堀内印刷所の堀内文治郎の妹です。

『木香往来』創刊第壱號(1989年1月25日発行、書肆ひやね)に掲載された「座談・秋朱之介を囲んで」で、秋朱之介は「あれ(竹内富子)は、竹内(道之助)の細君です。二見書房の堀内ってのの妹ですよ。竹内は、元々軟派本なんか出していたから、名前を出せなかった。」と発言しています。

三笠書房の実際の経営者は竹内道之助とされながらも、竹内富子は1960年代まで三笠書房の「発行者 竹内富子」であり続けます。「発行者 竹内富子」について、どなたか深く踏み込んで書いてもらえないものでしょうか。

 

『書物』誌の扉では、毎号「秋朱之介編輯」と強調されています。

昭和8年10月1日發售 月刊襍志『書物』第一年第一冊 小春號
東京市淀橋区戸塚町一ノ四四九 發售處 三笠書房
編輯兼發售印刷人 竹内富子(奥付)
東京市神田区三崎町二ノ二二 印刷處 堀内印刷所
秋朱之介編輯(扉)

『書物』第一年第一冊 小春號扉

 

昭和8年11月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』第一年第二冊 葭月號
秋朱之介編輯(扉)

『書物』第一年第二冊 葭月號扉

三笠書房のマークに、「アキ」の署名があります。

 

昭和8年12月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』第一年第三冊 臘月號
秋朱之介編輯(扉)

『書物』第一年第三冊 臘月號扉

昭和9年1月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』第二年第一冊 はつはる瑞月號
秋朱之介編輯(扉)
「書物」の字は、堀口大學(1892~1981)によるもの。

 

『書物』第二年第一冊 はつはる瑞月號扉

 

昭和9年2月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』 第二年第二冊 花月號
秋朱之介編輯(扉)

『書物』 第二年第二冊 花月號扉

 

昭和9年3月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』第二年第三冊 桐月號
秋朱之介編輯(扉)

『書物』第二年第三冊 桐月號 扉

秋朱之介に「美しい本」をつくることへの期待がかけられています。

この号には、秋朱之介が個人で運営していた私家版発行所、裳鳥会の告知もあります。

裳鳥会の告知

「牛込區早稻田町六〇 瀧上内」は、このころの秋朱之介の住所だと思われます。


昭和9年4月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』第二年第四冊 余月號
秋朱之介編輯(扉)
堀口大學から秋朱之介へのことばが使われています。

『書物』第二年第四冊 余月號扉

 

昭和9年5月1日發售 月刊書物趣味襍志『書物』第二年第五冊 蒲月號
秋朱之介編輯(扉)

『書物』第二年第五冊 蒲月號扉

南江二郎(南江治郎、1902~1982)の詩「秋の手紙」では、秋朱之介の「賣春」が当たり前のように書かれています。

絵はだれのものか不明ですが、このころの秋朱之介の棟方志功(1903~1975)への肩入れぶりから考えると、秋好みの、こういう感じのものを描いてくれと指定できたのかもしれません。

 

昭和9年6月1日發售 『書物』特輯ドストイエフスキイ研究 第二年第六冊 茘月號
この号には扉はなく、編集後記も秋朱之介の署名はなく、「H」によって書かれています。
表紙は、ブブノワ夫人(ワルワーラ・ブブノワ、1886~1983)。

『書物』特輯ドストイエフスキー研究 第二年第六冊 茘月號 表紙

 

昭和9年7 月1日發售 『書物』隨筆特輯號 第二年第七冊 七月號
扉から「秋朱之介編輯」の文字が消えました。秋朱之介の三笠書房内での地位が確実なものではなくなってきたようです。

『書物』隨筆特輯號 第二年第七冊 七月號扉

三笠書房「東京市淀橋区戸塚町一ノ四四九」最後の号です。

『書物』隨筆特輯號 第二年第七冊 七月號奥付

 

昭和9年8月1日發售 『書物』鎖夏隨筆特輯號 第二年第八冊 八月號
扉に「秋朱之介編輯」の文字がありません。

『書物』鎖夏隨筆特輯號 第二年第八冊 八月號扉

八月号には三笠書房の「轉居通知」があります。

三笠書房は今般左記へ轉居致しました、九段坂のすぐ下、俎橋際です。
神田區神保町三ノ六

奥付の住所も変わりました。

『書物』鎖夏隨筆特輯號 第二年第八冊 八月號奥付

転居先には、秋朱之介の椅子はなかったのかもしれません。

 

昭和9年9月1日發售 『書物』第二年第九冊 九月號 ロシア文學特輯
扉に「秋朱之介編輯」の文字がありません。

『書物』第二年第九冊 九月號 ロシア文學特輯扉


     

秋朱之介は、1934年9月には、三笠書房をはなれ、新宿の「東京市淀橋區角筈一ノ一 エルテルアパート」に移り、自分の裳鳥会で『書物倶楽部』の刊行準備に入ります。

昭和9年10月5日發行『書物倶樂部』創刊號 裳鳥會
編輯兼發行人 秋朱之介
東京市淀橋區角筈一ノ一 エルテルアパート
表紙 芹澤銈介

『書物倶樂部』創刊號奥付

裳鳥会で刊行予定の《シャルル・ボオドレエル著 『惡の華』 第一巻 山内義雄序 村上菊一郎譯》の広告に、秋朱之介は、三笠書房を離れた気持ちを次のように解き放っています。

日本限定版倶樂部春組第一回刊本(非賣)
シャルル・ボオドレエル著 『惡の華』 第一巻
山内義雄序 村上菊一郎譯
一九三四年十月刊・第二巻十一月下旬刊

詳細は月報に
どんなにながいこといぢめられて來たことか。どんなに苦しんで來たことか。どんなに踏みつけられて來たことか。だが産れ出る力といふものは何者にもうちかてるものだ。それは氷のやうな冷たい石炭だ。火をつけるとすべてを焼きつくさでは止まぬ焔だ。今私は自由の身だ。所謂經營者といふ守錢奴に束縛されることもなく、思ふがまゝに仕事に熱中出來る身だ。こんな嬉しいことはない。さうして、こんなに能率の上ることもない。つゞけさまにどしどし美しい本を送る。私のすべては創造の力に充ちてゐる。どうしても創造しなくては居られないのだ。今迄はそれが出來なかつた。ほんのちよつぴりの給料で半殺の状態で肉體的精神的勞働を何者かに強いられて來たのだから。之からはをりをのがれた野獸のやうに、快物のやうに、出版界讀書界をあばれ廻るぞ。どこにこんな力があつたのか自分乍ら不しぎである。

 

『書物倶樂部』編集後記「山茶庵日記」でも意気軒昂です。

 

  山茶(つばき)庵日記  山茶庵主人

玖月肆日 火
 こゝに考ふる處あつてM社を退社し、雜誌書物を廢刊し、私が本念の常道に復歸して新らたにまた誌名を更め、巻を更めて一般書物に關する趣味研究の雜誌を編むに至つた。私はこの雜誌をどこ迄も誠實な書物研究の機關として編輯したい意嚮である。さうして書物好きの友が日に日に本誌に集つてお互にたのしみ合ひながら仕事してゆける日の來るのを氣永に待たう。
 私がいまいちばん心をうちこんでつくつてみたい本は、アレクサンドル・デユマ・フイスが稗史『椿姫』である。椿姫は一賣春婦の艶譚である。哀しき情志である、いつか日かげに白椿のさく日になる。まつしろい総革の美しい椿姫を刊行したい。
 やさしい人がよの中にはいくにんもかくれてゐるものだと思つた。私の知らぬ人が私の仕事を見てくれる。ある日の讀賣新聞の文藝欄に、一部も寄贈しなかつたシモオヌの紹介が出てゐた。望外の讃辭で恐入る。
玖月拾壹日 火
 上海九月三日附で支那の有名な小説家Lûsin『魯迅』先生から封書をいただく。純白の唐紙に小さな字で美しく認められた便りである。魯迅先生の玉稿で書物倶樂部誌上を飾らしていただける日も近い。
 佛蘭西屋敷でお茶を飲んでゐる。玻璃窓の外を歩るいて行く八百屋の籠に柿のはいつてゐるのがみへる。武藏野の秋の實りだ。なんだかけふは肌寒い。コスモスの葩がテーブルクロースの上に散つて、ヴァン・ドンゲンの女達がムーラン・ルウジュの方へ歩いてゆく。
玖月拾玖日 水
 アマゾオヌへの歌がいつも思ひ乍大變遲れて申込者にすまない。寶石のやうな本を作りたいと努力してゐますからもうしばらく暇を與へて下さい。
 今秋の大出版としてアルチユル・ラムボオ全集を募集する。S・C・K『裳鳥會』が東洋に於ける佛蘭西のN・R・Fのやうな出版社として大々的に美書出版の目的を果す日も遠くはあるまい。
玖月貳拾日
 今日も雨、ヴエニユス生誕印刷の監督に印刷所へ出かけた。美しい本になる。
 裳鳥會限定版倶樂部員その他の名簿は次號へまとめて發表することにした。日本限定版倶樂部について阪野貞一氏その他から問ひ合せが來てゐる。
 規約に、日本限定版倶樂部の仕事一切は「書物」の編輯者秋朱之介が生命を投じたライフ・ワークとして之を遂行いたしますとなつてゐるし、また小生が創立したものであります故、小生が三笠書房を退社したについてその會費拂込及刊行書等についての御問合せである。で、こゝにそれについてまとめて御返事を認めます。このことについては書物倶樂部の趣意書に一寸認めてをきました、が、

  1. 日本限定版倶樂部は三笠書房と全然關係を斷つて東京市淀橋區角筈一ノ一、エルテル・アパートに創設されます。
  2. 刊行書、秋組は第二回以後の刊行物は今迄發表のものは之を廢棄し急速に刊行書決定お通知の上十月十一月十二月とつゞけて刊行し度いと存じます。春組の方はボオドレエルの惡の華を十月から之もつゞけて目下邦譯者中日本一の評ある村上菊一郎氏の名譯で刊行おとどけいたします。
  3. 會費。今迄の會費は全部三笠書房の振替口座に入金になつて居り三笠書房でおあづかりしてゐますが、之からのご送金は必ず日本限定版倶樂部の振替口座東京三〇七六〇番を御利用下され度、尚今迄の拂込額を至急に秋組、春組別にお通知下され度。會員名簿及刊行書事務經過は次號書物倶樂部誌上及日本限定版倶樂部月報に發表配布いたします。

 尚會費は三笠書房との清算がいまだついてゐませんから、之からの拂込は第何月分よりと御送金の折お明記下され度。
 書物倶樂部創刊號は、速急の間に編輯されたにもかゝはらず、數々の良い原稿がいただけた事は、一重に先生方の御好意の賜物で、厚く御礼を申上げます。尚〆切後着いた原稿も数種あり次號は一さうの生彩を加へることと御期待下さい。それに本誌は毎號、帝展に數回に亘り當選好評を博して居られる棟方志功畫伯の繪を添付さしていただく事になりました。同畫伯の新版畫講座も止むなく次號へ廻しましたが、之もまた好評を博することと信じて疑ひません。
 本誌は書物、印刷、製本等に關する讀者の投稿も出來る限り編輯部に於て撰定の上掲載いたしますから振つて御投稿下さい。


「佛蘭西屋敷」「ムーラン・ルウジュ」という言葉に、モダーンな新宿を感じます。

「山茶庵日記」は、『書物游記』(1988年、書肆ひやね)に「書物倶楽部後記」として収録されています。

 

『書物倶楽部』は内容的には『書物』に続くものでしたが、『書物倶楽部』は2冊発行されただけで、続きませんでした。秋朱之介がはじめた日本限定版倶樂部の名簿も三笠書房から渡してもらえなかったようです。
秋朱之介は新宿「東京市淀橋區角筈一ノ一 エルテルアパート」を引き払い、1935年の夏ごろ、「銀座二ノ四」に移ります。
そこに、秋朱之介を訪ね、隣に昭森社を立ち上げたのが森谷均です。
森谷均は、秋朱之介が主宰していた日本限定版倶楽部の会員でした(会員番号100)。

日本限定版倶楽部の会員森谷均

 

昭和11年4月1日發行 『木香通信』創刊號・四月號 昭森社
小出楢重七週忌紀念特輯
閨秀新人春の特集
編輯兼發行人 森谷均 東京市京橋區銀座二ノ四
印刷人 松村保

『木香通信』創刊號・四月號奥付

 

創刊號のあとがきは、森谷均と秋朱之介の2人で書いています。

 「後記」 前半は「(森谷)」、後半は「(秋朱之介)」

●どうも恐ろしくきびしい冬でした。度々の雪の間に例の二、二六事件で、出版もくそもないといふ始末でした。パンフレツト「木香通信」にものを書いたのが、昨年の十二月でしたが、思へば長い冬眠でした。
●だが、その間二回關西へ遊びに行つたきり社内無休で、それこそ銀座にゐて銀座を知らぬ有様でした。三月の「寶船考」をきつかけに四月は五六冊の本を見参に入れられます。徒らな休止でなかつたことを、私は誇りたいのです。
●モツコウツウシンも、いよいよ雜誌として花信と共に贈ることが出來ます。小出氏七周忌記念特輯としましたが、表紙は小出愛藏の氏の美神誕生圖にしました。創刊號であるだけにこの圖は一層有緣のものと成り得たと信じます。
●近い將来に「小出楢重書簡集」編纂の意圖を持つが故に、本號では特に宇野浩二氏へのものをお借りし、氏から懇切な解説をいただきました。この意圖達成のために諸兄の御援助を期待し、ついでながらお願ひする次第です。
●創業以来「大切な雰圍気」一冊出しただけで、斷然ショウシン社の存在理由は公認されたと思ひます。だがむしろ小生の仕事は今後に在ります。それはこの雜誌の上で月々報告出來ると思ふのです。處女出版の改装、改訂が單なる道樂でなかつたことを知つて下さる讀者よ、この雜誌の成長と共に注意と鞭撻を惜しまないで下さい。(森谷)

▲昭森社(しようしんしや)を百人のうち九十九人迄が昭林社と呼んでゐるのはどういふわけかみな小學校時代不成績な人達だつたらしい、この字はどうひつくりかへしてもしようりんしやと讀みやうがないのである。社名位は正しく呼んでいただきたいものです。
▲作家が作品としてもたいした價値のない舊作をいく度もいく度も装幀をかへ、作品を入れかへ、書名をかへてあちこちの出版社から刊行するといふことは作者の不徳のいたさせるところであり。かつ罪惡である。作者は罪惡ををかしても印税さへはいればいいのか知らないが、讀者の立場になつてみれば、時間と費用の亂費で實にたまつたものでない。その中間に立つ出版社はその意味でも強くならねばならぬと思ふ。
▲私が社の刊行プラン中、最も力を入れてゐるものは、ロバート・バートンが「憂欝症の解剖」である。本書をどこよりも先に出版し得るといふことは出版社の名譽である。約七八年前私はこの特装原書を珍重してゐた。私は本書の装幀にもまた全力を注いでゐる。
▲美術作品にもいたづらとしか見へないやうなものが多い、美術品ではあるかもしれないが、藝術品をその中からさがすのは大變だ。日本畫家洋畫家を問はず近頃の展覧會の作品を見て感じることは、このことだ。
▲次號はマリイ・ロオランサン、東郷靑兒の特輯、その他珍らしい原稿が滿載される、春いよいよたけなはといつた進出ぶりである。うんとさしゑを入れて、本書一冊もつて居れば花見などへは行かんでも、行つたやうな氣のするすばらしいものにする。(秋朱之介)

創刊號では、小出楢重パートが森谷均、それ以外を秋朱之介が担当したのではないかと思われます。

 

6月1日發行『木香通信』六月號 昭森社

編輯兼發行人 森谷均
東京市京橋區銀座二ノ四
表紙絵 東郷靑兒

6月号の「後記」は秋朱之介が単独で書いています。

 後記

微笑もしらぬ幾明けがたの遣瀬なさ、戀もない幾夕暮れのあぢきなさ、おゝ、むらさきの、こむらさきのみなつきよ、おまへよ、女の肌のひやりと冷たい、戀の季節よ、矢車草、チユリツプ、花あやめ、杜若、藤の花、桐の花、罌粟の花までもむらさきの、水晶のやうな季節よ。處女のおつぱいに、いつぱい乳のたまる頃、そうしてすべてのものがむしばまれる頃、昆虫よ、蝶々よ、大理石像のための葡萄の葉つぱよ、そのかげの小さな花々よ、蟻よ、蜂よ、白い商船よ、水色の帽子よ、知らぬ女よ、港や都會の片隅をむしばんでゐるむらさきの女達よ、賣春婦よ。ああ、微笑もしらぬ幾明けかたの遣瀬なさ、戀もない幾夕暮れのあぢきなさ、むらさきの、こむらさきのみなつきよ。と、こんなのん氣な後記を書いて居られる程、今月は氣持よく仕事に醉ふて編輯しました。少し表紙があまつたるい氣持がしないでもないが、東郷靑兒とマリイ・ロオランサンではかたくならうたつてなれるものではない。次號は巴里すうぶにいる特輯。日本にゐて巴里を散歩しやうといつたすばらしい豪華版。それに今月出版されたマリイ・ロオランサン詩畫集と東郷靑兒の手袋の美しさはどうだ。昭森社創立以来の豪奢本として、きつと皆様の御好みに添へるものとして責任をもつておすすめ出來るものである。それに前月號の本欄で御紹介申上げた『憂欝症の解剖』は果然帝國大學及早稻田大學等に大きな過紋を捲き起して大學生のために刊行したやうな不思議な反響を得ることとなつて了つた。さもあらん、大學生ともあらうものがバアトンの憂欝症の解剖を知らんでは卒業があやうからう。この國家的非常時にこんな面白い本を讀んで頭の大掃除をし大いに國家、文化のために盡すべきだ。
尚、大書御知らせすることがある。それは元第一書房のセルパンを編輯し、また第一書房の出版をやつて居られた、先輩三浦逸雄氏が今月から入社されたことである。そうして日に月に昭森社及木香通信の飛躍、強化、今後のめざましい躍進に期待されたい。
〈秋朱之介〉

 

1936年8月1日發行 『木香通信』八月號 昭森社

編輯兼發行人 森谷均
東京市京橋區銀座二ノ四
表紙絵 海老原喜之助

編集後記の筆者が三浦逸雄になっています。
三浦逸雄の後記中に次のようにあって、編集方針が秋朱之介の文藝・藝術路線からよりジャーナリスティックな方向へ変更された。

「木香通信」はこの號から、御覧のとほり生活にもとづく文化主義的なベリオディシテイを表現してゆくことになつた。雜誌としてはすでに、ある程度の文藝的な役割は果した後だから、もうこの邊で積極的に、いま一歩高い見地から、すべての文化現象を批判し、検討し、それを生活的に内包して行つてもいい筈である。

1936年8月に、昭森社は「銀座二ノ四」から「京橋区木挽町三ノ二」に、さらに1936年12月に「小石川区大塚坂下町一〇二」に移転します。
この移転で、秋朱之介と昭森社のつながりは途切れたようです。

 

三笠書房と昭森社の創業期において、三笠書房の「東京市淀橋区戸塚町一ノ四四九」時代(1933年10月~1934年7月)と昭森社の「東京市京橋区銀座二ノ四」時代(1935年10月~1936年8月)に出版された本については、秋朱之介が編集・装幀にかかわり、秋朱之介の「藝術作品としての本」という美意識がすり込まれていたことは間違いないようです。

 

 拾い読み・抜き書き

齋藤昌三『書物誌展望』(1955年5月15日発行、八木書店) に、秋朱之介編輯の「書物」「書物倶楽部」についての言及があったので、引用します。

 書物

(「台湾に在った台北帝大を中心とした所謂愛書家の雑誌」の)「愛書」を東京版風にしたものに三笠書房の「書物」がある。昭和八年(1933)十月の創刊で、編輯の実際は当時の書痴秋朱之介である。月刊誌として菊判八十頁前後、表紙は木下杢太郎氏得意の黒猫を木版として三回、以下は毎号モダーンな外国物を転用、第七・八号は繊細な小村雪岱の版画で二回、九冊目は特輯ドスチイエフスキー研究として、ブブノワ木版とし、十・十一号は鮮人李乗玹の図、十二冊目はロシヤ文学特輯としてチエホウの肖像を色刷りとし、翌九年九月号を以て休刊となつたが、以上毎号口絵には世界各国の珍書や挿絵、時には色刷りの版画と蔵票の類を紹介したのも特色で、二千部印刷の内五百部を番号入りの限定としてゐた。第一号の内容は、

  書物の識語  新村出
  インドの仏教経典は如何にして造られるか  泉芳璟
  装幀家としてのバーナード・リーチ  式場隆三郎
  出雲の紙  太田直行
  装幀漫筆  芹沢銈介
  愛書と潔癖  若林尚
  英国の私家・限定版  禿徹

等、外八編、本文中には写真版も豊富に使用してあつた。後記に、

 私の多年の宿望は日本に於ける真の美術出版の仕事である。一生かゝつてもいゝから、ケルムスコット、プレス刊本におとらない美しい立派な書物をこさえてみたい、私のやうなその径にふみこんだばかりの未熟な者が、「書物」の編輯を引き受け、また日本限定版倶楽部の仕事一切を引受けたのも、実はそのへんの一つの道程として勉強をしてゆくために他ならない。その手始めとしての「書物」で、どれ程迄に私の宿望を生かし得るか。

と云つた、その意気は旺盛なものだつたが、満一年目の後記には、「本誌も愈々十月一周年記念号を迎へる処までこぎつけましたが、月刊雑誌書物の秋朱之介編輯は、本号を以て廃刊の止むなきにいたりました。紙上で皆様にまみゆるのも之が最後ですが、しかし又近く必ずみなさまにまみゆる日のあるであらうことを疑ひません。」は悲痛でもあるし、読者側からも惜しまれた編輯でもあつた。
秋朱之介の編輯は一応以上の始末で打切つたが、同名で同九年十一月からは三笠書房の編として、全く面目を変へたパンフレットの片々たるものとなり、第二年第十二冊として内容も随筆風のもの二三を載せる程度で、大体が三笠の宣伝誌となつた。
なほ、この誌末の秋朱之介追放の記事は痛ましいものであつた。

 書物倶楽部

 前項に挙げた「書物」の廃刊の翌月に創刊されたのが「書物倶楽部」である。
 この書誌は昭和九年十月から出たもので、「書物」と同じ秋朱之介が、裳鳥会を起して創刊したものだ。第二号は、早くも十一・十二月号合併特輯号として、十一月二十五日に発行し、それ以降は中絶してしまつたが、「書物」に比較すると、編輯は共通するところもあつたが、表紙も色彩を欠き、本文用紙も上質から印刷紙に陥ちて、定価も前誌の五十銭から四十銭に下つたのは気の毒だつた。
 後記の一節に「私はこの雑誌をどこ迄も誠実な書物研究の機関誌として編輯したい意向である。さうして書物好きの友が日に日に本誌に集つて、お互に娯しみ合ひながら仕事してゆける日の来るのを気永に待たう。」とあつたが、三号誌にも至らなかつたのは同情される。内容の主なものは、

  明治文学と言文一致  玉城肇
  図書館略史  富田斎
  薄い本  城左門
  蔵書票とその意義に就て  棟方志功
  向日庵私版  伊藤哲彌
  日本文学書誌  石山徹郎
  南紀俳書列伝  井上豊太郎

 因みに、秋朱之介は西谷操と同一人である。

三笠書房の『書物』は、秋朱之介の退社で廃刊になったわけでなく、しばらく「三笠の宣伝誌」として続いたようです。
とても気になりますが、未見です。

秋朱之介に同情的な齋藤昌三が「痛ましい」とした、三笠書房視点の「誌末の秋朱之介追放の記事」を読んでみたいのですが、なかなか見つけられません。

こういう小冊子が国会図書館や近代文学館に残されていればいちばんいいのですが、難しいようです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

海藻姉妹『海底演奏会実況盤』01

海藻姉妹『海底演奏会実況盤』02

海藻姉妹『海底演奏会実況盤』(2015年、Out One Disc)

Out One Disc の作品にはずれなし。

朝ドラを見るのが習慣になっているので、ブギウギの曲ないかCD棚を探してみたら「谷中ブギウギ」ができきました。

世代的には、ブギというと、ブギのアイドル、マーク・ボランがまず浮かびます。
ニューオリンズにさかのぼっても楽しそうです。

 

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412. 1957年の古川清彦詩集『歩行』(2024年1月28日)

1957年の古川清彦『歩行』


「鹿児島県に生まれる。」という記述sw購入した古川清彦(1917~2002)『近代詩人群像』(1981年)巻末の著作目録のなかに、2冊の詩集があったので、気になって入手しました。

古川清彦詩集『歩行』(1957年3月10日発行、日本未来派)
 40歳のときに出した詩集。題字は父の古川左京、表紙の山の絵は娘、康子(9歳)のもの。

『古川清彦詩集』(1977年12月1日第1刷発行、宝文館出版)
 60歳のときに出した詩集。『歩行』と『歩行』以後の詩と「記録」としてエッセイや書評を15編収録。解説は高橋渡(1922~1999)。

古川清彦は、河井酔茗(1874~1965)や伊良子清白(1877~1946)に親炙した人で、詩を愛し、詩の可能性を信じていた国文学者だったようです。

 

『歩行』は、戦争のもたらしたものがあちらこちらにくすぶっている詩集でした。

     青山墓地

  乱立した高低の
  石の群。
  縦横無尽の
  過去の黙示。

  桜見物の人の群、
  石碑を背景に写真を撮ったり
  弁当を開いたり、
  老若男女
  見たこともない人ばかり。
  外人の自動車まで つっ走る。

  やっと見付けた姉の墓。
  すっかり御無沙汰いたしました。
  戦争以来生きるのに精一杯で
  貴女の墓も汚れたが
  私もこうやって蹲る姿勢が
  一番楽なのです。

四十にして、うずくまりながらも過去と折り合いをつけることができたのでしょうか。

 

『古川清彦詩集』に「詩人」という作品がありました。

     詩人

  山男は山のにおいを持っている。
  巷では来ても目はたえず
  はるかな山脈に走っている。

  海の男は海のにおいを放つ。
  街に来ても耳はいつも
  遠い潮騒を聞いている。

  そうしたにおいや
  肌の色は決して雑踏に
  消されることはない。

  そんな詩人はいないか。
  詩が匂うように常に
  たちこめている人に
  あいたい。


詩が受肉した存在、詩が刻み込まれた存在に、古川清彦は会うことができたのでしょうか。


古川清彦詩集『歩行』(1957年3月10日発行、日本未来派)

古川清彦詩集『歩行』表紙

古川清彦詩集『歩行』見返し

見返しに詩人の佐川英三(1913~1992)あてのサインがありました。

 

古川清彦詩集『歩行』奥付

 

『古川清彦詩集』(1977年12月1日第1刷発行、宝文館出版)

『古川清彦詩集』表紙カバー

装釘 北園克衛

『古川清彦詩集』奥付

 

宝文館出版の本とは、今まであまり縁がありませんでした。
そういう世界があったのだなと知りました。

 

     

この古川清彦の詩集『歩行』は、日本の古本屋サイトで購入したもので、届いてから佐川英三宛ての署名があるものと分かりました。

鹿児島の古本屋さんで購入した児玉達雄旧蔵書のなかに、佐川英三から贈られた本もありました。
思いがけず、本がリレーのような形でつながりました。

 

佐川英三『絶壁』(1982年3月15日第1刷発行、近代文芸社)

佐川英三『絶壁』函・表紙

佐川英三『絶壁』表紙

佐川英三『絶壁』献呈

佐川英三『絶壁』奥付

 

『佐川英三詩集』(1988年2月20日発行、砂子屋書房)

『佐川英三詩集』函・表紙

『佐川英三詩集』表紙

『佐川英三詩集』献呈

『佐川英三詩集』奥付

 

佐川英三は、戦争を兵士として体験した詩人で、戦争がことばにまとわりついています。

  何しろ当時は戦争で
  私は一人の兵士だった
  決して人間ではなかったと

          「嘘」から


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

Peter Gabriel『i/o』(2023年、REALWORLD)

Peter Gabriel『i/o』01

Peter Gabriel『i/o』02

 

Peter Gabrielの新譜『i/o』(2023年、REALWORLD)、2002年の『up』以来のスタジオアルバムです。
タイトルの「i/o」の「i」は男性原理、「o」は女性原理のシンボルということでしょうか。

アルバムの出来が予想以上によくて、これは気持ちが高まります。

入手したのは、12曲を米英独3人のエンジニアが、3様のミックスした3枚組。

Bright-Side Mix by Mark 'Spike' Stent
Dark-Side Mix by Tchad Blake
In-Side Mix(Blu-Ray Disc)by Hans-Martin Buff

ブルーレイ盤をきちんと聴ける環境ではないので、Bright-Side MixとDark-Side Mixのみを聴いた感想ですが、しばらくアルバムを通して聴いて「すげえ」となる体験なかなかったな、こういうアルバムがまだまだ成立するのだ、と感心しました。
ブルーレイ盤には3つのミックスがすべて収録されています。

 

ミュージック・ヴィデオも7本作られています。
「The Court」のミュージックビデオは、世界彫刻史1年の講義を5分に圧縮したような内容です。
この情報量の多さは、生成AIを創作に取り入れたことによるものなのでしょうか?


1. Panopticom
「Red Gravity」David Spriggs
 ミュージックヴィデオ2本。
2. The Court
「The Burning of Lifting, the Curse, 2022」Tim Shaw
ミュージックヴィデオ2本。
3. Playing for Time
「Mes Voeux zvec nos cheveux」Annette Messager
4. i/o
「Colour experiment no.114. 2022」Olafur Eliasson
 ミュージックヴィデオ1本。
5. Four Kinds of Horses
「Snap」Cornelia Parker
6. Road to Joy
「Middle Finger in Pink」Al Weiwei
7. So Much
「Somewhere Over Mercia」Henry Hudson
8. Olive Tree
「Chroniques avec la Nature」Barthélémy Toguo
9. Love Can Heal
「A small painting of what I think love looks like」Anthony Micallef
 ミュージックヴィデオ2本。
10. This Is Home
「Conexión de catedral II」David Moreno
11. And Still
「And Still (Time)」Megan Rooney
12. Live And Let Live
「Soundsuit」Nick Cave

それぞれの曲には、12人のアーティストによる絵画・造形作品が紐付けられていて、Peter Gabrielがキュレートした美術展にもなっています。
個人的には、どの作家も未知の人でした。
新しいものを取り入れようという意欲が失われている証拠かもしれません。

知り合いに聞いてみると、12人中5人は知っていて、1人とは面識もあり作品も展示したことがあるとか。
知っておいたほうがよい12人のアーティストが選ばれているようです。

昨年、Peter GabrielのYuoTubeチャンネルで、毎月1曲ずつ配信して、自分で曲のことを造形作品を依嘱したアーティストについて解説していたようです。
気づいていませんでした。
情報が多すぎて、万事に疎くなっています。


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411. 1981年の古川清彦『近代詩人群像』(2024年1月27日)

1981年の古川清彦『近代詩人群像』

 

古本屋さんに、古川清彦(1917~2002)という国文学者の『近代詩人群像――鷗外・清白・朔太郎ら』(1981年、教育出版センター)という本がありました。取り扱われているのは森鷗外、平出修、島崎藤村、河井酔茗、伊良子清白、蒲原有明、三木露風、川路柳虹、萩原朔太郎、室生犀星、堀口大学ら。
未知の人でしたが、略歴に「鹿児島に生まれる。」とあることも気になって購入。

調べてみると、吉田精一とも共著があります。
大岡昇平の『成城だより』を愛読していたので、吉田精一というと、国文学界の「ボス吉田精一」という印象を強くもっているので、その系統の人かとも思いました。
『近代詩人群像』刊行時は、国文学研究資料館教授で、その退官記念に出された本のようです、

「教科書副読本」的なデザインの外函が好みではありませんが、クォーターバインディングのとてもよい造りの本です。


調べてみると、先祖代々鹿児島の人というわけではなく、お父さんの転勤の関係で鹿児島生ということです、
鹿児島生まれですが、鹿児島に住んだのも4歳ぐらいまでで、鹿児島についての記述は残念ながら期待できそうにありません。

 

古川清彦『近代詩人群像――鷗外・清白・朔太郎ら』(1981年3月25日第1刷発行、教育出版センター)

古川清彦『近代詩人群像――鷗外・清白・朔太郎ら』表紙

古川清彦『近代詩人群像――鷗外・清白・朔太郎ら』奥付

 

古川清彦が編集した、古川清彦のお父さん、古川左京の歌文集も一緒に入手しました。

 

古川清彦編『神苑 古川左京歌文集 付、伝記資料』(1989年5月2日発行、古川清彦)

古川清彦編『神苑 古川左京歌文集 付、伝記資料』函・表紙

古川清彦編『神苑 古川左京歌文集 付、伝記資料』表紙

古川清彦編『神苑 古川左京歌文集 付、伝記資料』奥付

 

この辺りのお正月の初詣は、五社詣でといって、若宮神社、春日神社、稲荷神社、南方神社(諏訪神社)、八坂神社(祇園神社)をお参りします。
余裕があれば、多賀山の多賀神社、磯の菅原神社もお参りします。
名前はおおきいですが、いずれも小さなお社です。

江戸時代までは、南方神社(諏訪神社)が「鹿児島の総廟」で「鹿児島五社の第一」でした。
そのはじまりは、島津家の初代、島津忠久が源頼朝から、信濃の盬田の地頭と薩摩大隅日向の地頭を任じられていたことから、諏訪大社を深く信奉し、第5代島津貞久が信濃の本社諏訪の神霊を、まず鹿児島北部、出水の山門院に勧請したことによります。
そこから島津家の総社となりました。
その後、南北朝のころ、第5代島津貞久・第6代島津氏久が現在の鹿児島市域に進出したとき、今の場所に移されました。

どこで聞いたか読んだか思い出せないのですが、その諏訪神社のまつわる話があります。
島津さんかその家来が、鹿児島に移るとき、信濃の諏訪大社のご神体をそのまま鹿児島に持って来たというのです。
「神盗み」をしたと。
で、盗まれた方の諏訪の人たちが毎年のように、ご神体を取り返しにやってきたという話です。
話に尾ひれがついて、そのなかに真田の草の者がまじっていたりしました。

その話は尻切れトンボで、盗まれたご神体が何だったかもはっきりせず、その後どうなったかわからないのですが、信濃の諏訪大社は栄え、鹿児島の南方神社(諏訪神社)は永らくさびれていたので、たぶん信濃に戻されたのでしょう。

この話の元になった話や、ヴァリエーションを知っているという方がいらしたら、ご教授ください。

10年ほど前、鹿児島の南方神社(諏訪神社)は清水町公民館と並ぶ形で改築されましたが、「鹿児島の総廟」だった面影はありません。


信濃と鹿児島でそういう伝奇物語のような話があったんだなあと思っていたら、古川清彦のお父さん、古川左京という人が信濃と鹿児島につながりのある人物でした。

神職として、なかなか華麗な経歴です。

明治21年(1888)1月15日、徳島県生まれ。
明治43年(1910)、伊勢の神宮皇学館を卒業後、山口県と愛知県で教師を勤め、大正2年から神職に。
大正2年(1913) 官幣大社橿原神宮祢宜(奈良)
大正4年(1915) 官幣大社鹿児島神宮宮司(鹿児島)
大正10年(1921) 官幣大社諏訪神社宮司(長野)
昭和2年(1927) 国幣中社志波彦神社・鹽竈神社宮司(宮城)
昭和11年(1936) 官幣神社住吉神社宮司(大阪)
昭和21年(1946) 神社本庁理事・国学院大學理事
昭和22年(1947) 日光東照宮宮司(栃木)
昭和33年(1958) 日光東照宮宮司退職
昭和45年(1970)3月7日、逝去

宮司さんも転勤族だと知りました。

鹿児島から信濃の諏訪神社へという転勤のかたちもあったようです。
「神盗み」の話も全くありえない話ではないなと妄想をふくらませたのでした。

 

     

かつて「鹿児島の総廟」であった南方神社(諏訪神社)

南方神社(諏訪神社)01

南方神社の社殿は2004年に老朽化のため取り壊されました。
現在の社殿は2010年に再建されたもの。

 

南方神社(諏訪神社)02

社殿の裏には、18世紀末に建てられた「旧射圃記 」という石碑があります。

それについては、『平田信芳選集 II 石碑夜話』にくわしく書かれています。

 

南方神社(諏訪神社)03

南方神社(諏訪神社)04

燈籠の上部が落ちて、竿だけになっています。
天保年間に寄進された燈籠には、重富・加治木・垂水の島津家の人たちが名を連ねています。
島津久光が島津忠教と名のっていたころのものです。

天保十一年 庚子八月 奉寄進
 島津山城
 忠教
 島津靜洞
 忠實
 島津樂水
 忠公

島津山城忠教(重富島津家5代、島津久光、1817~1887)
島津靜洞忠貫(重富島津家3代、島津忠貫、1786~1867)
島津樂水忠公(重富島津家4代、島津忠公、1799~1872)

天保十一年 庚子八月 奉寄進
 島津又八郎
 久長
 島津讃岐
 貴典
 島津又四郎
 貴敦

島津又八郎久長(加治木島津家9代、1818~1857)
島津讃岐貴典(垂水島津家13代、1810~1865)
島津又四郎貴敦(垂水島津家14代、1832~1890)

 

街には歴史が重なっていき層をなしていき、街の表情をつくります。
壊れた燈籠が野ざらしになっているのを見ると、鹿児島の街の江戸期の層は崩れて滅んだのだなと感じます。

 

     

南方神社の裏手に本立寺跡があり、島津家初代から5代の墓が並んでいます。

 

本立寺跡の島津家初代から5代の墓

向かって左から
第五代 島津貞久之墓
第三代 島津久経之墓
初 代 島津忠久之墓
第二代 島津忠時之墓
第四代 島津忠宗之墓

南北朝のころ、現在の鹿児島市地域に進出してきた島津氏にとって、この辺りが重要な場所だったことが分かります。


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